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第九章 逆流
逆流(3)
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一人で帰路を歩く僕は、夜の通りを抜けて飲食店が並ぶ駅前まで辿り着く。
そんな微妙なタイミングでかかってきた香奈恵さんからの電話。
「――もしもし? 香奈恵さん?」
駅前を仕事帰りの大人たちが行き交う中、僕は黒いスマホを耳に当てる。
こんなタイミングで何の用だろうか?
EL-SPYで繋がる僕の美しい下僕――真白香奈恵。
ついに真白先生の尻尾を掴んだのだろうか?
『あ……悠木くん? 私――香奈恵。ごめんね、突然鳴らして。大丈夫だった?』
「大丈夫ですよ? ――出先ですけれど。ちょうど今から帰るところですし。どうしたんですか? 先生の証拠か何かでも、掴めましたか?」
これまでの状況から「そう上手くは行かないよな」と思いつつも、尋ねる。
それでも微かな期待を、胸に抱きながら。
『――ううん。ごめんね。それに関して特に良いお知らせはないの』
「そうですか……」
やっぱりEL-SPYによる盗聴は作戦として上手く進んでいないのだ。
失敗の理由はよくわからないのだけれど。
『でも、ちょっと伝えたいことがあって。悠木くんと直接話したいなぁって思って。……今から会えないかな?』
「――今から、ですか?」
一旦スマホを耳から離して時計を確認する。もうすぐ七時半だ。
流石に今日は母親も帰ってきているだろうし、明日の宿題も出来ていない。
それに今日はいろいろあったし、正直なところ疲れた。
これから香奈恵さんと会うのは、ちょっとキツい。
睡眠時間含めて心身への負荷はある程度抑えないとまた精神が崩壊しないとも限らないのだ。――心療内科の先生の言葉ではないのだけれど。
それに香奈恵さんに会ったら、またきっと彼女の肌に触れたくなる。
美しい彼女のことを貪りたくなるに決まっているのだ。
さっき森さんとセックスしたばかりだけれど――二人は違う女性だから。
「……今日、今からはちょっと厳しいですね。電話じゃ――駄目ですか?」
『駄目じゃないけれど、……うん。話は電話でも出来るかな? ……でも出来たら悠木くんに会いたいな~って思ったんだけどね。――まだ外にいて駅の近くだったみたいだから』
電話越しに香奈恵さんが甘えたような声を出す。
よく考えたら彼女はEL-SPYで僕の位置を把握できているのだった。
僕が駅前まで来たところで、電話を掛けてきたということだろうか?
大人びた彼女がそんな甘えた声を出している様子を想像する。
何だか悪くなかった。可愛らしい年上の女性。漂う色香は同級生には無い。
空になるまで精子を出し切ったばかりの股間が――また勃起した。
「香奈恵さんと前回会ったのって、先週の木曜日でしたっけ?」
一週間はまだ経っていない。
偽装恋愛を始めて三日目、明莉と二人で歩いた帰り道だった。
明莉を待たせたまま、トイレで香奈恵さんに口淫してもらい中出しした。
『――でもあの時は、トイレで少し触れ合っただけだったでしょ? それにおじゃま虫さんも一緒だったし、私、落ち着かなかったから』
「――おじゃま虫って……」
『あ……大好きな明莉ちゃんのこと、そういう風に言われるのは嫌だった?』
「……いや別に、大丈夫ですけれど」
客観的視点から見れば香奈恵さんの方がおじゃま虫の立ち位置なのだ。
だから彼女が明莉のことをおじゃま虫扱いするのは、なんだか面白かった。
それじゃまるで香奈恵さんが僕のことを、好きみたいに聞こえる。
でも香奈恵さんは僕が明莉に一途だということを知っている。
僕は香奈恵さんを利用しているに過ぎない。明莉を取り戻すために。
それをこの女性はきちんと理解しているのだ。だからきっとそれは冗談。
『ねえ、悠木くん。次はいつ会えるかな? いつまた私のことを――抱いてくれるのかな?』
その声はとても甘ったるかった。
そしてどこか縋ってくるみたいだった。
「――そうですね。次会えるのは金曜日……くらいですかね?」
『わかった。じゃあ、楽しみにしているね』
確か金曜日は何かの会合で帰りがかなり遅くなると母が言っていた。
それに学校の授業も遅くまではない。
放課後に家に来てもらうのでも、別の場所で会うのでも問題ないだろう。
明莉もその日は放送部の活動があったはずだ。
「――それで『伝えたいこと』ってなんですか? それだけでも先に教えてもらえたら」
やっぱりそういうふうに言われると知りたくなる。
それに多分、知っておかないといけないことな気がした。
『うん。じゃあ、それだけ伝えるね。あの人の携帯にEL-SPYを入れて随分日が経つけれど、未だに明莉さんとのLINEチャットにそれらしい会話が引っかからないのよ』
やっぱりそのことか。嫌な予感が的中した。
「まったく?」
『――まったく』
「じゃあ――携帯でのメールとかは? あと写真とか」
『全然。まったく履歴に出てこないし、少しはあるやり取りもやっぱり全部普通。普通の部活顧問と生徒の範囲に納まるものばっかりなのよ』
どういうことだろうか?
やっぱり携帯ではなく別の経路で連絡をとっているのだろうか?
それとも真白先生と明莉は僕の忠告に従って本当にわきまえた関係を維持しているのか?
とてもそうは思えない。
僕の中での真白先生は――そんな人間ではない。。
いずれにせよ考えられる可能性は――いくつかに絞られてくる。
「可能性としては、二人が本当にそういう連絡を取ることを控えているか、スマホ以外での連絡手段を取っているのか――それとも」
『――それとも?』
「――僕らの盗聴が、すでに真白先生に見破られているか……」
あまり考えたくはなかったが、そういう可能性もゼロではないだろう。
そうなれば僕は、真白先生からの反撃を受ける可能性だってある。
『……まさか。そんなことは無いと思うけれど。それにあの人、そんな素振りは全然……。――でも』
「――でも……? でも、何ですか?」
『でも、――誠人さんならもしそういうことに気付いていたとしても、気付いたこと自体に気付かれないように振る舞うかもしれないわ。――あの人は……そういう人だから』
それはどこか、憂いを帯びた声だった。
香奈恵さんが真白先生の内面に想いを馳せている。
――そう言えば僕は、香奈恵さんと真白先生の関係性をよく知らない。
これまで二人の間にどんな恋愛があったのか? 二人がどんな夫婦なのか?
僕は真白先生の奥さんだというだけで香奈恵さんに近付いて、その口を犯した。そして今は僕の大切な下僕として復讐を手伝わせている。
奥さんは真白先生の大切な人だというプロトタイプ思考だけここまで来た。
でも夫婦関係にもいろいろあるのだろう。
親子関係や恋人関係にいろいろあるように。
真白先生は香奈恵さんとどんな夫婦なのだろうか?
真白先生はこんなに美しい奥さんがいながら、どうして明莉に手を出したのだろうか?
そんな基本的なこと全く考えてこなかったと――僕は今更ながら気付いた。
『――悠木くん? どうしたの?』
電話口で一時沈黙してしまった僕に、香奈恵さんが尋ねる。
「ごめん。ちょっと考え事をしてしまって。でも、そうですね。その可能性もゼロではないと、心していきたいと思います」
『そうね。私も気をつけてみる。何かあったら悠木くんに連絡するからね』
「――ありがとうございます」
素直にお礼を言ってから、僕はふとまた違和感を覚えた。
どうして香奈恵さんはこんなに僕に協力的に動いてくれるのだろうか?
もちろん明莉は真白先生の浮気相手だ。
浮気をした真白先生に復讐するというのは、基本的な動機になるだろう。
でも香奈恵さんが第一義的に好きなのは真白先生のはずだ。
それなのに喜々として真白先生を売り渡そうとしているようにも聞こえる。
それは微かな違和感だった。頭に浮かんではすぐに消えてしまう程度の。
結局僕は考えても仕方がないだろうと、その違和感を生唾と一緒に飲み込んだ。
それから僕は、週末を挟んで生じた水上と明莉関係の出来事について彼女に話して共有した。ただし、僕と森さんとの間に起きた出来事は除外して。
もしも香奈恵さんが森さんに嫉妬みたいな感情を抱いても良くないと思ったからだ。――まあそんな事は、万が一にも無いとは思うが。
内容としては明莉が水上に真白先生との関係を告げて相談してしまったこと。そして水上が僕を呼び出して説教したということ。
それを聞いた香奈恵さんは電話口で、おかしそうに声を上げて笑った。
『明莉ちゃんって本当にお馬鹿な女の子なのね! ファミリーレストランの時も思ったけれど』
「――明莉は生真面目なんですよ。馬鹿というのとはちょっと違うと思いますよ? 学校の成績だっていつも学年上位なんですから」
言わんとすることはわかる。
でも、明莉のことを「馬鹿」呼ばわりされると、腹が立ってしまうのだ。
だからどうしても反射的に言い返してしまう。
幼馴染の明莉は、僕にとって自分の一部みたいな存在だったから。
彼女への賛辞は僕への賛辞で、彼女への侮蔑は僕への侮蔑なのだ。
『ごめんなさい。そうね。明莉ちゃんはあなたにとって特別な存在なんですものね。でもその水上くんっていう男の子も随分と素朴な男の子なのね? ――悠木くんとは随分とタイプが違う。……あ、でもそういう素朴な子の方が、あなたみたいなタイプとは馬が合うのかしら?』
「――さあ、どうでしょうね? 僕はどうとも思いませんが。ただあいつは全般的に予測はしやすい誠実なやつなんですよ。悪いやつじゃない。ちょっと迂闊なところはありますけれど。まあ、不注意で悪いことをすれば、それはそれで――罰してやりますけどね」
予測可能な奴は裏切らない。なぜなら予測出来るからだ。
予測可能なのに裏切られたと感じるならば、それは僕自身の問題なのだ。
それでも人は罪を犯す。
その時は犯した罪に応じて適切に罰されれば良いだけの話だ。
憎むべきは人ではなくその罪なのだ。
罪を憎んで人を憎まず――は法秩序の原則なのだから。
僕らはそういう文明的な世界の中で生きているのだから。
『じゃあ迂闊にも明莉ちゃんに性器を露出してしまった水上くんの罪はどう裁かれるのかしら?』
「――もう裁かれましたよ。――僕の中の法によってね」
『そっか。じゃあ、お姉さんは何も言わないわね。内容はまた次の機会にでも教えてもらえるのを楽しみにしているわね?』
「ええ――また機会があれば」
それからお別れの挨拶をして、僕らは電話を切った。
スマホをポケットに戻すと、寒空の下で一つ息を吐き改札へと向かう。
電車はすぐにやってきて、僕は自宅の最寄り駅へと向かった。
駅で電車を下りて、家への道を歩く。
もう時間は八時を過ぎていた。
さすがに母親に何か言われるだろうな、なんて思いながら道を急いだ。
夜道のアスファルトを歩く僕は、曲がり角を抜けて自宅の前に辿り着く。
でもそこで僕は立ち止まった。
電信柱に据えられた街灯が蛍光灯の明かりで、アスファルトを照らす。
車二台がなんとかすれ違える程度の街路。
電信柱の下、スポットライトみたいに照らされた空間に、一人の少女が立っていた。
彼女は僕の到着に気づき、顔を上げた。
肩まで伸びるふんわりとしたボブヘア。
暗がりにぼんやりと浮かぶピンク色のコート。
「――秋翔くん」
「――明莉?」
それは僕の幼馴染――篠宮明莉だった。
そんな微妙なタイミングでかかってきた香奈恵さんからの電話。
「――もしもし? 香奈恵さん?」
駅前を仕事帰りの大人たちが行き交う中、僕は黒いスマホを耳に当てる。
こんなタイミングで何の用だろうか?
EL-SPYで繋がる僕の美しい下僕――真白香奈恵。
ついに真白先生の尻尾を掴んだのだろうか?
『あ……悠木くん? 私――香奈恵。ごめんね、突然鳴らして。大丈夫だった?』
「大丈夫ですよ? ――出先ですけれど。ちょうど今から帰るところですし。どうしたんですか? 先生の証拠か何かでも、掴めましたか?」
これまでの状況から「そう上手くは行かないよな」と思いつつも、尋ねる。
それでも微かな期待を、胸に抱きながら。
『――ううん。ごめんね。それに関して特に良いお知らせはないの』
「そうですか……」
やっぱりEL-SPYによる盗聴は作戦として上手く進んでいないのだ。
失敗の理由はよくわからないのだけれど。
『でも、ちょっと伝えたいことがあって。悠木くんと直接話したいなぁって思って。……今から会えないかな?』
「――今から、ですか?」
一旦スマホを耳から離して時計を確認する。もうすぐ七時半だ。
流石に今日は母親も帰ってきているだろうし、明日の宿題も出来ていない。
それに今日はいろいろあったし、正直なところ疲れた。
これから香奈恵さんと会うのは、ちょっとキツい。
睡眠時間含めて心身への負荷はある程度抑えないとまた精神が崩壊しないとも限らないのだ。――心療内科の先生の言葉ではないのだけれど。
それに香奈恵さんに会ったら、またきっと彼女の肌に触れたくなる。
美しい彼女のことを貪りたくなるに決まっているのだ。
さっき森さんとセックスしたばかりだけれど――二人は違う女性だから。
「……今日、今からはちょっと厳しいですね。電話じゃ――駄目ですか?」
『駄目じゃないけれど、……うん。話は電話でも出来るかな? ……でも出来たら悠木くんに会いたいな~って思ったんだけどね。――まだ外にいて駅の近くだったみたいだから』
電話越しに香奈恵さんが甘えたような声を出す。
よく考えたら彼女はEL-SPYで僕の位置を把握できているのだった。
僕が駅前まで来たところで、電話を掛けてきたということだろうか?
大人びた彼女がそんな甘えた声を出している様子を想像する。
何だか悪くなかった。可愛らしい年上の女性。漂う色香は同級生には無い。
空になるまで精子を出し切ったばかりの股間が――また勃起した。
「香奈恵さんと前回会ったのって、先週の木曜日でしたっけ?」
一週間はまだ経っていない。
偽装恋愛を始めて三日目、明莉と二人で歩いた帰り道だった。
明莉を待たせたまま、トイレで香奈恵さんに口淫してもらい中出しした。
『――でもあの時は、トイレで少し触れ合っただけだったでしょ? それにおじゃま虫さんも一緒だったし、私、落ち着かなかったから』
「――おじゃま虫って……」
『あ……大好きな明莉ちゃんのこと、そういう風に言われるのは嫌だった?』
「……いや別に、大丈夫ですけれど」
客観的視点から見れば香奈恵さんの方がおじゃま虫の立ち位置なのだ。
だから彼女が明莉のことをおじゃま虫扱いするのは、なんだか面白かった。
それじゃまるで香奈恵さんが僕のことを、好きみたいに聞こえる。
でも香奈恵さんは僕が明莉に一途だということを知っている。
僕は香奈恵さんを利用しているに過ぎない。明莉を取り戻すために。
それをこの女性はきちんと理解しているのだ。だからきっとそれは冗談。
『ねえ、悠木くん。次はいつ会えるかな? いつまた私のことを――抱いてくれるのかな?』
その声はとても甘ったるかった。
そしてどこか縋ってくるみたいだった。
「――そうですね。次会えるのは金曜日……くらいですかね?」
『わかった。じゃあ、楽しみにしているね』
確か金曜日は何かの会合で帰りがかなり遅くなると母が言っていた。
それに学校の授業も遅くまではない。
放課後に家に来てもらうのでも、別の場所で会うのでも問題ないだろう。
明莉もその日は放送部の活動があったはずだ。
「――それで『伝えたいこと』ってなんですか? それだけでも先に教えてもらえたら」
やっぱりそういうふうに言われると知りたくなる。
それに多分、知っておかないといけないことな気がした。
『うん。じゃあ、それだけ伝えるね。あの人の携帯にEL-SPYを入れて随分日が経つけれど、未だに明莉さんとのLINEチャットにそれらしい会話が引っかからないのよ』
やっぱりそのことか。嫌な予感が的中した。
「まったく?」
『――まったく』
「じゃあ――携帯でのメールとかは? あと写真とか」
『全然。まったく履歴に出てこないし、少しはあるやり取りもやっぱり全部普通。普通の部活顧問と生徒の範囲に納まるものばっかりなのよ』
どういうことだろうか?
やっぱり携帯ではなく別の経路で連絡をとっているのだろうか?
それとも真白先生と明莉は僕の忠告に従って本当にわきまえた関係を維持しているのか?
とてもそうは思えない。
僕の中での真白先生は――そんな人間ではない。。
いずれにせよ考えられる可能性は――いくつかに絞られてくる。
「可能性としては、二人が本当にそういう連絡を取ることを控えているか、スマホ以外での連絡手段を取っているのか――それとも」
『――それとも?』
「――僕らの盗聴が、すでに真白先生に見破られているか……」
あまり考えたくはなかったが、そういう可能性もゼロではないだろう。
そうなれば僕は、真白先生からの反撃を受ける可能性だってある。
『……まさか。そんなことは無いと思うけれど。それにあの人、そんな素振りは全然……。――でも』
「――でも……? でも、何ですか?」
『でも、――誠人さんならもしそういうことに気付いていたとしても、気付いたこと自体に気付かれないように振る舞うかもしれないわ。――あの人は……そういう人だから』
それはどこか、憂いを帯びた声だった。
香奈恵さんが真白先生の内面に想いを馳せている。
――そう言えば僕は、香奈恵さんと真白先生の関係性をよく知らない。
これまで二人の間にどんな恋愛があったのか? 二人がどんな夫婦なのか?
僕は真白先生の奥さんだというだけで香奈恵さんに近付いて、その口を犯した。そして今は僕の大切な下僕として復讐を手伝わせている。
奥さんは真白先生の大切な人だというプロトタイプ思考だけここまで来た。
でも夫婦関係にもいろいろあるのだろう。
親子関係や恋人関係にいろいろあるように。
真白先生は香奈恵さんとどんな夫婦なのだろうか?
真白先生はこんなに美しい奥さんがいながら、どうして明莉に手を出したのだろうか?
そんな基本的なこと全く考えてこなかったと――僕は今更ながら気付いた。
『――悠木くん? どうしたの?』
電話口で一時沈黙してしまった僕に、香奈恵さんが尋ねる。
「ごめん。ちょっと考え事をしてしまって。でも、そうですね。その可能性もゼロではないと、心していきたいと思います」
『そうね。私も気をつけてみる。何かあったら悠木くんに連絡するからね』
「――ありがとうございます」
素直にお礼を言ってから、僕はふとまた違和感を覚えた。
どうして香奈恵さんはこんなに僕に協力的に動いてくれるのだろうか?
もちろん明莉は真白先生の浮気相手だ。
浮気をした真白先生に復讐するというのは、基本的な動機になるだろう。
でも香奈恵さんが第一義的に好きなのは真白先生のはずだ。
それなのに喜々として真白先生を売り渡そうとしているようにも聞こえる。
それは微かな違和感だった。頭に浮かんではすぐに消えてしまう程度の。
結局僕は考えても仕方がないだろうと、その違和感を生唾と一緒に飲み込んだ。
それから僕は、週末を挟んで生じた水上と明莉関係の出来事について彼女に話して共有した。ただし、僕と森さんとの間に起きた出来事は除外して。
もしも香奈恵さんが森さんに嫉妬みたいな感情を抱いても良くないと思ったからだ。――まあそんな事は、万が一にも無いとは思うが。
内容としては明莉が水上に真白先生との関係を告げて相談してしまったこと。そして水上が僕を呼び出して説教したということ。
それを聞いた香奈恵さんは電話口で、おかしそうに声を上げて笑った。
『明莉ちゃんって本当にお馬鹿な女の子なのね! ファミリーレストランの時も思ったけれど』
「――明莉は生真面目なんですよ。馬鹿というのとはちょっと違うと思いますよ? 学校の成績だっていつも学年上位なんですから」
言わんとすることはわかる。
でも、明莉のことを「馬鹿」呼ばわりされると、腹が立ってしまうのだ。
だからどうしても反射的に言い返してしまう。
幼馴染の明莉は、僕にとって自分の一部みたいな存在だったから。
彼女への賛辞は僕への賛辞で、彼女への侮蔑は僕への侮蔑なのだ。
『ごめんなさい。そうね。明莉ちゃんはあなたにとって特別な存在なんですものね。でもその水上くんっていう男の子も随分と素朴な男の子なのね? ――悠木くんとは随分とタイプが違う。……あ、でもそういう素朴な子の方が、あなたみたいなタイプとは馬が合うのかしら?』
「――さあ、どうでしょうね? 僕はどうとも思いませんが。ただあいつは全般的に予測はしやすい誠実なやつなんですよ。悪いやつじゃない。ちょっと迂闊なところはありますけれど。まあ、不注意で悪いことをすれば、それはそれで――罰してやりますけどね」
予測可能な奴は裏切らない。なぜなら予測出来るからだ。
予測可能なのに裏切られたと感じるならば、それは僕自身の問題なのだ。
それでも人は罪を犯す。
その時は犯した罪に応じて適切に罰されれば良いだけの話だ。
憎むべきは人ではなくその罪なのだ。
罪を憎んで人を憎まず――は法秩序の原則なのだから。
僕らはそういう文明的な世界の中で生きているのだから。
『じゃあ迂闊にも明莉ちゃんに性器を露出してしまった水上くんの罪はどう裁かれるのかしら?』
「――もう裁かれましたよ。――僕の中の法によってね」
『そっか。じゃあ、お姉さんは何も言わないわね。内容はまた次の機会にでも教えてもらえるのを楽しみにしているわね?』
「ええ――また機会があれば」
それからお別れの挨拶をして、僕らは電話を切った。
スマホをポケットに戻すと、寒空の下で一つ息を吐き改札へと向かう。
電車はすぐにやってきて、僕は自宅の最寄り駅へと向かった。
駅で電車を下りて、家への道を歩く。
もう時間は八時を過ぎていた。
さすがに母親に何か言われるだろうな、なんて思いながら道を急いだ。
夜道のアスファルトを歩く僕は、曲がり角を抜けて自宅の前に辿り着く。
でもそこで僕は立ち止まった。
電信柱に据えられた街灯が蛍光灯の明かりで、アスファルトを照らす。
車二台がなんとかすれ違える程度の街路。
電信柱の下、スポットライトみたいに照らされた空間に、一人の少女が立っていた。
彼女は僕の到着に気づき、顔を上げた。
肩まで伸びるふんわりとしたボブヘア。
暗がりにぼんやりと浮かぶピンク色のコート。
「――秋翔くん」
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