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第八章 勉強会

勉強会(6)

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 放課後の保健室、丸椅子から立ち上がった時になって小石川先生は問いかけた。

「――大丈夫? 体は?」
 
 僕は直立してから、白衣の先生を見下ろす。
 机の上のカルテにメモを終えた小石川稔里先生は座席の上から僕を見上げていた。
 深みのある瞳の色。少し垂れた優しい目。

 小石川先生は、この学校で唯一気を許せる――信用できる先生だと思っている。

「体は――大丈夫ですよ」
「そう? ならいいんだけれど。――もちろん心は体の一部って意味を含んで……だけどね?」

 組まれた両腕の上で豊満な胸が、ふくよかに盛り上がる。

「……僕、小石川先生にどこまで話しましたっけ?」
「ん? ――うーん。……何も? 多分、何も聞いていないんじゃないかな?」
「……何も、ですか」
「そう、何も」

 一週間ちょっと前に保健室に立ち寄ってから色んなことがあった。
 前回この部屋に来たのは、真白先生の住所を教えてもらうためだった。

 その情報を頼りに、僕は真白邸にたどり着き、香奈恵さんと出会った。
 そして彼女にフェラチオをさせて、セックスをして、今はEL-SPYで鉄鎖を繋げている。

 あれから、森さんとも仲良くなったし、明莉との偽装恋愛も始まった。

「――この保健室に来たのは、本当にただの時間つぶし?」

 にこやかな笑みを浮かべた小石川先生は、どこか心配そうでもあった。

 母親だってそんな思いやりの表情は――くれないのだけれど。

「――小石川先生にはかなわないですね。……何でもお見通しなんですね」
「何でもお見通しなんかじゃないわよ? 別に、私はそんな上等な先生じゃないから。ただの保健室の先生。悠木くんが病んでいた時にもただ日々の業務をやっていただけのおばさんよ」
「自分をおばさんだっていうのはやめましょうよ。――先生は若くて素敵なんですから」
「あら、可愛いこと言うのね? ――ありがとう」

 小石川先生はそう言って目を細めた。
 先生の年齢は知らないけれど、香奈恵さんより少し上だと思う。

 じゃあ「おばさん」じゃなくて「お姉さん」かと言われると、それもどこか違うのだけれど。それでも小石川先生は僕の憧れであり、癒しなのだ。自分で「おばさん」っていう自嘲気味なレッテルは貼ってほしくはなかった。

「でも、これといって相談したいことがあるわけじゃないんですよね。――言語化しにくいっていうか」
「そう? うん、ま、そういうのはあるよね。思いを考えに変えて、考えを言葉にするだけで、凄い労力だもんね」

 僕の言いたかったことを、小石川先生はそのまま代弁してくれた。
 本当に先生は僕を甘やかしすぎ、である。

「じゃあ、私から悠木くんに質問していいかな?」
「……どうぞ?」
「――篠宮明莉さんと、どうして付き合っているフリをしているの?」

 ――前言撤回。
 甘やかしすぎなんかじゃなかった。

「――どうしてわかるんですか?」
「わかるわよ。――だって私の知っている悠木くんんがもし篠宮さんと本当に付き合いだしていたら、――そんな表情はしないわ」
「――そんな表情って?」

 小石川先生は溜め息をついた。

「自覚が無いのね。……表面はにこやかでも瞳の奥が沈んでいる――春先に君がいつもしていたような表情よ? ――悠木くん」

 本当に小石川先生は全部お見通しなんだなって思う。
 見透かされても、でも――不思議と嫌な気はしなかった。

 小石川先生はやっぱり特別で、心の奥底まで見透かされることが、心地よくすら感じる。
 心まで裸にして優しく抱きしめてほしい。――そんな風にさえ、思ってしまうのだ。

 僕が立ったまま口を閉ざしていると、小石川先生は座ったまま机へと向きを変える。
 そして、ひらひらとカルテを振った。

「まあ青春時代にはいろいろな悩みがあるんだろうし、先生はこれ以上詮索しないわよ?」
「――先生」
「でもね、これだけは覚えておいて。――もし君自身の心が軋みだして、何か違和感を感じたら、無理せずにギブアップして。そして、すぐに私のところへと駆け込んでくること。――春先みたいにならないように。――わかった?」

 首から上だけで振り返って、小石川先生は僕に優しい目を向けた。
 僕は無言で頷いた。

「――失礼しました」

 保健室を出て扉を閉める。
 さっきまで体を温めてくれていたストーブの暖気が消えて、廊下の冷たい空気が制服越しに染み込んでくる。――少し体を震わせた。
 
「――遅かったじゃん」

 不意に声がして、振り向く。

 斜向かいのベンチに座っていたのは森美樹だった。
 少し寒そうに上半身を縮こまらせながら。
 膝の上にカバンを置いて、その上で文庫本を開いている。

「待っててくれたんだ?」
「――うん、まぁ、なんとなく?」
「図書室で待っていてくれても良かったのに」
「――うーん、勉強教えてくれる先生が保健室行っているのに、あーしだけ先に行ってるのもどうかな~って」
「――意外と律儀だよね? 森さん」
「良い子でしょ? あーし? ニシシ」

 そう言って茶色い髪の彼女は口角を上げた。
 どこか幼いその顔立ちは、ただ可愛らしかった。

 でもその笑みは、どこか縋るような表情に見えたのは、気のせいだろうか?
 自分を肯定してほしい少女の、切実な救済を求める瞳。

「――じゃあ、図書室に行く?」
「――はーい、今日もよろしくお願いします。悠木先生」

 僕と森さんは冬の廊下、南棟三階の図書室に向かって歩き出した。

 昨日、日曜日に森さんに呼び出されて中央駅に行った帰り、僕は森さんを家まで送ってそのまま家に帰った。
 明莉と水上が日曜日に二人で落ち合って何をしていたのかは知らない。
 僕は水上のことを信用してはいる。それでも――気にはなった。

 水上が明莉に手を出したならもちろん許さないし、そうでなかったとしても「もう少し森さんにの気持ちを考えてやれ」と言ってやりたくなる。
 でも恋人関係は繊細で、他人が口を出すべきものじゃないってことくらい知っている。
 だから二人の関係に踏み込むデリカシーの無い発言は控えていた。

 水上に言うのではなくて、明莉に電話して聞いてみようかとも思った。
 でもなんだかそれも、偽装恋人が過剰な独占欲を見せつける行動を取る、みたいで躊躇われた。

「――ねえ、悠木くん。昨日のことって、明莉ちゃんから何か聞いた?」
「聞いてないよ。――森さんは?」
「……洋平には――聞いてないよ。……だってストーカーしていたみたいだし」

 まぁ、実際ストーカーしていたと思うのだけれど。
 もちろん僕は責めたりはしないし、それは素晴らしい愛情の発露だと思う。

「――それに、怖いから。――洋平の答えを聞くのが」
「――そっか」

 万に一つも明莉と水上の間に何かがあるということは無いと思うけれど。
 それでも森さんにとって、僕のそんな客観的な洞察は、何の救いにもならないのだろう。

「それで悠木くんは今日の放課後のことは聞いている? 明莉ちゃんがどうしてるか?」
「――まぁな。――相手が水上だとは聞いていないけれど。……そうなのか?」
「――洋平もハッキリは言っていないんだけど。あーしはきっと……そうだと思う」
「……考えすぎじゃないかな?」
「わかんない」

 森さんは唇を尖らせた。
 ――寂しそうに。

 今朝、明莉といつものように駅前で待ち合わせて電車通学をした。偽装恋人の朝のルーチン。
 その時に言われたのだ「放課後はちょっと用事があって一緒に帰れないから」って。
 金曜日は僕が森さんとの勉強会で一緒の下校を断ったのだから、お互い様だ。
 こっちも森さんと勉強会をする可能性があったから「そっか。わかった」と答えた。

 日曜日にことがあったから相手が水上かどうか気になったけれど、森さんがこっそりストーカーしていたことを持ち出すわけにもいかず、聞かなかった。

 二人で階段を上がって、冬の薄ら明るい光に満たされた三階の廊下を歩く。

「――あっ」

 背後で声がして僕は立ち止まった。

 振り返ると森美樹が肩にトートバッグを掛けたまま呆けたように立っていた。
 ――顔を窓の外に向けて。

「――どうした?」

 彼女は立ち止まったまま、こちらを振り向かない。ただゆっくりと左手の指先を上げた。
 窓の向こう、北校舎の三階の廊下に向けて。
 僕は森さんが指し示す方向へと視線を走らせる。

「――あそこ。――二人」

 茶髪の少女が指す先、北校舎の三階廊下には連れ立って歩く男女の姿が見えた。

 ――篠宮明莉と水上洋平。

「……まさか」

 二枚のガラスと中庭が、僕らと二人を隔てている。
 二人に気づいて見つめる僕たちと、僕らに見られていることに気づかない二人。

 そして二人は一緒に教室へと入っていった。

 あの日、僕が足を踏み入れた部屋――理科実験室に。
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