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第七章 帰路
帰路(4)
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「――へ~、そうなんだ? あの人、そんなことに言うんだぁ~」
「そうなんですよ。コンクールの時の作品指導は的確だと思うんです」
「――あの人、映画とか本当に好きだしね」
「はい。どうしても経験の差ってあって、見ている作品の数も全然違うと思うんです。でもそれだけじゃなくて、――先生のセンスみたいなものも含めて、尊敬しています!」
真白先生のことを語る篠宮明莉の瞳は輝いていた。
――純粋に。――気持ち悪いくらい。
「そうなんだ。ありがとう、明莉さん。そういう風に自分の夫のことを褒められると、自分のことみたいに嬉しいわぁ~」
「……あ、いえ。そんな……」
香奈恵さんの応酬に、輝いていた明莉の表情が少し曇った。
気持ちが表情に出過ぎだ。――まだ子供なのだな、と思う。
いつも冷静だけど、こういう一面もある。だからこそ明莉は可愛いのだ。
香奈恵さんに誘われて入ったファミリーレストランで、僕らは四人掛けのボックス席に座って目的の無い会話に興じていた。
その裏に何か香奈恵さんの目的があるのかどうかを、僕が知らないだけけれど。
「でも悠木くんに、こんな可愛らしい彼女さんがいるなんて、驚いたわ」
モンブランを一口食べて、紅茶で流し込んだ香奈恵さんが、無邪気な笑みを浮かべた。
――どこまで踏み込んでくるつもりんだろう、この人は。
「――あ、いえ、違います! 私と秋翔くんは――」
イチゴパフェを食べていたスプーンを一旦置くと、明莉は否定するように両手を振った。
僕はその脇を小突く。彼女は振り返ると「あっ」と声に出さず小さく口を開いた。
眼の前で香奈恵さんが「ん?」と首を傾げている。
僕らは今、偽装恋愛の最中にある。
それを示す対象は、必ずしも学校の中だけではないのだ。
特に偽装恋愛のことを真白先生の奥さんである香奈恵さんに知られたらどうするのか。
明莉は――本当の恋人が――香奈恵さんの夫であることを告白するのだろうか。
そのシーンを思い浮かべて、僕は苦笑いを浮かべた。――ぞっとしない。
「――二人は、恋人同士じゃなかったの? とても仲良さそうに下校しているから、お付き合いされているのかと思っちゃった。私の早とちりだったらごめんなさい。――だって、一緒に登下校って高校生時代の彼氏彼女の典型行動でしょ? ――可愛い」
裏返せば、登下校くらいで彼氏彼女を演じたつもりの、明莉と僕への牽制だろうか。
恋人は性行為をして、結婚して、大人の関係になる。
香奈恵さんと真白先生は婚姻で結ばれ、正しくも大人な彼氏彼女関係性にあるのだと。
真白先生と香奈恵さんはセックスをしている。
真白先生と明莉もセックスをしている。
僕と香奈恵さんもセックスをした。
僕と明莉は――セックスをしていない。
――僕にはむしろそれが問題だ。
「――僕と明莉は最近付き合いだしたんですよ。……まだ、明莉が慣れていないのと、恥ずかしいのとで、とっさに否定したんだとは思いますが。……なぁ、明莉?」
「あ……うん。――そうです」
明莉は戸惑いながらも視線を落とし、小さく頷いた。
「へー、そうなんだ! おめでとう悠木くん! そっかー、じゃあ、付き合い始めたばかり、一番楽しい時期だね~?」
香奈恵さんは両手を合わせて、嬉しそうに目を輝かせた。
――瞳の奥底は昏くて、その表面だけに輝きが反射する。
「――そ、そうですね。……そうなんだと思います」
イチゴパフェの前で、明莉は少し小さくなった。
香奈恵さんはそのリアクションに「ん?」と首を傾げて見せる。
――全部、知ってるくせに。
「――香奈恵さん、僕たちはまだ付き合いだして日の浅い繊細な高校生なんですよ。ちょっとは手加減してください」
僕はコーヒーを啜って、苦笑いを浮かべる。
――コーヒーはミルクが入っているのでそんなに苦いわけではないけれど。
「あ、ごめんごめん。でも、ふふふ、どうしても初々しい二人を見ていると、羨ましくなっちゃってね。私と誠人さんの間にもそんな時期があったなって」
「……そう、ですよね――?」
これは牽制。
浮気をされた妻からの明確な牽制。
「……今は、――その夫婦仲とかは、良好なんですか?」
明莉が不器用に踏み込んだ。
前方不注意で不用意な一歩は、交通事故にだってつながるのに。
男のペニスを咥えて一度や二度性交したくらいで、調子に乗っては痛い目を見るぞ。
「――それはどういう意味かしら? 明莉さん?」
「あ、いえ、そのままの意味です。――その、『羨ましい』って仰ったので……」
「ああ、そのこと? それはなんていうか、言葉の綾よ。懐かしいってことかな? ――心配してくれてありがとう、明莉さん。ちゃんと夫婦関係は良好よ?」
「――そう……ですか」
ノンバーバルな表現に残念さが漏れ出てしまっている。――明莉は俯く。
「ええ、ちゃんと夫婦の営みだって、問題なくしているわけだし」
そう言って香奈恵さんは悪戯っぽく笑った。
「――香奈恵さん」
「あ、ごめん、ちょっと高校生には、刺激が強かったかな……?」
「そんなことは無いです……。友達でもそういうことを言う子はいるので……」
明莉は力なく微笑んだ。
美味しそうにモンブランを食べる香奈恵さんの前で、明莉のイチゴパフェは少しずつ溶け始めていた。
それからしばらくして、香奈恵さんは「――ごめん、ちょっとお手洗い」と離席した。
「――秋翔くんって、真白先生の奥さんと仲いいんだね」
「――そうか? 僕は普通に喋っているだけだよ?」
「秋翔くんは、大人相手でも堂々と話すもんね……。奥さん、綺麗な人だね。――香奈恵さんとは秋翔くん、いつから知り合いなの?」
「さあ――いつだったかな」
僕は腕を組んで考える仕草をした。
実際には知り合ったのが先週で、肉体関係を持ったのが三日前だ。
それをそのまま明莉に伝えるつもりは、当然無かった。
もし全てを開示する日が来るとしても、それは明莉の心と身体が完全に僕のものとなった後のことだろう。
その時、僕の携帯がLINEの着信に揺れた。手元でちらりとメッセージを確認する。
特にそれに気づくことなく明莉は一人で物思いに耽るみたいに、イチゴパフェを口へと運んでいた。僕はやおら立ち上がる。
「――ごめん明莉、僕もトイレに行ってくるよ。……ちょっとお腹の調子が悪くて」
「え? あ、そうだったの? うん、気にしないで、行ってきて」
目をパチクリとさせると、明莉は頷いてから心配そうな表情を浮かべた。
こういう風に身を案じてくれる程度には、明莉も偽装恋人の幼馴染である僕のことを想ってくれているのだ。
僕は明莉に「ごめんね」ともう一度告げると、一階奥のトイレへと向かった。
厨房の前を抜けて、細い通路に入る。車椅子マークのついた共用トイレの前。
グレーのニットを身に纏った真白香奈恵が窓枠に背中を預けて、薄いピンク色のスマホを弄っていた。僕に首輪が仕込まれた――そのスマートフォンを。
「――どうしたんですか? 香奈恵さん」
「あら、彼女さんは、置いてきて大丈夫だったの?」
「香奈恵さんが呼び出したんでしょう?」
香奈恵さんは無言で肩を竦めた。
「――いいじゃない。私と悠木くんの関係でしょ? こっそり呼び出したって」
「……それは構わないですけど」
「良かった。じゃあ、ちょっとだけ二人で話そっか?」
そう言うと彼女は僕の背中を押した。
そして僕を車椅子マークの付いた広い男女共用トイレの中へと誘導する。
何が何だか分からないまま、僕はそのトイレの中に足を踏み入れた。
僕の後ろから、香奈恵さんもトイレの中に入ってくる。
――そして彼女は後ろ手でトイレの鍵を締めた。
「そうなんですよ。コンクールの時の作品指導は的確だと思うんです」
「――あの人、映画とか本当に好きだしね」
「はい。どうしても経験の差ってあって、見ている作品の数も全然違うと思うんです。でもそれだけじゃなくて、――先生のセンスみたいなものも含めて、尊敬しています!」
真白先生のことを語る篠宮明莉の瞳は輝いていた。
――純粋に。――気持ち悪いくらい。
「そうなんだ。ありがとう、明莉さん。そういう風に自分の夫のことを褒められると、自分のことみたいに嬉しいわぁ~」
「……あ、いえ。そんな……」
香奈恵さんの応酬に、輝いていた明莉の表情が少し曇った。
気持ちが表情に出過ぎだ。――まだ子供なのだな、と思う。
いつも冷静だけど、こういう一面もある。だからこそ明莉は可愛いのだ。
香奈恵さんに誘われて入ったファミリーレストランで、僕らは四人掛けのボックス席に座って目的の無い会話に興じていた。
その裏に何か香奈恵さんの目的があるのかどうかを、僕が知らないだけけれど。
「でも悠木くんに、こんな可愛らしい彼女さんがいるなんて、驚いたわ」
モンブランを一口食べて、紅茶で流し込んだ香奈恵さんが、無邪気な笑みを浮かべた。
――どこまで踏み込んでくるつもりんだろう、この人は。
「――あ、いえ、違います! 私と秋翔くんは――」
イチゴパフェを食べていたスプーンを一旦置くと、明莉は否定するように両手を振った。
僕はその脇を小突く。彼女は振り返ると「あっ」と声に出さず小さく口を開いた。
眼の前で香奈恵さんが「ん?」と首を傾げている。
僕らは今、偽装恋愛の最中にある。
それを示す対象は、必ずしも学校の中だけではないのだ。
特に偽装恋愛のことを真白先生の奥さんである香奈恵さんに知られたらどうするのか。
明莉は――本当の恋人が――香奈恵さんの夫であることを告白するのだろうか。
そのシーンを思い浮かべて、僕は苦笑いを浮かべた。――ぞっとしない。
「――二人は、恋人同士じゃなかったの? とても仲良さそうに下校しているから、お付き合いされているのかと思っちゃった。私の早とちりだったらごめんなさい。――だって、一緒に登下校って高校生時代の彼氏彼女の典型行動でしょ? ――可愛い」
裏返せば、登下校くらいで彼氏彼女を演じたつもりの、明莉と僕への牽制だろうか。
恋人は性行為をして、結婚して、大人の関係になる。
香奈恵さんと真白先生は婚姻で結ばれ、正しくも大人な彼氏彼女関係性にあるのだと。
真白先生と香奈恵さんはセックスをしている。
真白先生と明莉もセックスをしている。
僕と香奈恵さんもセックスをした。
僕と明莉は――セックスをしていない。
――僕にはむしろそれが問題だ。
「――僕と明莉は最近付き合いだしたんですよ。……まだ、明莉が慣れていないのと、恥ずかしいのとで、とっさに否定したんだとは思いますが。……なぁ、明莉?」
「あ……うん。――そうです」
明莉は戸惑いながらも視線を落とし、小さく頷いた。
「へー、そうなんだ! おめでとう悠木くん! そっかー、じゃあ、付き合い始めたばかり、一番楽しい時期だね~?」
香奈恵さんは両手を合わせて、嬉しそうに目を輝かせた。
――瞳の奥底は昏くて、その表面だけに輝きが反射する。
「――そ、そうですね。……そうなんだと思います」
イチゴパフェの前で、明莉は少し小さくなった。
香奈恵さんはそのリアクションに「ん?」と首を傾げて見せる。
――全部、知ってるくせに。
「――香奈恵さん、僕たちはまだ付き合いだして日の浅い繊細な高校生なんですよ。ちょっとは手加減してください」
僕はコーヒーを啜って、苦笑いを浮かべる。
――コーヒーはミルクが入っているのでそんなに苦いわけではないけれど。
「あ、ごめんごめん。でも、ふふふ、どうしても初々しい二人を見ていると、羨ましくなっちゃってね。私と誠人さんの間にもそんな時期があったなって」
「……そう、ですよね――?」
これは牽制。
浮気をされた妻からの明確な牽制。
「……今は、――その夫婦仲とかは、良好なんですか?」
明莉が不器用に踏み込んだ。
前方不注意で不用意な一歩は、交通事故にだってつながるのに。
男のペニスを咥えて一度や二度性交したくらいで、調子に乗っては痛い目を見るぞ。
「――それはどういう意味かしら? 明莉さん?」
「あ、いえ、そのままの意味です。――その、『羨ましい』って仰ったので……」
「ああ、そのこと? それはなんていうか、言葉の綾よ。懐かしいってことかな? ――心配してくれてありがとう、明莉さん。ちゃんと夫婦関係は良好よ?」
「――そう……ですか」
ノンバーバルな表現に残念さが漏れ出てしまっている。――明莉は俯く。
「ええ、ちゃんと夫婦の営みだって、問題なくしているわけだし」
そう言って香奈恵さんは悪戯っぽく笑った。
「――香奈恵さん」
「あ、ごめん、ちょっと高校生には、刺激が強かったかな……?」
「そんなことは無いです……。友達でもそういうことを言う子はいるので……」
明莉は力なく微笑んだ。
美味しそうにモンブランを食べる香奈恵さんの前で、明莉のイチゴパフェは少しずつ溶け始めていた。
それからしばらくして、香奈恵さんは「――ごめん、ちょっとお手洗い」と離席した。
「――秋翔くんって、真白先生の奥さんと仲いいんだね」
「――そうか? 僕は普通に喋っているだけだよ?」
「秋翔くんは、大人相手でも堂々と話すもんね……。奥さん、綺麗な人だね。――香奈恵さんとは秋翔くん、いつから知り合いなの?」
「さあ――いつだったかな」
僕は腕を組んで考える仕草をした。
実際には知り合ったのが先週で、肉体関係を持ったのが三日前だ。
それをそのまま明莉に伝えるつもりは、当然無かった。
もし全てを開示する日が来るとしても、それは明莉の心と身体が完全に僕のものとなった後のことだろう。
その時、僕の携帯がLINEの着信に揺れた。手元でちらりとメッセージを確認する。
特にそれに気づくことなく明莉は一人で物思いに耽るみたいに、イチゴパフェを口へと運んでいた。僕はやおら立ち上がる。
「――ごめん明莉、僕もトイレに行ってくるよ。……ちょっとお腹の調子が悪くて」
「え? あ、そうだったの? うん、気にしないで、行ってきて」
目をパチクリとさせると、明莉は頷いてから心配そうな表情を浮かべた。
こういう風に身を案じてくれる程度には、明莉も偽装恋人の幼馴染である僕のことを想ってくれているのだ。
僕は明莉に「ごめんね」ともう一度告げると、一階奥のトイレへと向かった。
厨房の前を抜けて、細い通路に入る。車椅子マークのついた共用トイレの前。
グレーのニットを身に纏った真白香奈恵が窓枠に背中を預けて、薄いピンク色のスマホを弄っていた。僕に首輪が仕込まれた――そのスマートフォンを。
「――どうしたんですか? 香奈恵さん」
「あら、彼女さんは、置いてきて大丈夫だったの?」
「香奈恵さんが呼び出したんでしょう?」
香奈恵さんは無言で肩を竦めた。
「――いいじゃない。私と悠木くんの関係でしょ? こっそり呼び出したって」
「……それは構わないですけど」
「良かった。じゃあ、ちょっとだけ二人で話そっか?」
そう言うと彼女は僕の背中を押した。
そして僕を車椅子マークの付いた広い男女共用トイレの中へと誘導する。
何が何だか分からないまま、僕はそのトイレの中に足を踏み入れた。
僕の後ろから、香奈恵さんもトイレの中に入ってくる。
――そして彼女は後ろ手でトイレの鍵を締めた。
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