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第六章 偽装恋愛

偽装恋愛(3)

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 壁際の物理教師は眼鏡のブリッジを中指の先で押し上げた。

 放送部室のモニタースピーカーからはまだYOASOBIの歌声が鳴り響く。
 それはまるで僕ら三人を包むBGMみたいだ。

「真白先生……どうして昼休みの放送部室に――いるんですか?」
「――僕は放送部顧問だからね。かわいい部員の活動に、休憩時間を割いて顔を出していてもおかしいことはないだろう?」

 真白先生は首を竦めて見せる。――正論だ。
 でも僕が放送部に所属している間、顧問の真白先生がお昼の放送時間に様子を見にやってくることなんてなかった。そもそも部活動の指導に関して熱心な先生ではないのだ。

「……まさか、また明莉と二人っきりで、昼休みから――」
「違う、……違うよ、秋翔くん! ――先生は私に、アドバイスをしてくれただけ! そんなに先生のことを疑わないでっ」

 明莉が机の向こう側に座ったまま、僕の発言を遮った。

 先生のことを明莉に庇われると、なんだか無性に悔しい。――でも仕方ない。
 今の状況で、僕が無闇に先生へと牙を剥くことは、無思慮な行動かもしれない。
 真白先生の方を見ると、先生は唇の端を少しだけ上げていた。
 それが僕を嘲笑っているみたいで、腹立たしかった。――でも、僕は堪えた。

「――アドバイスって、何だい?」

 それはきっと、あの質問に対する受け答えについてのことなんだろう。
 ――だとすればあの放送に、やっぱり真白先生が関わっていたことになる。

「今、駆け込んで来たということは、君も聞いていたんだろ――悠木くん? さっきの篠宮さんの放送を」

 真白先生は両腕を組んだまま、壁際から一歩づつ近づいてきた。

「ええ、聞きました。――教室は騒然としていましたよ。だから、――心配になって走ってきたんです」

 そう――明莉の後ろに何かが存在するんじゃないかと、心配になって。
 僕はあの明莉の回答にそこはかとない策謀の存在を覚えた。
 ――あの言い回しは明莉らしくなくて、どこか作為的だったから。

 案の定だった――ということだろうか。

「――やっぱりみんな、ビックリしていた? そうだよね、お昼休みから恋愛の話なんて刺激的すぎるもんね」

 明莉がちょっと困ったように、眉を寄せた。
 そして心配そうな視線を真白先生に向ける。

 真白先生はそんな彼女に、「大丈夫だよ」と優しい笑顔で返した。
 仔犬の頭を撫でる飼い主のような笑顔で。

 でも明莉の論点はどうもずれている。
 恋愛の話だったのが問題ではないのだ。その内容が――問題なのだ

 もしかして彼女は本当に分かっていないのだろうか?

 ――恋は盲目だというが。

 もしそうであれば彼女に現実を教えて、正しい未来に導くのが僕の使命なのだろう。

「――先生がアドバイスしたっていうのは、さっきの放送の内容に関してですか?」
「ああそうだよ、悠木くん。――篠宮さんが慣れない恋愛相談に困っていてね。『嘘もつきたくはない』って言うから、僕が『上手い逃げ方』を教えてあげたんだよ」

 視線を明莉に戻す。彼女は肯定するように一つだけ頷いた。

「……上手い逃げ方って……。とても逃げられていたとは……思えませんが」
「――でも実名をあげるよりかはマシだろう?」
「……それはそうですが」

 何だろう。――この一週間ぶりの感覚。

 真白先生の詭弁に早くも絡め取られ始めている気がする。
 ――頭を速く回転させなければ、……踊らされてしまう。

「――どういう経緯だったんですか?」

 ちょうどその時、YOASOBIの曲が終わった。
 だから僕らは一旦話を止めた。

 明莉がヘッドホンを付けて、マイクに向かう。
 そして綺麗なウィスパーヴォイスで、全校に向けて今日の放送終了を告げた。

 全教室のみならず職員室や保健室にも流れているこの放送。
 きっと後で職員室で問題になるのだろう。公共の放送を使っての告白劇。
 別に男女交際を禁じている高校ではないが、それでもやはり守るべき節度はあるのだ。
 ――保健室の小石川先生も聞いていたんだろうか。

 最後にマスターボリュームを下げて、スイッチを切る。
 明莉は放送を終了しヘッドホンを下ろして、深く息を吐いた。
 形の良い胸が、制服を少しだけ押し上げている。

 一息つくと、明莉は優等生みたいな笑顔を浮かべた。

「ふぅ、一ヶ月ぶりの放送終了。――『無事終了』だったかな?」

 僕たちに問いかけるような質問。

 放送事故が起きたかと言うと起きていない。
 かけていた曲も比較的好まれていた感じだし、間のMCの反応も上々だった。
 だから「無事終了」ということもできるだろう。――上々の出来。
 ――上々すぎたから、僕が今、ここにいるわけだけれど。

「篠宮さんの放送はとても素晴らしかったと思いますよ。相変わらず選曲も良いし、喋りの滑舌も悪くない。放送部のエースですからね、いつ聞いても安心ですよ」
「あ――ありがとうございます」

 そうやって全肯定するみたいに褒める真白先生。
 篠宮明莉は、その言葉にはにかむような笑顔を浮かべた。

 彼女は放送部でこの顧問に褒められることで、自己肯定感を得ているのだ。
 ――きっとそうやって依存しているのだ。
 それがとても良くわかるやり取りだった。

 ――無性に腹立たしかった。

「――秋翔くんは……どうだったの?」

 純朴な瞳が僕を見上げる。
 ずっと一緒に育ってきた幼馴染の瞳は、昔から変わらない。
 彼女の中には純粋さと聡明さが共にあって、それがアンバランスな彼女を形作っている。

 そのアンバランスさの天秤に触れることが求められている。
 彼女を肯定した真白先生の次に、僕が彼女の放送を否定することは、僕を彼女から遠ざけて、彼女と真白先生をさらに近づけることになってしまう。
 だから天秤には触れても、今は小さく揺らすくらいしかできない。

「――悪くなかったよ。いつも通り素敵な放送だったさ。――ただMC部分がちょっと刺激的だったかな?」
「……やっぱり? うーん、真白先生にアドバイス貰って、それなりにぼやかしたつもりだったんだけどなぁ」

 ちょと困ったように彼女が目配せすると、真白先生は肩を竦めた。

「――ある程度は仕方ないんじゃないかな? 嘘をつきたくないって篠宮さんの気持ちはその通りだと思うし、僕たちの関係は公にできないしね」

 真白先生は「そうだよね?」と僕に細めた目で同意を求めた。

「――そうですね」

 僕は頷くしかなかった。
 明莉と真白先生の異性交遊を抑止しながら、それが公になることを避ける。
 それを一番求めていたのが、僕だったから。

 二人の関係が表沙汰になっては明莉の将来に関わる。
 だから不純異性交遊は卒業まで控えて欲しい。
 もし守られなければ僕が然るべき場所へと告発すると。
 そう言って僕は二人を縛りつけた。

「だからといってあんな際どい放送をする必要はなかったと思いますが……」
「――放送部への珍しい投書で、しかも個人宛だったからね。篠宮さんも無視しにくかったんじゃないかな?」

 先生がそう言うと、明莉は小さく頷いた。

 放送部は昼の放送を行っていて、リクエストや質問などの投書を募集している。
 でも実際には投書が行われるのは稀で、投書箱もメールの受信箱もマシュマロも閑古鳥が鳴いている。
 そんなな中で飛んできたパーソナリティ個人宛の質問だったのだ。
 明莉が受けないといけないと思った気持ちも分からなくはない。

「――でも採用するには、ちょっと内容が際どすぎくはなかったか?」
「やっぱり……そうかな?」
「――差出人は誰だったんだ? どうしても気になるなら個人的に返事をしても良かっただろう」
「……それが匿名だったの」
「――匿名か」

 匿名のリスナー。パーソナリティに焦がれた男子高校生。
 確かにそういう存在を放置して、後々ストーカー化されても面倒はあるかもしれない。

 ――だからって実名は伏せたとはいえ全校に向けた放送は、リスクが高すぎるだろ。

「それとやっぱりお昼の放送ってやっぱりラジオと同じでパーソナリティから皆に向けてやっている放送なわけじゃない? ……だからそこに向けて来たメッセージは電波に乗せて――じゃなくて校内放送に乗せてみんなに返さないと駄目だなって」
「――それは、そうかもしれないけれど」

 変なところで生真面目なのは篠宮明莉の昔からの長所であり――ちょっと厄介なところでもある。隣で腕を組んだ真白先生がウンウンと頷いた。

「そういう考え方は立派だと思うよ。プロ意識っていうのかな? たかが高校の放送部といえども、その内容は地元のラジオ局の放送と何ら変わらないわけだからね。――だからちゃんとしたプロ意識を持たないと、こういった活動からの学びも半減してしまうからね」
「――ですよね。ありがとうございます」

 少し心配そうだった明莉の表情が、真白先生の言葉で晴れやかになった。
 ――厄介だ。なんだか状況が厄介だ。

「――それでどうして秋翔くんは、駆けつけてくれたの?」
「……どうしてって」

 本当に分かっていないのだろうか?
 本当にその可能性に気づかないままに、あの告白を行ったのだろうか。
 それとも可能性に気付いた上で、行ったのだろうか。
 小首を傾げる明莉の素朴な表情からは、そのどちらなのかが読み取れなかった。

「――明莉も薄々その可能性には気づいていると思うけれど……あれはクラスのみんなに、明莉から僕への告白だと思われているよ」
「――あっ!」

 ――当然その可能性にどこかで気づいてはいたのだろう。

 『同じ教室』そして『放送部』。
 それが当てはまるのは、真白先生よりも――むしろ僕だ。
 明莉がそれに気づいていない筈がない。

「多分みんな、僕に聞いてくるよ。『あの告白は悠木くんへのものだったんでしょ?』、『あの告白にどう返事したの?』、『悠木くんって篠宮さんと付き合っているの?』ってね」

 僕と明莉は付き合っていない。
 あの明莉のスピーカー越しの言葉は、やっぱり僕への告白ではない。

 だから普通なら僕は、その全てを否定するべきだろう。
 ――でも、じゃあ、みんなはどう返してくる?

『それなら篠宮さんは誰が好きなの?』
『他にいる同じ教室で放送部に縁の人って……誰?』

 僕らのクラスには元放送部の人間も放送部の人間もいない。
 もちろんクラスの外になれば放送部関係者はいっぱいいる。そこに疑惑は広がるだろう。
 見つからない容疑者に、捜索の手はきっと顧問の先生まで伸びるのだ。

 ――そうなると……二人の関係がバレてしまう?

 僕が手を下さない間に、僕の望まない形で、明莉が好奇の目に晒されながら事態は悪化しうる。

 ――なんだ、この自殺行為は?
 ――なんなんだよこの、素朴な告白が導く悪意に満ちた袋小路は?

「――明莉、そう聞かれたら、僕は……どう答えたらいいんだ?」
「……それは――」

 そこまで考えていなかったのだろうか。
 明莉は困ったように机の上へと視線を落とす。
 放送部室を困惑気味な沈黙が包んだ。

 しかしその静寂を破ったのはパンッと手を叩く音だった。
 僕と明莉は顔を上げて、その音を鳴らした人物――真白先生の方に向く。

「二人とも。もう放送しちゃったことを後悔しても仕方ない。前向きに考えようよ。――この状況をより前向きに活用していくための未来をね」

 真白先生は顔一杯に優しくて理解のある大人の笑顔を浮かべていた。
 クラスの女子たちから評判が良く、クラスの男子からは評判の悪いその笑顔。

 そして――真白先生は続けた。

「――それで悠木くんは、皆からそう聞かれたらどう答えたいんだい?」

 やおら質問は僕に突きつけられる。

「それは君が尋ねられる質問なんだろう? それなら答えを篠宮さんばかりに求めるのは男の子として――無責任じゃないかな?」

 それは紳士的な笑顔から発された、壮大な責任転嫁だった。
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