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ハロルドの過去 ―幼いスザンナと―
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スザンナの従者となったハロルドはまず、この時代がどういう時代であるのかを調べた。お誂え向きに、公爵家には歴史の本や現代の流行りの本などがいくつもあったために、理解するまでにそう時間はかからなかったように思う。
そうしている間に、スザンナとオズワルドの婚約が決まった。そのときすでに「悪魔憑き」の噂は流れていたが、王家は特に気にしていなかった。アリンガム公爵家への信頼度がそれだけ高いのだろうと、ハロルドはアリンガムの力や立ち位置も把握する。
公爵夫妻はしっかり仕事をこなしつつ、スザンナを構うことも忘れなかった。ショッピングはもちろん、食事はしっかり家族でとる。スザンナに弟が出来るまで、そう時間はかからなかった。
チェスターが生まれてから、スザンナは一層努力をするようになった。
貴族令嬢としての作法、振る舞い。茶に花に、音楽。もちろん一般教養も忘れない。そして王妃教育にかける時間は徐々に増え、両親の代わりに教会や商会に顔を出す機会も増えて。
彼女と過ごす日に、「暇な日」というのは、なかったと記憶している。
スザンナは一度たりとも、弱音を吐かなかった。涙も滅多に、見せなかったように思う。
泣きべそのようなものをかいたり、涙ぐんだりすることは多々あった。
一度だけ大泣きしたのは、彼女が街なかで攫われたときだった。公爵夫妻とスザンナ、そしてまだ赤ん坊だったチェスターと共に出かけた日である。
たまたまそのとき、侯爵夫人――オードリーが、チェスターをハロルドに預けたときだった。本当に一瞬のスキを突いて、スザンナの身体ごと掻っ攫っていったのだ。
驚いたスザンナは声も上げられず、ただハロルドに向かって手を伸ばした。チェスターを抱えていたハロルドは反応が遅れ、スザンナの誘拐を許してしまう。
慌てふためき絶望する公爵夫妻にチェスターを押し付け、ハロルドはスザンナを探した。
自分が必死になっていると気づいたのは、汗が頬を伝ったときだ。
スザンナの誘拐は、大事にはならなかった。身代金目当てのごろつきによるもので、計画は杜撰なものであったためだ。スザンナはその日のうちに見つかり、複数人いた強面のごろつきたちは、ハロルドによってこてんぱんにのされた。
それでも、スザンナにとっては大変な恐怖であったのは言うまでもない。
声をかけたハロルドに気付くや否や、そのエメラルド・アイからぼろぼろと大粒の涙を零して、ハロルドに飛びついた。
「おぉ、っ、おそ、おそいですわっ! わたくし、わたっ、……わたくし、っ」
「あぁ、もう、大丈夫だ。遅くなって悪かった」
「うっ、うぐっ……うぅ~……っこ、こわ、こわかったですわ~~っ!」
ぎゅうぎゅうとしがみついて、涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだった。服が汚れるのも気にせずハロルドは、スザンナの小さな身体を抱きしめて背中をぽんぽんと撫でてやる。
そうしていると、次第に泣き声が落ち着いてきた。ひくっ、ひくっ、としゃくり上げながら、スザンナは言った。
「こわっ、こわかったですけれど、きっと、き、きっと、ハルが、ハルが助けにきてくれると、思ってましたの。だから、だからわたくし、なくっ、泣くのは、がまんしましたのよっ。悪ものの前では、泣きませんでしたわっ」
じわりと胸が温かくなる感覚。
ハロルドが「人」であった頃には、おおよそ無縁であったもの。
信頼、を向けられるというのは、こんなにも。……こんなにも、温かく、そして喜ばしいものであったのか。
「偉いな、スーは。……安心しろ、これから何があっても、俺がお前を守ってやる。たとえ今日のように攫われることがあっても、必ず助けに行く。だから自身満々に、お前らしく待ってろ」
「やく、やっ、約束、ですわ! ぜったい、ぜったい助けに来るのよ」
「わかってる。約束だ」
それからスザンナは、大声で泣くことがなくなった。王家に呼ばれたパーティーや、公爵家主催の社交の場で何度か危険な目にあったが、スザンナはハロルドの言葉の通り、余裕すら感じられる笑みでハロルドの助けを待っていた。来るのが当然、来て当たり前。その頃にはもう、スザンナはハロルドへ全幅の信頼を置いていた。
スザンナが大人になるにつれ、危険は減っていった。スザンナ自身の警戒心も上がったが、何より彼女には強力な護衛がついている。
チェスターも成長すると、ハロルドはよりスザンナの傍につくようになっていた。
少女から、淑女へ。
成長するにつれて、可愛らしさと美しさが同居するようになる。
ハロルドが今まで、一度も出会ったことのないようなーーそれほど、眩しさを感じる女性だった。
幼い頃から共にいるせいか、或いは彼女の、「公爵令嬢たる」心のためか。今までハロルドの周りにいた女性のような媚びるような、明らかに欲を含んだ視線を向けることはなく。あるいは侮蔑、軽蔑するような表情を見せることもなく。
彼女はただ純粋に、ハロルドを慕っていた。信頼し、敬い、好感を持って。
これほどまでに純粋な想いを寄せられたことはない。悪い気はしなかった。スザンナが自分を見る眼差しに、何とも言えない甘い感覚が胸を締め付けた。
これが、そうなのか。
そういうことなのか。
ハロルドは首を振る。
彼女は皇太子の婚約者。この国を背負う国母となる。
だからこれは、この感情はきっとーー憧れ、のようなものだ。
釣り合わない相手。自分が手を伸ばすべきではない、触れるべきではない尊い存在。
「ねぇ、ハル。わたくしが城へ上がることになったら、もちろんあなたも一緒に来るのよね」
「お前が従者として俺を選ぶなら、そうだろうな。許可が下りるかはまた別の話だ」
「あら、わたくしはあなた以外を選ぶ気はなくってよ。だってお父様とお母様に約束したじゃない。わたくしを守るって。そうでしょう?」
そう笑うスザンナの顔は無邪気で、その言葉は残酷で。
悪魔が何を言うか、と言われたらそれまでだが、――ハロルドは自らの言葉によって、自らの首を絞めることになる。
彼女はこのまま順調に王妃となるだろう。オズワルド・ロングフェローの隣に立つに相応しい女性となるだろう。
国王と王妃になった二人が並ぶ姿が脳裏に浮かび、ざわりと腹の奥に重苦しいものが渦巻いた。
「お父様とお母様はきっとずっと長生きなさるわ。だからハルはそれまでずっと、わたくしの傍にいるのね」
なぜか嬉しそうに語る彼女の瞳に宿る感情は、親愛。友人や家族に向ける類のものだ。
「……契約、だからな。きちんと全うしてやるさ、お嬢様?」
「子ども扱いしないでくださる? わたくしはもう、立派なレディでしてよ」
そうだ。
可愛らしく見栄を張っていた小さな少女ではない。年齢も、成人と認められるものだ。わかっていて、ハロルドは笑った。赤い瞳を細めて、スザンナの頭をわざとぽんぽん、と叩く。まるで子どもに対する仕草だ。
「そうかそうか、立派なレディ。紅茶に砂糖はいくつ欲しい?」
「えっと、砂糖は三つにミルクも……あ、あなた! 図りましたわね!?」
子ども扱いでもしなければ、どう接していいかわからなくなる。
だからどうか、このままで。
王妃の兄役、あるいは叔父役でもいい。オズワルドとスザンナが仲睦まじく過ごすのを見続けるためには、保護者という立場が適任だ。
だからこの想いに名前をつけない。つけてはいけない。
この感情が「そう」であると、納得してはならない。
――と、思っていたのに。
オズワルドからスザンナへ、婚約解消の申し入れ。何の前触れもないそれに、スザンナは大層驚いていた。
皇太子はいつも物静かで、考えの読みにくい男だった。それは少年の頃から変わらずで、ハロルドは彼が「生まれながらの王族」であるのだと思った。国のために命を捧げる覚悟がある者。その心に秘めているものを、決して悟らせない。
二人の関係は良好だと思っていた。スザンナも同様だったのだろう、なぜ婚約解消などという言葉が出てきたのか、理解が出来て居ない様子だった。
オズワルドの意思は堅かった。スザンナに瑕疵はない、全て自分の心のせいだと言って、けれどもう揺るがない想いなのだと告げて。
最終的に出て来た言葉は「悪魔憑き」だから、というものであるが、それはスザンナが誘導したもので、恐らくオズワルドにとってそれは理由ではなかったのだろう。
そのときのハロルドは、笑っていた。
笑いが、込み上げてしまった。
スザンナが王妃教育から解放されること、婚約者がいなくなること――その事実に歓喜している自分が余りにも滑稽で。
浅ましい愚か者。過去も今も、変わることはない。
そんな自分が彼女に手を伸ばすことは、やはり許されない。
美しく聡明で、尊い存在。「悪魔」が汚していいものではない。
たとえこの感情が「そう」であるとしても。
そうしている間に、スザンナとオズワルドの婚約が決まった。そのときすでに「悪魔憑き」の噂は流れていたが、王家は特に気にしていなかった。アリンガム公爵家への信頼度がそれだけ高いのだろうと、ハロルドはアリンガムの力や立ち位置も把握する。
公爵夫妻はしっかり仕事をこなしつつ、スザンナを構うことも忘れなかった。ショッピングはもちろん、食事はしっかり家族でとる。スザンナに弟が出来るまで、そう時間はかからなかった。
チェスターが生まれてから、スザンナは一層努力をするようになった。
貴族令嬢としての作法、振る舞い。茶に花に、音楽。もちろん一般教養も忘れない。そして王妃教育にかける時間は徐々に増え、両親の代わりに教会や商会に顔を出す機会も増えて。
彼女と過ごす日に、「暇な日」というのは、なかったと記憶している。
スザンナは一度たりとも、弱音を吐かなかった。涙も滅多に、見せなかったように思う。
泣きべそのようなものをかいたり、涙ぐんだりすることは多々あった。
一度だけ大泣きしたのは、彼女が街なかで攫われたときだった。公爵夫妻とスザンナ、そしてまだ赤ん坊だったチェスターと共に出かけた日である。
たまたまそのとき、侯爵夫人――オードリーが、チェスターをハロルドに預けたときだった。本当に一瞬のスキを突いて、スザンナの身体ごと掻っ攫っていったのだ。
驚いたスザンナは声も上げられず、ただハロルドに向かって手を伸ばした。チェスターを抱えていたハロルドは反応が遅れ、スザンナの誘拐を許してしまう。
慌てふためき絶望する公爵夫妻にチェスターを押し付け、ハロルドはスザンナを探した。
自分が必死になっていると気づいたのは、汗が頬を伝ったときだ。
スザンナの誘拐は、大事にはならなかった。身代金目当てのごろつきによるもので、計画は杜撰なものであったためだ。スザンナはその日のうちに見つかり、複数人いた強面のごろつきたちは、ハロルドによってこてんぱんにのされた。
それでも、スザンナにとっては大変な恐怖であったのは言うまでもない。
声をかけたハロルドに気付くや否や、そのエメラルド・アイからぼろぼろと大粒の涙を零して、ハロルドに飛びついた。
「おぉ、っ、おそ、おそいですわっ! わたくし、わたっ、……わたくし、っ」
「あぁ、もう、大丈夫だ。遅くなって悪かった」
「うっ、うぐっ……うぅ~……っこ、こわ、こわかったですわ~~っ!」
ぎゅうぎゅうとしがみついて、涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだった。服が汚れるのも気にせずハロルドは、スザンナの小さな身体を抱きしめて背中をぽんぽんと撫でてやる。
そうしていると、次第に泣き声が落ち着いてきた。ひくっ、ひくっ、としゃくり上げながら、スザンナは言った。
「こわっ、こわかったですけれど、きっと、き、きっと、ハルが、ハルが助けにきてくれると、思ってましたの。だから、だからわたくし、なくっ、泣くのは、がまんしましたのよっ。悪ものの前では、泣きませんでしたわっ」
じわりと胸が温かくなる感覚。
ハロルドが「人」であった頃には、おおよそ無縁であったもの。
信頼、を向けられるというのは、こんなにも。……こんなにも、温かく、そして喜ばしいものであったのか。
「偉いな、スーは。……安心しろ、これから何があっても、俺がお前を守ってやる。たとえ今日のように攫われることがあっても、必ず助けに行く。だから自身満々に、お前らしく待ってろ」
「やく、やっ、約束、ですわ! ぜったい、ぜったい助けに来るのよ」
「わかってる。約束だ」
それからスザンナは、大声で泣くことがなくなった。王家に呼ばれたパーティーや、公爵家主催の社交の場で何度か危険な目にあったが、スザンナはハロルドの言葉の通り、余裕すら感じられる笑みでハロルドの助けを待っていた。来るのが当然、来て当たり前。その頃にはもう、スザンナはハロルドへ全幅の信頼を置いていた。
スザンナが大人になるにつれ、危険は減っていった。スザンナ自身の警戒心も上がったが、何より彼女には強力な護衛がついている。
チェスターも成長すると、ハロルドはよりスザンナの傍につくようになっていた。
少女から、淑女へ。
成長するにつれて、可愛らしさと美しさが同居するようになる。
ハロルドが今まで、一度も出会ったことのないようなーーそれほど、眩しさを感じる女性だった。
幼い頃から共にいるせいか、或いは彼女の、「公爵令嬢たる」心のためか。今までハロルドの周りにいた女性のような媚びるような、明らかに欲を含んだ視線を向けることはなく。あるいは侮蔑、軽蔑するような表情を見せることもなく。
彼女はただ純粋に、ハロルドを慕っていた。信頼し、敬い、好感を持って。
これほどまでに純粋な想いを寄せられたことはない。悪い気はしなかった。スザンナが自分を見る眼差しに、何とも言えない甘い感覚が胸を締め付けた。
これが、そうなのか。
そういうことなのか。
ハロルドは首を振る。
彼女は皇太子の婚約者。この国を背負う国母となる。
だからこれは、この感情はきっとーー憧れ、のようなものだ。
釣り合わない相手。自分が手を伸ばすべきではない、触れるべきではない尊い存在。
「ねぇ、ハル。わたくしが城へ上がることになったら、もちろんあなたも一緒に来るのよね」
「お前が従者として俺を選ぶなら、そうだろうな。許可が下りるかはまた別の話だ」
「あら、わたくしはあなた以外を選ぶ気はなくってよ。だってお父様とお母様に約束したじゃない。わたくしを守るって。そうでしょう?」
そう笑うスザンナの顔は無邪気で、その言葉は残酷で。
悪魔が何を言うか、と言われたらそれまでだが、――ハロルドは自らの言葉によって、自らの首を絞めることになる。
彼女はこのまま順調に王妃となるだろう。オズワルド・ロングフェローの隣に立つに相応しい女性となるだろう。
国王と王妃になった二人が並ぶ姿が脳裏に浮かび、ざわりと腹の奥に重苦しいものが渦巻いた。
「お父様とお母様はきっとずっと長生きなさるわ。だからハルはそれまでずっと、わたくしの傍にいるのね」
なぜか嬉しそうに語る彼女の瞳に宿る感情は、親愛。友人や家族に向ける類のものだ。
「……契約、だからな。きちんと全うしてやるさ、お嬢様?」
「子ども扱いしないでくださる? わたくしはもう、立派なレディでしてよ」
そうだ。
可愛らしく見栄を張っていた小さな少女ではない。年齢も、成人と認められるものだ。わかっていて、ハロルドは笑った。赤い瞳を細めて、スザンナの頭をわざとぽんぽん、と叩く。まるで子どもに対する仕草だ。
「そうかそうか、立派なレディ。紅茶に砂糖はいくつ欲しい?」
「えっと、砂糖は三つにミルクも……あ、あなた! 図りましたわね!?」
子ども扱いでもしなければ、どう接していいかわからなくなる。
だからどうか、このままで。
王妃の兄役、あるいは叔父役でもいい。オズワルドとスザンナが仲睦まじく過ごすのを見続けるためには、保護者という立場が適任だ。
だからこの想いに名前をつけない。つけてはいけない。
この感情が「そう」であると、納得してはならない。
――と、思っていたのに。
オズワルドからスザンナへ、婚約解消の申し入れ。何の前触れもないそれに、スザンナは大層驚いていた。
皇太子はいつも物静かで、考えの読みにくい男だった。それは少年の頃から変わらずで、ハロルドは彼が「生まれながらの王族」であるのだと思った。国のために命を捧げる覚悟がある者。その心に秘めているものを、決して悟らせない。
二人の関係は良好だと思っていた。スザンナも同様だったのだろう、なぜ婚約解消などという言葉が出てきたのか、理解が出来て居ない様子だった。
オズワルドの意思は堅かった。スザンナに瑕疵はない、全て自分の心のせいだと言って、けれどもう揺るがない想いなのだと告げて。
最終的に出て来た言葉は「悪魔憑き」だから、というものであるが、それはスザンナが誘導したもので、恐らくオズワルドにとってそれは理由ではなかったのだろう。
そのときのハロルドは、笑っていた。
笑いが、込み上げてしまった。
スザンナが王妃教育から解放されること、婚約者がいなくなること――その事実に歓喜している自分が余りにも滑稽で。
浅ましい愚か者。過去も今も、変わることはない。
そんな自分が彼女に手を伸ばすことは、やはり許されない。
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よろしくお願いいたします。
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