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婚約解消
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「え……? い、今、何と仰いましたの? オズワルド殿下」
美しいシルバーブロンドの髪に、エメラルド・アイ。少しばかりきつい印象を与える顔立ちのスザンナ・アリンガム公爵令嬢はティーカップとソーサーを手にしたまま、目の前に座っている婚約者――オズワルド・ロングフェローに尋ねた。
「僕たちの婚約を白紙にしよう。スザンナ」
金髪碧眼、整った顔立ちの絵に描いたような王子様。優しく穏やかで、常に笑顔を携えているこの国の第一王位継承者は、表情を強張らせているスザンナに対してはっきりとそう言った。
王家に次ぐ力を持つと言われているアリンガム家。その家の長女であるスザンナは、極自然な流れでオズワルドの婚約者となった。公爵令嬢としての教養はもちろん、王妃になるべく教育や指導を受けており、結婚まで秒読み段階だと思われていた。
今日も定期的に行われているオズワルドとのお茶会で、いつものように穏やかに言葉を交わしていたのであったが。
婚約を白紙に。
オズワルドが突然、そんなことを言い出した。
スザンナはティーカップとソーサーを置いて、姿勢を正した。まっすぐにオズワルドを見つめて、問いかける。
「わたくしに何か、至らない点がございましたか? 何か、お気に触ることでも」
オズワルドはすぐに首を振る。
「きみに落ち度などないよ。振る舞いもマナーも素晴らしく、王妃教育だってとても良い成績だと聞いている。高慢でもなく、教会に積極的に寄付をしたりと、まさに公爵令嬢の鑑だ」
「でしたら、なぜ……婚約してから五年が経ちますが、わたくしたちの関係は良好であったと思っております。婚約を白紙に、と仰る理由がわかりません」
「――理由というのなら、僕の心の問題だ。ただもちろん、きみが嫌になったとか、そういった理由じゃない。きみは本当に素晴らしい令嬢で、きみ自身のことは僕も好ましく思っている」
そこまで言って、どうして婚約を白紙にという話が出てくるのか。礼儀も作法も、二人の関係も良いものであるのなら、他に婚約解消に至る理由があるとすれば――……。
「……わたくしが、『悪魔憑き』と呼ばれているからですか?」
ぴく、と、眉を動かしたのは。スザンナの後ろに控えた、長い黒髪に赤い瞳の男ーー彼女の従者である、ハロルド・デヴィッドソン。その口端は、微かに上がっていた。
「もしきみが、具体的な理由を求めているのなら……僕は、『そうだ』と答える。悪魔憑きの令嬢を国母には出来ない。――それで、納得してもらえるだろうか」
スザンナは表情を強張らせたまま、けれど決して崩さず。唇を僅かに噛み締めて、それからゆっくりと息を吸う。胸元に手を置いて、にこりと笑顔を浮かべた。
「王子殿下が望まれるのなら、わたくしはそれに従うまで……正直な想いを申しますと、残念な気持ちがないわけではございませんが」
すっ、と立ち上がって、ゆっくりと頭を下げる。オズワルドのためと鍛え上げたカーテシーを披露し、言葉を続けた。
「婚約解消、了承いたします。諸手続きにつきましてはアリンガム家に直接、お申し付けください」
ふっ、と笑う声が、背後から聞こえて。スザンナはハロルドを睨みつけたい気持ちを堪え、精一杯の笑顔でオズワルドに向き直った。
オズワルドは少しだけ眉を下げ申し訳無さそうな表情を見せるも、瞳を細めてすぐに頷いた。
「本当にすまない、アリンガム嬢。全ては僕に原因がある。きみにも、きみの家にも出来る限りの配慮をする。……僕のために時間を空けてくれてありがとう」
最後のお茶会は、そのままお開きとなった。
公爵邸に戻ったスザンナは疲れているから、とすぐに自室に戻って扉を閉める。握った拳をぶるぶると震わせて、思い切り表情を歪ませた。
「な、なんてこと……!!」
それが望みならと、婚約解消を了承した。笑顔で、公爵令嬢らしく、淑やかに。だがその心は、決して納得がいっていたわけではない。オズワルドとの婚約から五年、次期国王を支える王妃となるべく時間を費やして来たというのに。
「わたくしの今まで努力は……一体なんでしたの……?」
悔しさなのか、悲しさなのか。涙がこみ上げたそのとき、扉をコンコン、と叩く音がした。
「おーい、スー。入るぞ」
返事をするより先に、扉が開く。この屋敷でそんな無礼な真似をする人物は、一人しかしない。
「来ましたわね、元凶がっ!」
ティーポットとカップ、それからマフィンの乗ったトレイを手にしたハロルドが、楽しげな笑みを携えて立っていた。涙を浮かべたスザンナを見ても驚いた様子はなく、寧ろ楽しげに瞳を細めてくくっ、と喉を鳴らしてみせた。
「元凶だなんて、人聞きの悪い。そもそもお前が悪魔憑きなのは婚約するよりも前からなんだから、それが気に食わなければ最初から婚約なんてしなければ良かった話だ」
「――悪魔憑きだからっていうのは、理由の一つですわ。きっと他にも理由があったのでしょうけれど……それが理由だと言われたらわたくしは、了承する以外の道がありません。色々諸々ひっくるめて、貴方のせいでこういう結果になってしまったのよ、ハル!」
きぃい、と、思わずヒステリックに叫んでしまう。オズワルドーー王子殿下の前での淑女はどこへやら。ハロルドの前で彼女はいつも、このような具合なのであった。
もっともスザンナの言葉は決して本意ではない。これは突然の婚約解消に対することへの、わかりやすい八つ当たりであった。
「まぁまぁ、落ち着けよ。甘いものでも食べて、な」
そしてハロルドもそれを理解しており、少しも気にした様子はない。
「う……ま、まぁ、お菓子に罪はありませんものねっ」
つん、とそっぽを向いて、それからテーブルのそばまで歩いて行く。にやにやと笑ったままのハロルドがすぐにやってきて、椅子を引いた。スザンナが椅子に腰を落ち着けると、ハロルドは慣れた手付きでカップに紅茶を注ぐ。
「どうぞ、お嬢様?」
「あなたにそんな言葉遣いされても気味が悪いだけですわ」
「はいはい、いいから冷める前に飲め」
ハロルド・デヴィッドソン。表向きはスザンナの執事、あるいは従者。長い黒髪を首の後で一つにまとめ、赤い瞳にはぞっとするような色気がある彼はいわゆる「悪魔」と呼ばれる存在だった。
彼とスザンナの出会いは、スザンナがまだずっと幼い頃。オズワルドと出会うよりさらに前の出来事だった。
絹のような美しいシルバーブロンドの髪に、宝石のようなエメラルド・アイ。母親似の少しばかりきつい印象を与える顔立ちであったが、両親にとって初めての子どもはそれはもう可愛らしく、目に入れても痛くないほどであった。気の強い母親に穏やかで真面目な父親は王家とのつながりも強く、親しい関係で。父親が起こした事業によって益々栄えた公爵家は、国のためにも重要な存在になっていた。
そんな中生まれた娘、スザンナ。両親はスザンナが、これから先危険に巻き込まれることもなく穏やかに過ごせることを望んでいた。王家に嫁ぐ身となっても、少なくとも血なまぐさい惨劇に巻き込まれてしまうような事態は避けたいと考えていた。
そんな折である。
海外からやってきたある商人が、「天使のお守り」と言って細かい装飾で綺麗に飾られた箱を差し出した。なめらかな白い陶器のような箱に、金の装飾がいくつも散りばめられたそれを見たスザンナの両親は、間違いなく天使のお守りに違いない! と、喜んでそれを購入したのであるが。
それこそ、悪魔ハロルド・デヴィッドソンが「入っていた」箱だったのだ。
娘のために誤って悪魔を呼び出してしまった両親たちは絶望し、自らの命を差し出すから娘のことは助けてくれと懇願した。まだ幼かったスザンナは、そんな両親の姿をきょとんとした顔で見やり、目の前にいる悪魔の姿にはただ、ぼうっ、と見惚れていた。
すると悪魔ーーハロルドは楽しげに笑って、彼らにこう言った。
『お前たちの願い、叶えてやってもいい。だが代償はお前たちの命ではなく、その娘のここ、だ』
とんとん、と胸元を指差してそう告げるハロルドに、両親は泣き崩れた。そんな彼らに悪魔は言葉を続ける。
『心配しなくてもお前達が生きている間はしっかり守ってやるさ。精々長生きすることだな』
そしてハロルドはスザンナの従者ーーあるときは執事、あるときは護衛騎士になりーーアリンガム公爵令嬢を守る存在となった。当然悪魔を召喚してしまったことは外には漏らさず、あくまでも異国の人間を雇ったという体で。
だが彼の見た目は、非常にわかりやすい「悪魔」的な姿である。美しい容姿は人間離れしており、その赤い目はまるで血の色のようで。街の人達は貴族平民問わず口にする。
アリンガム公爵令嬢は、悪魔憑きだ。
スザンナは噂など気にしないふりをして振る舞った。気にしたら悪魔憑きということに信憑性が出てしまう。外見は立派な悪魔だけど実際はただの使用人ですよ、という顔をして、ハロルドを連れていた。
実際ハロルドは悪魔ではある「らしい」のだが、彼に何か害されたわけではない。寧ろ両親に約束した通り、彼はいつでもスザンナを守る位置にいる。王家に親しい公爵令嬢はやはりどうしたって狙われやすく、絡まれやすい。今スザンナがこうして無事でいられるのは、ハロルドのお陰と言っても過言ではない。それこそ出会ったときからずっと、彼は常にそばでスザンナを守り続けていた。
だからスザンナは、口でこそ彼を責めてしまうものの、実際のところ本当に恨んでいたりだとか、恐れていたりという感情はないのである。
「……はぁ。これからどうしましょう……婚約解消だなんて……」
暖かな紅茶を一口飲んで、スザンナはため息を漏らす。
きっとすぐに、王家から婚約解消の書類が届くはずだ。両親はがっかりするだろうし、たった一人の弟も落ち込んでしまうかもしれない。王妃の弟として、素晴らしい未来が約束されていたはずなのに。
「時間が出来て良かったじゃないか。王妃教育に費やしてた時間を自由に使えるんだ。この家は弟が継ぐんだし、お前はのんびりしてりゃいい」
「公爵家の令嬢が、弟に何もかも任せてだらけているわけにはいきませんわ」
「ほんっとうに真面目だな、お前は。少し息抜きしろってこった。今までろくに自分の時間ってものを持ってなかったんだから」
皇太子の婚約相手となれば、通常の公爵令嬢よりも学ぶべきことが多い。ゆえにスザンナはこの数年間、娯楽に興じたことがなかった。王妃教育から離れた時間も本を読んでいたり予習をしたりすることがほとんどで、ハロルドは従者としてそんな彼女の生活を支えていた。
「息抜き……そういう言い方をされると、絆されてしまいますわね。……そうね、少しだけなら、許されるかしら……」
「許される許される。それに王妃教育だって、何かの糧にはなるだろ。そういやお前が好きな店が新しいスイーツを出し始めたらしいから、婚約解消祝いがてら行ってみるか」
「祝いって! やっぱりあなた、何かしたのではなくって!?」
どうだろうなぁ、とへらへら、楽しげに笑いながらハロルドは、ソファーにどかりと腰を落ち着けて長い足を組んだ。
アリンガムの屋敷にいるものたちの中で、ハロルドの正体を知っているのは「アリンガム」の血を引くものだけだ。なぜならその血を引くものだけ、彼の本来の姿が見えてしまう。立派な角に鋭い牙、禍々しい黒い羽。常時見えているわけではないが、まるで悪魔であることを忘れるなというように、ハロルドはその姿をアリンガムのものに見せていた。
「実際お前が皇太子の婚約者じゃなくなれば、危険も多少は減るだろうよ。俺も楽出来るってわけだ」
「わたくしの心など何とも思っていませんのね」
知っていましたけど、と小さく呟いて、また紅茶を一口飲む。ちら、とハロルドを見やると、思い切り視線がぶつかった。スザンナの喉が、ごくりと鳴る。
「何だ、あいつのことが好きだったのか?」
赤い瞳にじっと見つめられて、スザンナは少しばかり動揺する。視線をさっと反らし、小さく咳払いをした。
「そ、そういうわけでは……好意は抱いていましたけど、その、ロマンス小説のような、燃え上がる恋とか、そういうようなものではなくて……」
「ふぅん?」
「な、なんですのその反応はっ」
「いや? お嬢ちゃんも恋とか言う年頃になったんだなぁと思っただけ」
「まーっ! またわたくしを子ども扱いしてっ!」
二人はいつも、このようなやりとりをしていた。いつの生まれかわからないハロルドと、小さな頃からハロルドに守られていたスザンナでは無理もない。年齢の差や経験の差は埋められず、ハロルドにとってのスザンナはいつまで経っても「お嬢ちゃん」なのだ。ハロルドの性格のせいもあり、どうしても馬鹿にされているように思えて悔しさを覚える。
じろりと睨みを効かせても、ハロルドはにやにやと笑うだけだった。
そのとき、ばたばたと誰かが走ってくる音が聞こえ、二人は扉へと視線を向ける。ばんっ、と大きな音を立てて扉を開いたのは、スザンナの弟であるチェスター・アリンガム。スザンナと同じシルバーブロンドの髪に、落ち着いた色のグリーン・アイ。まだ少年と言える年齢で、身長もスザンナより低い。
「チェスター。人の部屋を訪ねるときはノックをして、中の人の了承を得るように教えたはずですよ」
「ごめんなさい、姉さま! いつもよりお帰りが早かったから、気になって……何かあったの?」
どっかりと、部屋の主よりも堂々とした様子で座っているハロルドを全く気にした様子もなく、チェスターはスザンナに尋ねた。チェスターにとっては日常風景であったためだ。
「……すぐに伝わることだから、隠しても仕方ないですわね。チェスター、わたくし……オズワルド王子殿下との婚約が、なくなりましたの」
「えっ」
チェスターはぱちくりと目を丸くして、スザンナを見つめた。
「そっかぁ。まぁ、仕方ないよね」
「えっ」
今度目を丸くしたのは、スザンナだった。もっと驚いたりがっかりしたりするのかと思った弟は、けろりとした顔で納得した言葉を漏らしていた。
「も、もっと驚いたりとか、ありませんの?」
「だって、姉さまが悪いわけじゃないんでしょう?」
「その、わたくしが悪魔憑きだから、」
「そんな理由で婚約解消するような人じゃないと思うな、僕。だから多分、オズワルド様の方に原因があったんだね」
きっぱりと、何の迷いもなく。はっきり言ってのけたチェスターに、笑い声を漏らしたのはハロルドだった。チェスターは年齢のわりにませていると言うか、勘が良いと言うのか。ときどきこんなふうに、スザンナが言葉を失うようなことを言うのだ。
「残念は残念だけどね。オズワルド様のことは結構好きだったしなー。でもこれで、姉さまと一緒にいられる時間が増えるなら嬉しいな」
にこにこ、嬉しそうに話すチェスターは、幾分か――結構、それなりにシスコンであった。
「おいおい、坊っちゃん。スーとの時間は俺が先だぞ?」
「えぇ? ハロルドはいつも姉さんと一緒にいるから、たまには僕に譲ってくれても良くない?」
「あなたたち、何を争ってますの……」
はぁ、と大きくため息をつくスザンナである。
これがアリンガム公爵家の日常。決して外に漏らすことのない、現実、であった。
美しいシルバーブロンドの髪に、エメラルド・アイ。少しばかりきつい印象を与える顔立ちのスザンナ・アリンガム公爵令嬢はティーカップとソーサーを手にしたまま、目の前に座っている婚約者――オズワルド・ロングフェローに尋ねた。
「僕たちの婚約を白紙にしよう。スザンナ」
金髪碧眼、整った顔立ちの絵に描いたような王子様。優しく穏やかで、常に笑顔を携えているこの国の第一王位継承者は、表情を強張らせているスザンナに対してはっきりとそう言った。
王家に次ぐ力を持つと言われているアリンガム家。その家の長女であるスザンナは、極自然な流れでオズワルドの婚約者となった。公爵令嬢としての教養はもちろん、王妃になるべく教育や指導を受けており、結婚まで秒読み段階だと思われていた。
今日も定期的に行われているオズワルドとのお茶会で、いつものように穏やかに言葉を交わしていたのであったが。
婚約を白紙に。
オズワルドが突然、そんなことを言い出した。
スザンナはティーカップとソーサーを置いて、姿勢を正した。まっすぐにオズワルドを見つめて、問いかける。
「わたくしに何か、至らない点がございましたか? 何か、お気に触ることでも」
オズワルドはすぐに首を振る。
「きみに落ち度などないよ。振る舞いもマナーも素晴らしく、王妃教育だってとても良い成績だと聞いている。高慢でもなく、教会に積極的に寄付をしたりと、まさに公爵令嬢の鑑だ」
「でしたら、なぜ……婚約してから五年が経ちますが、わたくしたちの関係は良好であったと思っております。婚約を白紙に、と仰る理由がわかりません」
「――理由というのなら、僕の心の問題だ。ただもちろん、きみが嫌になったとか、そういった理由じゃない。きみは本当に素晴らしい令嬢で、きみ自身のことは僕も好ましく思っている」
そこまで言って、どうして婚約を白紙にという話が出てくるのか。礼儀も作法も、二人の関係も良いものであるのなら、他に婚約解消に至る理由があるとすれば――……。
「……わたくしが、『悪魔憑き』と呼ばれているからですか?」
ぴく、と、眉を動かしたのは。スザンナの後ろに控えた、長い黒髪に赤い瞳の男ーー彼女の従者である、ハロルド・デヴィッドソン。その口端は、微かに上がっていた。
「もしきみが、具体的な理由を求めているのなら……僕は、『そうだ』と答える。悪魔憑きの令嬢を国母には出来ない。――それで、納得してもらえるだろうか」
スザンナは表情を強張らせたまま、けれど決して崩さず。唇を僅かに噛み締めて、それからゆっくりと息を吸う。胸元に手を置いて、にこりと笑顔を浮かべた。
「王子殿下が望まれるのなら、わたくしはそれに従うまで……正直な想いを申しますと、残念な気持ちがないわけではございませんが」
すっ、と立ち上がって、ゆっくりと頭を下げる。オズワルドのためと鍛え上げたカーテシーを披露し、言葉を続けた。
「婚約解消、了承いたします。諸手続きにつきましてはアリンガム家に直接、お申し付けください」
ふっ、と笑う声が、背後から聞こえて。スザンナはハロルドを睨みつけたい気持ちを堪え、精一杯の笑顔でオズワルドに向き直った。
オズワルドは少しだけ眉を下げ申し訳無さそうな表情を見せるも、瞳を細めてすぐに頷いた。
「本当にすまない、アリンガム嬢。全ては僕に原因がある。きみにも、きみの家にも出来る限りの配慮をする。……僕のために時間を空けてくれてありがとう」
最後のお茶会は、そのままお開きとなった。
公爵邸に戻ったスザンナは疲れているから、とすぐに自室に戻って扉を閉める。握った拳をぶるぶると震わせて、思い切り表情を歪ませた。
「な、なんてこと……!!」
それが望みならと、婚約解消を了承した。笑顔で、公爵令嬢らしく、淑やかに。だがその心は、決して納得がいっていたわけではない。オズワルドとの婚約から五年、次期国王を支える王妃となるべく時間を費やして来たというのに。
「わたくしの今まで努力は……一体なんでしたの……?」
悔しさなのか、悲しさなのか。涙がこみ上げたそのとき、扉をコンコン、と叩く音がした。
「おーい、スー。入るぞ」
返事をするより先に、扉が開く。この屋敷でそんな無礼な真似をする人物は、一人しかしない。
「来ましたわね、元凶がっ!」
ティーポットとカップ、それからマフィンの乗ったトレイを手にしたハロルドが、楽しげな笑みを携えて立っていた。涙を浮かべたスザンナを見ても驚いた様子はなく、寧ろ楽しげに瞳を細めてくくっ、と喉を鳴らしてみせた。
「元凶だなんて、人聞きの悪い。そもそもお前が悪魔憑きなのは婚約するよりも前からなんだから、それが気に食わなければ最初から婚約なんてしなければ良かった話だ」
「――悪魔憑きだからっていうのは、理由の一つですわ。きっと他にも理由があったのでしょうけれど……それが理由だと言われたらわたくしは、了承する以外の道がありません。色々諸々ひっくるめて、貴方のせいでこういう結果になってしまったのよ、ハル!」
きぃい、と、思わずヒステリックに叫んでしまう。オズワルドーー王子殿下の前での淑女はどこへやら。ハロルドの前で彼女はいつも、このような具合なのであった。
もっともスザンナの言葉は決して本意ではない。これは突然の婚約解消に対することへの、わかりやすい八つ当たりであった。
「まぁまぁ、落ち着けよ。甘いものでも食べて、な」
そしてハロルドもそれを理解しており、少しも気にした様子はない。
「う……ま、まぁ、お菓子に罪はありませんものねっ」
つん、とそっぽを向いて、それからテーブルのそばまで歩いて行く。にやにやと笑ったままのハロルドがすぐにやってきて、椅子を引いた。スザンナが椅子に腰を落ち着けると、ハロルドは慣れた手付きでカップに紅茶を注ぐ。
「どうぞ、お嬢様?」
「あなたにそんな言葉遣いされても気味が悪いだけですわ」
「はいはい、いいから冷める前に飲め」
ハロルド・デヴィッドソン。表向きはスザンナの執事、あるいは従者。長い黒髪を首の後で一つにまとめ、赤い瞳にはぞっとするような色気がある彼はいわゆる「悪魔」と呼ばれる存在だった。
彼とスザンナの出会いは、スザンナがまだずっと幼い頃。オズワルドと出会うよりさらに前の出来事だった。
絹のような美しいシルバーブロンドの髪に、宝石のようなエメラルド・アイ。母親似の少しばかりきつい印象を与える顔立ちであったが、両親にとって初めての子どもはそれはもう可愛らしく、目に入れても痛くないほどであった。気の強い母親に穏やかで真面目な父親は王家とのつながりも強く、親しい関係で。父親が起こした事業によって益々栄えた公爵家は、国のためにも重要な存在になっていた。
そんな中生まれた娘、スザンナ。両親はスザンナが、これから先危険に巻き込まれることもなく穏やかに過ごせることを望んでいた。王家に嫁ぐ身となっても、少なくとも血なまぐさい惨劇に巻き込まれてしまうような事態は避けたいと考えていた。
そんな折である。
海外からやってきたある商人が、「天使のお守り」と言って細かい装飾で綺麗に飾られた箱を差し出した。なめらかな白い陶器のような箱に、金の装飾がいくつも散りばめられたそれを見たスザンナの両親は、間違いなく天使のお守りに違いない! と、喜んでそれを購入したのであるが。
それこそ、悪魔ハロルド・デヴィッドソンが「入っていた」箱だったのだ。
娘のために誤って悪魔を呼び出してしまった両親たちは絶望し、自らの命を差し出すから娘のことは助けてくれと懇願した。まだ幼かったスザンナは、そんな両親の姿をきょとんとした顔で見やり、目の前にいる悪魔の姿にはただ、ぼうっ、と見惚れていた。
すると悪魔ーーハロルドは楽しげに笑って、彼らにこう言った。
『お前たちの願い、叶えてやってもいい。だが代償はお前たちの命ではなく、その娘のここ、だ』
とんとん、と胸元を指差してそう告げるハロルドに、両親は泣き崩れた。そんな彼らに悪魔は言葉を続ける。
『心配しなくてもお前達が生きている間はしっかり守ってやるさ。精々長生きすることだな』
そしてハロルドはスザンナの従者ーーあるときは執事、あるときは護衛騎士になりーーアリンガム公爵令嬢を守る存在となった。当然悪魔を召喚してしまったことは外には漏らさず、あくまでも異国の人間を雇ったという体で。
だが彼の見た目は、非常にわかりやすい「悪魔」的な姿である。美しい容姿は人間離れしており、その赤い目はまるで血の色のようで。街の人達は貴族平民問わず口にする。
アリンガム公爵令嬢は、悪魔憑きだ。
スザンナは噂など気にしないふりをして振る舞った。気にしたら悪魔憑きということに信憑性が出てしまう。外見は立派な悪魔だけど実際はただの使用人ですよ、という顔をして、ハロルドを連れていた。
実際ハロルドは悪魔ではある「らしい」のだが、彼に何か害されたわけではない。寧ろ両親に約束した通り、彼はいつでもスザンナを守る位置にいる。王家に親しい公爵令嬢はやはりどうしたって狙われやすく、絡まれやすい。今スザンナがこうして無事でいられるのは、ハロルドのお陰と言っても過言ではない。それこそ出会ったときからずっと、彼は常にそばでスザンナを守り続けていた。
だからスザンナは、口でこそ彼を責めてしまうものの、実際のところ本当に恨んでいたりだとか、恐れていたりという感情はないのである。
「……はぁ。これからどうしましょう……婚約解消だなんて……」
暖かな紅茶を一口飲んで、スザンナはため息を漏らす。
きっとすぐに、王家から婚約解消の書類が届くはずだ。両親はがっかりするだろうし、たった一人の弟も落ち込んでしまうかもしれない。王妃の弟として、素晴らしい未来が約束されていたはずなのに。
「時間が出来て良かったじゃないか。王妃教育に費やしてた時間を自由に使えるんだ。この家は弟が継ぐんだし、お前はのんびりしてりゃいい」
「公爵家の令嬢が、弟に何もかも任せてだらけているわけにはいきませんわ」
「ほんっとうに真面目だな、お前は。少し息抜きしろってこった。今までろくに自分の時間ってものを持ってなかったんだから」
皇太子の婚約相手となれば、通常の公爵令嬢よりも学ぶべきことが多い。ゆえにスザンナはこの数年間、娯楽に興じたことがなかった。王妃教育から離れた時間も本を読んでいたり予習をしたりすることがほとんどで、ハロルドは従者としてそんな彼女の生活を支えていた。
「息抜き……そういう言い方をされると、絆されてしまいますわね。……そうね、少しだけなら、許されるかしら……」
「許される許される。それに王妃教育だって、何かの糧にはなるだろ。そういやお前が好きな店が新しいスイーツを出し始めたらしいから、婚約解消祝いがてら行ってみるか」
「祝いって! やっぱりあなた、何かしたのではなくって!?」
どうだろうなぁ、とへらへら、楽しげに笑いながらハロルドは、ソファーにどかりと腰を落ち着けて長い足を組んだ。
アリンガムの屋敷にいるものたちの中で、ハロルドの正体を知っているのは「アリンガム」の血を引くものだけだ。なぜならその血を引くものだけ、彼の本来の姿が見えてしまう。立派な角に鋭い牙、禍々しい黒い羽。常時見えているわけではないが、まるで悪魔であることを忘れるなというように、ハロルドはその姿をアリンガムのものに見せていた。
「実際お前が皇太子の婚約者じゃなくなれば、危険も多少は減るだろうよ。俺も楽出来るってわけだ」
「わたくしの心など何とも思っていませんのね」
知っていましたけど、と小さく呟いて、また紅茶を一口飲む。ちら、とハロルドを見やると、思い切り視線がぶつかった。スザンナの喉が、ごくりと鳴る。
「何だ、あいつのことが好きだったのか?」
赤い瞳にじっと見つめられて、スザンナは少しばかり動揺する。視線をさっと反らし、小さく咳払いをした。
「そ、そういうわけでは……好意は抱いていましたけど、その、ロマンス小説のような、燃え上がる恋とか、そういうようなものではなくて……」
「ふぅん?」
「な、なんですのその反応はっ」
「いや? お嬢ちゃんも恋とか言う年頃になったんだなぁと思っただけ」
「まーっ! またわたくしを子ども扱いしてっ!」
二人はいつも、このようなやりとりをしていた。いつの生まれかわからないハロルドと、小さな頃からハロルドに守られていたスザンナでは無理もない。年齢の差や経験の差は埋められず、ハロルドにとってのスザンナはいつまで経っても「お嬢ちゃん」なのだ。ハロルドの性格のせいもあり、どうしても馬鹿にされているように思えて悔しさを覚える。
じろりと睨みを効かせても、ハロルドはにやにやと笑うだけだった。
そのとき、ばたばたと誰かが走ってくる音が聞こえ、二人は扉へと視線を向ける。ばんっ、と大きな音を立てて扉を開いたのは、スザンナの弟であるチェスター・アリンガム。スザンナと同じシルバーブロンドの髪に、落ち着いた色のグリーン・アイ。まだ少年と言える年齢で、身長もスザンナより低い。
「チェスター。人の部屋を訪ねるときはノックをして、中の人の了承を得るように教えたはずですよ」
「ごめんなさい、姉さま! いつもよりお帰りが早かったから、気になって……何かあったの?」
どっかりと、部屋の主よりも堂々とした様子で座っているハロルドを全く気にした様子もなく、チェスターはスザンナに尋ねた。チェスターにとっては日常風景であったためだ。
「……すぐに伝わることだから、隠しても仕方ないですわね。チェスター、わたくし……オズワルド王子殿下との婚約が、なくなりましたの」
「えっ」
チェスターはぱちくりと目を丸くして、スザンナを見つめた。
「そっかぁ。まぁ、仕方ないよね」
「えっ」
今度目を丸くしたのは、スザンナだった。もっと驚いたりがっかりしたりするのかと思った弟は、けろりとした顔で納得した言葉を漏らしていた。
「も、もっと驚いたりとか、ありませんの?」
「だって、姉さまが悪いわけじゃないんでしょう?」
「その、わたくしが悪魔憑きだから、」
「そんな理由で婚約解消するような人じゃないと思うな、僕。だから多分、オズワルド様の方に原因があったんだね」
きっぱりと、何の迷いもなく。はっきり言ってのけたチェスターに、笑い声を漏らしたのはハロルドだった。チェスターは年齢のわりにませていると言うか、勘が良いと言うのか。ときどきこんなふうに、スザンナが言葉を失うようなことを言うのだ。
「残念は残念だけどね。オズワルド様のことは結構好きだったしなー。でもこれで、姉さまと一緒にいられる時間が増えるなら嬉しいな」
にこにこ、嬉しそうに話すチェスターは、幾分か――結構、それなりにシスコンであった。
「おいおい、坊っちゃん。スーとの時間は俺が先だぞ?」
「えぇ? ハロルドはいつも姉さんと一緒にいるから、たまには僕に譲ってくれても良くない?」
「あなたたち、何を争ってますの……」
はぁ、と大きくため息をつくスザンナである。
これがアリンガム公爵家の日常。決して外に漏らすことのない、現実、であった。
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