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彼女の話。4
しおりを挟むどのぐらいの時間が経ったのだろう。
砂糖をドロドロに煮詰めて、その中に何かしらの花を入れて無理矢理香り付けしたような、そんな嫌な匂いが鼻をかすめ、私の意識は浮上した。
暗かった意識は徐々に覚醒し、私は寝かせられていた布団から起き上がる。
嫌な匂いだ。
どこから来ているのだろうか。
目を擦りながら私は布団を捲る。
だが、暗い室内に、不意に月明かりの光が指したかと思えば、いきなり何かに抱き着かれた。
あの甘ったるい匂いが更に強くなり、私は顔をしかめる。
だが、何が私を抱きしめてきたのかを認識した時、私はハッとする。
「…繰くん?」
「ゔっ…ぇ゙ゔ…義姉様…、ね゙えざま…気もぢ悪い゙ぃ…死んじゃゔごわい……義姉様…ぁ゙あ…」
もう全て出し尽くしても尚、脳に何かが這っているような感覚なのだろうか、口の端から涎が垂れ、目は恐怖に怯えた繰くんを見て、私は尋常ではない気配を察知する。
涙でぐちゃぐちゃになった顔、嘔吐いてここまで来るのすらやっとといった繰くんの姿に、私は思わず繰くんを強く抱き締めた。
「どうしたの、繰くん、何があったの?」
繰くんの背中を摩りながら、私が焦ったように呟くと、繰くんは私に強く抱き着きながら、泣き出してしまった。
「こわい…っ!怖い゙よぅ…!ぐちゃぐちゃ、頭ぐちゃぐちゃに゙な゙るっ……脳みそに、ぐるぐる…虫が這ってる、いだい、痛いぃいい!!」
「繰くん!、よしよし、大丈夫、大丈夫だから、ここに敵はいないよ、私しかいないから。」
痛い、痛いと、私の胸の中で喚く繰くんを、必死で宥めながら、ふと気付く。
服が、はだけている。
眠る前はキッチリしていた服装が、今はループタイがどこかへ行ってしまっていて、シャツやベストがはだけて、だらしなくなっている。
しかも、極めつけは、その肌とズボン。
ウエストパンツですらずり下がっていて、肌には無数のキスマークがあった。
なんだこれ、どうなってるんだ。
もしかしたら、繰くんや要くんが、食事会に参加した時に、起こった出来事なのか?
繰くんは一体、食事会の時に何をされたんだ?
「く、繰くん、ごめんね…こんなこと聞くのはダメだと思うんだけど……しょ、食事会の時、何されたの…?」
背中をなおも摩ってやりながら、恐る恐るそう聞くと、繰くんはガタガタと怯えながら、
「お、襲われ゙、たんです……Ωに……」
と、キツく私に引っ付きながら、そう言った。
私はザワザワと背中に悪寒が走る。
要くんの姿がないことに、今更気付いたからだ。
「わがらない…っ……食事会が…終わっだと思っだら、いきなり、参加していたΩの奴らがヒート起こじて……それで、ぅうぅうう…っ!!」
思い出したくないのか、目をキツく閉じる繰くん。
「ごめんね、思い出したくなかったね、教えてくれてありがとう、繰くん。」
もう何も言わなくていいと、繰くんの頭を撫でながら、彼を落ち着かせることに専念する。
食事に何か混ぜた上で、わざとヒートを起こしたんだろうか、どちらにせよ、何か策略めいたものを感じる。
と言うよりも、一人のΩがヒートを起こしただけで、繰くんがここまで怖がるだろうか?
もしも、…もしも、複数人のΩが、何かしらの計画に参加していて、同時にヒートを起こし、繰くんや要くんを襲ったとすれば……。
……考えたくない。
「ごめんね、繰くん、最後に一つだけ。__ 要くんは、どこに行ったの?」
それでも、向かわねばならない。
今はこの地獄を、どうにか止めなければ。
「一人にしないで…!!義姉様!!」
立ち上がろうとする私に、余裕なく抱き着く繰くんを、同様に支えながら立ち上がらせ、
「大丈夫、一人にしない。要くんを探しに行きたいの、ごめんね、繰くん、もう少しだけ、あと少しだけ、我慢出来る?」
と視線を合わせながら、彼にそう聞いた。
彼は脅えた瞳を私に向けながらも、小さく頷いた。
彼が逃げて来たのは、食事会が行われていた、大きな和室の居間。
なれば、事件が起きているのも同じ場所であると推測するのが通り。
二人で静かに、嫌な甘ったるい匂いを嗅ぎながら、居間に向かう。
そうして、ゆっくりと歩を進める度に、鼻につく嫌な香りは、強くなってくる。
やがて居間を隔てた襖に着いた時、私の耳には嫌な高い声が響いていた。
高い男の喘ぎ声。
溶けたような声は、必死に要くんの名前を呼んでいるようだった。
「ふふふ…っ」
私は思わず笑ってしまった。
「義姉様…?」
繰くんの怯えた声に、襖の奥から聞こえる、男の喘ぎ声。
笑ってないと、気がおかしくなりそうだ。
分かりきった結果を知っている癖に、恐怖を覚え、そして諦めを覚えている自分が、滑稽で仕方がない。
ああ、なんともまあ、バカバカしい。
夢であれば覚めてくれ。
人間の大事な部分がそげ落ちて、感情が無くなって、色覚異常者のように、目の前が灰色に染っていく。
私はクツクツと嫌に、自分を嘲笑いながら、襖を開けた。
襖の向こうは阿鼻叫喚だった。
α、β、Ωの人間達が、猿のように盛り合っているのが、まず目に入って来た。
そして、嫌な匂いがさらに強くなり、甘ったるい匂いと、青臭い酷い臭いが混ざり、吐気を増幅させていく。
ぐちゃぐちゃと汚らしい水音が、室内に響き、喘ぎ声に、叫び声、肉がぶつかり合う音。
一言で言うなら、吐き気。
吐き気と、虫が這うような悪寒と、血液が冷え切っていく感覚。
気持ち悪くて、何も入っていない胃から、酸っぱい胃液が込み上げてくる。
私は口元の笑みが下がりそうになるのを抑えた。
笑顔が無くなれば、正気がなくなるのと同じ感覚であるような気がしたからだ。
さて、何でこんなことになっているのだろうかね。
他人事のように、自分に問う。
繰くんは完全にその場に固まって、ボロボロと唇を震えさせ、また涙を流している。
私は周りを見渡し、そしてある一点で、必死に腰を動かし、組み敷いている男を喘がせている、要くんの姿を見つけた。
はだけた和装に、正気じゃない目。
後にも先にも、彼のあの、理性を無くした獣のような顔を見るのは、これが最後なんじゃなかろうかと言うくらい、彼は酷く飢えた、獣のような顔をしていた。
明らかに正気じゃない。
否、誰もこの場で、正気を保つ気が無いのだ。
他人から正気を奪い、そして、またそれは他人に伝染していく。
よたよたと吐気を我慢しながら、危ない足取りで私は要くんに近付いていく。
「……要くん。」
私は要くんに近付き、しゃがみこみながら、子供を諭すように、要くんの名前を呼ぶ。
要くんは私の声を聞いて、一瞬何が起きたのか理解出来なかったんだろう。
一瞬、動きがピタリと止まった。
もう聞いた所で、そんなセリフに意味が無いことは分かっている。
だが、こう聞くしか、今の私には取るべき手段が分からなかった。
「大丈夫?要くん、酷い顔してる。」
地獄のような最中。
他人が見れば吐き気を催し、中には本当に嘔吐する人間もいるであろう。
酷い臭いと体液と、ぐちゃぐちゃになった肉の結合部。
元々、理性が強く、冷静になることに努めていた故に、要くんは全てを察してしまったのだろう。
途端、組み敷いていたΩ、織芽くんの上に、血の混じった吐瀉物を吐き出した。
手で押さえはしていたが、押さえても漏れ出てくるそれは、酷い臭いだった。
私は食事の乗っていたであろう少し汚れた皿を取り、要くんの吐瀉物を受け止められるよう尽力した。
そこから先のことはよく覚えてない。
気が付いた時には、ぼうっと、要くんの部屋の壁に持たれながら、膝枕をしていた繰くんの頭を撫でていた。
要くんは精神が錯乱しており、吐いては、訳の分からないことをブツブツ呟く、狂人に成り果てていた。
とりあえず、処理をしなければならないと、あの地獄から、要くんと繰くんを連れ出した。
織芽くんは、要くんとの行為で、既に気絶していたようだ。
仕方が無いので、屋敷にいた使用人の人に、織芽くんを連れ出してもらい、後処理を任せた。
やはり使用人の人も、この惨状を見て、まさか、こんなことになっているとは思わなかったんだろう。
食事会の時は邪魔するなとでも言われていたのか、諸々の使用人達は離れの屋敷に居たようで、出会った使用人は、たまたまこの屋敷に用事があった人だった。
この光景を見て、うぷっ……と口を押えていた。
私は二人を風呂に入れ、身の回りの世話をすると、すぐにラットの拒絶反応を起こしている二人に、抑制剤を飲ませた。
そうして二人を寝かしつけ、今に至る。
二人を助け出した後の、あの狂宴のことを処理する気にはならなかった。
今頃どうなってるかなんて、考えたくもない。
なんでこんなことになっているのか、未だに現実味がない。
自分の布団で、死体のように、呼吸しているかも分からずに眠る要くん。
私から離れれば、また何かに襲われると半狂乱になった末、疲れて涙をこぼしながら、私の膝の上に頭を預けて眠る繰くん。
ははは。と乾いた声が漏れる。
ああ、マズイ。
恐れていたことが、遂に現実になった。
心の中で分かっていたはずだ。
いつかこうなると、分かっていたから、こんなにも、自分でも驚くほどに、冷静に対処出来た。
だけど、その後は?
一番、自分が恐れているのは、要くんと、織芽くんが番になってしまうこと。
そうなれば、自分は今までの全てを諦め、落ちぶれ、そして__。
考えたくもない未来。
すぐそこまで、来ている未来。
大事な人間に、切り捨てられ、捨てられ、価値のなくなった人間。
人間失落。
落ちぶれる。
こぼれ落ちて、地に落ちる。
もうここまで来ると、意味の無い怒りや、罵詈雑言すら、吐き出す気にもならない。
知らないΩと性交渉している要くんが、目に焼き付いて、脳内から離れない。
密かに嘔吐きを我慢しながら、私は、ポケットからスマホを取り出した。
母からメールが来ていた。
『要くんの家にいるの?、泊まるなら連絡ちょうだいね。』
と、それだけ。
『うん、要くんの家に泊まる。明日の朝に帰るね。』
手短に、そう返信をして、私はスマホを閉じる。
ああ、ああ、ああ。
勘弁してくれ。
気持ち悪い、吐きそうだ、何でこんな獣みたいな人間を好きになったんだ、いや違う、好きになったのは自分だ、この人間を責めるのは道理が違う。
私は、そんな醜い人間じゃなかったはずだ。
目を閉じ、そして、死を連想しながら、私は眠れぬまま、夜明けを迎えた。
私はご飯も食べず、風呂にも入っていないので、一度家に帰らなければならない。
ごめんね、と繰くんと要くんに謝り、私は一度、彼らの屋敷を出ようと、帰るウマをメモに残し、要くんの部屋を出た。
自分はどんな顔をしていただろうか。
朝方で、まだ薄暗い空を見ながら、帰路に着く。
母は多分眠っているだろうから、そっと部屋のドアを開けて、自室に戻った。
着替えを取り出し、シャワーを浴びに行こうと、浴室に入る。
風呂の後は、部屋に戻り、ベッドに寝転んで、目を閉じた。
数時間ほど浅い眠りを繰り返し、電話の鳴る音で、完全に目が覚めた。
要くんからだった。
電話に出てみると、要くんは酷く疲れきった様子で、
「昨日は見苦しいものを見せて済まなかったね。」
と、そう謝罪してきた。
恐らく眠って、起きてからも、あまり疲れが取れていないんだろう。
そんな中で、電話をしてきてくれたようで、申し訳なく思いながら、
「ううん、平気だよ。大丈夫、要くんこそ平気?繰くんは?何か困ったことはある?」
「ああ……僕は…平気だよ。繰は…抑制剤をもう一度飲んで、部屋にこもったきり出てきてない。どうも外に出るのを、極端に怖がってる。」
「そう……。」
あんな状態じゃ無理もない。
あの無数のキスマークや、はだけた洋服。
阿鼻叫喚の狂宴を思い出す限りでも、複数人のΩがいた事を推測するに、甘ったるいフェロモンの中、理性を手放しそうになった自分が、怖かったんだろう。
あの状態では、しばらく学校には行けなさそうに思う。
「…要くん、どうしてあんなことになったの…?」
聞いてはいけないと思いながらも、思わずそう口走ってしまった自分にハッとする。
「いや、ごめん、忘れて…」
すぐにそう言い直したが、要くんは長い沈黙の後、
「食事会の件なんだけどね。」
と消え入りそうな声で話し始める。
どうも、聞く限り、食事会にあった食事には、ヒートを誘発させる薬が混ぜられていたらしい。
恐らく、要くんと、織芽くんを結ばせたい派閥によるものだと思われ、元から無理矢理にでも、番わせる算段だったようだ。
要くんの親側、織芽くんの親側も、それに同意しており、目的では、ヒートを起こした織芽くんと、要くんを二人きりの部屋に閉じ込めておくためのお膳立てだったようだ。
ただ、違ったのは織芽くん自身が、確実に要くんと番うべく、薬の量を何倍にも料理に追加し、二人きりになる前に強いフェロモンを部屋に放出させたせいで、周りの人間をも巻き込み、あんな惨状になってしまったらしい。
部屋に移動する前から、βやα、そして複数人のΩがヒートやラットを起こして、地獄のような狂宴が出来上がった。
元々、強いフェロモンを持つ織芽くんだからこそ、起こった悲劇でもある。
「…そんなことがあったんだ……こう言うのもアレだけど、…酷いね。」
「ああ、酷い。酷いよ、それはもう地獄のようだ。」
「要くん、大丈夫だよ、だって、番ってはないんでしょう?」
苦し紛れに、私はそう言った。
実際、織芽くんと致している時は、理性が吹き飛んで、とにかく犯すことしか考えられなかったんだろう。
項を噛まれた痕跡は無かったし、その点に関しては、平気だったはずだ。
「…愛音ちゃん」
要くんが電話越しに、私の名前を呼ぶ。
「なあに、要くん。」
「君は…また、いつもと同じように、僕の傍にいてくれる?」
「うん、傍にいるよ、ちゃんといる。…例え、要くんが織芽くんと番になっても、要くんが私を捨てるまで、傍にいるよ。」
「ああ……君は僕を一人にしない、ちゃんと人として僕を見てくれる…どうか、僕を軽蔑しないでおくれ、君に人として見られなくなったら、僕は、もう……」
「…うん、大丈夫、心配しないで、要くん。」
何も大丈夫じゃない。
そんなことは、分かってる。
内心で、どうせ、βは番にはなれない。なんてひねくれて思っていることも、獣のような、あんな余裕のない要くんを見て、私には、あんな風に欲情を向けはしないクセに。と、嫉妬していることも、全て分かった上で、私は彼を肯定するのだ。
そうすることで、醜い自分から目を背けたかった。
多分、要くんは、私の『諦め』を現実に、具現化させてしまったことで、酷い屈辱を覚えていることだろう。
自分は、将来を約束した女との、約束を守れなかった。
そんな中で、死体蹴りをするのは、それこそ、人として、失落している。
現実は非情。
特に時間は。
長々と電話している訳にもいかない。
学校に行く時間は、守らねばならない。
私は要くんと、学校に行く約束をして、電話を切った。
学校に行く準備をして、私はいつものように、要くんと学校に向かう。
お互い挨拶を交わした後は、無言だった。
それが気まずくもなければ、変に何かを話す空気にもならず、ただお互い、キツく小指を絡めていた。
要くんはいつものように、貼り付けた胡散臭い笑みもなく、ずっと無表情だった。
どこか上の空のまま、授業を受け、何も変わらないまま、要くんとお昼を共にする。
今日は、織芽くんは来ておらず、熱が出ていて休みだとのことだった。
気絶するほどに無理をすれば、そうもなるかと、妙に私は納得した。
それと同時に、嫉妬している自分がいることにも、納得する。
けれども、運命が欲しくなるような欲求をもたせられるのは、Ωだけ。
開き直り、仕方がないと、また心中で堕落論を展開する。
「愛音ちゃん。」
「ん?」
うずらの卵をパクリと口に放り込んだ所で、要くんに話しかけられた。
「『今日は?』」
そう言われ、じっと見られた。
「………。」
「………。」
視線が交じり、沈黙が降りる。
私は、うずらの卵を飲み込んだ後、
「…いいよ。」
と、ゆっくり、そう頷いた。
二人、どちらともなく約束をするように、キスをした。
ごめんね、要くん。
ずっと話せてない、私がΩになれない秘密。
要くんが使っている、質の高いΩ専用の発情誘発剤、あれね、私には一切効果がないんだ。
厳密に言えば、媚薬の効果しかない。
長期的に打って、Ωの転換が見込める人は、自分の両親か、自分の祖父母達に、ΩのDNAを少しでも持つ人が居る時だけなんだよ。
その上で、私がΩになれないのは、つまり、両親も祖父母も、βのDNAしか持っていないから。
ΩのDNAを持っている人は、私の家族には、誰もいないの。
だから、私はΩにはなれない。
こんな残酷な事実を、ハッキリと正面を切って言えるほど、私の根性は座ってない。
こんな時に、なおさら言える訳もない。
ごめんね、要くん。
薬に頼って、どうにかなるほど、現実は甘くないんだ。
伝えられないからこそ、その罪滅しとして、私は彼の傍にいたいのかもしれない。
否、それは言い訳か。
Ωになれないことを伝えて、要くんは私をどうするだろう?
やっぱり、縁談が来ていた相手と既成事実を作ってしまった以上、私を切り捨てるだろうか。
いや、そりゃそうか。
だって要くんの家は、由緒正しいお家の子供なんだから。
決められた相手と、たとえ愛が無くても結婚はしなければならない運命だった。
……けれど、そんな愛の無い結婚で生まれてきたのが、要くんと繰くんだ。
人に愛して貰えず、人として扱って貰えなかったのが、二人でもある。
だから、要くんは邪魔をするなら、両親を捨てるつもりでいただろうし、それだけ取るに足らない存在だったと思う。
要くんや繰くんにとっては、心底どうでもいい親だった。
親になるべきでない、親だった。と言うべきか。
それで今こんな状況になっているのだから、もはや親と呼べるかすら怪しい。
「要くん。」
「何だい、愛音ちゃん。」
「……これから、どうする?」
「…どうもしないさ。カタを付ける。」
その言葉に、私は「…そっか。」とただ一言そう返す。
どうする?と聞かれても、そう返すしか道はないだろうに、変なことを聞いたと、私はそれ以上は何も言わなかった。
要くんがどうするのかは分からない。
それこそ、織芽くんと一緒になる選択をするのか、そうでないのか。
けれど、その答えはなんだか、怖くて聞きたくもない。
その日の授業も、滞りなく終わり、私は要くんと、要くんの屋敷に出向いた。
真っ直ぐ要くんの部屋に向かい、少し待っているよう言われた。
言われた通り、私が待っていると、不意に「失礼致します。」と、丁寧な動作で、要くんの部屋の襖が開いた。
美成乃 織芽くんが、そこにいた。
上質な和装に身を包み、これから要くんと会うつもりだったのが、明らかに見て取れた。
私は静かに、じっと彼を見つめる。
「おや、要様はここには居られないのですね。」
わざとらしくそう呟く彼に、私は小さくため息をついた。
「要くんは……」
薬を取りに行っている、と言おうとした所で、
「気安く要様の名前を呼ばないように。貴女はもう部外者です、一介の人間と、要様の立場を履き違えないようお願いします。」
と、ピシャリとそう言い放たれた。
私が再度、口を閉じ、何も言わなくなると、
「いつまでそこに座っているのですか?」
と、冷たくそう言われた。
明らかに、邪魔だと思われている節を感じたが、要くんに待っていろと言われて、そのまま立ち去る訳にもいかない。
私は織芽くんを遮断した。
「全く……いつまでも我儘が通用するようなものでないことくらい、貴女もご存知でしょう?僕は何度も忠告して来たはずです、いつか辛い目に合うのは貴女だと。」
「………。」
腑に落ちないし、どうにも解せない。
「僕と要様の婚約は、もう決まったことです。要様は、貴女にいつまでも、構っている暇はありません。次期当主として、釣り合いの取れた由緒正しい家柄の僕と番い、子を生み、次に繋いでいかなければならないのです。」
薬がなきゃ、ああして愛されもしない癖に。
心中で、チクリと初めて彼に毒を吐いた。
「要様はただ錯覚しているだけなのですよ、貴女がたまたま幼少期から近くにいたから、恋と友情を履き違えているだけに過ぎません。僕と共に過ごせば、それも分かるようになります。」
「……さいですか。」
「運命の番に、『平』は決して入り込めません。それほどまでに強いものなのですよ、貴女も見たでしょう?、運命の前には、惹かれ合うのが自然の摂理なのです。アレが、要様の本性。『陽』における、『陽』の本能です。」
ああ、知ってるよ。
番のαとΩに、βが入り込めないことくらい。
けど、それを無理矢理に引き起こしたのは、織芽くん、君だろう?
要くんに愛して欲しかった気持ちは大いに分かるし、立場が違えば、私も彼と同じことを考えていた可能性すらある。
ただ、私は多分、要くんのことを考えれば、確実に諦めていたと思う。
仕方がないことだと、それこそ堕落論を展開して。
負けたと、諦めるだろう。
それでも意地汚く、こうして場をかき乱しているのは誰だ?
愛されるべきは僕だと、含みを持たせて、私を追い出そうとしているのは誰だ?
「これだから、何も知らないただのβは……。」
「………。」
思わず、私はまた、乾いた笑いがこぼれそうになった。
しかし、そんな時、
「義姉様。」
と聞き慣れた声が聞こえてくる。
見ると、繰くんが居た。
「…繰くん。」
「繰様!」
パッと私に向けていた冷たい表情を変えて、儚い笑みを浮かべ、繰くんを見る織芽くん。
「どうされたのですか、繰様。もしかして、繰様も何か、要様にご用事が?」
「義姉様に用事があってここに来ました。義姉様、繰のお部屋に行きましょう、彼は義姉様を邪魔だと思っているようですし、繰のお部屋で兄様を待ちましょう。」
さあ、早く。と繰くんは私に手を伸ばす。
「でも、繰くん、要くんは……」
「兄様には既にお伝え済みです。少し話してから行くので、繰の部屋で待っていて欲しいと伝言も。」
そう言われたので、私は立ち上がり、繰くんと部屋を出る。
後ろは振り向かなかった。
振り向いても、ろくな事にならないと感じていたから。
そのまま、繰くんに連れられて、繰くんの部屋にお邪魔した。
既に手際よくお茶が用意してあって、繰くんは温かいお茶を入れて、私に出してくれた。
「ありがとう、繰くん。……あの、勝手に帰ってごめんね、大丈夫だった?」
私がそう聞くと、繰くんは小さく頷いた。
「抑制剤を飲んで、一日眠ったので、今は大分落ち着いています。お見苦しい所を見せて、繰は申し訳なく思っています。ごめんなさい。」
「あ、いや、全然大丈夫だよ。仕方ないよ、ああなったらトラウマにもなるかも知れないのに、繰くんはちゃんとしてるから…凄く偉いよ。」
要くんと同じ兄弟ということもあって、随分と復帰も早い。
これなら、明日から学校にも行けそうだ。
「繰は、まだ失望されていませんか?あんな姿を見せて、恥ずかしい人間だとは思われてませんか?」
「どうして?私も同じ目に合えば、繰くんみたいには済まないと思う。繰くんみたいに、こうして冷静にも慣れないし、こうして落ち着いてもいられないのに、繰くんはちゃんとしようとしてる。失望する要素なんて、どこにもないよ。」
「…そうですか、繰は安心しました。」
良かったという表情を浮かべる繰くんに、私は少し罪悪感が募る。
「頼りなくてごめんね、私も余裕が持てなくて…」
「いいえ、義姉様のお陰で、繰は今こうして普通で居られています。繰を拒絶せず、強く抱き締めて、お風呂に入れて、お薬をくれた義姉様は、とても頼もしかった。」
「そう思ってくれるなら、凄くありがたいかな。」
お茶を飲みながら、少しの間、私は繰くんと雑談に花を咲かせた。
やがて、少しして、要くんが部屋に入ってくる。
「やれやれ、どうも、あのΩとは話が合わない。」
そうごちりながら、襖を引いて、部屋に入ってくる要くん。
だが、その手には、今日の分の薬は握られておらず、代わりに、三人分の皿に乗ったカステラがあった。
「おかえり、要くん」
「お帰りなさい、兄様。」
「ただいま、おやつにカステラを貰ったんだ。前みたいに毒は入ってないと思うよ、毒味させたからね。」
しっかりと疑ってかかる辺り、家族や関係者に対して、疑心暗鬼しているのは確かなんだろう。
「カステラ持って来てくれたんだ。」
「愛音ちゃんには嫌なものを見せたからね、大きめに切ってもらった。」
「そんなに気にしなくても大丈夫だよ、でも、お気遣いどうも、ありがとう。」
大きくカットされたカステラを貰いながら、私は、自分があの日から、食欲が減退している感覚に気付く。
今日の弁当も、全て食べきれなくて残してしまったし、脳内にあの光景がチラつくことで、どうも食欲が失せる。
冷静に諦めながらも、しっかりショックを受けている辺り、少し未練がましく感じなくもない。
ザラメの乗った美味しそうなカステラを見ても、今はそこまで食べたいと思わない。
それでも、ろくな物を口にして来なかったからか、腹は減っているんだろう。
口の中から唾液が染み出してきた。
渡されたフォークで、一口大にカステラを切って、口に放り込む。
ふんわりとした甘い生地が、口の中で広がり、ザラメのジャリジャリがアクセントになって、美味しく出来ている。
「美味しい?」
「うん、美味しい。ザラメが良いね。」
もくもくとゆっくり咀嚼して、極力吐き出さないよう尽力しながら、私はカステラを飲み込む。
「義姉様、あまりお腹が空いていないのですか?」
不意に、繰くんから、意表を突くようなことを言われたので、一瞬手が止まる。
「どうして?」
「いつもより咀嚼の回数が多いのですよ、お腹が空いている時、義姉様は早く胃に収めようとして、咀嚼の回数が減る傾向があります。ですが、義姉様は今日、異様に咀嚼の回数が多い。吐き出さないよう踏ん張っている印象を感じます。」
鋭くそう呟いてくる繰くんに、私は「そんなことないよ。」と否定しようとしたが、
「おや、カステラは少し重かったか。確かに飲み込むのに多少時間がかかってる。ごめんよ、気が利かなかったね。」
と要くんにもそう言われ、食べたくなければ無理せず、置いておいて良いと言われてしまった。
「大丈夫ですか、義姉様、食べられなければ、繰が食べますよ。」
「大丈夫だよ、繰くん。お腹は空いてるの。食欲が湧かないだけ。」
「なら、ゼリーか、汁物か、そっちの方がいいね。胃に溜まるものが一番良いと思ってカステラにしたけど、流し込むならその方がいい。」
「そんなに気を遣ってくれなくてもいいよ、カステラは美味しいから食べたいし。」
スローペースではあるものの、美味しかったのでカステラを食べたい気持ちはある。
大丈夫だと言って、カステラは全て食べた。
「要くん、織芽くんとはどう?さっき話し合いが進まなかった的なこと言ってたけど…?」
カステラが無くなった皿を置いて、私が少し気になったことを言うと、
「ああ、話が進まない所か、足踏みすらしてない。」
と、要くんはため息混じりにそう言った。
「さっき話された時はどうだったんです、兄様?」
「親の意向なのだから、それに従うのが筋だと。親に対する情は無いのかと聞かれたよ。」
そんなものあるわけないのにね。と、要くんは繰くんが入れたお茶を飲みながら、そう言った。
「ロクに親としての義務を果たして来なかった人間にそんなことを今更言われてもね。勝手に生んで、後は他人任せで愛人と情欲に耽っていた親に、情なんぞないよ。」
「それで次はΩとの婚約ですか。ダメならお前も家から勘当だと、繰は両親から言われました。」
「いっそ、その方が良いかもね。いつでもそうなっても良いよう、アテは幾つか考えてあるし、僕や繰を欲しがる人間は親だけじゃない。」
「…本気じゃないよね?」
それ流石に、投げ出し過ぎじゃないかと、私は二人にそう聞くが、
「だって、僕は困らないもの。親が勘当だと言うなら仕方が無いし、願ったり叶ったりだよ。」
「繰は、義姉様の傍に居られるなら何でもよろしいです。繰の幸せは、義姉様が幸せになることですから。」
「……そんなに想われてるなんて、恐悦至極だよ。」
どうも思いが強過ぎて、たまに大丈夫だろうか…?と心配になるほどには。
けれども、その思いのおかげで、私はこうして今、正気を保っている。
こうされることが嬉しいから、彼らの傍にいるのだ。
どうか彼らの気が変わらないよう、今の間に密かに願うのみである。
兆候は既に、現れかけていたことに、私は未だ気付かぬまま、二人としばしの休息を楽しんだ。
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※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
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