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同棲の始まり

海の底の世界

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 月の光も届かない、暗い暗い海の底。

 フィンは赤い髪の人間を抱いたまま、海の主のもとを訪れた。
 海の主とはフィンと同じく人魚で、もう千年は生き続けているこのあたりの海神でもある。

「――フィン。その人間、どうしたんだい?」
「さっき、拾った。」
「放しておやり。もう生きてはおるまい。海に帰してやるのが、自然の習わしだよ。」
 けれども、フィンはそれには何も返さず、ただ海に漂うその赤い髪を優しく撫でてやっていた。
「こんなに綺麗な赤、初めて見た。」

 愛おしそうに人間を見つめるフィンの様子に、海の主は眉をひそめる。

「フィン、その人間はもう――」
「オレの血肉を与えたら、この人間は生き返るか?」

 元来、人魚の血肉には、万物の根源たる力があるとされている。
 だからこそ、人間にも不老不死の命を授けると言われているのだ。

 けれども。
 海の主はフィンの顔を真っ直ぐに見据え、首を横に振った。

「その人間はもう死んでいるからね。今更、血肉を与えても、生き返りはしないよ。」
「でも、血は止まった。」
「・・・お前、何をやったんだい?」
「――キス。」

 あっさりと返ってきた言葉に、海の主はやれやれと大きく溜息をついて。
 “いいかい?”と改めて口を開いた。

「それは、お前の体液がその人間の傷を癒したに過ぎないんだよ。現にその人間は、まだ死んだままだろう?」
「・・・どうしたら生き返る?」

 どうしても生き返らせたいと食い下がるフィンに、海の主は珍しいものでも見るような目をして。
 あまり何事にも感心を示さないフィンが、こんなに何かに執着するのは滅多な事ではない。
 海の主は、それこそフィンを誕生の頃からずっと見守ってきたのだ。

 海の主にとって、海の生物は全て自分の可愛い子供達のようなものだが、中でもフィンには特に目をかけていた。
 いずれは、自分の後継者として迎えるつもりなのである。
 なので、そんなフィンの願いを海の主は無下にはできない。

「困ったねぇ。そんなにその人間が気に入ったのかい?」
 そう問いかければ、フィンは真っ直ぐ縦に首を下ろした。
 すると、海の主は仕方がないとばかりに話し出した。

「一度、死んだ人間を完全に生き返らせる方法はないよ。ただ、その命を一時的に復元する事はできる。」
「どうすればいい?」
「その人間と深く交わる事。そうすれば、七日間だけ、命をつなぎ止める事ができる。お前ももう大人だ。この意味はわかるね?」
「でも、この身体では人間とは交われない。」
「だから、お前も人間になればいいのさ。お前にはお手の物だろう?知っているよ?お前がよく人間の姿になって、地上へ出かけて行っているのを。」

 バレていたのかと、フィンは肩を竦める。
 そもそも海の世界では、人魚が人間に化けて地上へ上がる事はあまり良しとはされてはいなかった。
 それなのに、フィンが何故、地上に上がっていたかというと、海辺にあるレストランに牡蠣料理を食べに行くためで。
 牡蠣はフィンの大好物だが、海の世界では生でしか食べられないので、火が通った人間の調理法で食べてみたかったのだ。
 そして、一度食べたらやみつきになってしまい、足繁く通うようになってしまっていた。

「じゃあ、オレが人間の姿になってコイツを抱けば、コイツは目を覚ますんだな?」
「そうだね。七日間だけは。」
「その後もずっと抱き続ければ、コイツは生き続けるんじゃないのか?」
「理論上はそういう事になるだろうね。けれど、そんな事ができると思うかい?お前の正体がバレるかもしれないし、そうなったら、お前の身に危険が及ぶかもしれないよ?」

 確かに、人間に正体がバレる事は命取りになる。
 けれども。
 フィンはどうしても、この人間が目を覚ますところが見たかった。

 どんな瞳の色なのか。
 どんな声で話すのか。

 胸を焦がすその思いはもう止められない。
 フィンは海の主に深々と頭を下げると、赤い髪の人間を抱いたまま、海の中へと消えて行った。
 海の主は、そんなフィンをやや心配な面持ちで見送った。

「それに。お前がその人間を一時的に蘇らせる事が、その人間にとって本当に幸せかどうかは、わからないんだよ?」

 そう呟きながら。

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