木苺ガールズロッククラブ

まゆり

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First Affair by りり子

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「雪に、ならないかな」
 朝からみぞれのような雨が降っていて、雪になりそうでならない。りり子の制服のスカートは、濡れたウールの獣じみた臭いを発散していて、足のつま先はローファーの中で凍りかけている。
 繭が、ドアを開けた。
 渋谷から歩いて十五分ほどの古い1DKのマンション、木山パレスの十五号室。それが、りり子とふたりの友達の繭とサキが「キイチゴ城」と呼んでいる秘密の基地だ。
 ドアを開けるなり、黒くぬれ、とミック・ジャガーが歌う声が聞こえてくる。ローリングストーンズの古い曲。冬の雨に塗りこめられた渋谷の裏通りにふさわしい選曲だ。どうせなら、黒ではなく白い雪が街を塗りつぶしてくれればいいのにと思う。
「夜には、なるかもね。……りり子、着替えたら?」
 繭は学校には行ってはいないのだろう。私服の黒いセーターとブラックデニムの上に薄汚れた実験用の白衣を羽織っている。繭は高校の科学部に入っていて、普段でも白衣を着ていないと落ち着かないほどの実験マニアだ。
「うん、そうする」
 まだ、「仕事用」の服に着替えるのは早すぎるので、りり子は、部屋に置きっぱなしにしてあるボストンバッグの中から、ピンクのジャージの上下を引っ張り出す。濡れた制服を脱いでいると、台所からレモングラスとミントの爽やかな香りが漂ってくる。
「お茶、入れたよ」
 まだ使えるのが奇跡のような古い電気コタツの上に、マグカップが置かれる。おいしそうな香りのわりには苦みの強い、繭のスペシャルブレンドのハーブティーをひと口すする。曲は、いつの間にかスチューピッド・ガールに変わっている。りり子と繭、それから遅れてくるはずのサキのことを歌われているような気がしてしまう。
「今日のはけっこう苦いよ、繭」
「そう、少しセントジョーンズ・ワートの量を増やしたんだ。最近よく眠れなくて。でもママが夜勤じゃないときはどっちみちぐっすり眠ってなんかいられないけど」
 セントジョーンズ・ワートは、繭のお気に入りの抗不安効果のあるハーブで、和名を西洋オトギリソウという。
 オトギリソウという名前の由来は繭から聞いた。
 オトギリソウが鷹の傷を治す秘薬であることは、ある鷹匠の秘密だった。ある日、鷹匠の弟が秘密をばらしてしまい、激怒した鷹匠は弟を斬り殺した。このことから、オトギリソウという名前がついたそうだ。そんないわれのある薬草が不安や不眠に効くなんて、皮肉な話だ。繭にとっては、それは皮肉ではなく、血のつながった家族が殺し合うのは、珍しいことではないと、かえって安心するらしく、繭は昔からじセントジョーンズ・ワートが好きだ。
「今日ね、進路相談に呼ばれた」
「なんで?」
 進学する気なんてなかったので、てきとうに願書を出して、大学には落ちるつもりでいたけど、そういうのも馬鹿らしくなったので、母に話をしたら、速攻で担任の教師に報告された。
 お父さまにばれる前に、すべてを処理しておかなければならない家なのだ。ゆりちゃんも、ちゃんと法律学科に行って、司法試験を受けないとだめでしょ、と、不自然なくらいに優しげな口調で、母に言われて、吐き気がこみ上げてきたのでトイレで吐いた。お父さまが出張中で帰ってこなかったのがせめてもの救いだった。百合子というのがりり子の本当の名前だ。馬鹿げていた。母を見ているといらいらするのだ。お父さまの繰り人形の、いつも物憂い顔をした女衒。それが母だ。
「説教されたから、めんどくさくなってヤってきた」
「りり子は悪食だよねえ」
 繭の声は少し掠れていて、喋ると鎖骨のあたりが不自然に上下する。また喘息がひどくなっているのだろうか。
「うん、教室でってなかなか新鮮。繭も試してみなよ」
「理科室でならあるけど。一年生のときに先輩と。よく骨格見本とか見ながらできるよな、って思って、やっぱり翌日に熱出した」
「なんか苦しそうだけど大丈夫?」
 りり子はマグカップをコタツのテーブルの上に置くと、繭の胸に耳を当てた。鼓動が少し早く、ひゅうひゅうという雑音が耳に入ってくる。
「大丈夫だって」
「吸入器は?」
「持ってる。これくらい平気なんだから。いまステロイドも飲んでるし」
 喘息の発作がある人なら、誰でも持ち歩いている吸入剤を繭は異常に嫌っている。
「それより、ね。りり子って可愛い。上から見ると頭が小っちゃくて、首が細くて、ピンクがすごいよく似合って、ハムスターみたいで可愛い」
「そうかな。落ち着きがないだけ」
 ハムスターみたい、というのは、繭の最大級の褒め言葉だ。小さいときに子供のときにハムスターを飼っていたのに、アレルギーがあることがわかって今は架空のハムスターしか飼っていない。
 繭は、いつも黒っぽい地味な服装に白衣を着ているのに、冷たい感じがしない。太っているわけではないけど、骨が細いのか、柔らかな体つきをしている。お母さんってこういうものじゃないって、まだ十八歳の繭に言うのも変だけど、繭に抱かれているとなんだか落ち着くのだ。
 繭とも、サキとも、大した理由もなく抱き合ってばかりいる。十二歳のときに出会って、極限状態に置かれたときから、他人という気がしない。
 担任の教師に話があるからと、学校に呼ばれた。今朝のことだ。りり子の学校は、私立の中高一貫女子校で、みな当たり前のように大学を受験する。りり子は学校ではあまり目立たないように平凡な生徒を演じているので、受験をやめるというのは、教師にとっては一大事のようだった。担任の太った国語教師は、りり子とは視線を合わせずに、
「いまさら進学やめるって言われてもなあ、困るんだ」
 と、貧乏ゆすりする膝をボールペンで叩きながら、りり子に言った。困るって、何が困るのだろう。
「勉強したいことがないんです」
 面倒なことになった。やはり素直に受験する振りをしていればよかった。あまりにお父さまに言いなりの母に吐き気がして、つい大学には行かないと言ってしまったのだ。
「……あの、先生困らせちゃってごめんなさい。どうしていいか、わからないの」
 意地悪な気分になったときほど、りり子はしおらしく振舞う。教室には誰もいない。さっきからボールペンでせわしなくつつかれている膝に乗ってやろうかと思う。
 年上の男に甘えたり、媚を売るのは得意だった。お父さまに嫌というほど仕込まれている。生徒に手を出したことがばれたら、困るなどという程度の問題ではない。こいつも強請ってやろう。
 何か気の効いた、いかにも教師らしいことをいうのをりり子は待った。教師は相変わらずボールペンで膝を叩いていた。りり子は、机の上に置いたピンクのペンケースを肘で押しのけた。ペンケースは床に落ち、中身がぶちまけられる。椅子から降りて、机の下にもぐり、中身を拾い集めた。
 たとえ目的が強請りであっても、可愛がってもらうのは好きだ。そういうふうに育てられたから、ではなくて、元々そういう星の下に生まれついただけなのかもしれない。お父さまがりり子の素質を見抜き、磨き上げた。もっと昔の時代に生まれて、遊郭にでも売り飛ばしてくれたらよかったのに、と思う。
 貧乏ゆすりに揺れる膝頭に手を伸ばし、ぽってりと肉のついた脚に顔を乗せる。
「ねえ先生、大学なんか行きたくないし、何にもなりたくない」
「……そこに座りなさい」
 教師の声は、掠れて語尾が震えている。
「先生のこと、好きなの」
 可愛がってくれる人は、誰でも好きだ。
「卒業したら、つき合ってくれるか?」
 いきなりつき合うところまで話が発展している。
「今してくれなきゃ、やだ」
 自分の口から出てくる言葉は、いつでも嘘みたいだ。膝に乗って抱きつくと、大きな熊のぬいぐるみみたいに抱かれ心地がいい。エッチを始めても手足は冷たいままで、顔を真っ赤にして額の脇から汗を流す教師はあったかそうでいいなあと思う。やっぱり人間、熱くならなきゃだめだ、などと、何するにしても温度の低い自分の行動について反省などをしてみようと思ったところで、何も考えられなくなった。 
 今から考えると、あまりに馬鹿馬鹿しい。何のためにわざわざ学校まで行ったのか? 親に余計なことを言わないようにとは、言っておいた。帰り際に今度はいつ会えるのかと聞かれたけど、無視して教室を出た。
「もう一回さっきの曲、かけて」
 繭と抱き合ったまま、りり子は言った。
「さっきの曲って?」
「『黒くぬれ』ってやつ」
 何もかも、黒く塗りつぶしたい。自分も、家も、学校も。
 キイチゴ城の正確な名称は、木山パレス十五号室という。老朽化がひどく、立ち退きを進めている間に居住者が失踪したといういわくつきの部屋で、地上げの途中で、オーナーの金策が尽きて、何重もの担保に入ったため、債務を整理しようにもできなくなったというバブルの遺産のような物件だ。取り壊す予定だったので、失踪した居住者の部屋は当時のままにしてあった。たまたま管理を任されていたある男と懇意になって、というか、脅迫のカタに、三人の基地として、タダで使わせてもらっている。最初のうちは、他人が住んでいた痕跡を気持ち悪く感じたが、次第に、見たこともない時代にタイムスリップできる秘密の楽しいお城となった。
 電化製品はすべて四分の一世紀は生存し続けている。1DKの部屋には電気コタツと、音のうるさいエアコンと、小型の黒い冷蔵庫と、レコードプレイヤーとCDプレイヤーの両方がついたステレオコンポ。レコードの針を替えたら、ちゃんと聴けたので、以来、部屋に置きっぱなしのレコードを片っ端から聴いた。おかげで、六〇年代から七〇年代のロックには妙に詳しくなった。繭はドアーズが大好きだ。でも、ドアーズは、アルバムを五枚しか出していないので、聴き過ぎないように、ひとりで実験をしたりするときのためにとっておくのだという。
 国内の自主制作盤のレコードとCDはもうちょっと新しくて、九十年代の終わりから、二千年代の初めぐらいに作られたものが揃っている。ほとんど爆撃音としか思えないようなものや、建設現場の騒音の中で歌う少年アイドルみたいなものや、ジャケ写を見ただけで呪われそうなオカルトっぽいものまで、試しに全部かけてみた。何とか聞けるというのが、七、八枚、繰り返し聴きたいと思うものは数枚しかなかった。
 なかでもりり子のお気に入りだったのはPPPという、いったい何の略語だかわからない意味不明な名前のバンドだった。キイチゴ城の元住人も気に入ってよく聴いていたらしく、CDのジャケ写の三分の一ほどが、破れてなくなっている。メンバーの上半身の部分がどうなっているかはわからないけれど、かえって、ごつい安全靴と黒のスリムジーンズを履いた脚だけの不気味さが、曲に合っているような気がするのだ。
 メールの着信音が鳴った。サキからだった。
<ごめん、ちょっと遅くなる。尾行を撒くのにちょっと手間取っちゃって>
 待ち合わせの時間を指定したわけでもないし、仕事を開始する夕方までまだ三時間もあるのに、こんなメールを送ってくるサキはやっぱり几帳面だと思う。子タレの妹のつき人のようなことを長年やっているので、少しでも予定通りにことが進まないと、律義にメールを入れてくるのが癖になっているのだ。
<あたしたち、キイチゴ城でだらだらしてるだけだから、急がなくていいよ>
 と返信して、りり子は携帯を閉じた。繭はコタツのテーブルに広げた雑誌の上に顔を伏せている。緩やかに上下する背中にそっと耳を当ててみると、さっきよりも耳障りな雑音が治まってきているような気がする。繭は、肩をぴくりと震わせると、驚いたように上体を起こした。
「……なんだ、りり子か。どのくらい寝てた?」
 ものの五分ぐらいなのに、不安そうにまわりを見回すと、繭は安堵したような調子で言った。
「もう朝だってば、繭。朝ごはんの時間。作られる前に作らないと」
 あんな母親といっしょに暮らしていたら、神経が休まる暇もないだろう。母親の作ったものを安心して食べることができないなんて。
「……もお、りり子ってば、二曲分しか時間経ってないじゃないよ」
「寝てたら。もう準備してあるんなら、夕方まですることないでしょ」
「そうだよね。そうさせてもらうわ。昨日はママが家にいたからよく眠れなかったの」
 繭は大きなあくびをすると、体を捻るようにしてコタツから両脚を出した。
「先に、あれを渡しとくよ」
 繭は、白衣のポケットから、小さなロケット型の薬をりり子に渡した。繭が入院中にもらって溜めておいた抱水クロラールの座薬だ。化粧ポーチにしまっておく。睡眠導入剤に限らず、繭は薬と毒物のマニアだ。
 繭は、緩慢な動作で立ち上がると寝室へ向かった。
 
 ひとりになったりり子は、仕事の準備に取り掛かることにした。携帯を取り出し、今日の予定の念押しをする。
<みきです。約束どおり今日の夕方に渋谷に行きまーす。体操着も持ってきました>
 佐伯と名乗る男の職業はわからない。しかし、あのクラブに所属していたのだから、ある程度の社会的地位と、収入はあるはずだ。
 最初のメールにはちょっとした小細工が必要だった。りり子が作ったサイト「木苺ガールズ通信」のURLとパスを送るのだ。迷惑メールにしか見えないので、効率はよいとは言えないが、やはり心当たりのある者は、木苺という言葉に反応する。かつてりり子たちが所属しようとしていた小学生売春クラブの名前はプティ・フランボワーズという名前だったので、それにちなんで「木苺ガールズ通信」という名前をつけた。もちろん木山パレス十五号を意味するキイチゴ城ともかけている。
 「木苺ガールズ通信」は、十五歳以下の少女と仲良くなれるパスワード認証が必要なサイトだ。画像などの素材を集めるのに、最初は苦労したが、現在は投稿で充分にまかなえるくらいに顔にぼかしを入れた胸糞の悪くなるような画像があふれかえっている。児童ポルノ法に抵触するので、サイトのアドレスは二ヵ月に一回ほど変更し、更新は用心のためプロキシサーバーを通して、ネットカフェから行っている。
 あちらこちらの掲示板にも餌をばら撒いているが、暴力団関係の男が接触してこないとも限らないので、面倒でもクラブの名簿を使ったほうが、安心なのだ。
 りり子たち三人にも、「木苺ガールズロッククラブ」というチーム名をつけてみた。ロックというのは、ゆすりのことだ。脅迫が英語でブラックメールということぐらいは知っているけれど、古いロックのアルバムばかりがあるキイチゴ城のゆすりクラブ、ということで、つけてみただけのことだ。
 りり子は中学二年生のみきになる。もともと小柄で幼く見られることが多いので、化けるのは朝飯前だ。メールの文章からは、二次元好きという感じはしなかったので、アニキャラのはやめて、白い襟のついた紺のワンピースを着ていくことにした。足元には白いタイツとエナメルのストラップシューズを合わせ、小さなお嬢様風にコーディネートする。まるで幼稚園児のようだけど、中には本当に園児が好きな変態も存在するのだ。尖った櫛の柄の先で地肌に線を引き、髪を二つに分ける。子供の頃は、よく母にやってもらった。
 記憶を辿っていくと、今住んでいる祐天寺の家ではなくて、古いアパートにあったシミだらけの三面鏡に突きあたる。りり子が三歳のときに火災で焼けてしまったアパートのようだ。鏡に映る母の真剣な表情と、尖ったものが地肌を走る感触に緊張し、髪を綺麗に結わいてもらえる嬉しさで、わくわくしながら体を堅くしていた。
 無口だった母はお父さまの言いなりだった。絶対君主と小さな姫君と、下働きの女、それが普通なのだと思っていた。お父さまは母よりもずっと、りり子に愛情を注いでいた。母はお父さまのために、りり子を美しく可愛らしく、反抗しない子供に育てることに心血を注いでいた。りり子がお父さまを嫌がって泣いたりするのは、母の教育が不行き届きなせいで、そういう母の至らない点に関して、お父さまは情け容赦がなかった。お父さまに愛されていない母が可哀想で、少しぐらい嫌なことも我慢しようという気になった。
 りり子の家庭が普通でないことがわかったのは、小学校の四年生のときだった。そのころ仲良くしていた優香ちゃんという子には、中学三年生のお姉さんがいた。お姉さんは、少女マンガが大好きで、本棚丸々ひとつ分の漫画本を持っていて、優香ちゃんにもよくお姉さんのマンガを貸してもらっていた。
 りり子がある日学校へ行くと、優香ちゃんが嬉しそうにりり子のところに駆け寄ってきて、りり子の耳元に囁いた。
「まだ読んだことのないマンガがね、お姉ちゃんのベッドのマットレスの下にもたくさんあったの。お姉ちゃんは部活で夕方まで帰ってこないから、うちにおいでよ。ゆりちゃん、きっとびっくりするよ」
 その日の授業はまるで耳に入らなかった。優香ちゃんが言う「ゆりちゃんがびっくりするようなマンガ」を早く読みたくて、待ちきれなかった。
 学校から帰って、ランドセルを下ろすと、りり子は自転車に飛び乗って、優香ちゃんの家へ急いだ。部活が終わるまでお姉さんが帰ってこないことがわかっていても、お姉さんの部屋に無断で入ると、心臓の鼓動が早まって、首のあたりがかあっと熱くなった。パイプベッドには、夏用の肌掛けが、お姉さんがベッドを抜け出したときのそのままの形にまくれ上がっていた。マットレスを上げたら、夏掛けの形が変わって、ベッドの下を探し回ったことがばれてしまうのではないかと思ったけど、優香ちゃんはそんなことまったく気にしていない様子で、枕を床に投げ捨て、マットレスを二つ折りにした。
 マットレスの下には、コミック雑誌とティーン向けの雑誌がきれいに並べてあった。夢中になって読んでいた少女マンガの雑誌より少し薄くて、表紙の絵もさすがに大人っぽい。一番奥の一列目にあった一冊を手に取って頭から読み始めた。最初は意外に思った。マンガにでてくる女の人は、みんな大人なのに、りり子とお父さまのような奇妙な遊びをするのだと。
「ね、ゆりちゃん、びっくりしたでしょ。学校のみんなには秘密ね」
 たしかにびっくりはした。お父さまにも、母にも、お父さまとの奇妙な遊びについては、誰にも言わないように口止めされていたので、お父さまは少し子供っぽくて変わっているのだと思っていた。
 一冊読み終わって、なんとなく釈然としないまま、元の位置に戻し、ティーン向けの雑誌を手に取った。コミックよりずっと薄いので、二冊重ねて厚さをあわせてあるところが、なんとなくおかしかった。ファッションのページをぱらぱらとめくって、母が買ってくる大人しくて可愛らしい服ばっかりじゃなくて、こういう、ちょっと不良っぽくてかっこいい服も着てみたいな、などと思う。中ほどの記事のところには、読者の体験談の特集があった。少しわかりにくいところもあったけど、文章で読んでみるとより具体的に、お父さまとの奇妙な遊びが、変わっていることでもなく、子供っぽいことでもなく、十代の半ばを越すと、みんなが男の子とすることなのだということがわかった。お父さまりり子のことを恋人のように可愛がってくれているのだ。
 りり子は、そのまま、読者の体験談を真剣に読み漁った。そして、りり子とお父さまのようなケースを発見し、それを定義する字画の多い禍々しい言葉を目にすると、あの奇妙な遊びをお父様とするのは、本当は気持ち悪く、嫌だったことにやっと気づき、胃の中から嫌な感じの酸っぱいものがこみ上げて来た。
 耳の少し上で毛先をルーズに遊ばせたお団子を作って、ピンで留めながら、りり子は、あのときの吐き気を感じて深い呼吸をしてやりすごす。
 優香ちゃんの家で、給食を全部吐いてからのことはどうしても思い出せなかった。りり子は、自分の部屋のベッドに寝かされていて、あたりは真っ暗で家の中は静まり返っていた。寝返りを打つと、皮膚のあちらこちらに、鋭い痛みを感じた。左の腕をふと見ると、ガーゼが貼り付けてある。暗闇の中で目を凝らして、ガーゼをはがすと、刃物で切りつけたような傷があった。恐ろしくなって痛むところをすべて点検してみた。傷は鎖骨の少し下と、左の腿の内側にもあった。それから、優香ちゃんの家でのことを少しずつ思い出した。たちまち、体の中が汚らしい吐瀉物で満たされているような気になって、部屋を出て洗面所に駆け込んだ。吐くものは残っていなかった。パジャマを脱いで、浴室に入り、シャワーの栓を捻った。応急処置をしてあった傷口が水に濡れて開き、血が噴き出した。すべて流れてしまえばいいのにと思って傷口にシャワーをあてた。それだけでは足りなくて、洗面所からりり子の髪を分けるときに使う櫛を持ってきて、ぱっくりと開いた傷に差し込んだ。
 りり子は病院に運ばれ、傷の治療をしながら、何度かカウンセリングを受けた。病院には毎日母がやってきた。お父さまとのことは絶対に誰にも話さないようにと念を押された。
「お父さまが仕事を辞めなければならなくなると、私たちは暮らしていけないのよ。それに、ゆりちゃんは、お父さまのことが好きでしょ」
 というのが母の言い分だった。
 数日で退院してからの生活は何ひとつ変わっていなかった。お父さまはりり子のことが好きで、だからこそりり子と恋人のような遊びをしたがるのだ。汚らわしい行為なんかではないと自分に言い聞かせた。優香ちゃんはりり子のせいで、お母さんにもお姉さんにもこっぴどく叱られたので、二度と口を利いてくれなかった。時々苦しくなると、食べたものを吐いた。朝から吐き気と頭痛がして、学校に行けない日が多くなった。もっと苦しくなると頭皮を切りつけた。体に傷をつけると、お父さまにばれてしまうので、髪の毛に隠れる頭皮以外に傷をうけられるところはなかった。頭皮は薄く、あまり深く切ると信じられないくらいに血液が流れ出すので、母が櫛の柄でりり子の髪を分けるくらいに浅く、刃先を走らせるコツを覚えた。
 五年生に上がると、りり子は、家からも学校からも抜け出すことを考えるようになった。優香ちゃんのお陰でいろいろなことを理解できるようになっていた。りり子がお父さまにしてあげるようなことを、他の大人にすると、お金をもらうことができるのだ。でも、それがばれると警察に捕まる。ニュースを注意深くみるようになった。スマホを持っていると、相手は簡単に見つかるようだ。
 いろいろ考えて策を練った末、都心の塾に行くことを思いついた。そうすれば、学校から帰ったあと、都内のにぎやかなところに出かける口実ができるし、連絡用に携帯を持たせてもらえると思ったからだ。五年生になると、りり子は学校にも休まずに行き、必死で勉強した。もともと勉強はできるほうだったので、それほど苦痛ではなかった。念願かなって、夏休みの講習を受けに行き、秋からは学校が終わったあとに塾に行かせてもらえることになったし、携帯電話を手に入れた。りり子の母は、ネット接続に関してはあまりうるさいことを言わなかった。それからは、週に一回塾をさぼって、男に会うようになった。
 メールの着信音がしたので、りり子はスマホ見た。
<みきちゃんは、何時ごろ出てこられるのかな?> 
<もう、渋谷のお友達の家にいるの。佐伯さんが渋谷に着いたら、またメールちょうだい>
 鏡を見た。完璧だ。
 
 サキが現れたのは、五時少し前だった。鍵穴に鍵を挿し込む音がしたので、りり子が中からドアを開けた。サキのメンズのトレンチコートから、透明な水滴が玉にになって転がり落ちる。いまどき誰も着ていないようなロング丈のトレンチコートだけど、背の高いサキにはそれがよく似合っている。サキのお父さんが生前に愛用していたものらしい。
「もう、今日のはしつこくってさあ、裏通りぐるぐる回っても振り切れなくて、ほんと、大変だった。さつきは車の中で切れまくってわたしに散々悪態つくし。ああ、さつき死ねばいいのに」 
 りり子は、ため息をついた。相槌を打っていいものか、わからない。
 サキの本当の名前は、さつきという。サキと呼ばれているのは、妹の水那が、姉への嫌がらせに、さつきという名前を芸名に使っているからだ。サキは名前のとおり五月生まれだった。サキの両親が六年ぶりに二人目の子供を授かったときから、妹の名前は水那と決まっていた。予定日が六月の初めだったのだ。五月生まれと、六月生まれの女の子ふたりに、月の呼び名をつけるという考えにサキの母は心酔していた。
 ただ、サキの妹は予定より二週間ほど早くこの世に生を享けてしまった。残念なことに、サキの手前、さつきという名前をつけるわけにいかなかったので、妹は予定通り水那と名づけられた。
 サキの妹が、有川さつきとして、子役デビューしてから、サキは本名のさつきではなく、サキと呼ばれるようになった。妹に名前を奪われたのだ。そのころから、妹のことをさつきと呼ぶのに、慣れきってしまっているので、「さつき死ねばいいのに」などとサキは自分の名前をさして平気で言うことができる。芸名なんて、何とつけてもいいのだし、さつきよりも可愛らしい名前なんて、この世にいくらでもある。なのに、わざわざ姉の名前をつけるさつきは、天性の性悪娘だ。
「ごめん、りり子困らせて。死んだら困るや。うちの収入源がなくなる」
「そういうんじゃなくて、さつきって自分のことなのに、よく言えるなあと思って」
 りり子死ねばいいのに、って、言えるよな、普通に。でも、サキが妹のことをさつきと呼ぶたびに、なんとなく抗議したくなる。
「だって、もう六年も妹はさつきって呼ばれてるんだって。慣れるよ、いい加減。ところで、先月の集計してみたら、目標より二十万ほど売り上げが多かった。前年比でも五パーセント増収だった。せっかくだから今日の仕事終わったら打ち上げしない?」
「賛成」
 木苺ガールズロッククラブの金銭の出入りは、サキが管理している。収支を記録しているだけだと思っていたら、目標額とか、前年比とかそんなことまでちゃんと計算しているようだ。さすが、金勘定のプロ。サキはさつきの個人事務所の会計をひとりでこなしているのだ。
「ねえりり子、繭は?」
「寝てる」
「今日は場所どこなの?」
「……決まってない。たぶんラブホ」
 サキは、コートと中ヒールのパンプスを脱ぎ、玄関に上がった。コートの下には、紺のノーカラーのスーツを着ている。早く借金を返してお金を貯めたいから、服はすべてお下がりをてきとうに着ているとサキは言うけど、サキの母親の服は、流行に左右されない上品なものばかりだ。繭に言わせるとそれは、女子アナファッションで、そう言われてみると、今にもニュースを読み上げそうな雰囲気を漂わせている。どちらかというと、さつきよりサキのほうが芸能人に向いているように思える。
 子供向けの料理番組の主役としてデビューして以来、CMに引っ張りだこのさつきは、たしかに可愛らしくはあるけれど、どこにでもいそうな庶民的な顔立ちをしていて、とくに美少女というわけではない。
「ああ、相変わらず寒いねここは。りり子、今日もすっごい可愛い」
 エアコンは寝室にかなり古いものがひとつだけついている。音がうるさいのでかなり冷え込む日しか使っていない。佐伯がここへくるつもりなら、部屋を暖めておかなければならない。
「サキは着替えなくていいの? そろそろ繭を起こさなくっちゃね」
 サキはスーツを脱ぎ、細身のデニムに足を突っ込む。襟の開いたインナーの下には、繊細なレースのネイビーブルーのブラをつけている。服はほとんど買わないくせに下着だけにはなぜか凝っていて、必ず上下おそろいの芸術品のようなものをつけているのだ。
「今日のもすごい気合入ってない?」
「そうかな? そうでもないよ」
 サキはそれほど面白くもなさそうにそう答えると、メンズのシャツに袖を通した。下着に凝るのは、もしものことがあって病院に運ばれたときに、みすぼらしいものをつけていると恥ずかしいから常にちゃんとしたものをつけなさい、という母親の忠告を守っているから、らしい。もしものことなんて滅多に起こらないんじゃないかと思うけど、サキの気持ちはわからないでもない。ものはよさそうだけど、かなり古そうなセーターを頭からかぶると、サキの着替えは終わり。髪も短いので、コートを着てしまえば男に見えなくもない。まあ、女同士のカップルに見えたところで、ラブホに入るのを拒否されることはないけれど。
 寝室で眠りこけていた繭をゆすり起こした。繭は大きな目を開くと、
「やだもう、今何時?」
 といって、あたりを見回した。焦点がまだ少し合っていない繭の瞳は何でも吸い込むブラックホールのように見える。
「まだ五時」
 りり子はちらりと時計を見た。繭が起き上がって、寝室のドアを開ける。洗面所に消え、しばらくしてから戻ってきてCDプレイヤーの再生ボタンを押すと、今日で三回目の「黒くぬれ」のイントロが聞こえてきた。停止ボタンをおしたまま、CDケースに戻していなかったのだ。
「なんだ、さっきと同じ」
 繭は文句を言いながらも、ディスクを変えようとはしない。りり子は、日に焼けて黄ばんだレースのカーテンを開けた。夕暮れが近づいていて、アスファルトは相変わらず雨に塗りこめられて、黒い。やはり雪にはならないのだろうか。
 メールの着信音が鳴った。佐伯が、渋谷に着いたようだった

 

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