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020.熟れすぎた果実

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 朝帰り。
 それは、ちょっとした出来事だ。
 子供が朝帰りしてきたら、多くの親は怒るのではないだろうか。
 理解のある親の場合は、お祝いをすることもあるかも知れない。
 ただし、それは最初の数回だ。
 毎日のように繰り返せば、はしたないと言われる。
 毎回相手が違えば、ふしだらだと言われる。
 それが、朝帰りという行為だ。
 しかし、それは都会での話で、田舎だと少し違う。

「せんせー、タバコ吸うようになったの?」

 いつものように診療所に遊びにきていた子供が女医に尋ねる。
 女医は職業柄、タバコが身体に与える害を知っていた。
 タバコが原因で病気になった患者の苦しむ様子を知っていた。
 だから、自分で吸うことはない。
 それなのに子供がそんなことを言い出した理由に、女医は心当たりがあった。

「昨日の夜に宴会に出たから、そのときに匂いがついちゃったかな」

 実際、宴会で飲み過ぎた女医は酔いつぶれてしまい、朝帰りをすることになった。
 普通のサラリーマンであれば、仮病を使って会社を休むこともできただろう。
 しかし、命に関わる職業である医者は、そういうわけにもいかない。
 朝帰りした日も、診療所を開けていた。

「そうなんだ」

 子供は女医の言葉に納得した。
 女医の吐く息からタバコの匂いがしたわけではない。
 だから、女医の言葉に疑問を持つことは無かった。
 けれど、もし子供がもう少しだけ注意深かったら、疑問を持ったことだろう。
 昨夜の宴会では、女医は私服を着ていた。
 白衣で宴会に出るなんてことは普通しないので、これは不思議なことではない。
 診療所では、女医は白衣を着ている。
 医者という職業なのだから、これも不思議なことではない。
 つまり、女医は宴会で着たタバコの匂いが染み付いた私服を脱ぎ、清潔な白衣に着替えて診療所にいる。
 ではなぜ、女医からタバコの匂いがしたのだろうか。
 これは少し不思議なことだ。
 匂いというものは、自分が発している匂いと違うときに気になるものだ。
 髪についた程度のタバコの匂いであれば、子供が気付くことはなかっただろう。
 しかし、子供はタバコの匂いに気付いた。
 それは、女医の身体に、髪につく以上のタバコの匂いが染み付いていたからだ。
 観察力のある子供であれば、そのことに気付いたかも知れない。
 服の下に隠れた女医の全身に、タバコの匂いが染み付いていることに気付いたかも知れない。
 けれど、女医に尋ねた子供は、そのことに気付かなかった。

「せんせー、宴会楽しかったね」

 だから、無邪気にそう言う。

「そうね」

 そして、女医も子供の言葉に同意する。
 どことなく気だるげな様子は、二日酔いのせいだろうか。
 どことなく艶っぽく見えるのは、タバコの匂いのせいだろうか。
 その理由は子供にはわからなかったが、女医の満ち足りた表情を見て、女医も楽しかったのだと判断した。

「先生、一緒に茶でも飲まんかね」

 やがてお年寄りもやってくる。
 いつもと同じ診療所。
 しかし、その日から少しだけ変化もあった。

「先生、一緒に呑まんかね」

 夕方になると、それまではいなかった来客が来るようになった。
 酒瓶を持った男達が尋ねてくるようになった。
 田舎では珍しい光景ではなかった。
 仕事が終わって晩酌を楽しむ。
 気の合う相手がいれば、訪ねていって一緒に呑む。
 それは宴会ほどではないにしろ、毎日の楽しみだ。
 お酒を呑むことが前提なので、子供は知らない娯楽だ。
 田舎に染まった女医も、そんな娯楽を嗜むようになった。
 お酒を呑みながら、仲の良くなった相手と一緒に楽しむ。
 けれど、医者という職業柄、気を付けていることもあった。
 娯楽とはいっても、節度は守らなくらはならない。
 事故があってはいけない。
 だから、医者としての知識と責任感から、相手にもそれを求めた。
 口うるさい医者の言葉に盛り下がるかといえば、そうでもなかった。
 事故の心配がないから、逆に遠慮がなくなり、盛り上がる。
 夜遅くまで盛り上がって、一緒に盛り上がった相手は、朝になって帰っていく。
 休みの前日は、明け方まで盛り上がって、たまにそのまま朝から盛り上がる。
 仲の良くなった相手は大勢いたので、毎日そのうちの誰かと盛り上がる。
 それが田舎に染まった女医の新たな日常になっていた。

「先生、最近遊び過ぎじゃないかね?」

 お年寄りが心配して声をかけることもあった。
 それに対して、女医はいつも変わらず答える。

「みなさん、とても仲良くしてくれるので、嬉しくて」
「まあ、ほどほどにな」

 都会の人付き合いに馴染めなかった女医だが、田舎の人付き合いには馴染むことができた。
 女医の流されやすい性格と、田舎の強引な親切が、上手くハマった結果だった。
 底なし沼にハマったように、女医はずぶずぶと田舎の娯楽にハマっていった。
 抜け出すことはできそうになかった。
 都会の生活に戻ることはできそうになかった。
 けれど、女医は満足していた。
 女医はとても幸せだった。
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