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第一章
魂の霊園
しおりを挟む「今日は17時間労働だったか……今週の休みの日はいつになんのかな……」
気怠げな身体を引き摺って、月4万円の仮眠室もどきに入る。要は賃貸アパートだ。
ここは会社から目と鼻の先なだけあってすぐに就寝出来るのがメリットと言った所だろうか。
「飯は野菜ジュースと大豆バーでいっか……。てかもうしんどい……」
1年ほど前、労働時間もブラックな低賃金環境を変えたくて転職したら給料良しの労働時間ブラックだったなんていう事態になってしまった。風通しのいいアットホームな職場です!なんて謳い文句二度と信じるものか。
稼いだ金は一部投資信託に回しているので、そのうち会社を辞める事が出来る程の貯蓄になるだろう。
お金を使う時間は無いのでかなりの額が溜まっているとは思うが、それを確認する時間よりも寝る事を優先してきた。
ネットで購入した紙パックのぬるい野菜ジュースで口内を潤して、大豆バーを齧り、補充した水分を奪われる。
「ゆっくり過ごしたい、美味しいものいっぱい食べて、怠惰に……」
喋る相手が居ない中、独り言をボソボソ呟いてる間に意識がゆっくりかじり取られて行く。
大豆バーで渇いた口から土のようにドライフルーツや雑穀がこぼれ落ちる。
「掃除、めんどくさ……」
眠気であたまが回らない。
咀嚼も億劫で生命維持の為に行っていた事を放棄する。
「………すぅ、………………ふぅ…」
深く息を吸い込んだ時、肺から勝手に空気が抜けた。
意識があったのはここまで。
目が覚めると、俺は墓地のような場所にいた。
「ここ、どこよ」
目の前の荒削りの墓石には何の言語かわからない名前が彫られている。
墓石そのものがあまり精密な切り出し、及び細工がされているようには見えなかった。
「墓場の夢?」
他の墓を見てみても、豪華な花や供物が添えてある大きめの墓石も、自分の見た荒い岩肌の墓石と大差が無いように見受けられる。
そんな墓地の一角が雑草だらけで放置されているのが目に入る。無縁仏だろうか?
「家族、いなくなっちまったのかな」
自身の親は元々高齢出産だった事もあり、30代後半になったあたりでがんや病気で他界してしまっている。
管理人がいなくなった荒れ果てた墓地の一角が、後々の自分に重なって見えた。
「雑草、抜いてやろう」
血色が悪い自分の手を伸ばし、土から草を引き抜いて一箇所に纏めていく。見た目に比べてかなり量が多いのか、抜いても抜いても終わる気配が無い。
ふと、とても良い匂いがした。振り返ると墓地へ人が入ってくるのが見えた。
「※#/#&@※………」
聞き取れない、知らない言語だ。
粗末な棺が墓地に運び込まれていくのが目に入る。
その後ろを葬儀の列だろうか、黒い服を着た人々が付き添っている。
俺の背後を通過するのを横目でチラ見する。
黒いドレスにヴェール状の目隠しレースをつけたキツめの印象な貴婦人モドキがこちらをみて怪訝そうに鼻を摘んでいる。生唾ものの豊かな胸と括れた腰に興奮してしまったのか、口内に溢れた唾をごくりと飲んだ。
そして従者らしき人間を呼ぶと俺に指を刺して何かを指示した。
この夢は貴族の未亡人の夢なのかぁと呆けた顔で思案していると、従者が戻ってくる。
少し大きめの木製の桶を運んでいた。
この従者もとても良い匂いがする、偉い人に仕えてる人間は香水も一級なのだろうか。
雑草がかなりの量だったからか見兼ねて手伝ってくれるかもしれない。そんな希望的憶測をしていた。
従者は躊躇なく、桶を俺にぶち撒けた。
正確には桶の水を俺にぶっかけたのだ。
俺は訳が分からず呆然としていると、従者は何かを喋りつつ鼻を摘んで怒っているような顔をした。
そして随分と遠くに移動した貴婦人の後ろを追いかけて行く。
頭から着ていた黒いローブのお陰で多少の水が侵入しただけに留まった事に安堵する。
「何てったって、こんな事すんだよ……夢の癖に」
お貴族様がいなくなった後も俺は雑草を抜いた。時間は夕刻から夜へと迫って来ており、空が明るい色から暗い闇へと変化していく。
月明かりが強いのか墓地はとても明るかった。
人のいなくなった墓地に生き物の気配は一切無い。夜の静けさが墓場に満ちていた。
例の墓の草むしりを終わらせた俺は先程嗅いだ香水に似た良い匂いがする事に気がつく。
「なんの匂いなんだ?んー……」
鼻をヒクヒクさせて匂いの出所を探すと、数刻前に埋葬されたばかりの墓に目が行った。
のそりのそりと歩いて行くと、表面の土が埋めてから然程時間が経過していない為か柔らかそうだ。
謎の良い匂いはここの中からしているのだろうか?どうせなら確かめてしまえ、夢なのだし。というかそうする夢なんだろ?多分。
そうして掘り返して行くと土で汚れた棺の蓋が見えてくる。
形の悪い棺を地上に引き摺り出してこじ開けると、そこには菊とも彼岸花ともつかない小さな白い花と白薔薇に囲まれた初老の男が眠っている。
やはり匂いの出処はここらしい。
死臭が出ているせいで貴婦人と従者のつけている香水には遠く及ばないが、彼につけられた香水も良い匂いだ。
見ているだけで唾液が口内から溢れ出すような、そんな匂いだ。
美味そうな白い頬肉に、適度に脂肪がついた二の腕。
ん?
「いやいや、俺どうしちゃった訳?」
まさかの新事実が夢で発覚したのだろうか。
俺は気が付かなかっただけで、死体愛好家(ネクロフィリア)だったのか?
だが両親の葬儀でそんな事感じた覚えはない。
遺体の香水の匂いを再度嗅いだ瞬間、梅干しの紫蘇の匂いを嗅いだ時のように唾液が溢れた。
「……まて、これ香水なのか?……あー、香水はこっちの腕と首からだな、じゃあこの匂いは……」
少々の疑問を解消するべく一般的なコロンをつける部位の匂いを嗅いでみると全く違う匂いがした。俺は気がついてしまった。
どうやらおかしなことに、甘い花弁の匂いと混ざり合った『死臭』を酷く美味そうだと感じていたようだ。
そう気が付いた頃には遅かったのかもしれない。
思考が掠れ身体が勝手に動いた。
白い耳、柔らかそうな臀部、コリコリしそうな軟骨。それらに否応無しに目が行く。
俺は今何をしようとしている?大きく口を開けて、唾液を垂れ流しながら、そう、遺体を貪ろうと歯を剥き出しにする。
(待て待て待てそれはちょっとーーっ!!)
精神の抵抗は虚しい結果に終わった。俺の口はブチリと嫌な音を立てて、男の柔らかそうな耳を噛み切った。
強かな弾力があってどこかコリコリとしたその食感にドーパミンがドバドバ出ているような錯覚に陥る。美食の暴力で正常な思考が解ける、溶ける、融ける。
(うまい、旨い、ウマイ、美味いーーーッ!!)
ありえない程の美味に脳が歓喜に震えた。
もっともっと食べたいと、ホイル焼きのアルミを剥がすように正確に、性急に服を丁寧に剥ぎ取る。激しくなった息継ぎはまるで獣の如く俺の喉を唸らせた。
死後硬直の為に脱がしづらかったが、腕を折り、足を脱臼させながら何とか衣類を引っ剥がす事に成功した。
蟹や栗の外殻から身を綺麗に取り出せたような達成感がある。
上等な衣類を入手したので、後で着てみよう。丁度サイズも同じくらいだ。
纏まらない思考でもこんな行動が出来たのは、食事に必ず必要な儀式というルールが無意識にあったのかもしれない。
誰だって、食べられない部位。例えるなら菓子の包み紙だったり、軟骨の無くなったスペアリブの骨だったりーー、それを食べる事はしないだろう?
そう誰かに言われているかのように。
汚れないように服を脇に退けて、遺体を貪る行為を再開する。思考は食欲で齧り取られ自分の行動を止める事すら出来なくなってしまっていた。
プツプツと歯応えのある筋繊維を噛みちぎり、内臓を啜り、肉片を歯で削ぎ取りながら骨の随を縦笛のように咥えてズズッとしゃぶる。
目玉は硬すぎて噛み潰せなかったので強膜を啜るだけ啜って棺桶に戻した。
至高のひと時をしっかり味わった俺は、削ぎ舐めを行ってスケルトンと化した遺体の頭部に手を伸ばした。頭蓋骨は後頭部が落ち窪んでおり骨折していた。死因は頭部の殴打による脳の損傷だろう。
落ち窪んだ箇所を指で軽く押すと、プチュりんとした感覚が指先に伝わる。あぁ、そこは、そこは。
メリッと音をたてて骨を開けるとキラキラと自己主張してくる濃密で濃厚なデザートとご対面だ。
ここが一番強い匂いを発している。
息遣いが尚のこと荒くなる。唾液はもう止まらない、顎から滴り落ちる汁を拭う事もせずに器を傾けて中身を吸い上げる。
喜びに身体が震え上がり、今にも生殖器が起立してしまいそうな快感が脳髄を駆け巡った。
「はぁ~~っぁ……ぇへ…………あ?」
暫く悦に浸っていたが、暴食の波が過ぎるにつれて、暴いた墓の現実と向き合う事になってしまう。
「夢とはいえ何てことしてんだ俺は……」
薄暗い月明かりに照らされた目の前の墓の名前が、お前の罪だと言わんばかりに主張を始めた。
「シュール、クリムエット……」
読めなかった筈の墓の名前が読めるようになっていた。人を食べたことによってそいつの名前がわかるようになったのだろうか。
「っ、やべ、こんな事してる場合じゃねぇ」
好き勝手食い散らしたせいで遺体がバラバラで無惨だ。朝日が登る前に元に戻さねば。
遺骨をパズルのように棺の中に戻して再び埋葬する。ここでは火葬せずに土葬するのが主流なのだろうか。そんな事を考えながら棺を土の中に戻して埋め立てる。地平線が明るくなってきている。朝日が登り始めたようだ。急げ、急げ。
慌てて作業した為に服を棺に入れ忘れていたがもう遅い。閉めてから軽く土をかけてしまった。
急いで身に付けていた黒いローブとその下のボロボロの服を脱いで紳士が来ていた上等な服を着て、万が一あの貴婦人が来ても男の着ていたものかわからないように黒いローブを再度頭から羽織る。ローブの下に着ていたボロの服はシュールさんの棺の上に埋めることにした。
いつの間にか空は完全に白んでおり、もう朝が来たのだと知らされる。
他の墓に備えられた花の花弁を口直しのように齧りながら、何事も無かったかのように草むしりを再開した。
花弁の甘い味わいが非常に心地良い。
そうして自分を落ち着かせてから数時間経っただろうか、昨日嗅いだ良い匂いがして、振り返ると昨日の従者がお菓子のような物を持ってシュールさんの墓にお供えをしていくのが目に入った。非常に強い芳醇な香りだ。
従者は別のルートを経由していた筈なのだが何故か俺の背後を通るルートを選んで、威圧的な声で話しかけてくる。コイツわざとか。
「退け、昨日水をかけてやったのにどれだけ臭いのだ貴様。これだから墓守は嫌なのだ」
はっきりと聞き取れたその声に驚きながらも無言で言う通りにする。
下人を虐げる事で優越を感じたかっただけなのだろう。そのままズンズンと墓地の外へと行ってしまう。
「それにしても旦那様の墓がなんかおかしいような…」
ボソボソと従者が言っている事に一瞬ヒヤリとしつつ見送った。というか俺臭かったのか、仕事忙しくてもちゃんと2日に一回はちゃんと入るのを心掛けていた筈なのだが。夢だけどショックだ。
けど何故だろう、従者の匂いを嗅いだら収まっていた唾液の量が再び増加してしまった。男に興奮する趣味は無いのだが。
遠くに行ってしまった従者の後ろ姿を俺は名残惜しげに眺めていた。
さて、そろそろ夢から醒めないと仕事に間に合わなくなってしまう。目覚めよ、覚めろ~。
覚めろ~~。
「戻らない、これは不味いぞ、どうしたら起きれるんだ」
人がいない隙をついて近くの墓石に頭をガンガンしてみたり目潰しをしたりしてみるが一向に目覚める気配が無い。
それとも墓地を出れば目が覚めるのだろうか、駆け足で外へ出て行く。
鳥の鳴き声、虫の羽音、林から差し込む陽光、川のせせらぎ、隙間から見える白い花畑と草原、全てが神秘的でリアルで、ずっとここに居たいと思わせる。
林道を潜り抜け、歩きはゆっくりとなり、開けた場所に出る。
木のトンネルの入り口に置かれた看板には「魂の霊園」と書かれており、棺にも入っていた菊とも彼岸花ともタンポポとも似つかない白い花が看板の下に生えている。
「これも、良い匂いだ」
花弁を引きちぎり口にする。
清涼感のある、それでいて甘い味が舌を刺激する。
それにしても困った、夢から醒めない。
入り口から見える木製の粗末な風車と青空、道なりに咲く白い花の花畑の対比をぼんやりと見つめながら花を喰む。
ふと気がつくと遠くに動くものが見えた。
白色のスライムが、動いている。
動いて、いる。
「異世界設定だったんだな……」
どこか遠い目で自分の夢を客観視した。
あまりにも忙しすぎて現実から逃げ出したくなったから見ている夢なのだろう。だから人間も食べちゃうし、人工物は文明があまり進んでいないように見えるし、スライムは動いているのだ。
「ハハッ、俺の夢めっちゃファンタジーだな!さて、長いこと夢見すぎてるし起きないと……」
スライムに近づいて、溶かされたダメージでなんとか目覚めようと試みた。結論から言うと無駄だった。手を突っ込んだら今朝付着した土汚れをジュワジュワいう音で綺麗にされただけだ。少しヒリヒリする感覚があるからダメージはあるのかもしれない。
それならとスライムを食べてみた。身体の内側から溶かされればと思って。口の中から外に出ようと抵抗されるが構わん。丸呑みだ。目覚めろ俺。
次の瞬間今までに無かった激痛が回る。
頭をぶつけても目潰ししても痛みを感じなかった身体が熱くなり、内側からマグマで焼かれているようだ。
これできっと夢から覚めるだろ…っ。
内側から焼かれ数分、いや数時間だろうか。
花畑に埋もれてもがく俺の身体からゆっくりと熱さが物理的に引いて行く。
尻からコポリと白色のスライムが出てきたからだ。
「目が醒めないのはもう仕方ないか、どうやっても起きれない未来が見える」
死んだ魚の目でそう呟く。
目の前にいるスライムはプルプルと震えている。ごちそうさまと言われたような気がする。
「ごちそうさま?何を食ったんだ?」
スライムがうねうねと動く。側から見たら全く意味のわからない肉体言語(ボディランゲージ)だ。何故か理解できるが。もうこの際だから夢を満喫していく方向にシフトする事にした。
「邪気?病気?寄生虫?何で俺の身体にそんなのが……てか君、名前あるの?」
スライムはぴょんぴょんと跳ねて名前を教えてくれた。
「ホーリースライム……レアな存在な感じ?あ、普通に生息してるのね」
スライムはホーリースライムという分類のモンスターらしい。この周囲の花畑には入り口にあった清涼感のある白い花が多く咲いており、そればかり取り込んだ事でスライムはホーリースライムになったという。
「ちなみにこの花畑に他のモンスターはいないの?」
スライムは左右に揺れて否定を示す。
ホーリースライム以外にもいると言うことはわかった。
白い花の影響なのか、ここではごく僅かなモンスターしか生息出来ないのだそうだ。どう言う理屈でそうなるのかはホーリースライムにもわからないらしい。
そうしているうちにスライムが腕から服の内部に入って身体にまとわりついてくる。
「ちょ、何何くすぐったい、そこはちょいヒリヒリするからやめてっ、ぐはっ」
ホーリースライムに身体を弄ばれた。野郎の肌に絡みつく半透明の白い粘体とか一部あっち系の人の需要しかない。
内側も外側も、全身がヒリヒリする。ぬるりとズボンの裾から出てきたホーリースライムがまたもやプルプルしている。
「邪気と老廃物食べた?臭い匂いも無くなった?お、おう……そうか……ありがとう?」
プルリン?
「それにしても珍しいモンスターだ?……俺の事……だよなぁ……」
夢の世界で俺は人間でなくなってしまったらしい。
臭くて、死んだ人間食べて、墓場にいるとか。
確実にアンデッド系だ。
だが、あの墓地にはスケルトンも吸血鬼もゾンビもいない。
「人間の骨だけのやつとか、人間の血を吸って墓の中で寝るやつとかここら辺にいないの?」
スライムはそもそもの質問に疑問が飛び交っている。
「死体が動く事が珍しい?人型で体液啜るやつも珍しい?わからん、そか、うん」
だから俺も珍しいモンスターだと。
分類がわからんけど、人間美味そうに見えるし死体も食べるし、老廃物過多で臭いんだろ?多分俺、ゾンビ。
ホーリースライムがフードの中に入ってくる。
「足が遅いからそこまで連れてけ?良いけど…。うん」
スライムにこき使われるゾンビとはこれ如何に。
こうして俺の腐肉人生は幕を開けたのである。
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