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プロローグ

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午後八時三十八分。

会社の上司にたくさんの残業を任されてから約二時間が経った。ようやく残業を終えた男は自分の右腕につけた随分と使い古したシルバーの腕時計を眺めながら帰路に着いていた。
横浜駅周辺の大通りは男のように仕事帰りのサラリーマンが早歩きで駅に向かっていたり、部活終わりと思われるの学生達がスマホを弄りながら歩いていて、すぐ隣を通りかかる自転車を見ていてとても危なっかしく思えた。 
昼間はとても綺麗とは言うことの出来ない大型デパートの目の前の川は周りに建てられている沢山のビルや駅前のパチンコ屋の室内の光が外に溢れ出ており川にギラギラと反射していた。
それに対して男は月明かりだけで照らされた薄暗く細い路地裏を1人ゆっくりとした足取りで歩いている。足元はほとんど真っ暗でつまづきそうな大きめの石や、無断で放棄されたと思われる空き缶やゴミ袋ががあちらこちらで落ちていてとても歩きづらい。路地裏は換気扇のゴウゴウとなる音と遠くから聞こえる大通りの騒音、男の足音以外は聞こえるものは無い。胸ポケットに入っている愛用のライターを取り出して同様に出したキツめの煙草を口をくわえ、その先端にぼっと火を付けた。普段は妻に体に悪いからやめてくれと言われているものの、男が口にくわえている細長く小さな筒から出てくる白い煙と体に影響の出る有害物質は随分と前に癖になってしまい、今日のように仕事帰りにこっそりと吸うのが男には日課になっていた。
「あれ」
ようやく駅に1番近い大通りの入口付近に着いたところで男は自分の頭部に何か冷たい違和感を感じ思わず足を止めた。そして違和感の正体は液体のようで雨なのだろうか、そう思い暗い足元を見渡してみるが日が当たらないのか多少は湿ってはいるもの雨と思わせるものは特には見つからなかった。不可解な現象に男は上を見上げてみることにした。真っ暗な空には名前の知らない沢山の星が散らばって輝いていた。綺麗だ、と思わず口に出してしまいそうになったが男の視界になにか大きな物体が映り、視線をそちらに向けた。ちょうど男の立っている位置の隣、使われていないと思われる錆びて古びたのビルから突き出た非常階段の手すりの下にそれはあった。
よく見ると逆光で何かは見えないが大きな物体はボールぐらいの大きさの丸い物が上方にくっついておりその下方から細長い紐状のの何かが伸びているようだった。どこかで見たことのあるシルエットに違和感を感じていた時にぴちょん、と上を見上げていた男の顔に先程の液体がまた降ってきた。雨かと思っていたものはどうやらこの大きな物体から降っていたようだ。しかし、その液体は鼻をつんと突くような鉄臭さがあり、触ってみると手に着いたそれは水というよりはどろっとしていた。そして男は違和感に気づいてしまった。そのとき口にくわえていた煙草がポロッと地面に落ちた。

ー· · ·もしかして自分が見ているものは「人の体」なのではないだろうか。

そう気づいた直後男の体は恐怖心に呑み込まれたかのようにガクガクと足が震え始めてその場から動くことが出来ない。死体を見たくないのにそこから目が離せなくなってしまった。駅に近づいていた為、大通りの騒音が大きくなってきていたせいで気づいていなかったが男の頭上ではぎぃ、ぎぃと気味の悪い音が死体を吊り上げている紐が非常階段の手すりの下で擦れて耳元で鳴っているかのように聞こえてくる。目の前で起きている衝撃的な光景を目にして必死に大通りの誰かに助けを呼ぼうと口を開いたが恐怖心に呑み込まれた男は震えて声が出ず、出来たのはガチガチと歯を鳴らすことと空気を吐き出すだけだった。しかし、次の瞬間死体を吊り上げている紐が体重を支えきれなくなったのか、それとも元から強度がなかったのかぶち、と音を立てて千切れた。死体は支えを失って真っ逆さまに男の目の前へと落下した。
ぐちゃ、とじめじめとしたアスファルトに死体の骨や、皮膚の潰れる聞きたくない音が鳴った。鮮やかな赤色が飛び散り、男の顔や髪、来ているスーツに色をつけた。
「……え、うわぁぁぁぁ!!!」
男は落下してきたことに反応が遅れゆっくりと視線を足元に向けた時には先程上で吊るされていた死体はあちらこちらで骨が出ていて顔の半分は原型を止めていない。顔に降ってきた時よりも強い鉄臭さにはっと気が付き目の前の光景に先程は出なかった悲鳴を上げた。
大通りでは男の悲鳴に気づいた人達が数人路地裏に走ってきた。現場には死体を確認した瞬間悲鳴をあげる者、驚いてはいるが冷静な判断で警察に通報する者、面白半分に写真を撮ろうとする野次馬など様々な人が集まってきた。男は仕事の疲れが出てきたのかそれとも1人だったという恐怖心から解放されて疲れたのか気を失ってしまった。
男が次に目を覚ました時、そこは病院の中だった。警察に事情聴取として質問を答えて死体が落ちてくるまでのことを覚えている限り話した。それから約1時間ぐらいが経過した頃、警察側が第一発見者ということもあり死体の身元について説明を受けることになった。男が発見した遺体は五日前から行方不明になっていて、捜索願が出ていた横浜市緑区の男子中学生、佐々原 晶君という。彼は学校から下校するまでの時間はクラスメイトなどに目撃されていたらしいが電車に乗った後、電話もLINEも繋がらずそのまま彼は突然といなくなってしまったらしい。彼の両親は警察から連絡を受けた後直ぐに遺体を確認しに来た。母親は亡き姿で五日ぶりに帰ってきた我が子を抱きしめ悲鳴に近い声で泣き崩れたようで父親も彼の遺体を見た直後無言で外に出ていってしまったみたいだ。きっと外で同様に泣いていたのだろう。遺体は背後からの絞殺でさらに両腕がのこぎりのような鋭い凶器で切断されており、切断された両腕の行方は未だにわからないそうだ。どうして彼は殺されなくては行けなかったのか。何故彼が殺されたのか。両腕は何故切断されたのか。警察の話を聞いた男はふとそんな疑問を抱いた。しかし警察にもわからないことを男が尋ねたところで答えてはくれないのだろう。気になったがその後も男は黙って話を聞き続けていた。それから約四十分がたった頃だろうか長い話も終わりを告げて警察に礼を言われた後に帰宅するように促された。ようやく事情聴取も終わり男は病室に置かれていた着替えや少ない荷物をまとめながら、深い溜息を一つ吐き出した。

彼の遺体が発見された現場では火の消えかかった煙草が落ちていて線香のように今にでも消えてしまいそうな細く白い煙が晶君の死を思うかのよう上へ、上へと上がっていた。

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