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零章 第四部『加速と収束の戦場』

七十三話 「RD事変 其の七十二 『信仰の破壊⑥ 十人目』」

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 その場には、もはや残骸と呼べるものしか残っていなかった。溶解したアスファルト、砕け、破壊されたMGの装甲、人と思わしき肉の塊のようなもの、オイルと混ざった血の跡。

 そのどれもが激しい戦いを物語っていた。もはやここは、人間がいるような場所ではない。少なくとも、まともな人間にとっては地獄のような場所であろう。

 そんな場所に、空から舞い降りる者がいた。まるで羽でも生えているかのように軽快に、それでいて何の痕跡も残さないように静かに大地に降りる。常人ならば、鼻を塞いでしまいたくなるような臭いの中でも、その人物はまったく気にせず、相も変わらずの笑顔で道を歩く。

 そんな笑顔の男、ケマラミアが向かったのは、一つの残骸。真っ二つに分かれてしまった、ヘビ・ラテの女神像である。

 ケマラミアが、女神像の上部、胸から上の部分に近づくと、コックピットが何かの力で自然と開いていった。すでに半壊しているので、機械制御によって開かれたのではないことがわかる。

「やあ、元気……ではないね」

 コックピットの中は、猟奇殺人でも起こったかのように、もう血だらけの状態であった。その血の海の中に、黒いものが残されている。オロクカカの上半身。正確に述べれば、両手がない胸から上の部分である。

 まさにデッサンなどで使われそうな胸像となってしまった、オロクカカの成れの果てである。

 ケマラミアは、オロクカカの胸像を、ひょいっと持ち上げる。そこに嫌悪感や恐れといったものはなく、実に普通に、むしろ優しく愛情を込めて持ち上げている。

 普通ならば、どんなに愛する人のものであれ、一瞬の躊躇いがあってしかるべきである。人間には、死への生理的嫌悪感がある。それを責める者はいないだろう。

 ただし、それが死体であるのならば。

 オロクカカはなんとも悲惨な状況で、思わず目を背けたくなる気持ちもわかる。それが常人ならば、そう思ってもいいだろう。しかし、彼は一流の武人であり、なおかつバーンなのである。

「うん、生きているね。この状態で生き残るなんて、さすがオロクカカだ。糸で止血したのかな?」

 オロクカカをよく見ると、破損した部分を糸で覆って止血している。彼の戦糸術は戦気と同じく、手がなくても発することができる。もともと戦気を加工したものだからだ。

 それでも、あのような状況で戦糸を生み出す精神力の強さは、明らかに異常である。それは彼の信仰心が成せる業であろうか。どんなに絶望的な状況でも、オロクカカは最期まで諦めないのである。

「…ケマ…ラミア……さま。ごふっ……申し訳……あ、あっ…ごふっ」

 オロクカカは、濁った目でケマラミアを認識すると、最初に謝罪をしてきた。バーンである自分が負けてしまったのだ。その罪深さに打ちひしがれている。

 そんなオロクカカの髪の毛を、ケマラミアは優しく撫でる。血に濡れて、べっとりとした髪の毛であるが、そこにはまだ生命の輝きが残っている。

 だからこそ美しい。

 美しさとは、生命にある。霊からもたらされる生命に、人は美しさを見るのである。死体や死骸に、一般の人間が美を感じないのはそのためである。

 オロクカカは生きている。
 ケマラミアは、それだけで感動するのだ。

「あの状態で、生き残っただけ見事だよ」
「こ、この…ような……ぶざま…なっ…」
「まだしゃべらないほうがいいね。まずは君の回復をしようか」

 そう言うと、ケマラミアは【処置】に入った。

 オロクカカは、非常に危険な状態である。まず、肺はほとんど残っていないし、何よりも心臓を半分以上は失っている。幸いながら頭部へのダメージは軽微だが、腕も足も失っている。

 戦糸による止血と仮縫合に加え、彼の並外れた生命力でかろうじて生きているが、あと数十分もてばよいほうだろう。速やかな救命処置が必要である。

 では、そこでケマラミアが取った処置とは、何だったのだろうか。

 回復の術式を使う。これは悪くない案である。しかし、回復の術式は高度な術であり、下位の術式では傷を塞ぐのがやっと。上位の術式であっても、部位の再生は簡単ではない。魔王技の中には、部位を再生するものもあるが、残念ながらケマラミアは使えない。

 アグマロアで再生する。これも一つの案である。オンギョウジが持っていたような輪菩珠りんぼじゅを使えば、瞬時の再生が可能である。

 ただし、アグマロアでの再生には弱点がある。寿命が明らかに縮むことである。

 アグマロアは、その品質によってかなりの差があるものの、それ自体は賢者の石ではない。賢者の石の影響を受けた、単なるジュエルである。本物と比べた場合は、やはり何十段も質が落ちるものだ。

 いくら序列二十二位のメラキ、シャッジーラ・アーディムが優れた錬金術師であっても、アグマロアで賢者の石は作れない。所詮、本物の真似事でしかない。

 輪菩珠を使った再生は、確実に寿命を削る。肉体への負荷が強すぎて、本当の緊急事態にしか使わないようなアイテムである。あれを連発して使ったのは、オンギョウジがすでに死ぬ覚悟であったからである。

 また、再生した箇所も、従来のものとはわずかに異なる。言ってしまえば、肉体と同じ成分で出来た、かなり高度な義体のようなものである。馴染むまでには時間がかかるし、できれば頼らないほうがよいに決まっている。

 ホウサンオーも、アグマロアでの腕の再生は、最後の手段だと思っている。それだけリスクが伴うものなのは間違いない。それ以前に、ケマラミアは輪菩珠を持ってはいないので、この案は最初から想定にない。

 であれば、どうするのか。

「じゃあ、目を瞑ってね」
「目…を?」
「そうそう。こういうのは気分が重要らしいからね」

 何を言っているのかわからないが、オロクカカはケマラミアの言葉に従う。彼のことである。何かしらの特別な術を使うのかもしれない。

 そう思って、オロクカカが目を閉じようとした瞬間。
 まだ半分しか閉じていない瞬間。

「じゃあ、いくよー」

 突如、ケマラミアの顔が間近に迫り


―――接触


「―――っ」

 ケマラミアは、オロクカカに【口付け】をした。

 口付け。いわゆる接吻である。

 人が行うそれは、好意の印である。特に親しい間柄、より緊密な相手に行う、いわばアイラブユーを示すものだ。かといって、それは特別な人間にしかやらないものであり、この場には相応しくない。

 接吻にはもう一つの役割がある。それは救命処置にも使われる人工呼吸である。だがそれ自体、気道を確保し、酸素を送り込むだけのものである。このような重篤な人間に使っても意味はない。

「―――っ!? !?!」 

 オロクカカは、パニックに陥る。サンタナキアに反撃されたときも相当驚いたが、今回のほうがもっと衝撃的かもしれない。

 サンタナキアは突然だったが、ケマラミアはしっかりと準備をして臨んできたからだ。その結果としての口付けというのは、さすがのオロクカカも困惑を通り越して、思考がストップする。

 しかも、オロクカカが動かないように、しっかりと頭を固定している。まあ、すでに胸像となっている彼は、どうやっても動くことはできないのだが…。なので、されるがままである。

 しかし、ケマラミアが口付けをしてから、ものの数秒。今にも死にそうだったオロクカカが、呼吸を始めた。

 肺がないのに呼吸ができるとは、実に奇妙な光景であるが、彼が鼓動しているのは間違いのない事実である。ただそれは、実際のところは呼吸ではない。ケマラミアが送り込んだ生命力によって、肉体の維持に必要な生命素が補充された結果である。

 ケマラミアが送ったのは、【精気】。
 万物を構成する根源的要素の一つである。

 自然が芽吹くエネルギー。大地を生み出し、草を生やし、花を咲かせ、木々が生長して森になるための活性剤である。この精気は人間ならば誰でも持っているが、ケマラミアのものは質が段違いに良質なうえに、明らかに量が多い。

 この精気を受ければ、いかなるものであっても、生きるためのエネルギーが湧いてくるに違いない。肉体だけではなく、精神すら癒されるようである。

 ボロボロになった彼の誇りさえ、その精気の中においては、実に些細なものに感じる。すべてを包み、癒し、愛するそれは、まさに至高の領域と呼ぶに相応しい。

「どう? 元気になった?」
「ケマラミア…様。その…、大変ありがたくは思うのですが……これはその…」
「ああ、人間には特別な行為だったんだっけ?」

 オロクカカが、なんとも複雑な表情をしていたことに気がつく。それは回復してもらったことへの感謝と同時に、この行為に対し、どうリアクションをしていいのかわからない困惑を示していた。

 オロクカカは、女性に間違われるほどのスタイルをしているが、れっきとした男性である。当人も男性であることを誇りに思っているので、こうした行為に対して、何かしら思うこともある。

 しかし、一方のケマラミアは満足げである。

「人間のキスって、素晴らしいね。その人への愛情を示すものなんだろう? ボクは君が好きだし。これでいいんだよね。君もボクが好きだろう?」
「は、はい…。偉大なるケマラミア様を、敬愛しております」
「よかった。好きと言うのも言われるのも嬉しいものだね」

 キラッと光るケマラミアの笑顔が眩しく、オロクカカはそれ以上何も言えなかった。

 なにせケマラミアは、オロクカカのために力の四分の一を失ったのだ。その証拠に、彼の髪の毛、四つの房の一つが色を失っている。使ったのは黄色の力。大地の偉大なる生命力を賦与したのだ。

 ケマラミアにとって、自分を削る行為は普通の行為であるが、オロクカカにしてみれば、上位バーンの一人であるケマラミアの世話になってしまったことを悔いていた。

 いきなりの失態に、死にたくなるほど苦悩を感じていたのだ。本当は、このまま死んでしまいたい気持ちである。が、ここで死んだら、ただの負け犬でしかない。それを知るからこそ、必死に這いつくばって生き恥を晒しているのだ。

 その心を読んだように、ケマラミアはオロクカカに優しく話しかける。

「ゼッカーは強いよ。他のバーンも強い。でも、数が足りない。道具であるロキにも制限がある以上、ここで君を失うわけにはいかない。君の能力は優秀だ。今のゼッカーにとって一番必要なものなんだ」

 もしオロクカカがいなければ、もっと大量のバーンを投入する必要があっただろう。そうなれば、ラーバーン側の手の内を相手に教えることになってしまう。できればバーンの投入数は最低限にしたいのだ。

 ロキも人材確保と改造手術には手間がかかるし、必要以上に作っても寿命制限があるので無駄になる。人数が増えれば増えるほど、ラーバーンの隠密性が失われてしまうのだ。

 そうしたリスクを最小限に抑えられたのは、オロクカカの能力があったからだ。彼がいれば、無人機によって戦力を埋められる。無人機は代えが利くが、オロクカカの代わりはいない。彼以上の戦糸術の使い手はいないのだ。

「ゼッカーが望むことは、君が生きて戻ることだ。それが一番彼のためになる。君の死に場所はゼッカーが決めてくれる。それまで死んではいけないよ」
「ですが、このような…失態を……カーリス教徒に負けるなどと…私の信仰心が弱かったせいで…」
「これでいいんだ。君は【十人目】を見つけるという、ゼッカーにとって最大の貢献をしたんだよ。この戦場で、それに勝る活躍はないと思うけどね」

「十人…目? ―――まさか!?」

「そう。彼こそが十人目だ。ボクたちと同じ存在だよ」

 ここでようやくオロクカカは、自分に何が起きたのかを悟った。なぜ自分が負けたのかを含めて、すべて理解したのだ。

「彼の怒りを見ただろう? あの激情と痛みこそ、バーンに相応しい力だ」
「それならば…理解できます。されど、まさかこんなところにいるとは…」
「宿命の螺旋なんて、そんなものだよ。いつだってボクたちは、皮肉と宿縁の中にいるのだからね。君との戦いがなければ、彼は目覚めなかった。それだけは間違いない」

 ケマラミアが黙って見ていたのは、そこに宿命の螺旋の力が働いていたからだ。普通の人間には見えない因果の流れであるが、ケマラミアには多少ながら視える。彼の白金眼には、そうした力があるのだ。

 すべては、糸のように紡がれていく。
 その一本一本が、巨大な織物になっていく。
 すべては計画され、完璧に実行されているのだ。

「ごめんね。役目があるから、見ていることしかできなかった。痛かっただろう?」
「いえ、…いえ。この程度の痛みで、新たなバーンが生み出されるのならば……いくらでも捧げましょう」
「君の自己犠牲は見事だ。だからこそ、ボクは君を見捨てない」

 ケマラミアは、右手でオロクカカを優しく抱きしめたまま、左手を真横に突き出す。左手が光ると同時に、周囲に球体状の術式が展開される。それは最初、テニスボールくらいの大きさであったが、徐々に大きくなり、三メートルほどにまで拡大する。

「カンダスの狭間に住む空虚なる者、ルーシン湖岸の隅で永劫に迷える者、殻の中で暮らし、殻のために生きる存在。汝の名は、シーカン・ドゥーン〈大禮だいらいの殻狐〉。すべての殻を満たす者よ。王が命ずる、わが眷属として馳せ参じよ」

 ケマラミアの声に反応して、球体は光り輝き、再び収束を開始する。術式は光となって影を生み出し、その影が徐々に形態を生み出していく。最後に残ったのは、まるで狐のような姿をした存在。

 しかし、それは普通の狐ではない。大きさは人間と同じくらいあり、熊のように二本足で立っている。それ以上に目立つのは、表情がまったくない顔であろうか。

 文字通り、【顔がない】のである。

 顔とは、目や鼻や口といった要素で構成される。それらがあるべき場所にないのは、非常に薄気味悪いものである。妖怪のっぺらぼうがいれば、まさにこんな感じの顔になるのだろうか。唯一、耳はあるので、それで狐だとはわかるのだが。

「わが創造主、偉大なる王よ。シーカン・ドゥーン、ここに馳せ参じました」

 その狐は、口がないのにしゃべった。何も知らない人間は驚くが、これは声帯ではなく、思念で会話したためである。人間の社会では、まだ馴染みがないテレパシーと呼ばれるものであるが、ケマラミアの世界においては一般的に使われるものだ。

 声帯とは、形態があってこそ成り立つ。言葉のコミュニケーションは、物的世界では有用であっても、意識の世界では道具の一つにすぎない。多くは思念によってまかなわれる。

 ケマラミアは、シーカン・ドゥーンが実体化したのを確認し、命令を下す。

「ここにいるオロクカカの欠損部分を補ってほしい。ただそうなると、君の幽体と肉体を失うことになるのだけれど…」
「イエス・マイマスター。何ら問題はありません。創造主たるマスターに生み出された命。ご自由にお使いください」

 シーカン・ドゥーンは、ケマラミアによって生み出された眷属である。すべてはケマラミアのもの。その身、その心もすべて彼のもの。その命令にはまったく問題はない。

 この大禮だいらいの殻狐という存在は、自らの身体を犠牲にすることで、対象者の再生を促すことができる。しかも賢者の石でも不可能な特殊能力を秘めており、融合した対象の能力を底上げすることもできる。

 言ってしまえば、自らの力を対象に与えるのである。
 自らの消滅と引き換えに。

 殻狐は、ケマラミアが所有する眷族の中でも、とりわけ貴重な部類の精霊である。それを使うほど、オロクカカは価値ある存在であるということだ。ラーバーンにとって、ゼッカーにとって、なくてはならないという評価である。

 それを理解したのか、オロクカカは感極まって涙を流していた。彼にとって、自己が崇拝する悪魔に関わるものは、すべて偉大なのである。上位バーンのケマラミアに評価されることは、最高の幸せの一つであった。

「すまないね。でも、君もオロクカカと一緒になれる。ボクと一緒に戦うことができる。それで納得してもらえると嬉しい」
「私も人間になる、ということですね」
「そういうこと。ボクと同じようにね」
「なるほど、それがマスターの人間界での御姿ですか」

 シーカン・ドゥーンは、失礼だとは思ったが、ケマラミアの姿をまじまじと見つめる。どうやって見ているのかわからないが、彼はケマラミアの姿を認識しているようだ。

 彼にとって、この姿は初めて見るものである。珍しいのも仕方がない。それに本来のケマラミアの姿は、シーカン・ドゥーンには到底見ることができなかった。あまりに輝いているので、その眩しさで視界が光で埋まってしまうのだ。だからこそ、人間の姿とはいえ、直々に姿を見られるなど光栄至極なのである。

「人間というものも悪くない。ボクは気に入っているけど、変かな?」
「いいえ。マスターの生命は、常に偉大です。どのような御姿であれ、そこには愛が宿っておりますゆえに」
「うん、ありがとう。そう言ってもらえると嬉しい。それじゃ、彼をよろしく。安全な場所で融合するようにしてね」
「イエス・マイマスター」

 ケマラミアは、シーカン・ドゥーンにオロクカカを手渡す。いまだ見るに無残な姿をしているが、たっぷりと精気を与えたので、しばらくはこのままでも命に別状はないだろう。

 それよりは、この場所から退避することが肝要である。オロクカカは目立ちすぎた。各国の密偵にもマークされているに違いないからだ。今はケマラミアの眷属たちが結界を張っているので、監視の目は逃れているが、完全に安全とは言いきれない。

「オロクカカ、君は身体を補完したら、撤退の時まで身を潜めること。護衛はつけるから心配しなくていいよ」
「ケマラミア様は…、どうされるのですか?」
「ボクは十人目に会いに行くよ。それが役目だからね」

 一瞬、オロクカカは「危険です」と言いかけた。しかし、ケマラミアには、まったく怖れという感情が見受けられない。まるで友達にでも会いにいくような気軽さである。

 上位バーンのケマラミアが行くというのだから、それでよいのだ。そう思い、オロクカカは静かに目を閉じた。

「カーシルレディフ〈踊る風蜻蛉かぜとんぼ〉、出ておいで」
「イエス・マイマスター」

 次にケマラミアの隣に現れたのは、昆虫のトンボのような外見をした者だった。これもトンボを人型にしたような姿で、女性陣の受けは悪そうな異形であった。

 しかし、彼もまた知性ある立派な生命体。人間とは進化の方向性が違うだけの精霊と呼ばれる者である。彼らは人間と同じく意識があり、神域への進化を果たすことができる上位の精霊、ディーバの一人である。

 ケマラミアの周囲に展開して、ミサイルを叩き落していたのは彼らであった。通常は人間には見えない領域で活動しているので、その姿を視認することはできないが、こうして実体化することも可能である。

 さきほどケマラミアが使ったものは、眷属召喚の術式である。カーシルレディフは最初からこの場にいたが、シーカン・ドゥーンは特別な存在で、違う空間に隔離されていたので、改めて呼び出す必要があったのである。

 これは召喚術というより、空間格納術に近い。普段使われない眷族、特に貴重な眷属を安全のために異なる空間に隔離しておき、必要になったら取り出すようなものである。

 精霊の中には転移、あるいは長距離跳躍のような術を使える者もいるが、自己の眷属ならば、こちらのほうが効率が良い。唯一の欠点としては、格納された個体は活動が制限されるので眠ったような状態となり、進化が一時的に止まってしまうことである。

 それもまた当人が了承して入っているので、一種の自己犠牲であるともいえる。

 とはいえ、基本的に隔離した空間は穏やかで、当人が過ごしやすい世界になることが大半である。そこでは穏やかに暮らしているので不都合はない。ないのだが、不都合がないということは、苦しみがないので進化が止まることを意味する。

 ずっと家でだらだらしているだけでは、生命は成長しない。痛みと苦しみの中でもがくからこそ、進化が生まれるのである。そういう意味で進化できない、ということだ。

 また、シーカン・ドゥーンは虚無を好むために、住んでいる空間は人間にとっては迷宮のような場所である。そこでうろうろと徘徊するのが、彼にとって最高の時間なのである。他人の器となるべく生まれた彼独特の、実に奇妙な生態である。

「カーシルレディフ、君は残骸の処分を頼む。ラーバーンの機体は、一片残さず持ち帰るように。特にヘビ・ラテの残骸は、けっして彼らに渡してはいけないよ。それが終わったら、オロクカカの護衛をするように。君の能力で姿を消してほしい」
「イエス・マイマスター。お任せください。完璧に遂行いたします」

 ヘビ・ラテの自爆は不完全であった。下半身の大部分は、糸やマゴラテなどの武装が占めているので問題ないが、ジュエル・モーターがある上半身を回収されては困る。そこにはまだ、ラーバーンの機密情報があるのだ。

 ジュエル・モーターの一つをとっても、ラーバーンのものは現代の技術を数段上回っている代物である。バイパーネッドやリビアル程度ならばいざ知らず、バーンが使う機体は機密の塊なのだ。

 カーシルレディフは風の上位精霊で、物体を覆い隠す術に長けている。残骸の回収およびオロクカカの護衛には、これ以上の適任者はいないだろう。また、戦闘においても、撤退戦という点に関してはバーンにも劣らない力を持っているため、安心して任せられる。

「残りの上位者三人は、ボクと一緒に十人目に会いに行こう。盛大に迎えようじゃないか。ボクたちの仲間を、ね」

 「ああ、楽しみだな」と笑顔を浮かべながら、ケマラミアは再び空に舞い上がる。それと同時に、シーカン・ドゥーンとカーシルレディフは、己の役目のために散っていった。


 ケマラミアは、彼らが動いたのを確認したあと、周囲を観察する。

 すでにサンタナキアはこの場におらず、アレクシートのもとに向かっている。今から追いかければ、十分に間に合うだろう。

「マスター、よろしいでしょうか?」

 何もない空間から思念が飛んでくる。ケマラミアの眷属の一人、クロ・ロアンクレーンカ〈あなたとの永遠の愛花〉である。

 現在は実体化していないが、もし姿を見せれば、非常に美しい人間に似た女性の姿をしているだろう。声も人間の女性と同じで柔らかく、聴く者に安心感を与えるものである。

 唯一人間と異なる点は、髪の毛が草花の集合体で出来ているので、全体的に植物に似た印象を受けることだろうか。ギリシア神話でいうところのドリュアス、ドライアードというのは、彼女たちの種族を指していることが多い。

「何だい?」
「あの御仁の救命には、わたくしを使えばよろしかったのでは?」

  クロ・ロアンクレーンカの花には、ケマラミアと同じ精気が宿っている。その絶対量には大きな差があるが、質としては遜色はないものである。ケマラミアがわざわざやらずとも、彼女に命令すればよかったように思えたからだ。

 彼女の能力は、主に回復に特化している。怪我の治療に関して、彼女以上の適任者はいないだろう。彼女の疑問も当然である。

 それを聞いたケマラミアは、屈託のない笑顔を浮かべた。

「キスというものを、一度やってみたかったんだ。前にやろうとしたら怒られたからね」
「左様でございましたか。それで、どうでございましたか?」
「楽しかったよ。直に彼を感じられた。気に入ったよ」

 ケマラミアは、人間の風習を学ぶうえでキスを知った。それを試してみようとしたのだが、ゼッカーに試す前に周りに止められた過去がある。そのときなぜか、女性陣からは異様な熱視線を感じたものだが、その理由はいまだわかっていない。

 ホウサンオーは「さすがに勘弁してほしいのぉ」と言い、ガガーランドには無視され、ミユキとマユキたちに言ったら「もっと大きくなったら」と言われたので、人間の風習はなかなか難しいものである。

 なので、この機会に試してみたというわけである。オロクカカにとっては複雑なことになってしまったが、命が助かったのだから問題ないだろう。

 そして、気に入ってしまった。
 ここに新たなキス魔が誕生しないか心配である。

「それにしても不思議だね。ボクに性別はないんだけど…、やっぱり男だと思われているのかもしれないね」
「マスターは、男性でも女性でもお美しいです」
「君もね。みんなみんな、綺麗だよ」
「お褒めの言葉、とても嬉しいですわ。しかし、マスターには劣ります」

 アン・アデイモンは、自らを七割が女だと称したが、ケマラミアに性別は存在しない。一応、見た目は男性寄りなので【彼】と呼ばれているが、実際は男でも女でもない。

 これが意味するところは、【両方無い】のである。

 彼には、生殖器が存在しない。男性器も女性器も無いのだ。だから他人と接触して子を生み出すことができない。その代わり、自らの精気を使って眷族を生み出すことができる。彼にとっては、それが普通なのである。

 本来、霊には男性も女性も存在しない。進化の過程の中で【統合体】を理解するために分かれているにすぎないので、最終的に男女の違いは存在しなくなる。それは一つの傾向性にすぎないのだ。

 ただ、男のように生きるのも楽しいので、そのままにしている。ケマラミアにとって人間の世界は、すべてが新しくて楽しいのだ。

「それと、この【視線】はどういたしましょう?」

 クロ・ロアンクレーンカの声に、若干の戸惑いのような、少し怯えたような色が混じったのをケマラミアは見抜いていた。それも仕方ないこと。あのような存在に見つめられたら、怯えないほうがおかしいのだから。

「彼女たちの目的は、ボクたちじゃない。放っておけば無害だよ。ただし、目を付けられないように気をつけよう。【神】を敵に回すほど愚かなことはないからね」

 ケマラミアもこの視線、紅虎の身内の一人であるパクシュの視線に気がついていた。彼女の視線は、ここら一帯を完全に監視している。そこから逃れることは誰にもできない。

「まだ【本体】を出してはいないが、実に強力な神だ。ボクも実際に見るのは初めてかな。あの子供の姿に騙されないようにね。すごい眼力をしているから、その気になればボクたちなんて一瞬だよ」

 パクシュの【千里眼】は、すべてを見通す。ケマラミアのことも、すべてを把握している。束縛しようと思えば、今すぐにも捕縛できるだけの力がある。それでも放っているのは、彼らの目的がラーバーンではないからである。

 また、ケマラミアほどの存在であっても、彼らからすれば下位に属する。サンタナキアがオロクカカに興味を持たなかったように、パクシュもケマラミアたちに興味を示していないのだ。格が違うからである。

 ならば、触らぬ神に祟りなし、である。
 関わらないほうがよいだろう。

「さあ、行こう。ボクたちも歯車の一つなのだから。それによって螺旋は廻る」

 ケマラミアが向かう先には、一つの結果が訪れる。

 その結果を新たな原因として、因果の螺旋は廻っていくのだ。
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