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零章 第四部『加速と収束の戦場』
七十二話 「RD事変 其の七十一 『信仰の破壊⑤ 聖なる眼覚め』」
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「ユニサン、終わりですね。…いえ、始まりですか」
ユニサンの決死の波動は、遠く離れたオロクカカにも伝わっていた。戦糸など使わずとも、これだけ大きな波動ならば嫌でも感じてしまう。
一人の戦士が燃え尽きるのだ。
ユニサンの死は、この作戦が始まる時から決まっていた事実であるが、いざその時を迎えると不思議な気持ちである。その姿は、いつか訪れる未来の自分の姿であるからだ。
喜びと焦燥。
その複雑な感情の渦に埋もれていく。人の未来のために命を捨てることは喜ばしいことであるが、その先にある痛みを思うと心苦しくもある。
バーンも人間である。
苦しみと痛みがある。
誰もが痛みに苦しんでいる。本来それを救うのが、女神や聖女という女性的な愛をもった存在であったのに、人類は自らの欲望ゆえに最善の処方箋を捨ててしまった。
愛があれば、愛を抱くことができれば。
優しくあれば、優しさを与えることができれば。
素直さがあれば、傲慢でなくなることができれば。
人が女神を殺さず、欲望を殺してさえいれば。
それができれば、人はもっと簡単で柔らかい方法で進化することができたのに。オロクカカは、それが何より哀しいのである。しかし、もうそれは叶わぬ夢である。人が自ら痛みを選んだのならば、それを与えるのがバーンの責務なのだから。
「さて、こちらも終わりにしましょう」
オロクカカは、磔にしたシルバーフォーシルを見つめる。両手両足、首を絞められた姿は、まさにかつての聖女カーリスそのものである。
「正しい聖痕を刻みましょう。そして、ここからカーリス教の破壊が始まるのです」
カーリス教の信者には、時々聖痕と呼ばれる傷が生まれることがある。
カーリスが受けた磔と同じ傷、両手両足に絞められた痕が生まれ、時には出血を伴うほど激しい場合もある。それは無知な者からは奇跡と呼ばれているが、実際は精神の作用である。
人間の精神は非常に強く、武人ではない人間でもそれくらいの芸当ができるのだ。いわば思い込み。たった一つの思い込みが、自分の人生を変えてしまうほどに、人間の可能性は無限なのである。
オロクカカは、カーリス教に聖痕を刻もうとしている。罪人たちに殺された聖女と同じ痛みを、それ以上の痛みを与えて断罪するために。
ただし、それもまた愚かなことである。
聖女カーリスは言った。
「自分が受けた痛みを相手に返してはいけない。また連鎖してしまうから。そうなれば、人類は永遠に救われない」
彼女は因果の神法を知っていたのだ。痛みを受けて、またそれを返してしまえば、人類は永遠に抜けられない負の螺旋に取り込まれると。復讐は自分自身すら焼いてしまうのだと。
聖女カーリスは正しい。何ら間違っていない。
人の生命が永遠なのだから、そのような憎しみは不要なのである。
されど、それを知りながらも、オロクカカはバーンなのである。
「罪深き者。それは私も同じ。しかし、どうしてもこの怒りが抑えられないのです」
オロクカカがいかに弁明しても、この罪が許されることはない。
怒り。
それは恐ろしい感情である。
人間の怒りは、すべて過去に発している。怒る人の大半は、その時起こったことではなく【過去】に怒っているのである。過去、自分が受けた痛み、不快感を思い出し、それが連鎖して必要以上に怒る要因となる。
しかも義憤の大半は、自己が受けた痛みではないことが多い。
たとえば戦争がそうだ。自分が経験していないにも関わらず、祖父の代で受けた屈辱を刷り込まれる間に、まるで自分が受けたように錯覚する。そして、それに関連したことがあれば怒り狂うようになる。
怒りの原因。
それはすべて過去にある。
過去と、人間の忘れられぬ痛みにある。
人間は、過去に縛られて生きているのだ。カーリス教とて、過去に縛られて生きている。オロクカカとて、もう六千年も昔のことに対して怒っている。とっくに終わったことを蒸し返して、今を焼いている。
ああ、哀れなり。そんな人類が哀れでなくて、なんであるというのか。だが、怒りは燃焼するまでけっして浄化はされない。燃料があり続ける限り、一度点火された炎は消えないのだ。
相手を燃やし、自分自身を燃やし尽くすまで、永遠に。
「何か言い残すことはありますか?」
オロクカカは、最期の言葉をサンタナキアに問う。
信者の中には、聖女カーリスが最期に遺した「母よ、無知な子供らをお赦しください。彼らは自分が何をやっているのか知らないのです」という言葉を吐く者もいるという。それを知るオロクカカのちょっとした余興であり、皮肉である。
がしかし、サンタナキアはまったく違う言葉を遺した。
「アレ…ク…」
サンタナキアが最期に音にしたのは、友の名前。家族の名前であった。
オロクカカとの対話によって、彼の中のカーリス教という存在がどう変わったのかはわからないが、唯一絶対に変わらない想いは、自分が過ごした幸せな時間を守りたいというもの。
愛された記憶。
愛した記憶。
それも過去。すべてが過去によって生まれている。人間の優しさも怒りも過去に囚われ、一緒に燃えていく。
「なんとも美しい友情ですね。私がバーンでなければ見逃したのですが…。せめてあとで彼も一緒に燃やしてあげましょう。残骸があれば、ですが」
ヘビ・ラテが作った十字架には、たっぷりとアフラライト燃料が染み込ませてある。MGの燃料でもあり、非常に発火性が高いものである。ライターの火程度で、ガソリンを遥かに超えて爆発的に燃え上がるうえに、燃え尽きるまで消えない性質を持つ。
ガスッガスッ
ヘビ・ラテの脚が、身動きのできないシルバーフォーシルの装甲を穿っていく。耐性の強いシルバーナイトを、より燃えやすくしているのだ。こうした状況でも細かいことにこだわるのは、いかんともしがたい彼の神経質な性分なのであろう。
身体のあちこちに穴があき、出血していくが抵抗はできない。完全に束縛されてしまっていた。ただ幸いなことにシルバーフォーシルの損傷も激しく、少しずつフィードバックが弱まっていく。すでにサンタナキアに痛みはなかった。鈍い感覚と気だるさだけが残っているにすぎない。
そして、オロクカカは火気を生み出すと、十字架に着火。
十字架は燃え上がり、終焉の時を示す。
(ああ…終わりか)
サンタナキアは、薄れゆく意識の中で炎を見つめていた。
人生とは呆気ないものである。人間など、下手をすれば転んだだけで死んでしまう弱い生き物だ。その一方で、宿す叡智によって、大地すら変形させてしまえる恐ろしい生き物である。
不可思議で魅了的で、面妖で訝しく、それでいて美しい。
サンタナキアは人間が嫌いではなかった。そんな人間が、むしろ好きだったのだろう。今こうして死ぬ間際においても、気持ちは変わらない。だからこそ赦せる。自分を殺すであろうオロクカカへの憎しみすら湧かなかった。
(私は、死んだほうがよいのだ…)
ずっと自分という存在がわからないでいた。なぜ生まれ、なぜ死んでいくのかわからないまま、必死に何かにすがって生きていた。
ロイゼンの多くの人々が信じるカーリス教。オロクカカの言葉が真実だとすれば、ずっとすがってきたものが偽りだったことになる。今となっては真偽は定かではないが、サンタナキアにとっては、もうどちらでもよかった。
その段階で、彼の中の信仰心に変化が生じているのだが、死を強く感じる今、サンタナキアが想うことはただ一つ。
アレクシートのこと。
アレクシートの家族のこと。
自分を本当の子供のように愛してくれた人たちがいる。世界が温かいのだと教えてくれた人たちがいる。アレクシートの父親は厳しかったが、分け隔てなく育ててくれた。アレクシートの母親は、大好きなアップルパイをよく焼いてくれた。
嬉しかった。
嬉しかった。
ただただ嬉しかった。
それでいて、どこか寂しかった。
こんなにも愛しいのに、なぜかいつも【外側】にいるような気がしていた。アレクシートとの絆は本物なのに、やはり自分は【違う】ような気がしていた。
家族とは、けっして血の繋がりだけがすべてではない。いや、血の繋がらない家族のほうが、遥かに遥かに多いくらいだ。血が繋がっていても表面だけの家族が多い中で、サンタナキアはアレクシートと出会った。
これこそが女神の導き。
少なくともサンタナキアにとっては、それだけでよかったのだ。
自分とは違って無鉄砲でやんちゃで、強気で勝気で、いつも前に出ないと気が済まない迷惑な兄弟。負けても認めず、勝つまで何度でも挑み続ける兄弟。
アレクシートだって、簡単に騎士になれたわけではなかった。つらい訓練に耐えて、ようやく騎士団長になれた。払った代償の大きさは、アレクシートを家柄だけのお坊ちゃんだと陰口を叩く者よりも、絶対に絶対に上である。
そんなアレクシートを守りたかった。
自分を愛すべき家族だと呼んでくれた、愛すべき者を。
―――〈サキア、サンタナキア〉
(呼んで…いる。アレクが呼んでいる…)
自分を呼ぶ【声】がする。
それがアレクシートの声なのかどうか、もうわからない。だが、自分を呼ぶ声がする。サンタナキアは揺らぐ炎の中で、ただただその声を聴こうとしていた。
そして、呼びかけようとしていた。
触れ合おうとしていた。
「アレク…アレク……!!」
サンタナキアが何度呼んでもアレクシートは応えない。応えられない。彼は今、命を捨てたユニサンに殺されようとしているから。世界を燃やす【種火】にされようとしているから。
―――〈アレクシートは死ぬ〉
その【神託】が聴こえた瞬間、サンタナキアの視界が変わった。
それはまるで世界を俯瞰したような構図。空から大地を見下ろす鳥の視線。そこにはドラグニア・バーンに捕まっているシルバーグランの姿があった。
必死にもがいているが、相手のほうが強い。黒い機体から溢れているのは、怒り。怒りは周りのものすべてを呑み込み、破壊の衝動を撒き散らしている。
ユニサンは怒る。
世の不平等を認めている社会を。
アレクシートは怒る。
堕落しきったカーリスと、自分の不甲斐なさに。
死ぬ。死んでしまう。人はいつか死ぬ。その死にざまなど、武人ならば選べなくて当然。そんなことは騎士になる前から覚悟していた。アレクシートとて、いつ死んでもおかしくはないと知っていたはずだ。
でも、何かがおかしい。
何かが変だ。
今のアレクは何かが変だ。
(なんだ、この不純物は?)
サンタナキアの【眼】は、アレクシートの中に混じっている妙な気配を放つものに釘付けになる。
それは非常に薄く、小さなもの。プールに一滴だけ落とされ、何万倍にも薄められた塩素のように、普通ならばまったく気がつかないもの。しかし、目には見えないが確実に存在するもの。
―――〈【血】が目覚めたのです。彼の霊は苦しんでいます。でも、あらがえないのです〉
「なんだ!? 誰なんだ!? アレクじゃないのか!?」
サンタナキアは、自分に語りかける者がアレクシートではないことに気がつく。
女性の声だったから。
この声は女性のもの。明らかにアレクシートのものではない。だが、頭が痺れたように霞み、その正体をはっきりとは理解できない。しかし、視界の中のアレクシートが、いつもと違うことはすぐにわかった。サンタナキアは、女性の声よりもアレクシートに目を奪われる。
「アレク! アレク、どうしたんだ! この波動はまさか…、オーバーロードなのか!?」
アレクシートから異様な力を感じる。実際に見たことはないが、サンタナキアには、これが血の沸騰であることがわかった。今の彼の眼には、アレクシートの血液の流れ、その因子の覚醒が光り輝いて視えるからだ。
それはまるで、脈打つ光の粒子。霊体から強制的に情報が引き出され、肉体全身の因子が激しく鳴動している。見た目は非常に美しい光景であるが、その実情は極めて危険なものである。
光の明滅が際立っているのは、アレクシートの生命が急速に消耗され、闇が濃くなっているからにほかならない。アレクシートの命は、確実に磨り減っていた。
「アレク、アレク!! 行かなくては! アレク!!」
どんなにもがいても、十字架から逃れることはできない。すでに自分は、完全に蜘蛛に囚われてしまっていた。だが、それでも諦めることはできない。
もっともっと力を!
力が欲しい!
アレクシートを助ける力を!
愛する者を助ける力を!!
「―――ううう、うおおおおおおおお!!!」
突如、サンタナキアは燃えるような熱情を感じた。自分の中にある何かが弾け、急速に広がっていく感覚である。それに呼応して肉体が活性化するのがわかったが、意識は逆に鮮明になる。
これを使えば死ぬ。
武人の本能とも呼べる直感である。それは「もしかしたら」という曖昧なものではなく、確実にそうだという完全なる確信に基づくものである。
(これがオーバーロードの警告か)
サンタナキアは、これが噂に聞く因子の警告であると理解した。オーバーロードは、けっして無意識に起こるものではない。必ず自ら選択する機会が与えられるのである。
もしそうでなければ、多くの武人が不意のミスによって死んでしまうことになる。しかし、武人の直感というものは、そうなる前に警告を与えてくれるのである。
アレクシートも、完全に無意識に沸騰したわけではない。成し遂げるために、あらゆるものを犠牲にするという意思を示したはずである。彼の性格が強烈すぎたことに加え、ある程度正常な判断力を失っていたため、当人が完全に自覚しなかったにすぎない。
そして、もう一つの要素がある。
(この誘惑は…なんだ!? 身を任せたくなる)
サンタナキアは、自分の意思とは別に、その力を求めようとする欲求に気がつく。
誰もが強くなりたいと願う。そうありたいと願うのは、人間の成長への欲求である。それは甘美で、あまりに優しい誘惑。素直に従えば、すべてが自分の思い通りになるような気にさせる、背徳の誘惑。
麻薬中毒者も、最初から麻薬に頼っていたわけではない。ドーピング常習者も、最初からそれにすがっていたわけではない。しかし、その誘惑に負けてしまったのだ。その結果、身を滅ぼす。
サンタナキアは必死に抵抗し、追い出そうとする。彼の良識と理性が、最後の最後まで生き残っていたからだ。しかし、まとわりつく気配は異様に強く、彼の精神に強く訴えかけてくる。
ダイエット中にいつも以上に甘いものが欲しくなるように、砂漠でようやく見つけた水のように、なんて、なんて甘い誘惑。アレクシートが無意識のうちに、無警戒のうちに手にしてしまうのも仕方がないと思えるほど、甘い果実。
(駄目だ! それは駄目だ! これは単なる力じゃない! 冒涜だ!)
オーバーロードは、とても便利なものに思える。わずか数十分だろうが、鬼神の如き力を得られるのならば、戦術として組み込むことも不可能ではないだろう。だが、間違っているものである。人間の正常の進化とは別のものであり、下手をすれば、霊魂にすらダメージを与えてしまうものだ。
これは毒である。
どんなに美味しそうに見えても毒である。
それを知るサンタナキアは、幸せだったのか不幸だったのか。けっして口にしようとはしなかった。唇に押し付けられても口を閉じて、歯を食いしばって抵抗する。
―――〈この誘惑に耐えるとは、予想以上です。あなたの意思の強さは本物です。しかし残念なことに、呪縛はそれを許しません〉
「う、うう…うわあああああああ!!?」
抵抗するサンタナキアの身体が、突然燃えるように熱くなる。これは火に包まれているからではない。身体の内部、その奥から湧き上がってくるものである。
―――≪≪カーリス教に抵抗する者を殺せ≫≫
頭の中で、さきほどの女性とは違う声が聴こえる。それは妙に重々しく、なおかつ重低音とともに響き渡る不快な男性的な声質であった。聴くたびに吐き気を催し、必死に吐こうとするが、単なる胃液しか出ない。
これはもっと奥底。自らの血の中、因子の中に混じったものである。
長年の間に融合し、結合し、秘匿され、じわじわと染み渡っているものだ。それゆえに非常に粘着質で、うっかり踏んでしまった靴底のガムのように、拭けば拭くほど薄く全体に広がっていく。
「なんだ! これはなんだ!! やめろ!! 誰だ!」
―――≪≪目覚めさせろ。力を求めろ≫≫
「うぁあああああ!!」
その声は、強制的にオーバーロードを引き起こそうとする。サンタナキアが激しいショックに困惑している間に、精神を乗っ取ろうとする。
これは意思でどうにかなる問題ではない。抵抗しようにも、相手は強制力を持っているのだ。なんと理不尽なことであろう。最初から仕組まれた裁判の被告人席にいる気分である。
抵抗は無意味、無駄。
あらがうことなどできない。
何が起こっているのか、まったく理解できない。聴こえる声も、すべて幻聴なのかもしれないと思うほど、まったく現実感がない。まるで映画でも見ている気分である。
―――〈あなたは疑問に思っている。なぜ、こうなるのか。これが何であるのか〉
「あなたは…誰だ?」
朦朧とする意識の中、不快な男性の声は徐々に小さくなるのに、女性の声だけがはっきりと聴こえた。女性の声に不快感はない。それどころか、穏やかで優しく、静かな波動を感じる。
―――〈血の呪縛。すべてのカーリス教徒に与えられた呪縛です〉
「…呪縛? 呪い? …聖女様を殺した…罰なのか?」
―――〈いいえ。罰など与えていません。これは、あなたがたが自ら望んだこと〉
「痛みを…望む? 自分で…? 駄目だ…。このままでは…もう)
サンタナキアの判断力が急激に低下していく。このままでは理由はわからないが、強制的にオーバーロードさせられてしまう。もはや抵抗することはできない。自分もまた、アレクシートと同じく沸騰してしまう。
さまざまな想いが駆け巡る。交錯する。衝突する。燃え上がる。
その炎の中を、声は静かに語る。
―――〈サンタナキア、あなたはきっと知るでしょう。そして、自ら選ぶでしょう。しかし、ごめんなさい。今、あなたに選択が許されないことを〉
―――〈この時を待っていました。ずっと、長い間、この日を〉
―――〈さあ、目覚めを。私の力をあなたに託しましょう〉
―――〈それによって、多くの人が死ぬとしても〉
毒素が全身に回り、血を燃やしていったその瞬間、サンタナキアに語りかけていた声が毒の回線に割り込む。
そして、蹂躙。
「うわあああああああああああああ!!!」
その激痛にサンタナキアは絶叫。暴れ、のた打ち回り、頭を叩きつけ、唇を噛み締める。打撲が生まれ、血が流れ、嗚咽がこぼれる。
「ううう、うおおおおお! 熱い、熱い、熱い!!!!」
「眼が!!! 眼が熱いいいいいいいいいいいい!!!」
「やめろ!! やめてくれ!! おおおおおおおお! 痛い、痛い、痛いんだ!!!」
「本当に痛いんだ!!! 痛い、痛い!! ゆ、許して!! 許してくれ!!」
痛みに鈍感になっていた矢先の突然の過敏。その落差には、忍耐強いサンタナキアであっても絶叫してしまう。泣き叫び、許しを請うてしまうほどに。
「眼が、眼が痛い!!!! 無理だ! 我慢なんてできない!! 痛い、痛い、痛いんだあああああああ!」
サンタナキアは全身に回った毒以上に、眼が燃えるように熱いことを知る。まるで両目に焼き鏝を押し付けられたような痛み。熱くて鮮烈で、すべてを失い、すべてが燃えるような痛み。
洗い流され、
ほだされ、
しわくちゃにされ、
粉々になる感覚。
「イタイイタイイタイイタイイタイイタイ!!! ユルセナイ、ユルセナイ、ユルセナイ、ユルセナイぃいいいいいいいい―――!!!」
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
「な、何事ですか…!!」
これに驚いたのは、燃え上がった十字架を見つめていたオロクカカである。その中央にいるシルバーフォーシルに、異変が起こったのは明白である。
サンタナキアの叫び声はもちろん、機体であるはずのシルバーフォーシルにも異常があった。
「これは…【血】!?」
シルバーフォーシルの両目の部分から血が流れていた。まるで血の涙を流す人間の姿のように、叫び、咆え、許しを請い、泣く。おのれが犯した罪を悔いるかのように、ただただ泣いていた。
同時に、怒り狂っていた!!!!
そうなのだ。この存在は、ただ泣いていたのではない。あまりの痛みに叫び、嘆き狂い、激しい怒りを叩きつけていたのだ。壁を何度も殴り拳が砕けて出血するように、棒切れで何度も何度も殴りつけ、自らの手のひらに血が滲むように!!
何度も何度も何度も怒って、怒って、怒り続けていた!!
それがついに頂点に達する。
「ユルセナイ!!!! コロシテヤル!!!!!」
シルバーフォーシルから激情そのままに、あまりに強大な戦気が放出される。それは炎すら呑み込み、十字架すら一瞬で蒸発させた。
「まさか、血が沸騰したのですか!?」
オロクカカが最初に思ったのが、アレクシートと同じ血の沸騰である。
条件がそろえば、武人はいつでも沸騰する可能性を秘めている。他の聖騎士たちは沸騰する前に死んでしまったが、まとめて覚醒されると厄介なのは間違いない。もちろん誰もに起こることではないが、カーリスの聖騎士ならば十分ありえることである。
ただし、ユニサンがそうであるように、仮に血が沸騰したとてバーンの敵ではないだろう。オロクカカもそう思っていた。だからこそ目の前の事態が呑み込めない。
あまりにも違いすぎる。
サンタナキアのそれは、明らかに違う。
今まで見てきた血の沸騰とは、あまりにも一線を画している。何よりも、機体が血の涙を流すなどありえないことである。いくらオーバーギアとて、よほど機体とシンクロしていなければ不可能なことである。
ゼッカーのガイゼルバインならば、自己と完全にシンクロするため、それが可能であるものの、そのような現象は神機であっても非常に稀である。本当に完全なる一体化を果たさねば無理なのだ。
もしそれが現実で起こっているのならば、これこそ奇跡だろう。
「ううう、うううう…!!」
サンタナキアは、あまりに熱い両目を押さえていた。シンクロするように、機体も同じ格好をし、血は両目からとめどなく流れ続けている。
その異様な光景に圧倒されていたオロクカカであるが、彼はバーン。自分の役目を忘れたりはしない。
「どちらにせよ、そのまま死んでもらいますよ!」
ヘビ・ラテは糸を吐き出して、再び捕えようとする。血が沸騰しようがどうしようが、殺すことには変わりないのである。そこに揺らぎは微塵もない。
が、シルバーフォーシルは、両目を押さえた状態のまま紙一重でそれを避ける。あまりにも自然にかわしたので、本当は見えているのかと思ったくらいであるが、しっかりと目は閉じられていた。
それにはオロクカカも驚愕。それが偶然でないことがわかったからだ。偶然でよけられるほど彼の攻撃は甘くない。
(なんですか…この感覚は)
オロクカカは、異様な感覚に包まれていた。オーバーロードした相手とはいえ、実力では圧倒できるはずである。このまま突っ込めば倒せるはずだ。しかし、足が前に出ない。サンタナキアから発せられる不可思議な圧力に、武人の本能が危険を告げているのだ。
―――危ない。逃げろ。
と。
「馬鹿な!! 私はバーンなのですよ!! 主に選ばれた戦士!! 臆するなどありえない!! あってはなりません!! こんなものは気の迷いにすぎない!!」
当然ながらオロクカカは認めない。認められない。認めるわけにはいかないのだ。足の震えは、気の迷いだと一蹴する。
「今度こそ確実に処刑します!」
ヘビ・ラテは、力を振り絞って攻撃態勢に移行。獲物に飛びかかる蜘蛛のように、一気に脚撃の間合いに入る。
そのまま二本の脚で高速の突き。
「うう…!!」
シルバーフォーシルは左手で目を覆いながらも、右手の剣を使ってギリギリで攻撃を回避。その対応を見てオロクカカは確信。やはり瀕死の状態である。
「最後のあがきとは見苦しいですよ! 死になさい!」
ヘビ・ラテは、猛攻とも呼べる攻撃を続ける。ただ、そこはさすがに慎重なオロクカカである。攻撃をする際にも、いっさいの油断はしない。細心の注意をしながら、糸を絡めて緻密な攻撃をしていく。
これだけ用意周到ならば、ヘビ・ラテの攻撃は当たる。当たるのだが、またもやギリギリのところでかわされる。けっして致命傷には至らない。いたずらに外装を傷つけるにとどまる。
「何が…起きているのですか…」
それが何度も続けば、オロクカカにも異様さが伝わってくるのが必然である。なぜ、目の前の存在は、目を覆いながら対応できるのか。すでに機体はボロボロ、肉体もボロボロ、そうであるのに、どうしてこうも動けるのか。
それがユニサンのように、強い覚悟によってもたらされるのならば、まだオロクカカも理解できる。武人の強さは、精神力によって左右される。意思の強さによって、折れない両腕を作り上げることもできる。
だが、目の前の存在から感じるものは、そうした覚悟とはまったく別のもの。ただただ荒れ狂う力を持つ、何か異質なものである。
そして、ついにサンタナキアに激震が走る―――!!
「はぁはぁはぁ、はぁはぁはぁ!! 熱い、眼が熱い!!! どうしてこんなに痛いんだ!! どうして、どうして!! どうして!!!」
「私は、僕は、望んでこうなったわけじゃない!! だって、しょうがないだろう!! 僕は、僕は、僕は、生きるために!!」
「罪なのか! それが罪なのか!! これが罰なのか!!! どうしていまさら!! そんなことを言うんだ!!」
「ユルセナイ、赦せない、許せない、ゆるせない!!! この世界が許せない!! ユルセナイ!!!」
「自分で自分が許せないんだぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
真昼のような夜。
そう形容するしかないだろう。少なくとも一瞬、世界が昼になったのだ。その光は、偽りの光に酔いしれる富の塔よりも大きく、強く、儚げで弱々しい光。
【双眸】から零れ出る光の奔流が、世界を席巻する。
ただし、それは赤い光。優しい色ではなく、激情の色。排他的で攻撃的で不寛容で、この世界にある一切合切を蹂躙する光!!
「はぁはぁはぁ! はぁはぁ…」
少しずつ呼吸が落ち着いてきた。慣れてきたのだ。人とは、いかなる痛みでも慣れてしまう生き物なのだと、サンタナキアは痛感する。
「その瞳は…」
オロクカカは、サンタナキアの瞳が見えた気がした。機体で遮られているのだから幻かもしれない。だが、鮮明にそれは見えたのだ。
眼に焼き付けられた【聖痕】を。
それは、カーリス教徒の聖痕とは、少しばかり違う形をしていた。まるで炎のような、揺らめく陽炎のような、痛々しく燃えるような聖痕が刻まれている。
眼は血で真っ赤に染まり、赤い双眸がオロクカカを見つめている。いや、彼の眼は周囲の何物も見てはいなかった。
「アレクを助けなければ…こんな世界から助けなきゃ…」
サンタナキアはそう呟き、ゆっくりとオロクカカに背を向ける。その方角はアレクシートがいる方向だ。感じる、アレクシートを感じる。彼が自分を求めて、自分の名前を呼んでいる。
だから行かねばならない。
助けないといけない。
彼が今、痛みと恐怖の中で苦しんでいるのならば、自己のすべてを投げ打ってでも助けないといけない。だって、家族だから。だって、愛する者だから。だって、半身だから。
「何を言っているのか理解できませんね」
もう彼は、おかしくなってしまった。自分が追い詰めすぎたのが悪かったと反省するオロクカカ。憎きカーリス教徒であっても、最低限の人間の尊厳は守るべきであった。オロクカカは残忍な人間ではない。できれば苦しむことなく殺そうと思う慈悲深い存在なのだ。
十字架に縛ることなく、ひと思いに串刺しにしてやるべきだった。そうしなかったのは自分の落ち度である。それは認めねばならない。
しかし、今のサンタナキアの行動は許せなかった。
「敵に背を向けられるなど、武人としての恥辱!! 相応の報いは受けてもらいます!!」
武人にとって、侮られることは最大の侮辱。圧倒的な力の差がある強者ならば許されるが、それが逆の立場ならば我慢できない恥辱である。
バードナーの逃げ方は、潔かった。最初から勝ち目がないと悟り、一目散に逃げる姿は、むしろ清々しいものである。彼の気概、彼の責任感が滲み出ており、好感が持てるものであった。
だが、サンタナキアのものは違う。
まるでオロクカカなど、道端に落ちている【百円玉】に等しいものであるかのような態度である。多少気にはなるが、わざわざ拾うほどの価値もない、という程度の扱いであった。
それがオロクカカの激怒を誘った。これがサンタナキアの作戦であっても、バーンであることに誇りを抱く彼にとって、見過ごしておけない行動である。
激怒したヘビ・ラテは、容赦なく背後から襲いかかる。誇り高い戦士である彼が、背後から攻撃するのも当然のこと。それだけ怒ったのだ。
しかし、そんな叫びもサンタナキアは無視。
彼の眼には、アレクシートしか映っていない。シルバーフォーシルは、ヘビ・ラテの高速の脚撃を難なく回避。背後に目があるかのように簡単にかわす。この時のオロクカカの衝撃は言葉にはできない。問題は、その攻撃の避け方である。
すべてを紙一重でかわしたのだ。
それはギリギリかわした、というレベルではなく、完全に見切った避け方なのだ。まるでホウサンオーが【雑魚】と遊ぶ時のような、慣らし運転を試すかのような、そんな余裕すら見える。
それは何度やっても同じ。二回も五回も十回も、何度やっても、シルバーフォーシルは完全に攻撃を見切っている。しかもこちらを一度も見ずに。
(馬鹿な! 馬鹿な!! 馬鹿な!!!!! ありえない!! ありえないぃいい!!)
オロクカカはパニックに陥る。今まで圧倒していた相手なのだから、それも仕方のないことである。
ただ、それ以上にありえないことは―――
「どうして! こんなにも遠いのだ!! 認めない! 認められない、こんなことは!! 絶対に!」
オロクカカが一番認めたくなかったこと。
それは彼が一流の武人だからこそ、気がついてしまったこと。
オロクカカは、サンタナキアを【畏怖】している。
感じるのだ。その身から発せられる圧力を。けっして届かないであろう力を。それは下位バーンが上位バーンに感じる、圧倒的な敗北感に似ている。
たとえばオロクカカが、ホウサンオーに感じる敗北感は絶対的である。そこにはいかんともしがたい差があるのだ。その立ち位置を痛感するがゆえに、オロクカカは頭を垂れる。
これは他のバーンも同じことである。
ホウサンオーをジジイ呼ばわりする不良バーンたちも、その絶対的な力の差を知っているからこそ、作戦においては絶対に逆らわない。強者には強者たちの掟、ルールがあるのである。
そのルールに照らし合わせた時、今この瞬間、両者の立ち位置は鮮明に分かれていた。
「認めない! 認めない!!! 私は認めない!!!」
ヘビ・ラテは、大量の糸を放出。視界を埋め尽くしてしまうほどの糸である。これならば、よけることはできない。
オロクカカはこの時、正常な判断力を失っていた。まったく当たらない攻撃に業を煮やし、とにもかくにも当てることを最優先とした。その結果として糸を選択したのだが、それは当たったところで、さしたるダメージも与えない軽い攻撃である。
言ってしまえば、サンタナキアの興味を自分に移そうとする、弱者がやってしまう挑発に近いものであった。だが、それはやってはいけなかったのだ。認めないのは自由であるが、これ以上、彼を刺激するべきではなかった。
女神への忠誠? 武人の誇り? バーンの役目?
まったくもってお笑い種である。
なぜならば、そんなものは…
「邪魔をするなあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――――――――――!」
シルバーフォーシルは、大剣を一閃。オロクカカの目でも、いつ振ったのかわからないほどの速度である。
ヘビ・ラテは咄嗟に半身になって脚でガード。
するべきではなかった。半端に直感が働いてしまったゆえの対応なので、非難はできない。だが、その結果があまりに酷い。
ヘビ・ラテの左側の四本の脚が、ずるりと落ちた。
まるで粗末な接着剤でくっつけた後のように、まだ乾いていないのにうっかり触ってしまった時のように、わずかな糸を垂らしながら足がずり落ちていく。
「っ!!? ―――!?!」
オロクカカは、そのことを理解できない。できるはずもない。しかし次の瞬間には、シルバーフォーシルの第二撃が迫っていた。
オロクカカは、それも反射的に右脚で対応。
これも良い対応ではなかった。うっかり受けた脚が、まったく同じくずるりと落ちたのだ。落ちた脚は、その重さによって地面のコンクリートを破壊するので、けっして柔らかいものでないことは確かである。
がしかし、そんなことは関係ないのだ。重かろうが軽かろうが、硬かろうが柔らかかろうが、この圧倒的な暴力の前では、まったく無意味なのだ。だが、犯した過ちの結果は、受け入れねばならない。それだけは唯一平等に訪れる。
「うう、うぐああああああ! 私の脚がぁああぁああああ!」
カノンシステムでリンクしているため、直接的なダメージ還元が起こる。オロクカカの両手足が切断され、かろうじて右腕一本が、筋組織の数本で残っている状態となってしまう。
コックピット内部では、大量出血と同時にアラームが鳴り響く。これはもう撤退勧告などという問題ではない。いますぐに放棄して逃げろ、という指示である。
―――何を犠牲にしても逃げろ。
それがMGが判断した冷静な行動規範である。
「わたくしは、わたくしはぁああああ! バーァアアアアンなのですよ!!」
だが、そんなことを聞くような男が、バーンになれるわけがない。オロクカカに撤退するつもりなどなかった。
脚を失ったヘビ・ラテは動けない。というのは誤まった認識である。ヘビ・ラテの上部の女性の部分が、下半身と離脱して空を飛ぶ。下半身は自爆し、大地に激しい爆炎が広がった。
爆炎は、リビアルのものよりも強力で、大地を這う瞬間にすべてを溶解させていく。残ったマゴラテ、ミドラテもすべて吐き出され、それが次々と爆発していくさまは、まるで溶岩地帯への絨毯爆撃である。
周囲一帯を、圧倒的な熱量が破壊し、蹂躙していく。
シルバーフォーシルは、剣気を張って爆炎を防御しつつ、迫ってくるミドラテたちを正確に迎撃している。あらかじめ来る場所がわかっているかのように、淡々と淀みなく切り裂く姿は芸術のように美しい。
これだけの爆発を耐えるなど、普通の状態ではありえない。火炎に対する絶対防御があるシルバーグランならばともかく、シルバーフォーシルは耐性がある程度である。普通にくらえば、内部に影響を及ぼすほど焼け焦げるはずだ。
それを防いでいるのが、荒々しく強烈な戦気である。今まで放った戦気など、まるで児戯に等しいものに感じるほど、圧倒的で濃密な戦気を放っている。ガガーランドが通常時に発する戦気にも匹敵する強さである。
それでも相手の動きを制限する力はあった。手痛いダメージは与えられずとも、シルバーフォーシルを動けなくすればよいのだ。目的は十分果たしたといえる。
「貴様などにぃいいい! カーリス教徒などにいい!!! 主の邪魔はさせぬううう!!!」
オロクカカは、残った上半身だけで勝負を仕掛ける。その執念、その意気込み、彼は紛れもなく真のバーンである。
まるで祈りを捧げているように閉じられていた、上半身だけの女性の手が開くと、そこには最後の牙が隠されていた。
【蜘蛛の毒牙】である。
禍津蜘蛛が持つ最強の攻撃手段かつ、最後の奥の手である毒牙。この牙には、機体のすべてを破壊するルイセ・コノが作ったウィルスが仕込まれており、叩き込まれた機体は間違いなく再起不能になる。
しかし、これは同時にヘビ・ラテすら破壊することになる諸刃の剣。まさに相討ち覚悟の捨て身用の特殊武装である。
バーンであるオロクカカが、ここまで追い込まれる。ついさっきまでは、こんな事態は考えられなかったことである。だが、オロクカカに敗北は許されない。負ける時は死ぬ時。それがバーンの宿命なのである。
(せめて相討ち!! 私の信仰を示す!!)
オロクカカの気迫を感じ取ったガヴァル二機もサポートに入る。ロキの二人も自爆覚悟で突っ込む。自らの死で、一瞬でも隙が作れればよいと考えている。
この三人が、死を覚悟して向かってくる状況は、非常に恐ろしい。志郎やデムサンダーが直面したピンチを遥かに超える。バーンの決死の覚悟ほど恐ろしいものはないのだ。
ヘビ・ラテの毒牙の一撃は、今までで最速であったのは間違いない。全身全霊をかけた一撃であった。ロキたちの動きも決死のもの。半端なものではない。ただし、力に善悪はない。より大きな力ある者が現れれば、その者こそが正義となるのが世界のルールであった。
「くだらない」
サンタナキアの眼が映し出すのは、スローモーションの動き。何の恐れも怯えもなく、すっと身を一メートル程度動かすだけ。ただそうするだけで、オロクカカの渾身の一撃は、彼の眼前を通り過ぎていく。
「まだ!!」
ヘビ・ラテは、戦糸を使って強引に軌道を変更。無理な動きに傷ついた身体から噴水のように血が噴き出るが、そんなことはお構いなし。ただただ一撃を入れるためだけに動く。
しかし、哀れなるかな。
たかだか蜘蛛でしかない存在は、永遠に空に届くことはない。
いくら糸を天に伸ばしても、何にも引っかからず、仏が引っ張ってくれるわけもない。たかが虫がどんなにあがいても、けっして何も起こらないのだ。
シルバーフォーシルは、軌道変化にも対応。直角に曲がった不意をつく一撃も、難なくかわしてみせる。そしてシルバーフォーシルは、最初からヘビ・ラテがそのラインに来ると知っていたような動きで、大剣を振るっていた。
刃先が女性像の腹に触れる。
それは軽く、ちょっと触れただけ。
されど、【真芯】に入った一撃は、ただそれだけで
―――真っ二つ。
ヘビ・ラテの本体が、上下に真っ二つ。
戦気の防御も何の意味も成さない。戦気はすべてが均一な状態で成り立っているわけではない。すべてを意識的に強化しない限りは、必ずどこかに隙間が存在する。サンタナキアはそこを斬ったのだ。
そして、そのまま回転して剣を振るい、背後に迫っていた二機のガヴァルを斬り裂く。ガヴァルはサーベルで防御するが―――
バシュン
不思議な軽い音がしたと同時に、シルバーフォーシルの横を通り過ぎ、ビルに衝突。直後に二機とも真っ二つ。
「―――死ね!!」
爆発。自爆である。
巨大な炎に焼かれながら、ガヴァルとヘビ・ラテはついに息絶えた。
圧倒的。あまりに圧倒的。
それは道端で見かけた矮小な蜘蛛を、人間が軽い気持ちで踏み潰したような光景。ただ気持ち悪いという理由で殺した、見る者に嫌悪感を与えるほどに圧倒的な力の差であった。
さらに「死ね」という言葉。このような残酷な言葉を彼が発したことは、人生で一度もなかった。心優しいサキアならば、絶対に発しない悪魔の言葉である。
ああ、サキアは死んだのだ。
あの十字架とともに死んだのだ。
では、これは誰なのか。
この存在は何なのか。
序列八十二位といえど、バーンである彼を圧倒するほどの力を持つこの男は、いったい誰なのか。
その答えを知る者が一人いる。
その男、序列六位の上位バーンであるケマラミアは、上空からその惨事を見つめていた。彼は、目の前の存在が何者であるかを知っていた。
なぜならば、彼もまた同じ存在だから。
「十人目、見っけ」
ケマラミアは笑った。
十人目。
最後の一人。
その瞬間、ヨハンがランバーロの司令室に貼ったリストが輝きを放ち、名前が自動的に綴られていく。
バーン序列十位 サンタナキア
宿命の螺旋は廻っていく。
「ユニサン、終わりですね。…いえ、始まりですか」
ユニサンの決死の波動は、遠く離れたオロクカカにも伝わっていた。戦糸など使わずとも、これだけ大きな波動ならば嫌でも感じてしまう。
一人の戦士が燃え尽きるのだ。
ユニサンの死は、この作戦が始まる時から決まっていた事実であるが、いざその時を迎えると不思議な気持ちである。その姿は、いつか訪れる未来の自分の姿であるからだ。
喜びと焦燥。
その複雑な感情の渦に埋もれていく。人の未来のために命を捨てることは喜ばしいことであるが、その先にある痛みを思うと心苦しくもある。
バーンも人間である。
苦しみと痛みがある。
誰もが痛みに苦しんでいる。本来それを救うのが、女神や聖女という女性的な愛をもった存在であったのに、人類は自らの欲望ゆえに最善の処方箋を捨ててしまった。
愛があれば、愛を抱くことができれば。
優しくあれば、優しさを与えることができれば。
素直さがあれば、傲慢でなくなることができれば。
人が女神を殺さず、欲望を殺してさえいれば。
それができれば、人はもっと簡単で柔らかい方法で進化することができたのに。オロクカカは、それが何より哀しいのである。しかし、もうそれは叶わぬ夢である。人が自ら痛みを選んだのならば、それを与えるのがバーンの責務なのだから。
「さて、こちらも終わりにしましょう」
オロクカカは、磔にしたシルバーフォーシルを見つめる。両手両足、首を絞められた姿は、まさにかつての聖女カーリスそのものである。
「正しい聖痕を刻みましょう。そして、ここからカーリス教の破壊が始まるのです」
カーリス教の信者には、時々聖痕と呼ばれる傷が生まれることがある。
カーリスが受けた磔と同じ傷、両手両足に絞められた痕が生まれ、時には出血を伴うほど激しい場合もある。それは無知な者からは奇跡と呼ばれているが、実際は精神の作用である。
人間の精神は非常に強く、武人ではない人間でもそれくらいの芸当ができるのだ。いわば思い込み。たった一つの思い込みが、自分の人生を変えてしまうほどに、人間の可能性は無限なのである。
オロクカカは、カーリス教に聖痕を刻もうとしている。罪人たちに殺された聖女と同じ痛みを、それ以上の痛みを与えて断罪するために。
ただし、それもまた愚かなことである。
聖女カーリスは言った。
「自分が受けた痛みを相手に返してはいけない。また連鎖してしまうから。そうなれば、人類は永遠に救われない」
彼女は因果の神法を知っていたのだ。痛みを受けて、またそれを返してしまえば、人類は永遠に抜けられない負の螺旋に取り込まれると。復讐は自分自身すら焼いてしまうのだと。
聖女カーリスは正しい。何ら間違っていない。
人の生命が永遠なのだから、そのような憎しみは不要なのである。
されど、それを知りながらも、オロクカカはバーンなのである。
「罪深き者。それは私も同じ。しかし、どうしてもこの怒りが抑えられないのです」
オロクカカがいかに弁明しても、この罪が許されることはない。
怒り。
それは恐ろしい感情である。
人間の怒りは、すべて過去に発している。怒る人の大半は、その時起こったことではなく【過去】に怒っているのである。過去、自分が受けた痛み、不快感を思い出し、それが連鎖して必要以上に怒る要因となる。
しかも義憤の大半は、自己が受けた痛みではないことが多い。
たとえば戦争がそうだ。自分が経験していないにも関わらず、祖父の代で受けた屈辱を刷り込まれる間に、まるで自分が受けたように錯覚する。そして、それに関連したことがあれば怒り狂うようになる。
怒りの原因。
それはすべて過去にある。
過去と、人間の忘れられぬ痛みにある。
人間は、過去に縛られて生きているのだ。カーリス教とて、過去に縛られて生きている。オロクカカとて、もう六千年も昔のことに対して怒っている。とっくに終わったことを蒸し返して、今を焼いている。
ああ、哀れなり。そんな人類が哀れでなくて、なんであるというのか。だが、怒りは燃焼するまでけっして浄化はされない。燃料があり続ける限り、一度点火された炎は消えないのだ。
相手を燃やし、自分自身を燃やし尽くすまで、永遠に。
「何か言い残すことはありますか?」
オロクカカは、最期の言葉をサンタナキアに問う。
信者の中には、聖女カーリスが最期に遺した「母よ、無知な子供らをお赦しください。彼らは自分が何をやっているのか知らないのです」という言葉を吐く者もいるという。それを知るオロクカカのちょっとした余興であり、皮肉である。
がしかし、サンタナキアはまったく違う言葉を遺した。
「アレ…ク…」
サンタナキアが最期に音にしたのは、友の名前。家族の名前であった。
オロクカカとの対話によって、彼の中のカーリス教という存在がどう変わったのかはわからないが、唯一絶対に変わらない想いは、自分が過ごした幸せな時間を守りたいというもの。
愛された記憶。
愛した記憶。
それも過去。すべてが過去によって生まれている。人間の優しさも怒りも過去に囚われ、一緒に燃えていく。
「なんとも美しい友情ですね。私がバーンでなければ見逃したのですが…。せめてあとで彼も一緒に燃やしてあげましょう。残骸があれば、ですが」
ヘビ・ラテが作った十字架には、たっぷりとアフラライト燃料が染み込ませてある。MGの燃料でもあり、非常に発火性が高いものである。ライターの火程度で、ガソリンを遥かに超えて爆発的に燃え上がるうえに、燃え尽きるまで消えない性質を持つ。
ガスッガスッ
ヘビ・ラテの脚が、身動きのできないシルバーフォーシルの装甲を穿っていく。耐性の強いシルバーナイトを、より燃えやすくしているのだ。こうした状況でも細かいことにこだわるのは、いかんともしがたい彼の神経質な性分なのであろう。
身体のあちこちに穴があき、出血していくが抵抗はできない。完全に束縛されてしまっていた。ただ幸いなことにシルバーフォーシルの損傷も激しく、少しずつフィードバックが弱まっていく。すでにサンタナキアに痛みはなかった。鈍い感覚と気だるさだけが残っているにすぎない。
そして、オロクカカは火気を生み出すと、十字架に着火。
十字架は燃え上がり、終焉の時を示す。
(ああ…終わりか)
サンタナキアは、薄れゆく意識の中で炎を見つめていた。
人生とは呆気ないものである。人間など、下手をすれば転んだだけで死んでしまう弱い生き物だ。その一方で、宿す叡智によって、大地すら変形させてしまえる恐ろしい生き物である。
不可思議で魅了的で、面妖で訝しく、それでいて美しい。
サンタナキアは人間が嫌いではなかった。そんな人間が、むしろ好きだったのだろう。今こうして死ぬ間際においても、気持ちは変わらない。だからこそ赦せる。自分を殺すであろうオロクカカへの憎しみすら湧かなかった。
(私は、死んだほうがよいのだ…)
ずっと自分という存在がわからないでいた。なぜ生まれ、なぜ死んでいくのかわからないまま、必死に何かにすがって生きていた。
ロイゼンの多くの人々が信じるカーリス教。オロクカカの言葉が真実だとすれば、ずっとすがってきたものが偽りだったことになる。今となっては真偽は定かではないが、サンタナキアにとっては、もうどちらでもよかった。
その段階で、彼の中の信仰心に変化が生じているのだが、死を強く感じる今、サンタナキアが想うことはただ一つ。
アレクシートのこと。
アレクシートの家族のこと。
自分を本当の子供のように愛してくれた人たちがいる。世界が温かいのだと教えてくれた人たちがいる。アレクシートの父親は厳しかったが、分け隔てなく育ててくれた。アレクシートの母親は、大好きなアップルパイをよく焼いてくれた。
嬉しかった。
嬉しかった。
ただただ嬉しかった。
それでいて、どこか寂しかった。
こんなにも愛しいのに、なぜかいつも【外側】にいるような気がしていた。アレクシートとの絆は本物なのに、やはり自分は【違う】ような気がしていた。
家族とは、けっして血の繋がりだけがすべてではない。いや、血の繋がらない家族のほうが、遥かに遥かに多いくらいだ。血が繋がっていても表面だけの家族が多い中で、サンタナキアはアレクシートと出会った。
これこそが女神の導き。
少なくともサンタナキアにとっては、それだけでよかったのだ。
自分とは違って無鉄砲でやんちゃで、強気で勝気で、いつも前に出ないと気が済まない迷惑な兄弟。負けても認めず、勝つまで何度でも挑み続ける兄弟。
アレクシートだって、簡単に騎士になれたわけではなかった。つらい訓練に耐えて、ようやく騎士団長になれた。払った代償の大きさは、アレクシートを家柄だけのお坊ちゃんだと陰口を叩く者よりも、絶対に絶対に上である。
そんなアレクシートを守りたかった。
自分を愛すべき家族だと呼んでくれた、愛すべき者を。
―――〈サキア、サンタナキア〉
(呼んで…いる。アレクが呼んでいる…)
自分を呼ぶ【声】がする。
それがアレクシートの声なのかどうか、もうわからない。だが、自分を呼ぶ声がする。サンタナキアは揺らぐ炎の中で、ただただその声を聴こうとしていた。
そして、呼びかけようとしていた。
触れ合おうとしていた。
「アレク…アレク……!!」
サンタナキアが何度呼んでもアレクシートは応えない。応えられない。彼は今、命を捨てたユニサンに殺されようとしているから。世界を燃やす【種火】にされようとしているから。
―――〈アレクシートは死ぬ〉
その【神託】が聴こえた瞬間、サンタナキアの視界が変わった。
それはまるで世界を俯瞰したような構図。空から大地を見下ろす鳥の視線。そこにはドラグニア・バーンに捕まっているシルバーグランの姿があった。
必死にもがいているが、相手のほうが強い。黒い機体から溢れているのは、怒り。怒りは周りのものすべてを呑み込み、破壊の衝動を撒き散らしている。
ユニサンは怒る。
世の不平等を認めている社会を。
アレクシートは怒る。
堕落しきったカーリスと、自分の不甲斐なさに。
死ぬ。死んでしまう。人はいつか死ぬ。その死にざまなど、武人ならば選べなくて当然。そんなことは騎士になる前から覚悟していた。アレクシートとて、いつ死んでもおかしくはないと知っていたはずだ。
でも、何かがおかしい。
何かが変だ。
今のアレクは何かが変だ。
(なんだ、この不純物は?)
サンタナキアの【眼】は、アレクシートの中に混じっている妙な気配を放つものに釘付けになる。
それは非常に薄く、小さなもの。プールに一滴だけ落とされ、何万倍にも薄められた塩素のように、普通ならばまったく気がつかないもの。しかし、目には見えないが確実に存在するもの。
―――〈【血】が目覚めたのです。彼の霊は苦しんでいます。でも、あらがえないのです〉
「なんだ!? 誰なんだ!? アレクじゃないのか!?」
サンタナキアは、自分に語りかける者がアレクシートではないことに気がつく。
女性の声だったから。
この声は女性のもの。明らかにアレクシートのものではない。だが、頭が痺れたように霞み、その正体をはっきりとは理解できない。しかし、視界の中のアレクシートが、いつもと違うことはすぐにわかった。サンタナキアは、女性の声よりもアレクシートに目を奪われる。
「アレク! アレク、どうしたんだ! この波動はまさか…、オーバーロードなのか!?」
アレクシートから異様な力を感じる。実際に見たことはないが、サンタナキアには、これが血の沸騰であることがわかった。今の彼の眼には、アレクシートの血液の流れ、その因子の覚醒が光り輝いて視えるからだ。
それはまるで、脈打つ光の粒子。霊体から強制的に情報が引き出され、肉体全身の因子が激しく鳴動している。見た目は非常に美しい光景であるが、その実情は極めて危険なものである。
光の明滅が際立っているのは、アレクシートの生命が急速に消耗され、闇が濃くなっているからにほかならない。アレクシートの命は、確実に磨り減っていた。
「アレク、アレク!! 行かなくては! アレク!!」
どんなにもがいても、十字架から逃れることはできない。すでに自分は、完全に蜘蛛に囚われてしまっていた。だが、それでも諦めることはできない。
もっともっと力を!
力が欲しい!
アレクシートを助ける力を!
愛する者を助ける力を!!
「―――ううう、うおおおおおおおお!!!」
突如、サンタナキアは燃えるような熱情を感じた。自分の中にある何かが弾け、急速に広がっていく感覚である。それに呼応して肉体が活性化するのがわかったが、意識は逆に鮮明になる。
これを使えば死ぬ。
武人の本能とも呼べる直感である。それは「もしかしたら」という曖昧なものではなく、確実にそうだという完全なる確信に基づくものである。
(これがオーバーロードの警告か)
サンタナキアは、これが噂に聞く因子の警告であると理解した。オーバーロードは、けっして無意識に起こるものではない。必ず自ら選択する機会が与えられるのである。
もしそうでなければ、多くの武人が不意のミスによって死んでしまうことになる。しかし、武人の直感というものは、そうなる前に警告を与えてくれるのである。
アレクシートも、完全に無意識に沸騰したわけではない。成し遂げるために、あらゆるものを犠牲にするという意思を示したはずである。彼の性格が強烈すぎたことに加え、ある程度正常な判断力を失っていたため、当人が完全に自覚しなかったにすぎない。
そして、もう一つの要素がある。
(この誘惑は…なんだ!? 身を任せたくなる)
サンタナキアは、自分の意思とは別に、その力を求めようとする欲求に気がつく。
誰もが強くなりたいと願う。そうありたいと願うのは、人間の成長への欲求である。それは甘美で、あまりに優しい誘惑。素直に従えば、すべてが自分の思い通りになるような気にさせる、背徳の誘惑。
麻薬中毒者も、最初から麻薬に頼っていたわけではない。ドーピング常習者も、最初からそれにすがっていたわけではない。しかし、その誘惑に負けてしまったのだ。その結果、身を滅ぼす。
サンタナキアは必死に抵抗し、追い出そうとする。彼の良識と理性が、最後の最後まで生き残っていたからだ。しかし、まとわりつく気配は異様に強く、彼の精神に強く訴えかけてくる。
ダイエット中にいつも以上に甘いものが欲しくなるように、砂漠でようやく見つけた水のように、なんて、なんて甘い誘惑。アレクシートが無意識のうちに、無警戒のうちに手にしてしまうのも仕方がないと思えるほど、甘い果実。
(駄目だ! それは駄目だ! これは単なる力じゃない! 冒涜だ!)
オーバーロードは、とても便利なものに思える。わずか数十分だろうが、鬼神の如き力を得られるのならば、戦術として組み込むことも不可能ではないだろう。だが、間違っているものである。人間の正常の進化とは別のものであり、下手をすれば、霊魂にすらダメージを与えてしまうものだ。
これは毒である。
どんなに美味しそうに見えても毒である。
それを知るサンタナキアは、幸せだったのか不幸だったのか。けっして口にしようとはしなかった。唇に押し付けられても口を閉じて、歯を食いしばって抵抗する。
―――〈この誘惑に耐えるとは、予想以上です。あなたの意思の強さは本物です。しかし残念なことに、呪縛はそれを許しません〉
「う、うう…うわあああああああ!!?」
抵抗するサンタナキアの身体が、突然燃えるように熱くなる。これは火に包まれているからではない。身体の内部、その奥から湧き上がってくるものである。
―――≪≪カーリス教に抵抗する者を殺せ≫≫
頭の中で、さきほどの女性とは違う声が聴こえる。それは妙に重々しく、なおかつ重低音とともに響き渡る不快な男性的な声質であった。聴くたびに吐き気を催し、必死に吐こうとするが、単なる胃液しか出ない。
これはもっと奥底。自らの血の中、因子の中に混じったものである。
長年の間に融合し、結合し、秘匿され、じわじわと染み渡っているものだ。それゆえに非常に粘着質で、うっかり踏んでしまった靴底のガムのように、拭けば拭くほど薄く全体に広がっていく。
「なんだ! これはなんだ!! やめろ!! 誰だ!」
―――≪≪目覚めさせろ。力を求めろ≫≫
「うぁあああああ!!」
その声は、強制的にオーバーロードを引き起こそうとする。サンタナキアが激しいショックに困惑している間に、精神を乗っ取ろうとする。
これは意思でどうにかなる問題ではない。抵抗しようにも、相手は強制力を持っているのだ。なんと理不尽なことであろう。最初から仕組まれた裁判の被告人席にいる気分である。
抵抗は無意味、無駄。
あらがうことなどできない。
何が起こっているのか、まったく理解できない。聴こえる声も、すべて幻聴なのかもしれないと思うほど、まったく現実感がない。まるで映画でも見ている気分である。
―――〈あなたは疑問に思っている。なぜ、こうなるのか。これが何であるのか〉
「あなたは…誰だ?」
朦朧とする意識の中、不快な男性の声は徐々に小さくなるのに、女性の声だけがはっきりと聴こえた。女性の声に不快感はない。それどころか、穏やかで優しく、静かな波動を感じる。
―――〈血の呪縛。すべてのカーリス教徒に与えられた呪縛です〉
「…呪縛? 呪い? …聖女様を殺した…罰なのか?」
―――〈いいえ。罰など与えていません。これは、あなたがたが自ら望んだこと〉
「痛みを…望む? 自分で…? 駄目だ…。このままでは…もう)
サンタナキアの判断力が急激に低下していく。このままでは理由はわからないが、強制的にオーバーロードさせられてしまう。もはや抵抗することはできない。自分もまた、アレクシートと同じく沸騰してしまう。
さまざまな想いが駆け巡る。交錯する。衝突する。燃え上がる。
その炎の中を、声は静かに語る。
―――〈サンタナキア、あなたはきっと知るでしょう。そして、自ら選ぶでしょう。しかし、ごめんなさい。今、あなたに選択が許されないことを〉
―――〈この時を待っていました。ずっと、長い間、この日を〉
―――〈さあ、目覚めを。私の力をあなたに託しましょう〉
―――〈それによって、多くの人が死ぬとしても〉
毒素が全身に回り、血を燃やしていったその瞬間、サンタナキアに語りかけていた声が毒の回線に割り込む。
そして、蹂躙。
「うわあああああああああああああ!!!」
その激痛にサンタナキアは絶叫。暴れ、のた打ち回り、頭を叩きつけ、唇を噛み締める。打撲が生まれ、血が流れ、嗚咽がこぼれる。
「ううう、うおおおおお! 熱い、熱い、熱い!!!!」
「眼が!!! 眼が熱いいいいいいいいいいいい!!!」
「やめろ!! やめてくれ!! おおおおおおおお! 痛い、痛い、痛いんだ!!!」
「本当に痛いんだ!!! 痛い、痛い!! ゆ、許して!! 許してくれ!!」
痛みに鈍感になっていた矢先の突然の過敏。その落差には、忍耐強いサンタナキアであっても絶叫してしまう。泣き叫び、許しを請うてしまうほどに。
「眼が、眼が痛い!!!! 無理だ! 我慢なんてできない!! 痛い、痛い、痛いんだあああああああ!」
サンタナキアは全身に回った毒以上に、眼が燃えるように熱いことを知る。まるで両目に焼き鏝を押し付けられたような痛み。熱くて鮮烈で、すべてを失い、すべてが燃えるような痛み。
洗い流され、
ほだされ、
しわくちゃにされ、
粉々になる感覚。
「イタイイタイイタイイタイイタイイタイ!!! ユルセナイ、ユルセナイ、ユルセナイ、ユルセナイぃいいいいいいいい―――!!!」
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
「な、何事ですか…!!」
これに驚いたのは、燃え上がった十字架を見つめていたオロクカカである。その中央にいるシルバーフォーシルに、異変が起こったのは明白である。
サンタナキアの叫び声はもちろん、機体であるはずのシルバーフォーシルにも異常があった。
「これは…【血】!?」
シルバーフォーシルの両目の部分から血が流れていた。まるで血の涙を流す人間の姿のように、叫び、咆え、許しを請い、泣く。おのれが犯した罪を悔いるかのように、ただただ泣いていた。
同時に、怒り狂っていた!!!!
そうなのだ。この存在は、ただ泣いていたのではない。あまりの痛みに叫び、嘆き狂い、激しい怒りを叩きつけていたのだ。壁を何度も殴り拳が砕けて出血するように、棒切れで何度も何度も殴りつけ、自らの手のひらに血が滲むように!!
何度も何度も何度も怒って、怒って、怒り続けていた!!
それがついに頂点に達する。
「ユルセナイ!!!! コロシテヤル!!!!!」
シルバーフォーシルから激情そのままに、あまりに強大な戦気が放出される。それは炎すら呑み込み、十字架すら一瞬で蒸発させた。
「まさか、血が沸騰したのですか!?」
オロクカカが最初に思ったのが、アレクシートと同じ血の沸騰である。
条件がそろえば、武人はいつでも沸騰する可能性を秘めている。他の聖騎士たちは沸騰する前に死んでしまったが、まとめて覚醒されると厄介なのは間違いない。もちろん誰もに起こることではないが、カーリスの聖騎士ならば十分ありえることである。
ただし、ユニサンがそうであるように、仮に血が沸騰したとてバーンの敵ではないだろう。オロクカカもそう思っていた。だからこそ目の前の事態が呑み込めない。
あまりにも違いすぎる。
サンタナキアのそれは、明らかに違う。
今まで見てきた血の沸騰とは、あまりにも一線を画している。何よりも、機体が血の涙を流すなどありえないことである。いくらオーバーギアとて、よほど機体とシンクロしていなければ不可能なことである。
ゼッカーのガイゼルバインならば、自己と完全にシンクロするため、それが可能であるものの、そのような現象は神機であっても非常に稀である。本当に完全なる一体化を果たさねば無理なのだ。
もしそれが現実で起こっているのならば、これこそ奇跡だろう。
「ううう、うううう…!!」
サンタナキアは、あまりに熱い両目を押さえていた。シンクロするように、機体も同じ格好をし、血は両目からとめどなく流れ続けている。
その異様な光景に圧倒されていたオロクカカであるが、彼はバーン。自分の役目を忘れたりはしない。
「どちらにせよ、そのまま死んでもらいますよ!」
ヘビ・ラテは糸を吐き出して、再び捕えようとする。血が沸騰しようがどうしようが、殺すことには変わりないのである。そこに揺らぎは微塵もない。
が、シルバーフォーシルは、両目を押さえた状態のまま紙一重でそれを避ける。あまりにも自然にかわしたので、本当は見えているのかと思ったくらいであるが、しっかりと目は閉じられていた。
それにはオロクカカも驚愕。それが偶然でないことがわかったからだ。偶然でよけられるほど彼の攻撃は甘くない。
(なんですか…この感覚は)
オロクカカは、異様な感覚に包まれていた。オーバーロードした相手とはいえ、実力では圧倒できるはずである。このまま突っ込めば倒せるはずだ。しかし、足が前に出ない。サンタナキアから発せられる不可思議な圧力に、武人の本能が危険を告げているのだ。
―――危ない。逃げろ。
と。
「馬鹿な!! 私はバーンなのですよ!! 主に選ばれた戦士!! 臆するなどありえない!! あってはなりません!! こんなものは気の迷いにすぎない!!」
当然ながらオロクカカは認めない。認められない。認めるわけにはいかないのだ。足の震えは、気の迷いだと一蹴する。
「今度こそ確実に処刑します!」
ヘビ・ラテは、力を振り絞って攻撃態勢に移行。獲物に飛びかかる蜘蛛のように、一気に脚撃の間合いに入る。
そのまま二本の脚で高速の突き。
「うう…!!」
シルバーフォーシルは左手で目を覆いながらも、右手の剣を使ってギリギリで攻撃を回避。その対応を見てオロクカカは確信。やはり瀕死の状態である。
「最後のあがきとは見苦しいですよ! 死になさい!」
ヘビ・ラテは、猛攻とも呼べる攻撃を続ける。ただ、そこはさすがに慎重なオロクカカである。攻撃をする際にも、いっさいの油断はしない。細心の注意をしながら、糸を絡めて緻密な攻撃をしていく。
これだけ用意周到ならば、ヘビ・ラテの攻撃は当たる。当たるのだが、またもやギリギリのところでかわされる。けっして致命傷には至らない。いたずらに外装を傷つけるにとどまる。
「何が…起きているのですか…」
それが何度も続けば、オロクカカにも異様さが伝わってくるのが必然である。なぜ、目の前の存在は、目を覆いながら対応できるのか。すでに機体はボロボロ、肉体もボロボロ、そうであるのに、どうしてこうも動けるのか。
それがユニサンのように、強い覚悟によってもたらされるのならば、まだオロクカカも理解できる。武人の強さは、精神力によって左右される。意思の強さによって、折れない両腕を作り上げることもできる。
だが、目の前の存在から感じるものは、そうした覚悟とはまったく別のもの。ただただ荒れ狂う力を持つ、何か異質なものである。
そして、ついにサンタナキアに激震が走る―――!!
「はぁはぁはぁ、はぁはぁはぁ!! 熱い、眼が熱い!!! どうしてこんなに痛いんだ!! どうして、どうして!! どうして!!!」
「私は、僕は、望んでこうなったわけじゃない!! だって、しょうがないだろう!! 僕は、僕は、僕は、生きるために!!」
「罪なのか! それが罪なのか!! これが罰なのか!!! どうしていまさら!! そんなことを言うんだ!!」
「ユルセナイ、赦せない、許せない、ゆるせない!!! この世界が許せない!! ユルセナイ!!!」
「自分で自分が許せないんだぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
真昼のような夜。
そう形容するしかないだろう。少なくとも一瞬、世界が昼になったのだ。その光は、偽りの光に酔いしれる富の塔よりも大きく、強く、儚げで弱々しい光。
【双眸】から零れ出る光の奔流が、世界を席巻する。
ただし、それは赤い光。優しい色ではなく、激情の色。排他的で攻撃的で不寛容で、この世界にある一切合切を蹂躙する光!!
「はぁはぁはぁ! はぁはぁ…」
少しずつ呼吸が落ち着いてきた。慣れてきたのだ。人とは、いかなる痛みでも慣れてしまう生き物なのだと、サンタナキアは痛感する。
「その瞳は…」
オロクカカは、サンタナキアの瞳が見えた気がした。機体で遮られているのだから幻かもしれない。だが、鮮明にそれは見えたのだ。
眼に焼き付けられた【聖痕】を。
それは、カーリス教徒の聖痕とは、少しばかり違う形をしていた。まるで炎のような、揺らめく陽炎のような、痛々しく燃えるような聖痕が刻まれている。
眼は血で真っ赤に染まり、赤い双眸がオロクカカを見つめている。いや、彼の眼は周囲の何物も見てはいなかった。
「アレクを助けなければ…こんな世界から助けなきゃ…」
サンタナキアはそう呟き、ゆっくりとオロクカカに背を向ける。その方角はアレクシートがいる方向だ。感じる、アレクシートを感じる。彼が自分を求めて、自分の名前を呼んでいる。
だから行かねばならない。
助けないといけない。
彼が今、痛みと恐怖の中で苦しんでいるのならば、自己のすべてを投げ打ってでも助けないといけない。だって、家族だから。だって、愛する者だから。だって、半身だから。
「何を言っているのか理解できませんね」
もう彼は、おかしくなってしまった。自分が追い詰めすぎたのが悪かったと反省するオロクカカ。憎きカーリス教徒であっても、最低限の人間の尊厳は守るべきであった。オロクカカは残忍な人間ではない。できれば苦しむことなく殺そうと思う慈悲深い存在なのだ。
十字架に縛ることなく、ひと思いに串刺しにしてやるべきだった。そうしなかったのは自分の落ち度である。それは認めねばならない。
しかし、今のサンタナキアの行動は許せなかった。
「敵に背を向けられるなど、武人としての恥辱!! 相応の報いは受けてもらいます!!」
武人にとって、侮られることは最大の侮辱。圧倒的な力の差がある強者ならば許されるが、それが逆の立場ならば我慢できない恥辱である。
バードナーの逃げ方は、潔かった。最初から勝ち目がないと悟り、一目散に逃げる姿は、むしろ清々しいものである。彼の気概、彼の責任感が滲み出ており、好感が持てるものであった。
だが、サンタナキアのものは違う。
まるでオロクカカなど、道端に落ちている【百円玉】に等しいものであるかのような態度である。多少気にはなるが、わざわざ拾うほどの価値もない、という程度の扱いであった。
それがオロクカカの激怒を誘った。これがサンタナキアの作戦であっても、バーンであることに誇りを抱く彼にとって、見過ごしておけない行動である。
激怒したヘビ・ラテは、容赦なく背後から襲いかかる。誇り高い戦士である彼が、背後から攻撃するのも当然のこと。それだけ怒ったのだ。
しかし、そんな叫びもサンタナキアは無視。
彼の眼には、アレクシートしか映っていない。シルバーフォーシルは、ヘビ・ラテの高速の脚撃を難なく回避。背後に目があるかのように簡単にかわす。この時のオロクカカの衝撃は言葉にはできない。問題は、その攻撃の避け方である。
すべてを紙一重でかわしたのだ。
それはギリギリかわした、というレベルではなく、完全に見切った避け方なのだ。まるでホウサンオーが【雑魚】と遊ぶ時のような、慣らし運転を試すかのような、そんな余裕すら見える。
それは何度やっても同じ。二回も五回も十回も、何度やっても、シルバーフォーシルは完全に攻撃を見切っている。しかもこちらを一度も見ずに。
(馬鹿な! 馬鹿な!! 馬鹿な!!!!! ありえない!! ありえないぃいい!!)
オロクカカはパニックに陥る。今まで圧倒していた相手なのだから、それも仕方のないことである。
ただ、それ以上にありえないことは―――
「どうして! こんなにも遠いのだ!! 認めない! 認められない、こんなことは!! 絶対に!」
オロクカカが一番認めたくなかったこと。
それは彼が一流の武人だからこそ、気がついてしまったこと。
オロクカカは、サンタナキアを【畏怖】している。
感じるのだ。その身から発せられる圧力を。けっして届かないであろう力を。それは下位バーンが上位バーンに感じる、圧倒的な敗北感に似ている。
たとえばオロクカカが、ホウサンオーに感じる敗北感は絶対的である。そこにはいかんともしがたい差があるのだ。その立ち位置を痛感するがゆえに、オロクカカは頭を垂れる。
これは他のバーンも同じことである。
ホウサンオーをジジイ呼ばわりする不良バーンたちも、その絶対的な力の差を知っているからこそ、作戦においては絶対に逆らわない。強者には強者たちの掟、ルールがあるのである。
そのルールに照らし合わせた時、今この瞬間、両者の立ち位置は鮮明に分かれていた。
「認めない! 認めない!!! 私は認めない!!!」
ヘビ・ラテは、大量の糸を放出。視界を埋め尽くしてしまうほどの糸である。これならば、よけることはできない。
オロクカカはこの時、正常な判断力を失っていた。まったく当たらない攻撃に業を煮やし、とにもかくにも当てることを最優先とした。その結果として糸を選択したのだが、それは当たったところで、さしたるダメージも与えない軽い攻撃である。
言ってしまえば、サンタナキアの興味を自分に移そうとする、弱者がやってしまう挑発に近いものであった。だが、それはやってはいけなかったのだ。認めないのは自由であるが、これ以上、彼を刺激するべきではなかった。
女神への忠誠? 武人の誇り? バーンの役目?
まったくもってお笑い種である。
なぜならば、そんなものは…
「邪魔をするなあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――――――――――!」
シルバーフォーシルは、大剣を一閃。オロクカカの目でも、いつ振ったのかわからないほどの速度である。
ヘビ・ラテは咄嗟に半身になって脚でガード。
するべきではなかった。半端に直感が働いてしまったゆえの対応なので、非難はできない。だが、その結果があまりに酷い。
ヘビ・ラテの左側の四本の脚が、ずるりと落ちた。
まるで粗末な接着剤でくっつけた後のように、まだ乾いていないのにうっかり触ってしまった時のように、わずかな糸を垂らしながら足がずり落ちていく。
「っ!!? ―――!?!」
オロクカカは、そのことを理解できない。できるはずもない。しかし次の瞬間には、シルバーフォーシルの第二撃が迫っていた。
オロクカカは、それも反射的に右脚で対応。
これも良い対応ではなかった。うっかり受けた脚が、まったく同じくずるりと落ちたのだ。落ちた脚は、その重さによって地面のコンクリートを破壊するので、けっして柔らかいものでないことは確かである。
がしかし、そんなことは関係ないのだ。重かろうが軽かろうが、硬かろうが柔らかかろうが、この圧倒的な暴力の前では、まったく無意味なのだ。だが、犯した過ちの結果は、受け入れねばならない。それだけは唯一平等に訪れる。
「うう、うぐああああああ! 私の脚がぁああぁああああ!」
カノンシステムでリンクしているため、直接的なダメージ還元が起こる。オロクカカの両手足が切断され、かろうじて右腕一本が、筋組織の数本で残っている状態となってしまう。
コックピット内部では、大量出血と同時にアラームが鳴り響く。これはもう撤退勧告などという問題ではない。いますぐに放棄して逃げろ、という指示である。
―――何を犠牲にしても逃げろ。
それがMGが判断した冷静な行動規範である。
「わたくしは、わたくしはぁああああ! バーァアアアアンなのですよ!!」
だが、そんなことを聞くような男が、バーンになれるわけがない。オロクカカに撤退するつもりなどなかった。
脚を失ったヘビ・ラテは動けない。というのは誤まった認識である。ヘビ・ラテの上部の女性の部分が、下半身と離脱して空を飛ぶ。下半身は自爆し、大地に激しい爆炎が広がった。
爆炎は、リビアルのものよりも強力で、大地を這う瞬間にすべてを溶解させていく。残ったマゴラテ、ミドラテもすべて吐き出され、それが次々と爆発していくさまは、まるで溶岩地帯への絨毯爆撃である。
周囲一帯を、圧倒的な熱量が破壊し、蹂躙していく。
シルバーフォーシルは、剣気を張って爆炎を防御しつつ、迫ってくるミドラテたちを正確に迎撃している。あらかじめ来る場所がわかっているかのように、淡々と淀みなく切り裂く姿は芸術のように美しい。
これだけの爆発を耐えるなど、普通の状態ではありえない。火炎に対する絶対防御があるシルバーグランならばともかく、シルバーフォーシルは耐性がある程度である。普通にくらえば、内部に影響を及ぼすほど焼け焦げるはずだ。
それを防いでいるのが、荒々しく強烈な戦気である。今まで放った戦気など、まるで児戯に等しいものに感じるほど、圧倒的で濃密な戦気を放っている。ガガーランドが通常時に発する戦気にも匹敵する強さである。
それでも相手の動きを制限する力はあった。手痛いダメージは与えられずとも、シルバーフォーシルを動けなくすればよいのだ。目的は十分果たしたといえる。
「貴様などにぃいいい! カーリス教徒などにいい!!! 主の邪魔はさせぬううう!!!」
オロクカカは、残った上半身だけで勝負を仕掛ける。その執念、その意気込み、彼は紛れもなく真のバーンである。
まるで祈りを捧げているように閉じられていた、上半身だけの女性の手が開くと、そこには最後の牙が隠されていた。
【蜘蛛の毒牙】である。
禍津蜘蛛が持つ最強の攻撃手段かつ、最後の奥の手である毒牙。この牙には、機体のすべてを破壊するルイセ・コノが作ったウィルスが仕込まれており、叩き込まれた機体は間違いなく再起不能になる。
しかし、これは同時にヘビ・ラテすら破壊することになる諸刃の剣。まさに相討ち覚悟の捨て身用の特殊武装である。
バーンであるオロクカカが、ここまで追い込まれる。ついさっきまでは、こんな事態は考えられなかったことである。だが、オロクカカに敗北は許されない。負ける時は死ぬ時。それがバーンの宿命なのである。
(せめて相討ち!! 私の信仰を示す!!)
オロクカカの気迫を感じ取ったガヴァル二機もサポートに入る。ロキの二人も自爆覚悟で突っ込む。自らの死で、一瞬でも隙が作れればよいと考えている。
この三人が、死を覚悟して向かってくる状況は、非常に恐ろしい。志郎やデムサンダーが直面したピンチを遥かに超える。バーンの決死の覚悟ほど恐ろしいものはないのだ。
ヘビ・ラテの毒牙の一撃は、今までで最速であったのは間違いない。全身全霊をかけた一撃であった。ロキたちの動きも決死のもの。半端なものではない。ただし、力に善悪はない。より大きな力ある者が現れれば、その者こそが正義となるのが世界のルールであった。
「くだらない」
サンタナキアの眼が映し出すのは、スローモーションの動き。何の恐れも怯えもなく、すっと身を一メートル程度動かすだけ。ただそうするだけで、オロクカカの渾身の一撃は、彼の眼前を通り過ぎていく。
「まだ!!」
ヘビ・ラテは、戦糸を使って強引に軌道を変更。無理な動きに傷ついた身体から噴水のように血が噴き出るが、そんなことはお構いなし。ただただ一撃を入れるためだけに動く。
しかし、哀れなるかな。
たかだか蜘蛛でしかない存在は、永遠に空に届くことはない。
いくら糸を天に伸ばしても、何にも引っかからず、仏が引っ張ってくれるわけもない。たかが虫がどんなにあがいても、けっして何も起こらないのだ。
シルバーフォーシルは、軌道変化にも対応。直角に曲がった不意をつく一撃も、難なくかわしてみせる。そしてシルバーフォーシルは、最初からヘビ・ラテがそのラインに来ると知っていたような動きで、大剣を振るっていた。
刃先が女性像の腹に触れる。
それは軽く、ちょっと触れただけ。
されど、【真芯】に入った一撃は、ただそれだけで
―――真っ二つ。
ヘビ・ラテの本体が、上下に真っ二つ。
戦気の防御も何の意味も成さない。戦気はすべてが均一な状態で成り立っているわけではない。すべてを意識的に強化しない限りは、必ずどこかに隙間が存在する。サンタナキアはそこを斬ったのだ。
そして、そのまま回転して剣を振るい、背後に迫っていた二機のガヴァルを斬り裂く。ガヴァルはサーベルで防御するが―――
バシュン
不思議な軽い音がしたと同時に、シルバーフォーシルの横を通り過ぎ、ビルに衝突。直後に二機とも真っ二つ。
「―――死ね!!」
爆発。自爆である。
巨大な炎に焼かれながら、ガヴァルとヘビ・ラテはついに息絶えた。
圧倒的。あまりに圧倒的。
それは道端で見かけた矮小な蜘蛛を、人間が軽い気持ちで踏み潰したような光景。ただ気持ち悪いという理由で殺した、見る者に嫌悪感を与えるほどに圧倒的な力の差であった。
さらに「死ね」という言葉。このような残酷な言葉を彼が発したことは、人生で一度もなかった。心優しいサキアならば、絶対に発しない悪魔の言葉である。
ああ、サキアは死んだのだ。
あの十字架とともに死んだのだ。
では、これは誰なのか。
この存在は何なのか。
序列八十二位といえど、バーンである彼を圧倒するほどの力を持つこの男は、いったい誰なのか。
その答えを知る者が一人いる。
その男、序列六位の上位バーンであるケマラミアは、上空からその惨事を見つめていた。彼は、目の前の存在が何者であるかを知っていた。
なぜならば、彼もまた同じ存在だから。
「十人目、見っけ」
ケマラミアは笑った。
十人目。
最後の一人。
その瞬間、ヨハンがランバーロの司令室に貼ったリストが輝きを放ち、名前が自動的に綴られていく。
バーン序列十位 サンタナキア
宿命の螺旋は廻っていく。
応援ありがとうございます!
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