十二英雄伝 -魔人機大戦英雄譚、泣かない悪魔と鉄の王-

園島義船(ぷるっと企画)

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零章 第四部『加速と収束の戦場』

六十六話 「RD事変 其の六十五 『紅虎の動き⑤ エイゾウム、死す』」

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「おっ、準備は進んでいるみたいね」

 紅虎はパクシュの符が行き渡ったことを確認し、満足そうに頷く。

「オレ様がいるのだ。当たり前だ」
「シュトラは何もしてないの。パクシュがやったんだから。あっ、シュトラが地面壊したんだよ~」
「こらっ、余計なことを言うな!」
「あはは、いいって、いいって。気にすることはないわよ」

 そう紅虎は言うが、べつに自分が弁償するわけではないので気楽なものである。結局、誰かが尻拭いをするのだから、もっと気にしてほしいものだ。

(あれが紅虎様…)

 エイゾウムは、楽しそうに談笑する紅虎を改めて眺める。

 最初は強引に連れられてきたので、紅虎をよく見る機会がなかったのだ。パニックに陥っていたため、覚えているのは後姿くらいである。しかし、こうしてじっくり見る紅虎は、エイゾウムの目には鮮烈に映った。

(き、綺麗な人だ。いや、可愛い…かな? いやいや、それは失礼だろうか)

 紅虎の容姿は、目がくりりと大きいので、綺麗よりも可愛いといった部類に属するだろう。活発な生活も相まって、とても魅力的に映る。

 正直、好みである。

 エイゾウムはまだ少年ということもあって、あまりに綺麗な女性には負い目を感じてしまって苦手だ。容姿も悪いわけではなく、しかも国王なのだから負い目を感じることもないのだが、女性に対して距離を取ってしまうウブな少年であった。

 その点、紅虎はなんとなく近寄りやすい。あの明るい雰囲気と可愛らしい顔立ち、その中にある女性的な仕草が魅力的で、思わず胸の高まりを感じるほどだ。だが、直系を掴まえて可愛いというのは失礼に思えて、その考えを振り払う。

 魔法王国といっても人間の国家なので、やはり直系への憧れは強く存在する。こうして紅虎を眺められるだけでも貴重な体験なのだ。そこに俗的な考えを抱くなど、あってはならない。

 思考を切り替えるために、エイゾウムは視線を動かす。

(あの後ろの人たちは誰だろう?)

 紅虎の後ろには、静かに佇む十三の人影がいた。すべてが白いコートを着ているのだが、初めてそれらが目に入ったとき、エイゾウムには黒い影の集団のように見えた。

 世の中には忍者や密偵のように、日陰の世界に生きる者たちがいる。そういう者たちは、やはりどこか陰を宿しているものだ。だからそれほど驚くことはないのだが、発する雰囲気があまりに独特なのである。無機質で硬質で、柔軟性というものがほとんど感じられない。

 それはまるで、抜き身のナイフのようである。
 しかも毒付きの。

 持ち主でさえ扱うには危険が伴う毒ナイフが、抜き身の状態で迫ってくる。そんな異様な気配を感じて、思わずエイゾウムは死を覚悟した。しかし、後ろの人影はまったく動くことはなく紅虎に付き従っているようである。そうした呼吸さえも止まっている様相が、さらに不気味さを助長させている。

「なかなか興味深い人間を連れてきましたね」

 隣でアン・アデイモンが呟く声が聴こえる。

 この人物はかなり特殊な知識に優れるようなので、あれらのことにも造詣が深いのかもしれない。思いきって訊いてみれば正体がわかるかもしれない。それは知的好奇心が刺激される面白いことだろう。

 が、エイゾウムは、それに関わってよいのかを悩んでいた。これ以上関われば、もう戻ってこられないような気がしていたのだ。結局、訊かないほうが身のためだと思い、何も見なかったように視線を戻す。

「あんたたちは、そこに並んでね」

(あっ…近い)

 そうこうしているうちに、紅虎の指示で人影たちが列に並ぶ。十二人は後ろに回ったのでよいのだが、そのうちの一人はエイゾウムの隣に立った。

 人間とは不思議なもので、「嫌だな」と思うと、それが実際にそうなることがある。入学式で「あれが担任だったら嫌だな」と思った教師が、ものの見事に自分の担任になる、ということも往々にしてあるものだ。実に不思議で奇妙なことである。

 そのうえ、ここにきてエイゾウムはさらなる窮地に陥る。右にはアン・アデイモン。左には不気味な存在。知らない間に、どんどん外堀が埋められていくような恐怖に背筋が凍る。

(いや、外見や雰囲気で人を評価するなんて最低だろう。鬼神さんなんて、あんな顔だけど優しいじゃないか。うん、そうだよ)

 魔王城から取引でやってきた鬼神を思い出す。まさにお伽噺とぎばなしに出てくるような、口が大きく裂けて鋭い牙を剥き出しの鬼が、「あっ、すんません。魔王商事から来たもんなんやけど…社長さん、おられます?」と丁寧に挨拶に来たのだ。

 最初はびっくりするが、大事なのは内面である。触れ合ううちに、温和で知性的な彼の性格を知り、仲良く談笑するような間柄にもなった。そうなのだ。外面などたいしたことはない。

「ど、どうも」

 エイゾウムが勇気を出し、隣にやってきた人影に挨拶をする。それと同時に、さりげなく観察してみる。挨拶ついでに視界に入っちゃったからしょうがないよね、という状況を装って見つめる。

(あ? かわ…いい?)

 なんと、隣にいたのは自分と同じ年齢くらいの【少女】であった。

 白いコートの中に黒い服を着ているようだが、そこからこぼれるのは、紅虎ほど鮮やかではないが、美しい桃色の髪。肩で切りそろえた髪がコートからわずかに流れ出て、夕焼けに反射する姿は、その雰囲気もあってかなかなかに幻想的である。

 そのすべての顔が見えたわけではないが、無表情で多少の冷たさを感じるものの、美少女といって差し支えないだろう。改めて見れば、背格好も自分とあまり変わらず、どちらかといえば華奢な体格をしている。

 こう言っては失礼だが、全体の雰囲気から【薄幸の美少女】という言葉がよく似合う。そして、その少女こそンダ・ペペと呼ばれる、カーリス最高戦力、アプスの部隊長の一人である。

「…………」

 ンダ・ぺぺから返事はない。そもそもエイゾウムの声など届いていないかのように、何の反応も示さない。

(ま、まあ、この人もどこかの国の所属なんだろうし、いろいろと事情があるよね。あまり仲良くするな、とかも言われているかもしれないし。でも、この服は…カーリス教っぽいな。教団の術者だろうか? いやいや、詮索しないほうがいいよね。うん、女の子の詮索なんて最低だよ)

 エイゾウムは気を取り直し、深呼吸をする。とりあえず今は紅虎の言葉を聞かねばならないのだから。

「それじゃ、今回の作戦の説明をするわね。あんたたちの役割は簡単。アピュラトリスから出てくるもの、そのすべてを一定の範囲から通さないことよ」

 紅虎の説明に、術士たちは首を傾げる。その言葉の意味を測りかねたのだ。当然、疑問が出てくる。

「あの、それはどのような対象を指すのでしょうか? その、たとえば人や魔人機など、そういったことですが…」

 エイゾウムの斜め後ろにいた壮年の男が質問をする。いかにも術士といったような薄暗いローブをまとい、手には杖状の術具を持っている。

 ただ、その質はかなり上等で、濃紫のローブには多種の耐性と精神力自動回復の効果、杖は炎の理を組みやすくするジュエルが植えられている。どれも簡単に手に入るものではない高価な品々だ。

 エイゾウムの記憶によれば、西大陸の術士組合に属する術士で、〈宴葬えんそうのサイキュロ〉という通り名を持つ、主に炎系の術を得意とする上級術士である。現在はどこかの国の宮廷術士をやっていると聞いたことがある。

「うん、もっともな話ね。パクシュ、あっちの状況は?」
「んー、まだちょっと戦っているのね。強い獣が二匹と、それ以外にもちょこちょこ。上空に変なのが一匹いるけど、あれはどうするの?」
「そんなのいるの? 何だかわかる?」
「んと、なんだろ。精霊かな? わたちたちよりは下位みたい」
「じゃあ、それは放置でいいかな。特にセンサーには反応していないし」

 パクシュは、親指と人差し指で丸を作りながら、そのあどけない瞳で覗き込み、まるで今見ているかのように状況を把握する。

 しかし、ここからではアピュラトリスの上部が少し見える程度だし、さまざまな建物が邪魔をするので、どんな高性能の望遠鏡があっても状況を把握することは不可能である。

 しかし、紅虎は何の疑いもなく受け入れる。

「まだ小競り合いがあるってことは、状況は切迫していないようね。でも、あまり悠長にはしていられないか。…と、対象の話だったわね。もちろん人間や、それが操る魔人機に関しては対象外とするわ」

 アピュラトリスには、大勢の人間が取り残されている。(それが最低優先順位でも)その救出も目的の一つであるし、いまだ周囲では小競り合いが続いていた。大勢は決したようだが、悪魔側はいまだ抵抗を続けている状況である。

 それらを含めて無視してよい、と紅虎は言うのだ。

「それはつまり、テロリスト側も無視、ということでしょうか?」
「そうよ」
「で、では、何を対象にすればよろしいのですか?」
「それ以外のもの。そうとしか言いようはないわね。大丈夫。見れば一瞬でわかるわ」

 紅虎が意図的に隠している、という印象ではなかった。本当にそれしか言いようがないといった様子で、少し困ったように笑っている。そのことがむしろ周囲の混乱に拍車をかけるわけだが。

「まず第一に、あなたたちの役目は戦闘ではないわ。そこは安心して。ただ、自分の身に危険が及ばないように自衛は心がけてちょうだい。そのあたりの責任は取れないからね」

(えー、あんな強引に連れてきたのにー!?)

 エイゾウムにしてみれば、ほぼ強制連行である。アン・アデイモンやンダ・ぺぺは取引によって連れられてきたが、そうではない人間にとっては厳しい宣告である。

 というより、大半の人間がエイゾウムのように連行されてきている。そうした者たちは、いっせいに顔を引きつらせた。

 というのも術者という存在は、戦闘では主に後衛に位置するのが定番だからだ。前衛の戦士が防ぎ、中衛の剣士や暗殺者が掻き回し、後衛の術者が一方的に攻撃をする。これが基本の戦い方である。(術者が回復の場合もある)

 なので、術者が仮に前衛に出れば――秒殺である。

 よほど強い結界によって守られでもしなければ、いかに一流の術士であっても二流以下の武人に負けてしまうだろう。あるいは先制攻撃の一撃で倒すしかないが、そういった賭けをするのは最後の手段だ。

 だからサイキュロの言葉も至極当然のものであった。

「ご、護衛は…いるのでしょうか?」
「うん。シュトラが守る予定」
「うむ、任せておけ」
「それならば…」

 すでにシュトラの実力の片鱗を垣間見ている者たちは、ほっと胸を撫で下ろす。間違いなく超一流の武人並みであろうシュトラがいれば、そう簡単には危害は受けないだろうと思われた。

「でも、あいつらがどう動くかわからないし、数によっては捌ききれないこともあるから、そこらへんは油断しないようにね。言っておくけど、今のグライスタル・シティに安全な場所はないわよ」

(そうだったー。テロリストがいるんだ!)

 完全に外野であったエイゾウムには意識しづらいが、今現在テロリストと交戦中なのである。優勢とのことで安堵はしているものの、相手がどのような手段に出るかもわからない。

 ルシアの親衛隊とも対等に戦える相手なのである。そのような敵がいる以上、首都に安全な場所はなかった。むしろ、紅虎やシュトラたちがいるここが一番安全なのかもしれない。

(ん? 数? 数って言った…よね? 人間は省くと言っていたし、どういう意味なんだろう?)

 エイゾウムは、紅虎が言った【数】という言葉に違和感を感じる。

 人間を対象外とするということは、テロリストも対象外にするということだ。魔人機も省くということなので、無人機の類も対象外ということだろう。であれば、その対象はなぜそれだけの数がいるのか、という疑問に行き着く。

 最初に考えられるのは、虫とか動物とかである。有害な虫などならば大量発生すると危険であるし、通さないという意味も理解できる。だが、その場合でもアピュラトリスという単語が引っかかる。

(あそこに虫でもいるのかな? それ以前に出てくる隙間がないような…)

 アピュラトリスはサカトマーク・フィールドを展開している。仮にそれが解除されたとしても、もともと隙間はほとんどない。救助のために入り口を開けたとしても、這い出てくるような隙間はないはずだ。

 すでに内部に大量にいることも考えられるが、その段階で中の人間は全滅しているようにも思える。その可能性は低いだろうし、あまり考えたくない光景である。

(ほかに考えられるのは、鬼神さんとか【無操むそう術】関係かな? 鬼神さんは眷属とか生み出せるみたいだし、それなら数もいるかも)

 やはり考えられるのは、支配者と呼ばれる鬼神たち。彼らは自らの分霊を生み出して眷属を創造することができる。一人に力を注入すれば高位の鬼が生まれるし、分散させれば大量の眷属も生み出せる。

 一度見せてもらったが、人間が考えるような使い捨てというイメージではないようだ。ただ、作業用として意識を持たない原始的な眷属、念霊タイプの眷属も作れるようなので、そのあたりは油断はできないだろう。

 あとは無操術と呼ばれる術。

 これはエイゾウムも得意とする術であり、さまざまな媒体を使ってゴーレムなどの使役する存在を生み出すものだ。作れるのは無機物限定なので、単純な労働力としては非常に有益である。英蠟王は千体以上のゴーレムを同時に使役したともいわれるので、敵にしたらかなり危険な存在だろう。

(でも、そもそも敵対する者なんているんだろうか? そりゃテロリストはいるけど、それ以外となると…)

 現に襲われてはいるのだが、あくまでそれは人間である。人間同士の抗争であり、思想の違いによる戦いである。現在の世界では、人間だけが人間の最大の敵ともいえる状況なのである。

 支配者に言わせれば、それそのものが【種全体の未熟性】という話だが、その最大の敵である人間を除外した場合、敵対する者がすぐには思い当たらない。

 支配者の中でも反乱を起こす者がいれど、それはやはり現体制の支配者に対してである。まれに外界にまで溢れ出したことがあるものの、その時も当時の覇王であるハウリング・ジルと、魔王城から派遣された鬼神連合軍によって殲滅されている。

 仮に今回もそうした場合ならば、魔王城から援護があってもよいはずだ。しかし、この前会った鬼神は、そのようなことはまるでないと言っていた。

 「最近は平和なもんですわ。昔はよく血気盛んな若者の反乱が流行っていたもんですが、魔王に鎮圧されて牢獄行きですからね。そりゃ減りますよ」、とのこと。

 次元を完全に支配する魔王に対し、支配者は逆らうことができない。反乱者は、いわゆる【地獄】と呼ばれる空間に放り込まれ、何千年もの間、苦痛を味わうらしい。それも反省するまでであり、更生が終われば新しい道を歩むという。

 そうしたことを繰り返した結果、魔王城は綺麗になった。それを嫌って野良になる支配者もいるものの、地上世界は物質媒体を使わねばならないので、魔王城より粗雑な環境で苦しむことが多い。それならば家にいたほうが楽であろう。

(追放者もいるという話だけど、さすがにそこまで数はいないだろうし、紅虎様やシュトラさんなら倒せるのでは?)

 もはやシュトラは「さん付け」確定である。まだよくわからないので様付けはしづらいが、もうシュトラ先輩と呼んでも差し支えないほど、術士たちからは怖れられている。

 とりあえず対象の話は終わる。
 次の話は【範囲】についてだ。

「アピュラトリスの周囲、特に市街地に入る前にはすべて止めるわ。だからそうね…、半径三キロ以内は絶対死守かな」
「それは上空も含まれるのですか?」
「そうね。むしろ、そこが重要かも」

 このことから、紅虎が指定するのはドーム状の結界だと思われる。地中も含めてだと、かなり広い空間をカバーすることになる。正直、単独では絶対に不可能であろう。だからこそ、これだけの術者が必要になるのだろうが。

「となりますと、結界の種類は放射型ですか?」

 流れで質問係となったサイキュロが続ける。最初はびくびくしていたが、術の話となれば度胸も出るらしい。徐々に興味が出てきたようだ。

 放射型とは、ラナーがホウサンオーにやったように、術式を放射して作るタイプの結界である。術者は離れたところから結界を張ることができるので、一般的に使われる比較的安全なやり方だ。

 それならば安心と術者の気持ちが晴れる―――ことはなかった。

「それだと弱いわ。分散維持型にしてもらうつもりよ」

(えー!? 死んじゃう!)

 エイゾウムは、心の中で思わず叫ぶ。

 分散維持型とは、オンギョウジたちが結界を張ったように、各人が持ち場を担当し、力を放出することで維持するやり方である。放出型は安全ではあるが、一度張ったら耐久力が尽きれば結界は消えてしまう。その場合は、もう一度張りなおさねばならない。

 一方の分散維持型だと、常に術士が力を放出し続けるので、精神力が尽きるまでずっと結界を維持できる。破損してもすぐに修復するので、非常に強度が高くなる。いわば、ずっと結界を作り続けている状態である。

 しかし、これはかなり消耗するし、結界を張っている間は無防備なので、各人の身の安全も気になるところだ。オンギョウジたちでさえも、完全に場を制圧してから行ったほど危険なものなのである。

 それに、半径三キロ圏内はいまだ戦いが繰り広げられている。人間を対象としないものならば、人間それ自体は素通り。敵意のある人間、特にテロリストたちに狙われたら終わりであった。

 そんな術士たちの青ざめた顔を見て、紅虎は笑う。

「私だって鬼じゃないわよ。生身で行けなんて言わないわ」

 その言葉に誰もが安堵――しない。

 紅虎の言葉が、そのままの意味で終わることはないのだ。誰もが疑いの眼差しで見つめている。

「どうやら信じていないようだな」
「普段の行い、ですわ」
「あんたらねぇ、少しは信じなさいよ。私を何だと思っているの?」

 シュトラとパクシュにすらつっこまれ、紅虎も心外である。が、やはりパクシュの言うように普段の行いによるものだ。同情はできない。

「その疑問に答えてくれるのは、この子よ」

 紅虎はそれを証明するため、一人の人物の前に立つ。

「え…!?」

 その人物こそ、バラ・エイゾウムであった。

 エイゾウムは、周りを見回して間違いではないかと確認するが、どうやら紅虎が言う人物とは自分のことのようだ。その証拠に、紅虎と目が合う。

「うんうん、あなたよ」
「え? わ、わたし…ですか?」
「そうそう。選ばれし勇者の一人よ」

 まったくもって嬉しくない言葉である。勇者に憧れたことなど一度もないし、そうありたいと思うこともない。自ら危険に飛び込む者は、愚か者でしかないからだ。

 されど、危険が向こうからやってくれば、もうどうしようもない。振り払うか、逃げるか。どちらもできなければ、立ち向かうしかないのだろう。

(私は国王だ。エイロウ魔法王国の…国王なんだ。すごく嫌だけど、国のみんなの名誉を守らないといけない。ふー、ふー、そうだ。ふー、ふー)

 エイゾウムは、少し震えながらも足に力を入れる。飾りであっても王様は王様である。その振る舞いが国の評判となり、未来に少なからず影響を与えることを知っている。

 国とは個人の集合体なれど、やはりリーダーが弱いと衰退してしまう。それは歴史によって証明されている事実である。エイロウ魔法王国は、これから盛り返すのだ。もっともっと盛り返すのだ。だから逃げるわけにはいかない。

(よし! しっかりと見て―――)

 エイゾウムが閉じた目を思いきり開く。

 少年よ、刮目せよ! 世界は美しい!
 といわんばかりの見開き具合である。


 それが的確に捉えたものは、紅虎の【胸】であった。


(ぶっ!? ちかっ、近い!! すごく近い! というか、大きい!?)

 エイゾウムの身長はさほど高くないので、紅虎が接近すると、ちょうど視線が胸に集中する形となる。それだけ距離が近いことと、紅虎の胸が大きいことが起因する現象だ。

 白革の鎧を着ているので、その胸の大きさは抑えられているが、それでも鉱物ではないので、豊かな胸はしっかりと革鎧を圧して自己主張をしている。それを思わず凝視していることに気づき、顔から火が出るように真っ赤になる。

(な、何を見ているんだ! 駄目だ! 集中して! ふぁっ、なんかいい匂いが!?)

 紅虎から、非常に良い匂いがする。香水とは違うが、女性特有の柔らかい匂いとでも言おうか。男にはない香りで、おそらく男性がもっとも刺激を受けてしまうような匂い。

 それすなわち【フェロモン】である。

 フェロモンにも種類があるが、これは性フェロモンと呼ばれるものだろう。異性に対して、生殖行為が可能なことを伝えるためのもので、交配相手を探し出すときにも使われるものだ。

 さて、紅虎の肉体は幽体を加工して作られたものである。言ってしまえば、子宮を使った出産という行為を経ないで生まれた偽物の肉体だ。そこに生殖という概念があるのか、という疑問が生まれる。

 紅虎は弟子に対して、性的な行為を修行の一環として行っていたし、それ自体は可能であることは立証されている。紅虎の肉体は普通のダブルとは違い、彼女の能力で物質化を進めている特別性だ。

 人間の意識の入れ物は霊体だ。そして肉体とは、霊体が地上で活動するために必要な媒体であり、あらゆる面で霊体とリンクしているものである。たとえば臓器というものも、霊体の器官が物的に顕現して表現されたものである。

 つまるところ地上とは、霊界の影である。霊界という美しい本質の世界が、形を変えて表現された下位の世界。紅虎という姿、エイゾウムとう姿も、本来の霊界に戻れば姿かたちは大きく変わっていくことになる。

 されど、今こうしている間も、肉体は霊の表現にほかならない。
 ここには相互作用があるのだ。

 紅虎の物質化能力は、これを極限まで引き上げる。肉体と同じ天体上の素材を吸収して行うので、プロセスは違うが、実質的に人間が持つ肉体とかなり酷似したものが生まれる。

 それは【子宮】に至るまで同じである。

 これはいわば、アグマロアで復元するのと似たようなものである。もともとの肉体の設計図に従って再構築するのだから、肉体と同じものができてしかるべきだ。

 紅虎は女性であるし、出産する能力はある。基本的には霊同士の接触による魂の創出、という形式を取るのだろうが、もし紅虎が望めば地上での受胎ということもできる可能性は高い。

 今のところ彼女が望んでいないので、ラナーたちとの接触でそうなることはないが、性という面でははっきりと女性を表現している。当人が女性であり続けようとしている。だから性フェロモンは出るし、男性を引き寄せるのは当たり前のことである。

 そして、それに男性は【興奮】するわけだ。

「いい、あんたはその杖で……んー? どうして下を向いているの?」
「い、いえ…その…何でもありません!」
「どうしたの? 調子でも悪いの?」
「あっ、いや、けっしてそんなことは…!」
「どれどれ?」
「ひぅっ」

 なぜか下を向いてうつむいているエイゾウムに、紅虎がさらに接近する。もう息がかかるほどの距離。いや、すでに肌が触れ合うほどの距離である。

 そして、さらに胸が近づいてきた。

(駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ! もっと自制するんだ! そう、魔法を使うときのように集中して――)

 集中した結果、胸に視線が釘付けになる。

(どうしてぇええ―――――――!)

 それは身長の問題かつ、腰を引いたエイゾウムに合わせるように紅虎が屈んできたので、より胸が寄せられた箇所を見つめる羽目になったからである。

 化け乳のチェイミーには及ばないが、紅虎の胸は九十五のHカップはある。体躯も普通なので、対比で胸は相当大きく感じるし、実際に大きい。

 これは彼女が物質化したときに意図して盛っているわけではなく、自然にそうなるのだ。彼女の母性本能が顕現した結果ではないかと、カーシェルは実に真面目に議論していたことがある。そして、秘書にドン引きされていた。

 白熱した議論の後、どうして乳房が気になるのかという点に、カーシェルは一つの結論を出した。


「男だもの。しょうがないよ」


 それは果たして幻聴か。
 エイゾウムには、実際に声が聴こえた気がした。
 先輩からのありがたいお言葉である。

(しょうがない!? しょうがないのか!? 違う! はっ、そうだ! 心が卑しいからだ! シュトラさんが言っていた通りだ! 自分はなんて卑しいんだ!!)

 男である以上、しかもそれが思春期である少年ならば、もうこれは仕様であるとしか言いようがない。この頃の男の子は、もう頭の中はそういうことで一杯なのだ。

 エイゾウムは魔法への探究心が強く、ほぼそのことばかり考えているが、魅力的な女性を見たとき、脳裏の二割から三割――これはとても控えめな数字である――が、そうした欲求に占められる。

 そのたびに自制をするのだが、耐えきれないこともある。そうしたときは多くの少年がそうするように、ひっそりと賢者の道を歩むわけである。これは生理的なものなので仕方ない。仕方ないのだ。

 しかし、場所が悪い。公共の面前でこれはまずい。そしてもっとまずいことに、それに気がついた者がいる。

「あはぁ~ん? はーん? ほほぅ?」

 そこには邪悪な笑いを浮かべた紅虎がおり、エイゾウムの様子を舐め回すように観察し始めた。顔の火照りを見て、それから下腹部に視線を這わせる。そしてまた、にやりと笑った。

 エイゾウムに戦慄が走った。

 気がつかれた。気がつかれてしまった。
 一番気がつかれたくない相手に。

「な、なっ、なな…なにか!?」
「いや、べつにぃ。なるほどねぇ。いひひひひ」

 性の話題は、紅虎にとってご馳走である。忘れてはいけない。彼女に弄ばれ人生を狂わせた者が大勢いることを。紅虎しか愛せなくなった者。他の女性に触れられなくなった者。被害者は山のようにいる。

 エイゾウムは能力を買われて連行されたわけだが、紅虎は少年を好む傾向にある。たまたまとはいえ、それなりに愛らしい少年が目の前にいるのだ。そそられてもおかしくはない。

「あー、暑いなぁ。すごく暑いわ」

 そう言いながら革鎧を脱ぎ始めた。丈夫な鎧ではあるが、マジックバンドのように簡単に剥がせるようだ。鎧の下はかなり薄手の服で、その豊満な胸がはっきりと浮き出ている。

 ちなみに今はまだ冬。多少日差しは暖かくなってきたが、日も暮れてきたので肌寒いくらいだ。多くの者は厚着をするくらいなので暑いわけがない。

「な、なぜ!? なぜ、ぬぬぬぬ、脱ぐ…のですか!?」
「ううん? 暑いから脱いだだけよ。悪いのかしら?」
「い、いえ…! それなら…仕方ない…ですよね。仕方ない。仕方ない…」
「ねぇ、どうしたの? ほら、もっと近づいて?」
「はわゎわわ!! む、無理…ですぅ」

 紅虎がじわりと近寄る。もうすでに触れ合う距離なので、一歩近寄られれば密着してしまう。

 それを避けようと、エイゾウムが後ろに下がろうとした瞬間、紅虎が素早くずいっと前に出た。同時に後頭部を押さえて、後ろに逃げられないようにする。

(ひぃいいいいいい! 胸が!! あ、当たる! いや、当たってる!! や、柔らかい…! ううう、いい匂い!!)

 紅虎の胸は両脇で寄せられ、二つの柔らかいものが自在に形を変化させている。それだけを見てもマシュマロ。いや、マシュマロなど硬いと思わせるほど、プリンあるいは、少し固まったカスタードのような柔らかさを誇っている。

 そこに、エイゾウムの顔が埋められる。

 顔に襲いかかる柔らかいもの。紅虎から発せられる甘いフェロモン。この両者がエイゾウムを激しく焦がし、股間から背筋にかけて雷が走る。腰が引け、膝がガクガクと震える。

 だぼだぼのローブのおかげで、腰が引ける姿は直視されないが、どういう状況なのかは周囲からは丸わかりである。それを知ってか知らずか、いや知らないわけがない紅虎が追撃する。

「ねぇ、ほら、そんなに遠慮しないで。もっと近寄ってくれないかしら」
「近寄って、もう近寄って…うぐむうう」
「ん、なぁに? 聴こえないわねぇ。もっとはっきり言って?」
「はぅうう、うううう! だ、駄目っ!」
「あはっ♪」

 このままでは駄目だと思ったエイゾウムが、抵抗しようと手を出した。

 しかし、その手は思いきり紅虎の乳房を掴んでいた。

―――沈んだ

 何の抵抗もなく、むにゅぅううり、という擬音が聞こえるごとく、エイゾウムの手の形に合わせて姿を変える。

―――化け物

 これはきっとスライムの化け物である。そう思わなければ正気を保てないほど危険なものである。これ以上、触れていたら死ぬ。そう思って抵抗しても、返ってくるのは恐ろしく柔らかい感触のみである。

「なぁに? そんなに気に入ったの?」
「ちがっ、ああぁああ、これは…はぁぁぁあ!」
「あんっ、いい。いいわ。ほら、もっと思いきり掴んで」
「だ、だめ…駄目!」
「どうしたの? 腰が震えているわよ。ほら、近づけていいのよ」
「そ、それは、駄目です! 無理です!」
「ほらほら、遠慮しないで。ほお~ら」

 紅虎がエイゾウムの腰を掴んで、ぐいっと引き寄せる。そして、自らの下腹部に押しつけていく。

―――電流が走った

 エイゾウムは、これ以上は本当にまずいことを知った。これは駄目だ。このままでは死ぬより最悪のことになってしまう。

 しかし、満足に抵抗できない。

 身体に力が入らず、手を押すたびに意欲が削がれていってしまう。いや、むしろ意欲は高まるのだ。下に、下にと。叡智は上を好み、愚は下を好む。これは駄目だ。悪い傾向である。されど、そのたびに意識は下に向かっていく。血流も向かっていく。

 そういえば、魔王城から来た鬼神の女性が言っていた。【魅了】には気をつけろ、と。

 精神系の術式に【魅了】というものがある。文字通り、相手の意識を術者に釘付けにするものだ。

 古来より、女性はそうした術によって男性を操ってきた。女性という存在は、生まれながらにこの術式を自然に操る。どんなに強大な権力を持つ王でさえ、男ならば魅了の魔力に簡単にはあらがえない。

 なんて恐ろしい。

 エイゾウムは、生まれて初めて魅了というものの恐ろしさを知った。これは耐性というレベルでは対処しきれない。接触そのものを禁じなければ、けっして防ぐことはできない禁断の術なのである。

「ほら、出していいのよ。出したいでしょう?」
「ななななな、なに…を…!!」
「いいから、好きに出していいのよ。どこに出す? 胸がいい? それとも、こっちがいいの?」
「ちがちがちが…、そんなことはぁああ!」
「何回出してもいいからさ。ねえ、いいのよ、好きにしても。一晩中でも一週間でも付き合ってあげるわ」

「それとも、お口がいいの? 飲んであげようかしら。あなたの、美味しそうだし」
「――――――!?」

 とんでもないセクハラである。
 おそらく紅虎でなければ、即逮捕レベルのセクハラだ。

 この女、今までは遠慮していたのだ。好みの男(少年)が特にいなかった、ということもあったが、ここにきて悪い癖が出てしまう。

 エイゾウム少年、嘘偽りなき貞操の危機である。

(駄目だ! それでも抵抗しないと!! 自分は国王なんだから! 国王なんだ…から…)

 エイゾウムは、必死に腰を引いて抵抗する。これ以上は駄目なのだ。刺激を与えては駄目な理由がある。わかるだろう。わかるはずだ。わかってほしいのだ。

 周囲の者たちは、その姿を哀れみをもって見つめていた。特に男性陣からは羨望以上に、なんとか踏みとどまってほしいという願いを込めた同情の視線も集まっている。

 なにせここには異性、紅虎と同じ側の人間もいるのだ。その前で失態は晒せない。

 彼は少年だ。まだ若い。未来がある。
 このようなところで朽ちてよいはずがない。
 それがたとえ、若気の至りであっても。

 そうした視線がエイゾウムに応援を送っていた。だが、そうした事情に無頓着、あるいは無神経な輩がいるとは誰もが思わなかっただろう。

 その光景を見つめていた、二人の子供の声が聴こえてきた。

「おい、あれは何をしているのだ?」
「んーとね。あっ、見たことある。紅虎がシャインにもしていたやつだ」
「シャインと? そういえば、夜になると二人で何かしていたな。あれは何だったか…」
「えへへ、わたち、知ってるよ。人間が子供作るときにするやつ!」
「そうだったか? 服を脱いでしていたのを見たぞ。少し違うんじゃないか?」
「そうかな? えっと、じゃあ、なんだっけ?」
「で、なぜ腰を引いているのだ?」
「あっ! 思い出した! あのね、あのね」

 シュトラとの会話で何かを思い出したのか、パクシュがぽんっと手を叩いた。

 嫌な予感がした。

 その場の誰もが、脂汗が滲むような嫌な予感を感じた。駄目だ。それ以上は言ってはいけない。そう叫びたいが声が出ない。

 怖かったのだ。

 誰もがこの緊張感を壊すのが怖かったのである。
 されど、パクシュの純粋な言葉は止められない。






―――あれ、勃起って言うんだよ





 その瞬間、エイゾウムの腰を紅虎が引っ張る。
 
 心を砕かれた彼に抵抗する術はなく、硬いものは柔らかいものに包まれ――



「あはっ―――」



 何かが流れていく感覚に身を任せた。




(桃源郷というのは、きっとこういう場所なんだろう。はは、はははは…)

 彼の脳裏には、桜色に染まった理想郷が見えていたに違いない。それだけが唯一の救いである。その瞬間だけは、まさに天女に抱かれた気分だったのだから。


 最後に、それまでまったく無関心だったンダ・ぺぺが、ちらりとエイゾウムを一瞥した。

 その視線は、まるで虫ケラを見るような冷たいもの。

 まったくもってつまらないものを見たような、侮辱と軽蔑と後悔のような視線であった。



 エイゾウム、死す。



 多くの者に見守られながら、彼は短い人生を終えた。


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