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零章 第四部『加速と収束の戦場』

六十四話 「RD事変 其の六十三 『紅虎の動き③ カーリス教団』」

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 次に紅虎がやってきたのは、ロイゼン神聖王国のスペース。

 もっと正しくいえばカーリス教団のために用意された場所である。カーリスという世界最大の宗教団体を迎えるために、ルシアやシェイクと同等の大きなスペースが用意されていた。

 各国が使うスペースは巨大な展示会場に使われるものに似ているが、一般人が使うような殺風景な箱状のものではない。言ってしまえば、そこらの軽自動車の車内と最高級リムジンの車内を比べるようなものだ。

 あらゆる場所に贅を凝らした装飾品が並び、ソファーも身体が埋まるほどにふかふかである。当然、かなりの種類の飲み物や軽食も置かれており、アピュラトリスのエレベーター並み、あるいはどこぞの超高級クラブかと思わせる豪華さである。

 しかもカーリス用に用意された女神や聖女の像には、彼女たちの霊性を象徴する薔薇の花が大量に添えられ、多くの照明も当てられているので、ここだけ別世界のような印象を受ける。まさに神殿そのものであった。

 ただ、この場にいるカーリスの神官たちは清貧を尊んでいるため、こうした贅を凝らしたものは趣味ではなく、どこか居心地の悪そうな顔をしている。信者が実際にいる神殿ならばともかく、自分たちだけこういう思いをすることに罪悪感を感じるのだ。

 そうした表情を浮かべる者は全員女性。

 この場にいる者はすべて女性神官で構成されていた。女性だからといって男性より弱いわけではない。カーリスの神官の中には武人もおり、いつでも警護できるように鍛錬を積んでいるのである。

 全員が着る白い神官服は清楚で、年配の女性から若い女性まで清らかさを強く感じさせる装いであるが、そのすべてに強力な防御術式が込められている。【清女の陣羽衣じんごろも】と呼ばれ、高位神官だけがまとえる高性能の衣である。

 込められた術式によって、一日数回だけではあるが、魔王技を無効化する能力がある。また、周囲に物理結界を張ることもできるので、彼女たちが防戦に徹すれば、いかに相手が大国の騎士団であっても簡単には突破できないだろう。

 彼女たちの中で杖を持っているのは、攻撃術式を扱える者だ。杖はよく術士が持っているが、べつに杖の形をしていなくてもよい。術式を強化する能力があるブースター〈強化法陣〉が発動すれば、その形は特に何でもかまわない。ただ、杖の形状のほうが、精神力を使い果たしたときに寄りかかれるので便利であるにすぎない。

 腰に大量のジュエルで作られた煌びやかなベルトをつけているのが回復術士で、ジュエルにはさまざまな回復術式が込められている。こうした術具は自身の精神力を使わずに術式を発動できるので非常に重宝される。

 無手の者はおそらく戦士。聖剣シルバートには遠く及ばないが、白く輝く両刃剣を下げた者は、カーリスの女性神官剣士だと思われる。陣羽衣の上からプレートメイルを着込み、ガントレット、肘当てなどを装備し、防御力を維持しつつ動きやすい姿をしている。

 また、歩いていても足音をあまりさせない女性は、おそらく暗殺者タイプの武人である。ほとんどの女性は動いていないが、彼女たちだけが歩いて周囲を警戒しているので間違いない。

 彼女たちはロイゼン騎士団とともに修練もしており、なおかつその中での精鋭が選ばれているので、この会議場全体を見ても中の上の実力者であるといえるだろう。すべてにバランスが取れた構成であるため、あらゆる状況に対応できる強力な陣営であるといえた。

 彼女たちは、入ってきた紅虎に対して恭しく一礼をしつつも、何かあったらすぐに動けるように配置を崩さない。彼女たちほどの実力者が護る相手。そんな人物はただ一人である。

 紅虎はまず、【彼女】に会うためにまっすぐ中央の間に向かう。

 そこには椅子に上品に腰をかけていた一人の女性、カーリス法王、エルファトファネスがいた。

「やっほー、元気?」

 ここでも紅虎はいつもの姿勢を崩さない。相手が誰であろうとどんな役職であろうと、彼女はいつだって彼女のままなのだ。その姿を眩しそうに見つめていたエルファトファネスは、ゆっくりと口を開く。

「はい。残念ながら元気です。いまだ愛の園からはお呼びがかからないようです」

 エルファトファネスは、本当に残念そうに首を振る。

 そこにはカーリスの法王ではなく、生きることに疲れた老婆の姿があった。声にも疲れが滲んでおり、会議場の皆の前で見せた神々しさはまったくない。体力的なものではなく、やはり精神的なものが起因しているようだ。

 どうせ紅虎の前では偽りの姿は通用しないのだ。それならば本心を語るべきだとエルファトファネスは思っていた。

「そのうち行くんだから、焦ることないわよ」
「そうですが、もううんざりしています」
「その気持ちもわかるけどね。もっと前向きにいこうよ」
「紅虎様とは違いますもの。ここは生き地獄です」

 法王のあまりに素直な言葉、彼女にとっては偽りなき本心であるが、もし信者が聞いていたら発狂するかもしれない言葉である。ただ、お付きの神官たちは彼女のことをよく知っているので、多少眉をひそめただけで終わる。

 実は、そうした周囲の態度もエルファトファネスを苛立たせている要因である。「もっと法王らしくしてくれ」とか言ってくれたほうが、「好きでやっているんじゃない!」と激高して、ストレス発散ができるというものだ。

 そうしたぶつかり合いがないので、彼女のストレスはさらに溜まる。打っても響かないものほど興味が薄れるものはない。仕方がないので上品で聖母のような女性を演じるしかないのだ。

 紅虎は、そうしたエルファトファネスの気持ちは理解できたが、彼女の立場上、こう言うしかない。

「役目があるから、そこにいるんじゃないのかな。ってまあ、私には【原因】はわからないけれどね」

 ここで紅虎が言った原因という言葉には、深い意味があった。

 霊が地上に生まれる際、そこにはさまざまな目的がある。当然、進化のために物的体験を得るのが目的だが、その歩き方は千差万別なのである。似た人生はあれど、誰一人として同じ人生は歩まないからだ。

 その理由は、霊という存在は、人間が思うほど小さな存在ではないからだ。それはもっともっと巨大な意識であり、地上で顕現している意識は、巨大な海の中の一滴、氷山の一角程度にすぎない。あくまで脳みそという、実にちっぽけな容量でしか理解できない程度なのだ。

 さらに霊は、単一の存在ではない。広義の意味では、霊は数多くの体験を経るために、その数だけ人間を生み出している。それゆえに多様な人生があり、多様な生き方がある。そして、多様な苦痛がある。

 聖女であることからエルファトファネスの霊系は推測できる。しかし、それを言ったところで何の慰めにもならない。彼女の人生は自分で切り開くしかないのだから。

 だが、それを知ってもなお、納得できるとは限らないのが人間である。

「ずるいです。どうして私だけ。紅虎様も、もっと苦労すべきです」
「あははは。あんたもそういうことが言えるようになっただけ、まだましになったほうだね」

 紅虎は、かつて法王になったばかりの彼女に会っている。紅虎も一応、直系として影響力のある人物が誕生すれば、その確認をすることもある。特にカーリスという甚大な影響力を持つ組織には、それなりの監視も必要になるからだ。

 ただ、最初に会った彼女は、まさに小動物という言葉が似合うほど常に怯えていた。何が起こったのか理解できず、ずっと夢の中にいる感覚だったのだろう。まるで実感のない世界に違和感ばかりを感じていた。

 そんな彼女は紅虎という存在にすがった。

 直系ならば助けてくれるのではないかと。この状況を打破してくれるのではないかと。まさに女神に祈るようにすがった。今まで漠然としたイメージしかなかった女神。その偉大なる者の子が目の前にいるのだ。すがってもおかしくはないだろう。

 だが、紅虎は何もできなかった。

 それも仕方がない。直系とはいえ、紅虎はこの地上に大きな影響を与えることは許されていない。あくまでここは地上人類の世界なのだ。彼らは自らの自由意志をもって生き方を決めねばならない。だからこそ自由が存在するのだ。

 もし人間に不都合な不幸が起こるとすれば、それこそ自由意志の結果である。車を運転して人をはねるのは、まず人間側の不注意があるからだ。続いてその日に車を運転しようと思ったことであり、車という道具を作り出したことである。

 されど、それらは自由意志によって自ら選んだ結果なのである。同時に、自由意志によって生み出したものの恩恵を得ている。ならば、そのマイナス面を受け入れるのは義務である。それが嫌ならば、また自分たちで自由にシステムを組み換えればよい。

 それに対して紅虎は干渉できない。直系だからといって、あれをしろ、これをしろ、とは言えないのだ。自由があるからこそ恩恵を受け、自由があるからこそ成長できるからだ。

 ましてやカーリスという巨大組織の頂点である人物をどうにかするなど不可能である。よほど酷い人権侵害ならば、たとえばラナーに教えて間接的に助けるという方法もなくはないが、エルファトファネスは厚遇されて迎えられているので、それも難しい。

 しかし、ここにある贅が興味ない人間には無価値であるように、エルファトファネスもそんな人生に興味はなかった。いくら厚遇されても嫌なものは嫌なのだ。それは今に至っても変わらない事実である。

 ただその一件以来、エルファトファネスは紅虎に対して、他人とは違う印象を抱くようになっていた。

 【怖い】という感情だ。

 紅虎は器量が良いので、同性でさえ愛らしいとか美しいとか思うのだろうが、エルファトファネスは紅虎が怖かった。あの両の赤眼で見つめられると、自分がいかにちっぽけな存在かを思い知る。

 紅虎の眼はいつだって何かを見つめている。何かこう、人間が感じられないもっと大きな何か。真実や本性といったものを見つめてくる。あの時、懇願したエルファトファネスを見つめる目は慈悲深くもあったが、けっして甘やかすようなものではなかった。

 エルファトファネスの内面を見透かすような、彼女の弱さを見つめるような、そんな静かな瞳には断固たる意思が感じられた。それはますます彼女の弱さを浮き彫りにさせる。

 彼女は【強い】のだ。

 その強さは、弱さや醜さというものを叩き伏せ、超越したもの。軟弱さを踏み潰し、炎によって鍛え上げる苛烈な力でもある。

 彼女の本来の性質は炎。
 髪の毛と瞳の色が物語っている真っ赤な火なのである。

 それは甘えを許さない強い意思である。また、それがあるからこそラナーやカーシェルは強くなった。人間の強さとは、何度叩き折られても立ち上がり、何度も何度も戦い続ける不屈の心にあるからだ。魂が燃えて、奮い立つような、あの恐るべき力である。

 だが、それは心の強い人間には効果的でも、弱い人間には熱せられた鉄のように触れることができないもの。迂闊に触れてしまえば、皮膚が焼けただれ、肉が焦げるほど熱いもの。

 それを悟った瞬間、エルファトファネスは怖くなったのだ。弱い自分にはけっして触れられないものであると。そして自分には、もはや助けてくれる神などいないのだと。

 女神を信奉するカーリスの法王である自分が、神を信じない。

 なんという皮肉だろうと自分でも思っているくらいだ。いや、神はいるのだ。女神は実在している。されど、自分が思っていたような都合の良い存在ではなかったにすぎない。

 これは単なる八つ当たりだ。まったく矛盾していると思うのだが、紅虎を思い出すたびに人生を壊された怒りが、少しずつ少しずつ、じわじわと身を焦がすように湧き上がるのである。

 ただ単に、人生で一番最悪の時に紅虎と出会っただけのこと。真っ暗闇の中に現れた火が異様に眩しく、それによって目が焼けてしまったというだけのこと。

 本来ならば、それによって彼女は心の強さを取り戻すはずだったのだが、自身の弱さと火の強さに差がありすぎた結果、逆の効果になってしまった。

 結局、すべてはエルファトファネスの弱さに起因することだ。太陽は常にそこにあるが、それにすがって目を焼くのは自身の責なのだから。

 されど、あの時の苦しみを思い出してしまうので、こう言ってしまう。

「あなたは幸せですか?」

 そこには多くの意味が込められていた。それを言葉にすることはできないほど、多くの皮肉が。

 地上人より遥かに強い力を持つ彼女たちは、この世界で苦労することは少ないだろう。物理的な力に脅かされることはなく、権威の問題でも大国の王と同等か、それ以上の存在である。常に上から物を見ている彼女にとって、地上はすべてが簡単な世界に見えるだろう。

 されどエルファトファネスは、それが幸せとは思えないでいた。そしておそらく紅虎は、地上の人間が思うほど幸せではないだろう。

 たしかに人間が嫌う老いや病、痛みからは解放されている。愛の園で生まれ育った彼女は、地上人とは違うパターンの進化を遂げているのだ。醜く老いることはないし、物的な痛みは感じない。

 しかし、心の痛みは普通の肉体を持つ者以上である。

 愛の園という光の世界で育った彼女にとって、地上そのものが地獄に映るだろう。争いがあり、憎しみがあり、差別があり、格差がある社会。それ自体が愛の園ではありえないことで、忌む以前に存在すら許されない悪癖である。

 高級霊界である愛の園は、明確に光と闇が分けられている。闇とは世界を構成する要素であり、光と対になるものだ。闇がなければ光は存在できず、悪があるから善を意識できる。すべては同一であり、同じものの性質の違いなのである。

 だからこそ、親和力の法則によって光は光で集まり、闇は闇で集まるようになっている。美しい世界には美しい者だけが集まり、暗い世界には醜い者が集まる。これは差別ではなく、霊となった両者の性質が顕著になった結果にすぎない。

 紅虎は地上で活動しなくても成長できる。直系はそういう進化をするからだ。だが、彼女たち直系の中には地上に降りるものが相当数いる。自ら厳しい場所に降りることで成長を促すのは地上人と同じであるし、それ以上に宿した想いがあるから。

「あと少しだよ。あと少し辛抱すれば報われる。その時、今までの苦しみの意味がわかるから」

 紅虎は優しく微笑む。その笑みには嫌なところが何一つない。また、ケマラミアのような無駄に輝くこともない、実に実に自然な笑みである。

 「ずるい」、またエルファトファネスはそう思った。

 紅虎の眼には力がある。エルファトファネスが見れば、そこには畏怖という言葉が相応しいものが宿っている。怖い。恐ろしいと思う。

 しかし、今の紅虎が発してるものは【愛】。

 自分が発した嫌味さえ何とも思わないくらい大きな愛。彼女の霊から発せられた、人の根源的な力がすべてのマイナス因子を掻き消してしまう。もしその愛が目に見えるのならば、部屋いっぱいに広がって、すべての人間を抱きしめているくらい濃密で力強い愛に違いない。

 周囲の者たちも、愛そのものは見えないが、大きな御手に包まれているのがわかり、ぶるっと身体を震わせる。深い瞑想中に宇宙を翔るような、巨大な存在の意識を感じ取ることがあるが、そうした時と同じ強烈な恍惚感が背筋を駆け巡る。

 それはエルファトファネスも同じ。人生に嫌気が差していた彼女でさえも、心の底から温まるような力があった。すべてが愛しく感じ、嫌いなはずの世界さえ美しく見える。

 これが愛の力である。愛はすべてを包み、すべてを導く。
 愛こそが、宇宙最大のエネルギーだからだ。

 紅虎に王気はないが、その愛は王気にすら匹敵する。エルファトファネスは、自分よりよほど聖母に向いている、とさえ思った。紅虎に上品さはないが、そんなものは愛の前には無意味なのだ。

 エルファトファネスは、ふぅ、と大きく息を吐く。

「やはり、あなた様は女神様の御子です」
「そうだよ。でも、みんな同じだよ。みんな同じ子供だもの。みんながマリスおばさんの光を持って生まれているんだから」
「到底そうは思えませんが…、それは私が弱いからなのでしょう。それとも悪い部分を見すぎたせいかもしれません」

 カーリスは光ばかりの組織ではない。いかなる組織にも光と闇が存在する。そして闇が濃ければ濃いほど光も増すのだ。

 その光の部分の象徴として生贄に捧げられたエルファトファネスは、もう一度溜息を吐いたのち、今度は法王らしい静かな笑みで紅虎を見据える。

「それで、どのようなご用件でしょうか? ラナー枢機卿ならばもう、私でも止められませんよ」
「ああ、そっちの話じゃないの。ちょっと人手が足りなくてね」
「人手? 今回の一件に関してですか?」
「んー、まあそうだね。今戦っている子らとはちょっと違う事情なんだけど…」

 紅虎はまたいつもの癖、目を横に動かして唇をすぼめながら答える。

(厄介事、ですね)

 エルファトファネスは即座にそう理解する。

 紅虎の姿は非常に珍しい完全武装である。ラナーとの訓練でさえ、このような格好はしないのだ。いつものラフな格好に木刀一本。それが彼女のスタイルである。その彼女が武装すること自体が事の重要さを簡単に教えてくれる。

 加えて、紅虎という存在が直接動くことなど普通はありえない。今回のテロに関しても彼女は不干渉を決め込んでいた。これほどの大事件であってもだ。

 それは彼女が直系であるからだ。直系は総じて地上人類より力が強い傾向にある。もちろん誰もが紅虎のように戦闘力に長じているわけではないが、知識、直感、術、行動範囲、さまざまな分野において圧倒しているのは間違いのない事実である。

 そして、直系にはそれぞれ使命や役割というものが存在するらしい。たとえばカーリスが信奉する光の女神マリスの直系(直接の霊系に連なる者)は、光の女神の地上での代行者として人々を導く傾向にある。

 マリスの直系の人間は、公式に誰がそうであるかは秘せられているものの、大きな歴史の流れの中心にいることが多い。特に【彼女たち】は弱き者たちの中に現れ、ともに貧しい生活をしながらも、人々に勇気と希望を与えるように導いていく。

 困難の中にあって道を踏み外さぬように。つらくとも文句を言わず、人としての尊厳と正しい価値観を身につけられるように、一緒に物的に苦しい環境に身を置くことで人の可能性を示していく。

 そのためにマリスの直系は、肉体的能力は一般人のそれと変わらないし、紅虎とは違って実際に人間の子として肉体を伴って生まれる。そうしなければ親近感を得られないからだ。同じ条件であるのに、心の清らかさ、理念の高潔さ、意思の強さだけで困難に立ち向かうから尊敬されるのである。

 それこそ最高の自己犠牲ではないだろうか。

 普通に降り立つだけでも地獄に思える地上に、自ら肉体を持って生まれるのだ。その最悪の境遇に真正面から立ち向かい、自分よりも他者を愛し、導いていく。罪を赦し、正義と寛容を伝える。これこそマリスの霊系が持つ完全なる自己犠牲の姿である。

 カーリスが清貧を尊ぶのも、こうしたマリスの霊系の生き方を崇敬しているからにほかならない。物的なものに価値を置くのではなく、その気高い心こそが人の財産であることを示すためだ。

 ただ、ここで一つ問題がある。

(私はマリス様の直系ではない。そう公言できれば楽なのだけれど…)

 エルファトファネスは、目の前にいる本物の直系を見つめながら、毎日思っている愚痴を心の中で発する。

 カーリスは女神を信奉している。そして、その最高神官でもある法王は女神に連なるものでならねばならない。そうあるべきだ。誰が決めたのか、そういう認識を持つ信者が多いのだ。

 ここに大きな誤解がある。

 エルファトファネスは【聖女】ではあるが、女神マリスの霊系ではない。

 一般人が聞けば、それの何が違うのかと首を傾げるところだが、実はこれの意味するところはかなり大きい。はっきり言ってしまえば、まったくの別物であるともいえるからだ。

 それは聖女という存在をよく知っているエルファトファネスならば簡単にわかることだ。聖女だからといって霊性が高いわけでもないし、女神の直系のように人々を導く資格があるわけでもない。そういった使命があるとも思えない。

 カーリスという組織が最初どのようなものであり、今はなぜこうなっているのか知らないが、エルファトファネス自身も戸惑っているのだ。【聖女の因子】があるからと祭り上げられたにすぎない。

 それは彼女の人生を狂わすほど最悪のこと。時間を戻せるのならば、かつての夫と一緒に慎ましく暮らすだけで十分幸せなのだ。

 ちなみに法王は独身という設定になっているので、夫とは離婚という形、そもそも結婚していなかったという扱いになっている。同時に法王の周囲には平時は守護騎士以外の男性は近寄れないため、夫も今は遠く離れた場所にいる。

 ただ、法王あるいは聖女になったからこそ手に入れた力もある。それは今までの彼女からすれば想像もしないほどの絶大な力だった。

「ならば私がお手伝いしましょうか」

 法王の背後、誰もいない空間に突如として大きな気配が生まれる。どこから現れたのか、金と銀の球のようなものが浮いていた。それは小さいのに、なぜか巨大な気配を放つ異様なものであった。

 周囲の神官は特に反応しなかったが、その気配が生まれただけで汗が滲んでいるのがわかった。その圧力が異様に強く、周囲を威圧するようなものだったからだ。当然、紅虎もその圧力を受けているが、こちらは平然としていた。

「あんたのはちょっとまずいかも。それって広域破壊用でしょう?」
「あら、壊すのではないのですか? 天帝陛下の像みたいに。破壊なら私が適任でしょう」
「いやいや、私ってべつにいつも壊しているわけじゃないから」

 エルファトファネスは武装している紅虎を見て、「今度は何を壊すのか?」とひやひやしながらも内心何かを期待しているようだった。

 紅虎=破壊、そんなイメージが周囲にはあるらしい。当人は否定しているが、この会議場でのやり取りを見る限り、否定できる要素は何一つとしてない。

 それに、イライラしたときに何かを壊すとすっきりすることもあるだろう。破壊という行動はどこか人を魅了するものでもある。不思議な爽快感は、壊れたら新しい何かを得るのだという期待感につながるからかもしれない。

 ストレスの溜まっているエルファトファネスは、とてもとても残念そうに呻く。

「残念です。全部壊れてしまえばいいのに…。個人的には、あのお若い悪魔を応援したい気持ちです」
「それ、人前じゃ言わないほうがいいと思うけど」
「当然です。私は法王ですから時と場所はわきまえます。でも、今くらいはよいでしょう。愚痴でも言わねばやっていられません」
「カーリスも、なかなか危険なやつをトップに置いているものね。面白いわ」
「笑い事ではないのですが…本気で悩んでいます」

 エルファトファネスの顔は真剣である。これらの言葉に嘘偽りはない。ないからこそ怖いのだが。

 彼女も一度、この力を使って【事を成そう】と思ったことがあるが、あまりの力の強さに恐れおののき、結局のところ使うまでに至っていない。所詮、武人でもない元一般人の女性。誰かを殺めるなど怖くてできないのだ。

 おそらくこの場で起動したら、カーリスのスペースはもちろん、この会議場全体も吹っ飛ぶかもしれない代物である。カーリスが保有する【生体兵器】の中で、人単体が持つには最高レベルのものであるのは確かだろう。

 自身がここにいることは不本意だが、関係のない真面目な人間もカーリスにはいるのだ。慕ってくれる人間も多いし、乗り気ではないとはいえ、自分が法王であることで助けられる人間もいる。それは一般人であっては絶対にできないことだ。

「騎士団的な力でもなく、私の力でもない。であれば、防御系をご所望ですか?」

 エルファトファネスは、紅虎が求める人材を考えてみる。

 もし武人の力が必要ならば、カーリスではなくヒューリッド王子に相談しているはずだ。ただ、ロイゼン騎士団は兵をすでに出しているので、残っている戦力はさして多くはない。それならば他の国家をあてにしたほうがよいだろう。

 竜水晶賜儀国にいた竜人戦士たちの実力は、そこらの騎士を超えている。戦闘力だけならばルシアやシェイクにも匹敵するのだから、そこで借りればよいだけのことだ。琥硝姫も、それくらいならば簡単に貸してくれるだろう。

 それを知ったうえでカーリスに来たとなれば、求められているのは違う能力。エルファトファネスが持つ破壊の力でないのならば、逆の力であろうと推測できる。カーリスがもともと得意にしているのは、ラナーが使った絶対守護結界のような防御系の術式であるからだ。

「ですが、すでに枢機卿の手伝いで結界系神官は力を使い果たしております。お役に立てるかどうか」
「大丈夫。私が求めているのは精神系だから」
「精神系…?」

 エルファトファネスは、紅虎から発せられた言葉を思わず反芻する。あまり紅虎には似合わない言葉に思えたからだ。

 しかし、紅虎ははっきりと明言する。

「精神防御の術式を使える術者が欲しいの。それも強いやつ」

 術式にはさまざまな種類のものが存在するが、大きな意味では四系統に分けることができる。

 一つ目は攻撃系術式。

 オンギョウジや羽尾火が使っていた攻撃に関する術式である。これは単純に対象を破壊する現象を起こす術で、自然現象や物体を生み出して、物理的にダメージを与えるというものだ。術の中では基本かつ、多くの需要がある。

 二つ目は、補助強化系術式。

 自己や他者の肉体を強化したり、各種耐性を付与したり、結界を張って防御を高める術式である。さまざまな場面で使えるもので、使って損はないので術者として修める者も多い系統である。

 三つ目は、回復系術式。

 怪我の治癒、細胞の活性化による傷の再生を成す術式。一部補助系統にも属する術式であるが、回復術式を極めようとすると別の修練が必要になるので、これは独立した系統になっている。

 というのも、これは回復というより【復元・補填】に関する術式であるからだ。物質の構造を調べて、素材を創造あるいは持ち込んで再構築する術式である。それゆえに高度な回復には、それ相応の解析能力が求められるので難易度は跳ね上がる。

 また、イメージのせいかわからないが、神官職の人間は回復を修めていると思う者も多いので、カーリスも司祭以上の素養ある人間には簡易の回復術式を必修項目としている。実際にはまったくそんなことはなく、神官であっても攻撃系を得意とする者も多い。単にイメージの問題である。

 一般人は普段の生活で誰かを殺傷することはないので、攻撃よりも回復術式を求める者が多く存在する。当然、あらゆる面で有用なので、もっとも価値ある系統かもしれない。

 最後の四つ目。それが精神系術式。

 人間の精神に関わる術式で、非常に高度かつ危険性も高い術の系統である。人間は肉体、精神、霊によって構築された多重複合的存在である。その回線の一つである精神に接触するのだから、その効果は生物の存在そのものを歪めてしまう恐れがある。

 特に恐ろしいのが【精神操作系】の術式である。簡単にいえば催眠のようなものだが、相手にそう思い込ませるだけでも絶大な効果を発揮する。言ってしまえば、人間の思考とはすべて思い込みによって成り立つからだ。

 仮に「りんご」を「みかん」だと思い込ませるだけで、食べる動作は変わらずとも、当人はみかんを食べていると思い込む。それだけでも非常に怖い話であることがわかるだろう。そのため精神系術式の多くは、主に心療治療に使われる。

 悪用する者もいるにはいるが、人間にはもともと精神系の防御がそなわっていることもあり、意図的に過激な行動を取らせるのは、なかなか難しい。

 ただし、できないわけでもない。たとえば舌界ぜっかい術のような言霊系術式は非常に強力で、言葉に乗せた術式によって相手の深層意識にまで影響を及ぼす。術者の能力と相手の防御状態によるが、自殺に追い込むこともできるほどに強力である。

 一応、五つ目に霊的術式というものがあるが、これはすでに失われた術式であり、偉大なる者の使者、あるいは魔王城の支配者が使う以外では確認されていない。いわゆる魔法に位置する禁断の術式である。

 たとえばアナイスメルや天国等、霊域を操作するには必須の術式なので、黒賢人がいかに強大な術者であるかを思い知らされる事例である。また、羽尾火が使った哀魂金火あいこんきんかは、この系統に属する秘術である。エルダー・パワーに少数だけ伝わっている術であるが、使い手はほとんどいないのが現状だ。

 かつてはこうした霊的術式が当たり前に使われていた時代があった。それが人間の慢心を呼び、破滅へと導いたのは苦い記憶だ。今の地上人が使うには危険すぎる術なので、手を出さないほうがよいだろう。

 ともかく、精神系の術式は危険である。エルファトファネスは精神系の術者と聞いてさらに厄介事であると悟るが、防御系であることに若干の安心感と、多大なる恐怖を感じた。

 紅虎が求めるのは防御系。少なくとも誰かを害するものではないという安心感。それと同時に、精神系の術式を使って害をなそうとする者がいる、ということへの恐怖。紅虎に敵対する相手が、そうした術を使える可能性が高いことを意味しているのだから。

「強いとは、どれくらいですか?」

 エルファトファネスは、周囲の神官たちを見回しながら術者のリストを思い浮かべる。

 法王の側近ということもあり、自身の周りにはかなりの術者がそろっていると自負している。今回の連盟会議はカーリスの力を示す意味もあったので、帯同している者たちは誰もが上位の術を習得していた。

 その中には精神系の難しい術を扱える者もいる。もともと宗教が職業柄、精神的な分野に属するものであるため、信者の精神コントロールは彼らにとっても死活問題だからだ。集団パニックが起こったときに鎮められなければ権威に関わる。

 逆に言うと、宗教は術によって成り立っているともいえる。本来は信仰心という自己で制御できる精神系の術式で対応すべきなのだが、それができないからこそパニックになる。その場合は、強制的に鎮めるように術を使うのだ。

 その結果、宗教の力で心が落ち着いた、という錯覚が起こる。これを利用して運営するのが宗教団体である。それゆえに、一部の術者からは非常に毛嫌いされるのも頷ける話である。

 ただし、宗教の本質は魂のエネルギーにある。女神マリスの光を正しく活用することによって自己を正すこと、正すことによって他者を愛すること、自己を犠牲にすること。それを助けるのが真なる宗教の役割である。

 だが、すでに混乱の中にいる地上において、それが偽りであったとしても、宗教は世のために貢献できるものだ。そう自負するからこそエルファトファネスも必要悪を受け入れている。少なくともカーリスの神官以上に精神系に秀でた者はいない、との自負である。

 そうした事情もあり、エルファトファネスもそれなりに自信があって聞いてみただけなのだが、紅虎から返ってきた言葉に耳を疑う。

「【神狼級】がいれば…」
「第一支配者階級の支配者マスターとでも戦うおつもりですか!? それとも魔王ですか!?」

 紅虎の言葉が終わる前にエルファトファネスが悲鳴を被せる。それもそのはず。紅虎の言葉の意味がぶっ飛んでいるからだ。

 この世界では基本的に、(SSS、SS)S、A、B、C、D、E~というアルファベットでレベルを示す。世間一般的な価値観でいえば、A級が最高級のものである。それからB、C、Dと続く。

 S級というのはまずお目にかかれないもので、奥義や秘術といった類のものとなる。至高技も当然S級であり、その中でも最高難易度のSS~SSS扱いとなっている。

 ただ、それはあくまで単体の難易度や価値を示している。S級が使えるからといって、その人間の技量、精神力、経験が足りなければ、技や術自体は高度なものでもA級以下の効果しか出ないことがある。

 これは簡単な話で、腕力が弱く戦気も少ない人間が大技を使っても、それに応じたダメージしか与えられないのと同じだ。

 そこで、もう一つの【区分】が存在する。

 当人の基礎能力、資質、実力、実績などを加味した総合評価のランク分けである。これは扱える技や術に加え、当人の力も考慮されているので、単なる技のランクよりも信頼できるものとなる。

 そのランクは業種によって多少の言葉の違いはあるものの――

第一階級 神狼しんろう級:神々に匹敵する者

第二階級 超零ちょうれい級:聖魔すら超えた者

第三階級 聖璽せいじ級:魔を倒す聖なる力を有する者

第四階級 魔戯まぎ級:魔にすら対応できる者

第五階級 王竜おうりゅう級:人間社会で最大級の者

第六階級 名崙めいろん級:名ありの達人

第七階級 達験たつげん級:上堵級の中で奥義を身につけた者

第八階級 上堵じょうど級:その分野で上等な力を持つ者

第九階級 中鳴ちゅうめい級:ある程度の経験を得て一人前になった者

第十階級 下扇かせん級:修練中の者全般、駆け出し新人

 という、十段階のくくりが存在し、その者が武人なら、~級剣士とか~級戦士と呼ばれる。

 また、傭兵や冒険者、ハンターなどの役職や役割にも使われ、稀だが上堵級商人、中鳴級鍛冶師などとも使われることがある。各国独自の呼び方をすることも多いが、こちらは世界共通となっているのでわかりやすい。

 明確に基準が存在するわけではないので、各分野での実力者からの測定と成し遂げた仕事、実績などで分類されることが多い。

 たとえば、志郎やアミカなどのエルダー・パワーの席持ちならば、第六階級の名崙級のカテゴリーに入るだろう。彼らは各々の分野で奥義を身につけ、それを扱えるレベルにまで至っている。十分、名人と呼ぶに相応しい実力者である。

 師範クラスならば、その上の王竜級に入るだろう。彼らはそういう指定を受けていないので正確な分類は難しいが、羽尾火のような師範の中でも上の存在は、さらに引き上げられて魔戯級に属するかもしれない。

 ちなみにシャーロンは第五階級の王竜級暗殺者、ジャラガンは第三階級の聖璽級戦士という分類になっている。これはジャラガンが単独でグレイズガーオを折伏しゃくぶくさせたことから、その段階に引き上げられたという経緯がある。魔である神機を屈服させた者には相応しい階級であろう。

 ここで重要なのが、その実績は個人でのものか、それともチームや団体でのものかによって評価が異なることだ。

 シャーロンは人間の中でもトップクラスなので、王竜級であることに疑いはない。ただこれは個人としての能力であり、彼女が常にチームで動いていることにも起因している。

 特に魔戯級以上の階級は、何かしらの伝説的な偉業を成し遂げないと認められない階級である。暴れていた支配者を退けたとか、危険種モンスターを倒した等、規格外の功績を挙げねば候補にもならない。

 シャーロンは国家組織として動いているので、そういったものとはあまり遭遇しない。遭遇しても自国のメリットにならなければ関与しない。それゆえに単純な実力だけを考慮されて王竜級にとどまっている、といえる。

 ただ、ジュベーヌ・エターナル全体でいうならば、彼らは魔戯級以上の組織であることは間違いない。集団でならば危険なモンスターとも戦えるだろうし、野良支配者を撃退するくらいはできるだろう。国家に属する組織には、あまりこういった階級は当てはめないので、普段そう呼ばれることは少ないにすぎない。

 で、第一階級の神狼級である。

 この世界は狼が偉大なる者の代行者として神格化されることが多いため、最高のもの、最大の評価として狼の名を付けることが多い。そのため最高の第一階級には【神の狼】という名が付けられた。

 しかし、偉大なる者の名を冠したせいかはわからないが、この神狼級に属する者の数は非常に少ない。よほどのことでもない限り、この階級に位置される者はいないのだ。

 今までの例を挙げれば、大陸暦を作った大陸王、大陸暦最大の国家間紛争を止めた太陽王、世界最高の術士と称えられた英蠟えいろう王、赤騎士と呼ばれ、魔剣をもって巨大国家を作った剣王、かつて『ハウリング・ジル〈うなる戦鐘〉』と呼ばれ、魔王城より離脱した反乱鬼神軍を殲滅した偉大な覇王を筆頭に、歴代剣王や覇王、魔王が居並ぶという、そうそうたるメンバーである。

 現存している人間でその階級にいるのは、公式では覇王ゼブラエスただ一人である。非公式であれば、メラキ序列一位のザンビエル、バーン序列一位のパミエルキを含めて少しはいるが、やはり少数と言わざるを得ない。

 そして、その面子ならばエルファトファネスが言った、神話や伝承に謳われる第一支配者階級のマスター相手にも対等に戦うことができるだろう。

 第一支配者階級とは、普通の支配者たちとは明らかに異なる伝説級の鬼神である。彼らは魔王城から出ることはないので、人間が戦う可能性は皆無に等しいが、その力はかつての神々に匹敵するという。

 なにせ魔王城の内部では無限に連なる世界が存在し、彼らは自らの世界を生み出すほどに強い力を持っている。制限はあるとはいえ、一つの世界を創造できるほどの理を制御できる者たちなのだ。その力は計り知れない。

 神狼級といえば、それに匹敵するだけの力を持つ者たちである。覇王ゼブラエスならば第一階級の支配者相手でも倒せるだろう。かの人類最強の男ならば難しくはないと思える。

 だが逆にいえば、そんな相手でもない限り、神狼級の人間は必要ないのである。そもそも神狼級の術者など、英蠟王以来久しく聞いたこともない。それに加え、精神系の術を扱える、という前提を加えると非常に人材は限られるであろう。カーリスにさえ、そのような人材はいないのだから。

 とはいえ、紅虎も本気で神狼級の術者を求めたわけではない。

「私だってそこまでは言わないわよ。ただ、少しは使える人材が必要ってだけ」
「神狼級で少しは使える……ですか。ここは世界最高峰の人材が集まる場所ですが」
「ここにいる子らが弱いとは思わないわ。ただ、相手が悪いだけ」
「それほどですか」
「確定ではないけど、その可能性は高いわ」

 紅虎は表情を崩さず、微笑をもって答える。いつものマイペースではあるが、その言葉からは多少の緊張感がうかがえる。

 どう贔屓目に見ても、この会議場にいるメンバーでは気休めにしかならない相手。そんな相手がいるとは到底思いたくないが、紅虎が言うのならば嘘ではないのだろう。

「それではお手上げでしょう。いや、私もついに天に召される日がやってきたと喜んでよいのかもしれません」
「単にそれだけならば良かったんだけどね…」

 紅虎は呆れたような疲れたような表情を浮かべる。それを見た瞬間、エルファトファネスは紅虎の言葉を思い出す。

「だから精神系…というわけですか」

 紅虎は相手の正体については教える気はないようだが、そのヒントは出している。それが精神系というキーワードであった。

 もし敵が精神系の術を扱えるのならば相当に危険である。操られる等すれば、それは死よりも苦痛に満ちたものであるからだ。また、エルファトファネスが望む死や破壊ももたらさない、まさに生き地獄である。

 ようやく主旨を理解したエルファトファネスに対して、紅虎はにやっと笑う。

「だからさ、使える手は何でも使おうと思うんだ。すでにこっちは琥硝姫のところから竜眼使いも借りているの。そっちだって奥の手を出してもらわないと釣り合わないわね」
「もしや、最初から狙いは…」
「いるんでしょ? あの黒い連中」

 紅虎の言葉に、周囲の高位神官の表情が明らかに変わった。紅虎は触れてはいけないものに触れたのだ。いや、直系の彼女だからこそ無遠慮に触れることができるものであろうか。

 そして、紅虎は攻撃の手を緩めない。

「あなたたちが何をしようとも私は関与しないわ。この世界にあるものは、あなたたちが自由に活用するために遺されたものだからね。そう、女神マリスは間違える権利さえもあなたたちに与えたの。それを含めての自由よ」

「でも、後始末はしないとねぇ。ゴミは、それを出した人間が率先して片付けるべきじゃないかしら」

 見間違いでなければ、その笑顔の中には邪悪なものが秘められていた。もちろん、それは比喩であるのだが、エルファトファネスにとってはそう見えたのだ。

 エルファトファネスは何度も紅虎の顔を見ては、その都度目を逸らし、額に手を当てながらしばし逡巡する。

 カーリスに縛られているとはいえ、彼女は法王なのである。その決定は組織全体の運営に影響を与えてしまう。彼女が迷うのも当然である。

 しかし、それもついに折れる。

「わかりました。つまり【そういう案件】だということですね。それならばあなたが出られる必要がある。権利と義務もある。その点において私たちは協力し合える関係ですもの」

 それは紅虎に言ったようでありながら、自分に対して言い聞かせるようなものであった。

「あんなもの、さっさとなくなればいいのに…」

 一言そうぼやいたあと、エルファトファネスは隣にいた高位神官に声をかける。

「ンダ・ペペを呼んできなさい。直轄のアルファ隊もです」
「よ、よろしいのですか? 彼女たちは表舞台には…」
「法王の名において命じます。大至急、彼女たちを召集しなさい」
「はい。ただちに!」

 エルファトファネスによって命じられた女性神官が大急ぎで出ていく。かなり慌てていたようで、途中で持っていた杖を落としたが、それすら置いて時間を惜しむように駆け出していった。


 それから待っている間、紅虎は我が家のように自由にくつろいでいた。菓子をつまみ、茶を飲み、寝転がる。まさに自由人である。しかし、エルファトファネスが紅虎を見る目は、なんら変わらない恐怖に満ちたものである。

 なぜならば、これは紅虎からの【脅迫】だからだ。

 彼女はカーリスの闇についても知っている。知っていながら放置している。彼女の使命の管轄が違うからであろうし、他の直系から文句を言われているわけでもないので、偉大なる者たちの総意として黙認という形を取っているのだろう。

 だがそれは、協力し合える関係の間は、であるはずだ。

 協力を拒めば気が変わるかもしれない。ならば脅迫と同じ。もとよりカーリスには断る権利などないのである。

「ご存知だとは思いますが、彼女たちは非公式の存在。存在すら消されている者たちです」
「わかっているわよ。おおっぴらにはやらないから」
「本当にお願いしますよ。一般の信者は何も知らないのですから…」
「あんたも心配性だねぇ。約束するわよ」

 紅虎が起き上がったとき、入り口には白いコートを着て隠してはいたが、他の神官が身につける白い神官服とは明らかに違う漆黒の神官服を着た少女の姿が見えた。この場にいる高位神官たちでさえ、その無機質な気配に緊張を隠せない。

「扱いにはお気をつけください。我々の最高戦力の一つですから、ラナー卿がいない今、暴走すれば私でも止められません」
「坊や程度に止められるなら問題ないわ。アプス〈喪する者〉、少しは使えると期待しているわ」

 そう言って、紅虎は喪服の少女たちを連れて出ていった。

 それと同時にエルファトファネスは地に伏せるようにうなだれる。

「疲れた…」

 紅虎を相手にした誰もが呟く定番の台詞であった。
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