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零章 第三部『富の塔、奪還作戦』

六十話 「RD事変 其の五十九 『ヘインシー、飛ぶ』」

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 †††

 ヘインシーたちは目的の場所に近づいていた。アミカたちの戦いによって相手の目が逸れ、無事何事もなく北側のエリアに到達することができたのだ。

 塔の北側は、アピュラトリスの出入り口が南側にあることもあり、さほど警備は厳しくないエリアである。地下の軍事ドックエリアを越えた先には、アピュラトリス関係企業の施設と大きな自然公園が存在するくらいだ。

 その自然公園にチェイミー操るブリキ伍式が到着する。

「こんな場所もあるデスね」

 チェイミーは、ダマスカスの首都にこれだけ多くの自然があることに驚いていた。自然公園はかなり大きく、機械化された都市の中にあって異様な雰囲気を醸し出している。まるで場違いにも感じるほどに。

「どのような進化を遂げても人間には自然が必要です。人間の肉体そのものは、自然から生まれているものですからね。それに大気汚染対策も考えねばなりません。その点において植物に勝るものはありません」

 ヘインシーは久々に見る植物に懐かしさを覚えながら、彼らが見事に循環機能を果たしていることに満足する。

 自然すら超越する技術があるのならば、それ単体で世界を構築できるのかもしれない。しかし残念ながら、現在の技術ではそれは不可能なことであった。何より人間という存在自体、自然の一部を構成する物質にすぎない。

 そんな人間には自らで解決できない問題が数多くある。その中の一つが大気汚染である。有害物質を減らすことはできても完全に除去することはできない。こればかりは技術の発展だけではどうにもできない側面があった。

 そこで採用されたのが、原点回帰ではないが、植物に頼るという発想だ。植物の能力は知れば知るほど素晴らしく、人間が作り出す技術は彼ら自然の模倣ではないかと思えるほど優秀で見事。まさに神が生み出した存在と呼ぶに相応しいだろう。

 また、人間が潤沢な物資を得ると、次に求めるのが豊かな自然環境である。こうした植物の存在もまた富の象徴なのだ。逆に都心部だからこそ自然の価値は大きくなる。

「ところで、ここでいいデスか?」

 チェイミーはヘインシーに確認を取る。彼が指定した場所こそ、この自然公園だったからだ。機械的なアピュラトリスに住む彼を思えば、まさに正反対の場所に思える。

「はい、ここで大丈夫です。ここに来たかったのです。無事に着いてほっとしていますよ」
「でも、ンー、見られてマスね」

 チェイミーは、周囲からわずかな視線を感じていた。

 おそらくどこかの密偵が付けてきているのだろう。チェイミーが優れた忍者とはいえ、MGで移動しているのでさすがに重量はどうにもできず、踏んだ土には跡が残る。それも誤魔化しながら痕跡は最低限にしているのだが、限界はあった。

「仕方ありません。アミカさんを出した段階で覚悟はしていました」
「アミカ、やっぱりダメでした。ごめんなさいデス」

 この時はまだアミカは戦闘中なので、チェイミーは彼女のMG戦闘のことを言っているわけではない。アミカの性格が足手まといになってしまったという意味での謝罪である。もしあそこで飛び出さねば、もしかしたら後を付けられることもなかったかもしれないからだ。

 チェイミーはあくまでエルダー・パワーの一員として来ている。アミカのことは性格を含めて好きだが、それが原因で作戦の失敗につながっては里の名誉に関わる問題だ。

 エルダー・パワーには長年ダマスカスを守ってきたという自負と誇りがある。特にマスター・パワーを含めた師範クラスの人間は、人生のすべてを捧げてエルダー・パワーの信頼を築いてきた。それを穢すのはチェイミーにとっては死ぬよりつらいことである。

 だが、ヘインシーはそれを否定する。

「彼女の判断は悪いとは思いません。私も少しすっきりしましたよ。よもや自分がこんな気持ちになるとは…想定外です」

 たしかにアミカの行動は冷静に考えれば愚行である。この状況で一番重要なことは、ヘインシーを秘密裏に指定の場所に届けること。その護衛こそが最大の貢献なのである。それを義憤とはいえ私情で曲げるなど本末転倒だ。

 しかしヘインシーは、アミカが飛び出していったときに、いつもとは違う感情を自身の中で感じ取っていた。もやもやしたものが少しすっきりしたような、アミカを応援したくなるような、そんな不思議な感情である。

 しばらく考えてみたが、これに該当する感情はおそらくこれである。

 愛国心。

 あるいは道義心と呼ぶべきだろうか。

 どう呼ぶにせよ、自分に愛国心のようなものがあることに若干の驚きを感じていた。今までそんなことを考えたことはなかったからだ。

「私はダマスカスが好きだったんですね。それを初めて知りました」
「自分の国デスよ? アタリマエ?」
「そうですね。当たり前…なのでしょうね。私が産まれた国なのですから」

 誰しも故郷への愛着は存在する。普段意識していなくても、外部からやってきた無関係の人間に馬鹿にされると、沸々とした怒りが湧いてくるものである。そこで初めて自分はこの場所を愛していると気がつく。

 ヘインシーは、他の数多くのダマスカス人と同じように愛国心を刺激されたのだ。

 では、何に? なぜ? どうして愛国心を抱いたのか?

(悪魔。あの金髪の悪魔の狙い通りというわけか)

 戦いの素人であるヘインシーに戦術のことはわからない。ただ、金髪の悪魔が意図的にダマスカスを刺激していることはわかる。まるで冬眠している獣の巣穴を突っついて、怒らせようとしているかのようだ。

 軽く突くのならば何も感じないかもしれないが、悪魔はかなり強引に奥までぶっ刺し、あまつさえ掻き回している。そんなことをされれば、いくら温厚な獣でも怒りを感じるだろう。

 それはヘインシーという、通常の人間とは異なる感情を強く持つ人種に対しても有効であるほどに。ならば一般市民や軍人が激しい怒りを覚え、愛国心を奮い立たせるのは自然なことであろうか。

 そして、それこそが狙いの一つでもあるように思える。

(悪魔は単なる扇動者か。それとも先導者か。実に興味深い)

 悪魔に圧倒的な魅力があるからこそ刺激も強くなる。もし彼が単なる扇動者であれば、世界は混乱と憎悪だけに支配されるかもしれない。だが、それ以外の要素があるのならば、いや、そうであると確信するからこそヘインシーは興味を惹かれる。

(必ず先がある。彼らの目的はもっと先にあるはずだ)

 会議場で見た悪魔は、ただ混乱を撒き散らす存在ではない。そんな人間がアナイスメルに侵入できるわけがないのだ。あそこはそんな簡単な場所ではない。

「ここから先は私以外は入れませんから安心してください。それに、もともと隠し通すことは考えていません。無理でしょうしね」

 もともと首都では各国の密偵がはびこっていたので、隠れられるような場所は最初からほとんど存在しない。そのうえダマスカスが光学迷彩を研究していることは、アミカによってすでに証明されてしまっていた。他国密偵が光学迷彩ありきで監視を強めるのは承知の上である。

「とはいえ用心はしましょう。迷彩を維持したまま先に進んでください。この先に目的の場所があります」
「わかりまシタ!」


 チェイミーはヘインシーに指示されるままに、天霧衣を展開したまま先に進む。この光学迷彩は試作品で不安定なところもあり、長時間の使用は難しい。それでもないよりはましであるとの判断からだ。

 一般的な自然公園の大きさはさまざまで、小さなものは大きめの公園から、大きなものは一つの国に匹敵する面積を有する。ダマスカスの自然公園の大きさはそこまで大きくはないものの、MGで移動していても簡単に抜けることはできない大きさであった。

 動物も実際に住んでおり、中にはゾウやワニのようなものもいる。ヘインシー曰く「単純な娯楽目的でもあるが、環境適応実験のため」ということらしい。

 ダマスカスの汚染と浄化の程度を実際の動物で試しつつ、動物がどれだけの環境に適応するかを観察する目的で配置されているようだ。といっても、動物実験のようにあえて苦痛を与えるようなことはせず、単純に水質や生態系の管理実験の一環だという。

 エルダー・パワーの里は山奥にあり動物も多いが、さすがにゾウやワニがいるような環境下ではないので、チェイミーもMGを動かしながら珍しい生き物の姿を楽しんでいた。

 彼女が見る限りは、動物は快適に生活できているようである。ただ、数キロ離れているとはいえ近隣で戦闘が行われているので、大半の動物は警戒態勢に入り、水の中の生物はすべて巣穴に戻っているようで姿は見えない。ヘインシーの話ではカモノハシの近親種もいるようなので、それが見られないのは少し残念であった。

(それにしてもすごい技術だ。このような足場の悪い場所でも、まったく揺れないとは…)

 チェイミーは動物を珍しそうに見ているが、自分自身がそういう目で見られていることには気がつかなかった。ヘインシーはチェイミーを観察しながら、その技術に驚く。

 ヘインシーのMGに関する知識は(興味がないので)たいしたことはないが、チェイミーのMG操縦技術は素人ながらに見ても相当なレベルにあるといえた。

 現在進んでいるのは動物たちが暮らすエリア。いわゆる立ち入り禁止の金網の中を進んでいる。そこは自然環境そのもので、緩んだ沼地のような場所もあれば、低木や草木が好き勝手に生えている不安定な場所も多い。

 また、そこには小動物も多く住んでいるので、MGが通れば彼らに被害が出る可能性も高い。ヘインシーも多少の被害は仕方がないと考えていたし、大きな痕跡が残るのも当然だと割り切っていた。

 が、チェイミーの動きは、自然公園に入ってからますます磨きがかかっていったように思える。ブリキ伍式が忍者用の調整を受けているとはいえ、MGが通ったとは思えないほどに静かに進み、なおかつ大地にも動物にも影響を与えていない。

 忍者の彼女は常に周囲の環境に目を配っており、それを感覚でも感じ取っている。それが秀逸なのは、MGでもそれができることである。彼女もアミカと同じくオンボロMGで訓練をしていたはずなのだが、その操縦技術には相当な差があると思えた。

 ただ、それだけをもってアミカがチェイミーに劣っていると考えては、アミカがかわいそうでもある。アミカはゼッカーという超一流の圧力を受けていたし、MGに対して苦手意識があった。しかも壱式は赤虎用の調整がされていたので、彼女でなくても操ることは難しかっただろう。

 この差の最大の要因は、おそらくはチェイミーが忍者である、ということに尽きる。チェイミーは戦闘ではサポート役であり、積極的に戦闘には参加しない。正しく述べれば前衛で斬り合うのは最後の手段なのである。

 彼女の主戦場は、前衛あるいは後衛のサポートを行う中衛というポジションである。前衛の戦士または剣士の回復や援護をしつつ、後衛の術者や銃者などを守る役割である。

 その仕事にもっとも必要なのが、周囲を観察する目だ。特に忍者や密偵と呼ばれる者たちは攻撃力に乏しい傾向にあるため、周囲を見て状況を把握することを最大の目的にすることが多い。

 チェイミーの目も、忍者として鍛えられた優れたものなのだ。日々山の中で観察眼を養い、敵に見つからず痕跡を残さないようなコースを自然と選べるようになっていった。だからこその業である。

(これ、欲しいデスねー。スゴイ性能デス)

 そして、このブリキ伍式の性能である。

 チェイミーの感覚を増大して、まるで生身で動いているかのような自然に動く魔人機。踏み込んだ足に残る感触は、まさに自分が踏んだ土のものと同じ。生身よりも生々しいと思えるほどに感度が高かった。

 これによって、チェイミーもMGというものの認識を改める。魔人機とは、なんという可能性を秘めているのだろう。もしこのブリキの性能が当たり前になった日には、大革命と呼ぶに相応しいほど世界は一変するに違いないという確信を得る。

(だからマスター・パワーは積極的だったデスか?)

 最初、チェイミーもマスター・パワーの意図することが理解できなかった。当然今も完全に理解できていないが、グライスタル・シティに来た意味はわかる。少なくともここに来てから、かなりのカルチャーショックを受けているからだ。

 会議場で見た各国の騎士団。彼らの実力に驚いたのはアミカだけではない。チェイミーも同じく彼らの強さと実力に驚いていた。その衝撃はアミカより大きかったかもしれないほどだ。

 忍者として第八席に位置するチェイミーであるが、正直あの場で比べてしまえば、第八席という地位にさしたる意味があるとは思えなかった。特にシャーロンを見たとき、チェイミーは「死んだ」と思った。

 忍者や密偵と呼ばれている者は、はっきり言ってしまえば【暗殺者になれなかった者たち】である。暗殺者ほど攻撃の才能がなく、その素早さや隠密性をサポートに特化させることによって生き延びている者であるといえる。

 だからこそチェイミーは柔軟さを重点的に鍛え、特殊な環境化における術(忍術)もいくつか身につけている。簡単にいってしまえば、サポート能力には自信があったのだ。

 それがシャーロンを見たときに砕け散った。「絶対に、どうあがいても、どんな卑怯な手を使っても勝てない」と。

 同じ忍者に負けるのならば納得もいく。実際に会議場にはチェイミー以上の忍者もいたし、エルダー・パワーにならば何人もいる。だから平静を保てていたのだが、シャーロンは違う。

 あらゆる面で圧倒的であった。

 足運びを見ても、素早さはチェイミー以上なのは間違いない。サポート能力でも実戦経験豊富な彼女には及ばない。当然暗殺術を習得しているであろう彼女に戦闘で勝てるわけがない。

 会議場の剣士がホウサンオーを見て青白くなるのと同じく、チェイミーもシャーロンを見て絶望を感じたのだ。いったいどれだけの差があるのか、それすらもわからない。確実に師範以上の実力者である。

 そのショックから、しばらく向上心を失いつつあったチェイミーであったが、それもマスター・パワーが望んだことだと思えば納得もいく。

 今乗っているブリキにしても、ここに来なければ夢にも思わなかった代物である。任務で外に出ることはあれど、こうした体験を積まねば、所詮は井の中の蛙となっていただろう。そうなれば成長は見込めない。

(もっと強くナリマス!)

 ダマスカスに力がなければ、今回のように受けに回るしかなくなる。やはり守るためには力が必要なのだ。チェイミーは改めて守ることの大切さと意味を知る。

「チェイミーさん、あそこです。あそこで止まってください」

 そうしたいくつかの立ち入り禁止エリアを抜けて進むと、自然の中に一つ、大きな人工的な建造物があった。ちょっとした港の倉庫くらいあるので、大型船一隻ならば入ってしまいそうなほど大きい。

 チェイミーはヘインシーの指示に従い、建造物の前で止まる。

「ここに来るのも久しぶりです」

 ヘインシーは懐かしそうに建造物を見る。建造物は殺風景な真四角の構造で、特に窓らしい窓も存在しない。何も言われなければ、良くて倉庫、悪くて無意味なコンクリートの塊のようにしか見えない。

 建造物の周囲には何重かの金属の囲いが設けられている。かなり頑丈そうなので、仮にゾウが突進してきても破られることはなさそうだ。上空に対しては何もないので、単に動物が入らないようにしているだけのもののようだ。

 そんな建物が自然豊かな場所にあることが、さらに違和感と不自然さを強く醸し出していた。

「MG、降りるデスか?」
「いえ、そのままで大丈夫です。あちらのゲートから入ってください」

 囲いには人間用の扉のほかに車両用のゲートが存在している。といっても周囲には車が通った形跡はなく、しばらく使われていないような雰囲気があった。

 チェイミーがMGで近づくと、ゲートのロックが自動的に解除された。どうやらヘインシーに反応して解除されたようだが、ブリキはある程度の電波を吸収しているという話なので、携帯電話などは機体内では使えない。何かしら特別な信号を使ってやり取りしているのかもしれない。

 ゲートのロックを解除したあとは建造物の入り口に立つ。入り口もゲート同様、近づいただけで自動的にシャッターが上がった。

 チェイミーはロックが解除されたことよりも、ガラガラと大きな音を立てて上がるシャッターに内心ドキッとした。どこかの密偵に尾行されているのは間違いない。そんな状況での大きな音は、いくらチェイミーでも心臓に悪かった。これは忍者としての性分だから仕方がない。

 だが、ヘインシーはそんなことは気にしていないように、ただ前だけを見つめていた。その顔には誰かに侵入されるといった心配はない。ここまで来れば誰にも邪魔されないという確信があるのだろう。

 あるいはこの男ならば、もうすぐアナイスメルに近づける高揚感でそうした感覚が全部麻痺している、という可能性もありそうであるが。

 で、内部である。

 建造物の中は、はっきり言えば【何もない】。

 いくつか存在している小部屋は管理用のものなのだろうが、中央の大きな空間はまさにただの箱であるかのごとく、その中身は何もなかった。ただ一つだけ、地下に降りるためのリフトが用意されていた。リフトは大きく、MGのまま入ることができそうだ。

 つまるところ、ここもまだ完全なる目的地ではない、入り口の入り口であったことをチェイミーは悟った。

(ほんと、厳重デスネ)

 エルダー・パワーの里はまったくセキュリティというものがないので、チェイミーにしてみれば実に回りくどく感じる。なにせ里の家には鍵もかけていないのだ。まさに昔懐かしい田舎の光景である。

 里がそのような状況なのは、常に周囲の状況を把握するための訓練も兼ねているからだ。師範クラスになれば常時周囲に結界を張っている者もいるし、寝ていても感知できるほどに優れている。そうした状況を生み出すことで緊張感を維持しているわけだ。

 また、もともと盗まれるようなものもなく、住んでいる者はみな家族のようなものなので、そうした必要がないともいえる。

「ここは接触回線ですので、アームを出してください」

 ここのロックは今までのものより数段階上のセキュリティが施されているようで、間接的な解除はできない。そのためブリキ伍式が腰部からアーム(細部作業用マニピュレーター)を出し、接触回線を使ってヘインシーがロックを解除した。

 電子脳の波長が解除キーになっているので、彼以外にはこのロックは開けられない。仮に破壊して侵入しようとした場合、緊急ロックがかかるようになっており、全システムが強制ダウンするようになっているので安全である。

 懸念があるとすれば侵入されるより、無理やりこじ開けようとしてシステムがダウンすることである。その意味において用心は必要かもしれないが、物理的に侵入される可能性はないだろう。

「では、行きましょう」
「地下に入るデスか?」
「はい。私の家は地下にあるのです」

 チェイミーが疑問に思ったのも当然。私邸と聞いていたので、世間一般の普通の邸宅を想像していたからである。里育ちのチェイミーにしても自然公園の段階で完全に予想を裏切られている。

「日当たりがワルそうですネ」
「そうですね。地下ですから太陽は当たりません」

 この金髪巨乳女が最初に思ったのがそれ。洗濯物を乾かすのが大変だろうなー、である。だが、ヘインシーもさすがヘインシー。彼女の問いに対して、ごくごく事実だけを述べる。ここにアミカがいたら、きっとツッコんでいたことだろう。

 ブリキ伍式がリフトに乗ると、それを覆うようにフィールドが展開される。これはサカトマーク・フィールドで使われているフィールドの簡易版―――非常に簡易の―――のようだ。

 それから下降を始めると同時に何重もの隔壁が通った道を塞いでいく。そうしてかなりの長い距離をリフトで降りると、今度はさらに長い直線通路が広がっていた。

 その内部は機械的で無機質。アピュラトリス内部の雰囲気に若干似ていた。素材も同じ特殊合金で造られているので強度も高そうだ。

「少しロックが続きますが、ご辛抱ください。ここまで来れば光学迷彩は切って大丈夫です」
「はーい、デス! これってエネルギー使いマスね。もうぺったんこデス」
「試作機と聞いていますし、色々と実験段階なのでしょう。あちらはあちらで大変そうです」

 ヘインシーは軍部の事情はまるで知らないが、軍縮が続いていた中で試作機計画を進めるのが大変だということはわかる。しかも大統領が推し進めていた計画だったので、なんとか予算が下りたにすぎないという状況である。

(やはりエルダー・パワーとの融合を進めていくつもりなのだろうが…それはそれで大変そうだ)

 ヘインシーは操縦しているチェイミーを見ながら、今後について思考を巡らす。(自然公園についてからは胸から解放されている)

 大統領のカーシェルが考えていることはわかる。軍縮によって軍全体が衰弱していく以上、このままでは中核を守るための防衛力も失われてしまうだろう。強い武人が少なくなっていることが、その証拠である。

 紅虎の弟子として、間近で本当の強さというものを見ているカーシェルにはそうした危機感があったはずだ。だから軍縮案を飲む代わりに、武人の質を保てるように試作機を用意した。それもエルダー・パワーの人間が扱えるように設計して。

 そして、今回の連盟会議をきっかけにエルダー・パワーの人材を取り込もうとしているのは明白だ。大統領がわざわざ里に出向いたのも、赤虎との新しい盟約を交わすためであろう。

 ただ、両者はかなり相性が悪い。ジン・アズマが軍部と軋轢を生んでしまったように、志郎たちが一部の人間を除いた軍部の人間からのけ者にされているように、なかなかに融合は難しいように思える。

 このチェイミーにしても相当に個性的である。また、個性的であるからこそ強いのだ。一方のダマスカスは均一化によって全体的な力は増したが、今回のように突出した敵が相手には分が悪い。これも平均化の弊害であろう。

 その対極が融合するには時間がかかるだろう。だが、その時間が今後も残されているかはわからない。この作戦次第では、ダマスカス存亡の危機にもなりかねないのだ。

(やはり大統領は慧眼をお持ちだ。貴重な人材であるといえる)

 ヘインシーはチェイミーを会議場に残していたカーシェルの慧眼を称える。

 彼がどこまで看過していたかは不明だが、あの人選には大きな意味があったとヘインシーは確信している。それが結果論だとしても、あの配置があったからこそダマスカスは耐えることができているのだから。


 その後、およそ五十ものロックを解除してたどり着いた場所は、【濃緑の園】であった。

 直線の最後には大きな空間があり、地上の自然公園のように緑が広がっている。それは草原といったレベルではなく、亜熱帯の密林のごとく濃い緑に包まれていた。さまざまな種類の植物が存在し、動物や虫の姿も少しは見受けられる。

 その濃密な空気は、機密性の高いはずのブリキの中にも侵入してくるようだった。空間が、身体全体が活力という名の物質に包まれるような感覚がある。まさに緑の力である。

 そしてチェイミーは、その中にある違う匂いにも気が付く。

「消毒液のニオイ?」

 忍者である彼女は普通の人間よりも五感が鋭い。まだかなり遠い距離であるが、濃厚な緑の香りを突き破るように漂ってきた匂いをキャッチする。

 強い刺激というよりは甘みが混じった独特の香りであり、どこか芳香剤に近い人工的な印象を受ける。

「チェイミーさんは鼻も良いのですね。たしかにこの先には病院のような施設があります。ただ、用があるのは別の施設です」
「病院。人がいるデスか?」

 病院があるということは、そこに人がいるということだ。治療する側、される側の人間がいてこそ病院は成り立つ。

「ええ、います。今は何人でしょうか。三十人以上はいると思います」
「へー。オテツダイさん、デスね」
「そのようなものです」

 チェイミーの頭の中には召使いやらメイドやらの姿が浮かぶが、このような場所にメイドがいるのは、なかなかにして異様な光景ともいえる。可能性があるとすれば施設の管理人とかであろうか。

 濃緑の園を進んでいくと少しずつ緑は減っていき、広い平坦な敷地が広がっていた。

 そこには施設もいくつか見えるが、今までの機械的なものというよりは、もっと幻想的な世界であった。それを形容するためにチェイミーはこの表現を選ぶ。

「ヨーチエンみたいデス」

 そう、幼稚園。

 あちこちの壁に描かれた虹や幻想的な風景は、幼稚園の部屋の中を思い出させる。絵本の世界が広がるような、そんな幻想的な世界であった。

 そしてもう一つ。彼女が幼稚園と形容したのは、草原に同じ服を着た十数人の子供を見つけたからである。子供たちは草原で遊んでいたが、ブリキ伍式を見つけると珍しそうに観察していた。

 ブリキ伍式はまるで足音を立てずに子供たちの前にまで近づく。普通はこれだけ大きなロボットが近寄れば怖がりそうなものだが、子供たちは平然と眺めているだけだった。

 近くで見ると子供たちがかなり幼いことがわかった。まさに幼稚園児くらいの年齢だと思われる。あどけない顔が実に愛らしい年頃だ。

「ここで降ろしてください。チェイミーさんもどうぞ」

 ヘインシーとチェイミーはMGを降りる。二人が降りると同時に子供たちが駆け寄ってきた。

「あー、ヘインシーだ」
「ヘインシーだ」
「うん、ヘインシーだな」
「おー、ヘインシー」

 子供たちはヘインシーに群がり、遠慮なくしがみついたり髪の毛を引っ張って情愛を示してくる。ヘインシーは抵抗せず、されるがままにされている。

「何これ?」
「変なのがいる」

 次はチェイミーに視線が移る。今まで見たことのない存在が目の前にいるからだ。

 忍者である。金髪巨乳忍者である。完全に偽物感が漂っているが忍者である。子供たちはヘインシーの時と同じく、チェイミーにも群がってきた。

「オー、元気ですネ!!」

 チェイミーは子供を見て目を輝かせる。

 エルダー・パワーの里にも子供が大勢いる。大半は孤児であるが、そこでは誰もが家族として暮らしているのだ。赤ん坊もいれば若い衆も年寄りもいる、まさに一つの里なのである。チェイミーも鬼ごっこをして子供たちとよく遊んでいたものだ。

 ちなみにアミカは修行一筋なので、子供にまとわりつかれると嫌な顔をしていたが、心から嫌がってはいなかった。そして、最後にはちゃんと遊んであげていた。―――剣の遊びではあったが。

「何かやってー」
「面白いことしてー」

 子供たちがチェイミーに無茶ぶりをする。面白いことをしろ、実に迷惑な発言である。言った当人が面白いことをしてもらいたいものである。

「ンー、じゃあ!!」

 が、サービス精神旺盛なチェイミーは分身を披露。一人が二人に、二人が四人に、四人が八人に。そしておまけに最後に二人追加されて、びっくりどっきり金髪巨乳忍者が十人になった。

 その十人に分かれたチェイミーが瞬時に後ろに回りこみ、子供たちの背中に触ると、びっくりして子供たちは大騒ぎである。

「すげー!」
「すごーい!」
「見えなかった!」
「増えた! 消えた!」

 初めて見る分身に男の子も女の子も大喜びである。後ろに回り込んだ動きもまったく見えなかった。まさに達人技である。

 しかも、こうした技は滅多に見られるものではない。十人に分身し、そこに実際の気配を加えるのは相当に難しい技である。分け身自体に実体はないが、戦気の質を濃くすることで少しだけならば感触を与えることも同じく高等技術である。

「ねえ、もっともっと!」
「もっと見せて!」
「オー、大人気デスね! それじゃ今度は爆破の術を見せマス!」
「爆破の術?」
「ソウデス! 新しく身につけた術デ、周囲五百メートルを爆風で…」
「みなさん、それくらいにしておきなさい。私たちは聖堂に用事があるのですから」

 チェイミーが発した不穏な発言を聞いて、ヘインシーが即座に子供たちを制止する。単純に嫌な予感がしたことに加え、ここに来た目的は子供たちと戯れることではないからだ。

 子供たちはヘインシーに抗議の声を発するが、今は彼らにかまっている暇はない。

「セイドウ?」
「あそこです」

 チェイミーが首を傾げると、ヘインシーが敷地内の一点を指さす。そこは白塗りの聖堂が存在した。

 聖堂は外の世界で見かけるほど立派な装飾はないが、その外観はしっかりと造られており、たしかに聖堂と呼ばれるような神聖な雰囲気を醸し出していた。チェイミーは知るはずもないが、この白塗りの聖堂はアピュラトリス最上階にある白い大理石と同じもので造られている。

「みなさんは家に戻っていてください。ほかにも学ぶべきことはたくさんあるはずですよ」
「「「「はーい」」」」」

 子供たちはヘインシーの言葉に頷くと、ぞろぞろと家に向かって歩いていった。彼らの向かう先からは消毒液の匂いを強く感じる。おそらくヘインシーが言っていた病院のような施設に向かうのだろう。

 チェイミーがその驚異的な視力で向かった先を見つめると、植物に覆われた建造物が見えた。学校の校舎のような病棟のような、殺風景な建物であるが、いくつもの植物が壁から生えているので無機質なイメージはしなかった。ただ、その植物まみれの様子から、家というよりは廃墟のような印象も受ける。

「アノ子らはダレですか? 孤児ですか?」

 チェイミーは素朴な疑問を発する。さきほどはすっかり遊んでしまったが、ここに子供がいるなど不自然である。

 しかもこのような厳重なロックがかけられた空間で、まるで閉じこめられているかのように生活していることは異常だ。ダマスカスの人権圧力団体に知られれば、子供の虐待だと武装集団が押しかけそうな状況である。

 しかし、ヘインシーはそれに対し、もっとも温和な答えを返す。

「あれは私の子供たちです」
「オー、お盛んデスねー!」

 まさかの発言に対して、チェイミーのこの感想である。たしかにあれだけ多くの子供を作るのは大変であるが。

(でも、歳はミンナ同じくらい。不思議デス)

 子供たちの年齢にさほど差はないように思える。年齢的にはヘインシーの子供であってもなんら不思議はないが、その数が問題である。仮にお盛んだとしても、さすがに一人の女性が短期間に十何人も生むのは不可能であろう。

「幾人かの女性に協力してもらいました」
「オー、ソレハソレハ、このゼツリン!」

 チェイミーが半眼で見つめていたせいか、疑問に思い至ったヘインシーが説明する。

 ただ、その回答の意味は、かなりずれてしまったようである。ヘインシーが言った意味は、卵子と代理出産のための子宮を提供してもらった、という意味にすぎない。結果は同じであるが、その過程はかなり異なる。

「では、行きましょう」

 しかしヘインシーはその話題に対して興味がないのか、さっさと聖堂に向かって歩いていた。チェイミーもそれに続く。

 聖堂まではそう距離がないので、すぐに入り口にまでたどり着く。そこにはまた厳重なロックがあるようで、ヘインシーは波長の他にいくつか物理的な解除を試みていた。

 チェイミーは警戒がてらに周囲を観察。すでに危険なものはなく、当然ながら密偵の姿もない。ロックは解除されたあと再びロックされるうえ、地表にあったリフトも厳重なセキュリティがあるので、各国の密偵も自然公園から奥には入れないでいた。

 この空間自体も地下深くにあり、強固な隔壁に守られているので、少なくとも外よりは安全であるように思われる。上ではかなりの戦いが繰り広げられているはずだが、揺れもしないし振動も感じない。完全に別世界である。

「わたし、どうしマスか? マッテますか?」

 彼女の役目は、ここに連れてくるまでの護衛である。いざ着いてしまえばやることがなかった。機密もあるだろうし、この先は入らないほうがよいのかもしれないと気を遣う。

「ああ、そうですね。ここにいれば敵は来ないと思いますが…」

 ヘインシーはしばし逡巡。この施設はダマスカス国内でもトップクラスの機密事項。大統領でさえ必要がなければ知らないでいるような場所である。チェイミーのような余所者がいること自体、異例である。

「もう隠す必要もありません。せっかくです。中までどうぞ」

 この場所の存在は他国にも知られてしまった。この作戦の後には破棄されるかもしれない。それと万一のための護衛の意味を込めて帯同を許すことにした。

「ワーイ、見マス!!」

 実はさりげなく興味があったチェイミーが、一瞬でヘインシーの場所にまで移動する。その勢いにヘインシーは若干引きながら、彼女がそわそわしている間にロックを解除。ゆっくりと機械仕掛けの扉が開く。

 聖堂の内部は外部と同じく装飾品もなく質素。灯りも薄暗かったが、ステンドグラスから入り込む光がキラキラ輝き神聖さを醸し出していた。これだけ見ればカーリスの聖堂と言われても疑わないだろう。

「アレ、何デスカ?」

 チェイミーは聖堂の中に並べられたものに気がつく。ケーブルの付いた二メートル大の長箱のようなものが十六個、左右に置かれていた。箱には複雑な装飾が施されており、どことなく気品がある。

「あれは、こことアピュラトリスを繋ぐ装置の一つ。名称は特にありませんが…強いて言えばひつぎでしょうか」

 ヘインシーは特に感情を見せず、それが何であるか端的に答える。その表現として適切だったのが【棺】という言葉であった。

「カンオケ? ヒトが入っているデスか?」
「厳密に言えばヒトではありません。が、ヒトであったもの、ですね。実際に見るのが早いでしょう」

 ヘインシーが棺桶の蓋を少し開ける。蓋はかなり軽いようで、体格的に普通のヘインシーでも簡単に動かすことができた。

「ンー…、これ、ナンデスか?」

 最初、人間が入っているのかと思っていたチェイミーが、少し落胆したような言葉で尋ねる。落胆したのは残念という感じではなく、完全に予想が外れたために少し戸惑っているためだ。

 それもそうだろう。棺に人の姿はなく、石版のようなものがはめ込まれていたにすぎない。ならばわざわざ棺にする意味はないからだ。

 しかし、ヘインシーからすれば、これはりっぱに【人間】なのである。

「かつて電池だった人間の波長をコピーした媒体。これによって、ここはアピュラトリスと疑似的につながっているのです」

 石版は装置に組み込まれており、棺の隣にある機械が人間の心電図のように波動を計測していた。

 ユウト・カナサキやエリス・フォードラのような人間は、アナイスメルに干渉するために必要な装置である。彼らの持つ波長が石版と反応することで、アナイスメルとアピュラトリスは連動することができるのだ。

 なぜ彼らの波長だけが適合するのか理由はいまだわかっていないが、ダマスカスはそのデータを保存していた。彼らが在任中にデータを収集し、ここにある石版にコピーするのである。

「へー、スゴイです! そんなコトができるデスねー」

 チェイミーは何もわかっていないが、とりあえずそう答える。ひとまず男の話はヨイショしておけ。これが副業の忍者バーで学んだ万能の叡智であったからだ。

 それに気を良くしたわけではないだろうが、自己に興味がある話題なので、ヘインシーは気分良く答える。

「普通はできません。コピーには特殊な技術が必要なのです。これもあまり公にはできませんが、過去の遺産の一つなのです」

 当然、ここにある石版はオリハルコン〈黄金の羊〉ではない。どのようにやってもあの素材は再現することができなかったからだ。これはラーバーンが使っている擬似オリハルコンの下位劣化版とも呼ぶべきものである。

 アナイスメルが発掘されたときに一緒に見つかったサンプル素材。それを模倣して造った劣化コピー品である。オリハルコンが神機、擬似オリハルコンがナイトシリーズだとすれば、これは単なる量産型のMGに等しい、正直頼りない代物であった。

 しかし、これでも波長のコピーをするくらいのことはできる。一つでは力が弱いので、こうして複数使用することによって、かろうじて予備という扱いにできている状態であるが。

(それぞれ電池の波長は異なる。それでもアナイスメルは受け付ける。共通点はいまだわからないか)

 ヘインシーは電池の謎に思いを馳せる。

 電池となった人間の波長は、実際はかなり異なる部分がある。そうでありながらアナイスメルは受け入れる。そこがまだわからないでいる。ただ、波長の違いによってアナイスメルの能力に変化が起きていることは、今までの探査によってわかっていた。

(電池の質によって、アナイスメルの覚醒する領域が異なるのだろうか)

 ヘインシーが立てた仮説がこれである。

 事実上、アナイスメルの能力は99パーセント以上眠っている。現在使っているのは、そのわずか1パーセントにも満たない領域である。

 となれば、電池の質によっては新しい能力が目覚める可能性があるし、それゆえに電池の重要性も高まっていく。これがアナイスメルが人間を欲している、という理由なのだろう。

 あの存在は、封じられた自己を解放したがっているのかもしれない。多少病的な解釈ではあるが、もっともアナイスメルと接していた人間であるヘインシーには、そう思えて仕方がないのだ。

「時間があまりありません。この先です」

 ヘインシーは話もそこそこに先に進む。この状況では電池の心配をすることも無意味。まずは塔を取り戻さねば、電池の意味も失われてしまう。

 聖堂は思ったより大きくさまざまな部屋があるようであるが、目指すは一番奥の部屋。通路を進むごとに空間が広くなっていき、最奥の間は百メートル四方の巨大な部屋が存在した。

 その入り口には、アピュラトリスの最上階にあったような【門】が設置されていた。

「申し訳ありませんが、ここから先は私一人で入ります。その間の警備をお願いいたします」
「わかりマシター!」

 ヘインシーは門の前に立つ。門の中心部の宝珠から光が放射され、同時にヘインシーの胸が光る。【鍵】が反応したのである。これもアピュラトリスの最上階と同じシステムであった。

「もし二時間以内に私が戻ってこない場合、ここを破棄してください。これを聖堂の扉にあった装置にはめれば自動的に破棄されます」

 ヘインシーは、自身の胸にあったペンダントをチェイミーに渡す。その鍵は、青く光る不思議な輝きの宝石であった。

「キレイです! キラキラ、高く売れマス!」

 いきなり売ることを考えるとは恐ろしい発想である。しかし、チェイミーでなくても、これが高価なものであることはわかった。普通のものではないのは間違いない。

「事の次第によっては不要になるかもしれません。そのときは差し上げますよ」
「ヤクソク! 指切りしまショ! 嘘ついたら、ハリセンボン飲ませマス!」

 ハリセンボンとは、実際の魚のハリセンボンそのものであるようだ。けっして反故にさせまいとする気迫が伝わって、ヘインシーは思わず一歩下がる。あくまで不要になればの話だ。そこを忘れずにいてもらいたいものである。

「子供たちは、どうしマス?」
「彼らは見た目以上に賢い。いざというときは自力でなんとかしますよ。一応大人もいますから。では、また会えることを祈っております」
「気をつけてイッてらっしゃい!!」

 チェイミーは天井に張り付いて特別サービスのお見送りである。それ自体に意味はないが、彼女の異様なまでに陽気な雰囲気にあてられ、ヘインシーもどこかそわそわした気分になる。

(不思議な女性だ。やはり男女というものは面白い)

 ヘインシーに性欲はなく、母性に対する欲求もないが、女性という存在に興味を抱くことはある。人間がなぜ男女に分かれているのか、その意味を考えるとなかなか興味深い。

 それにチェイミーという人間自体が、普段はお目にかかれないレアな性格をしていることも要因の一つであろうか。アピュラトリスで出会う女性は、せいぜい事務員程度なので、こういった雰囲気で話すこともない。

 好意的だ。

 男女の好きという意味ではなく、人間として面白いと思えた。

 そんなチェイミーに軽く手を振ってヘインシーは門をくぐり、この聖堂の心臓部に入っていく。入ると同時に門は閉じられ、独りの静かな空間が取り戻されていく。

 この空気はアピュラトリスの最上階、自身の部屋と同じものである。静寂で、孤独で、落ち着いている。この世界においてはすべてが凍りついたかのように静止しているのだ。ヘインシーはこれが好きだった。

 部屋には丸十字の紋様と、それが何百も合わさって生まれた複雑な術式が編まれている。それらはただ一点、部屋の中央にある【ダイブ室】に伸びていた。

 ルイセ・コノやヘインシーのようなダイバー〈深き者〉が精神領域世界に潜るには、必ずダイブ室を経由する必要がある。これは命綱の役割も果たしているからだ。

 簡単な情報空間程度ならばまだしも、アナイスメルのような広大な世界に赴くには命綱は必須である。

 そして、ダイブ室は【十字架の形】をしていた。

 両手を伸ばして入ると、人間がすっぽりと入ってしまう大きさである。どことなくMGのコックピットを連想してしまうが、そもそもの起源はこちらが先である。意識がさらなる次元を目指す時、人は十字架に入らねばならないのである。

 ヘインシーが服を脱いで全裸で十字架に入ると、装置が起動して麻酔がかけられる。次に有線の針が出現。身体の背中に七本の針が突き刺さった。

 続けて幽体の針も出現。普通の人間には視えないため何が起きているかわからないだろうが、これらの針も同じく背中に接続される。刺さった針はチャクラの場所に対応しており、ヘインシーの霊体を強制的に引き出す。麻酔は、身体の感覚をなくすための補助的な役割を果たしていた。

 術者ではないヘインシーは、こうした手段で幽体離脱を果たすのである。ただ、これから向かう先は、ただのダブルでは入れない領域。より高度な媒体が必要となる場所だ。

 十字架の各部に取り付けられたジュエルが振動し、さらに彼のバイブレーションを人工的に引き上げていく。最初は鈍い色だった身体が少しずつ純白に近づいていき、ついには自ら輝きだす。

(人間…か。やはり不思議な生き物だ)

 ヘインシーは、揺らぐ物的意識の中で人間について考えていた。さきほどはチェイミーの底抜けの明るさに戸惑いつつも、人間というものを観察していた。そうしていつも思うのが、人間とは不思議な生き物であるということだ。

(地上の人間は、力を物質文明に使いすぎたのだろう)

 人は物質の中で生きることを定められている。その中で一定の自由が存在し、こうした技術を生み出したのも人間の自由意志である。しかしながら技術だけが発展した結果、人は自らの力の強さに苦しむことになる。

 本来は霊の道具であるはずの物質に、逆に支配されてしまったのだ。物質だけを求め、それだけに価値を見いだすがゆえに、真実の力と叡智を見失ってしまった。アピュラトリスそのものが、その証拠である。

(管理者。それもまた人が生み出したもの。人の気持ちを理解できないで当然か)

 人の技術は、ヘインシーという存在すら生み出した。

 塔とアナイスメルをつなぐ存在として造られた彼は、管理者として人間の文明を支配することができる。あくまで富を守る存在として。あくまで塔から出ることが許されない存在として。

 賢人の遺産。

 かつて発掘されたアナイスメルの遺産の中から、塔の管理者として必要な因子を持つ細胞が発見された。これはアナイスメルを生み出した者が用意し、遺したものだと思われる。

 ヘインシーは人間であるが、受精時に遺伝子操作を受けてこの因子を引き継いだ人間である。こうした人間を強化人間ブーステッドヒューマンと呼んでいる。

 ヘインシーの場合は因子自体が特殊なため、もっと言ってしまえば人造人間といっても差し支えないだろう。そもそもこの因子自体、本当に人間のものであるかは不明だからだ。

 彼のような存在が、かつては何十人もいた。その中で因子の強い人間を複製することで、アピュラトリスは今のようなシステムを生み出すことに成功したのである。

 管理者、電池、石版、そしてマザー・モエラ。こうした要素によって、アナイスメルの演算領域を物的世界に顕現することができる。

 管理者としての因子が影響するのか、こうして生み出された人間には物的欲求がほとんどない。食欲も性欲もなく、ただ職務に忠実な人間が生まれる。かつての思想家が言ったような、公的機関に属するためだけに教育された人間、そのものであるかのように。

(だが、そんなものであるはずがない。これほどのものが、たったそれだけのものであるはずが!)

 ヘインシーにあるのは、ただ知的探究心。アナイスメルの謎に対して、まだまだ人間は知らないことが多い。多すぎる。それまでは半ば諦めに似た感情を抱いていたが、ゼッカーたちがアナイスメルに侵入を仕掛けた時、彼の中で何かが目覚めた。

(知りたい。その先にあるものを! その可能性を! 絶対にたどり着く!)

 今の彼にあるものは、もはや管理者としての責任ではない。ただ知りたいだけ。この先にある何かを知りたいだけ。

 彼の魂は燃えていた。その炎を翼にして肉体から離れる。ヘインシーには道が見えていた。

「さあ、今行きますよ!!」

 目指すは無限の世界。そこを駆けているルイセ・コノを目掛けて飛ぶ。
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