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零章 第三部『富の塔、奪還作戦』

四十三話 「RD事変 其の四十二 『対局準備』」

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 †††

「動きがありました。連盟側は戦闘準備を開始しています」
 マレンが会議場での動きを報告。

 部隊編成をする以上、こればかりは隠しきれない。すでに会議場近くには続々とグレート・ガーデンを除く常任理事国の部隊が集結しつつある。その中でもっとも活発な編成をしているのがルシア帝国であった。

「上手く釣れた、といったところでしょうか」
 フレイマンが映像を確認しながら隣にいるゼッカーに話しかける。ルシアが動くことは想定済みである。そもそもそういう状況になるように挑発したのだ。ルシア天帝を侮辱すれば、当人はよくても周囲が黙ってはいない。ザフキエルも立場上、騎士たちの不満を放置はしておけなくなる。

 ゼッカーがルシア訛りで出た瞬間からすでにルシアは表舞台に出ることが決まっていたのだ。その意味においてフレイマンの言葉は適切である。ただ、一つだけ誤算もある。

「予想より動きが早い。もう少し時間が稼げると思ったがね」
 ゼッカーにすでに笑みはない。会議場でのやり取りは所詮演技にすぎない。

 そして、それを見破っていた者がいる。

 当然、優れた者たちが集まっている以上は打破される可能性もあったのは事実である。しかし、ルシア側の対応は予想を超える早さである。部隊編成にも迷いがまったくない。あれだけの力を見せられても着々と準備を進めている様子は見事の一言であった。

 それは敵側がすでに攻略の糸口を掴んでいることをうかがわせた。ルシア側には明確な目的、対処方法があるのだ。そうでなければこれほど迷いなく行動することは、いかに軍事大国であっても不可能である。

「指揮官はわかるか?」
 ゼッカーの言葉を受けてフレイマンがマレンに問う。指揮する人間には必ず傾向性がある。指揮官が誰かがわかればその対策も立てやすい。

「会議場の回線はすでに遮断されています。アクセスはできません」
 第一会議場のセキュリティ情報はハッキングしているが、それらはすでに【物理的に遮断】されてしまった。簡単に言えば外部に繋がる配線ケーブルごとぶった切ったのである。これではいくら優秀なハッカーといえどもどうにもできない。

 このあたりの思いきりのよさは、さすがカーシェルである。もはやいかなる犠牲を払ってもアピュラトリスを奪還するつもりのようだ。こうなれば間接的に情報を集めるしかなくなるが、ラーバーンには彼らがいる。

「こちら側で把握している。指揮官はハブシェンメッツという男よ」
 その様子を見ていたザンビエルがハブシェンメッツの名を出す。

「情報出ました。ロイス・ハブシェンメッツ様、ルシア特定戦略局の青風位のようです」
 マレンが即座にリストを検索し、ハブシェンメッツの情報をスクリーンに出した。

 この情報源は【会議場内部】からのものである。
 が、内通者という意味ではない。

 世界最高の諜報機関といわれるルシアの監査院やシェイクの諜報部が出向いている会議場では、そう簡単に密偵が忍び込めるものではない。それはラーバーンであっても容易ではないのだ。逆に捕まって情報が漏れてしまう危険性すらあるほどだ。

 また、複体を使ったものでもない。ザンビエルはダブルも使えるが、会議場には紅虎やアダ=シャーシカのように高度なダブルを見破れる人間もいる。そこからこの場所が探知されてはもっと危険である。

 よって、これもメラキの特異能力を使ったもの。序列九位のWE・Eの能力である【観測】である。本来、観測はかなり近い距離でなければ発動はできないが、たとえば電波のように能力を中継することでカバーしているのだ。そういう人材を所々に置いてネットワークを拡大しているわけである。

「そのまま相手の作戦も見抜けるか?」
「やつの能力は強いが、あまり長時間の使用は危険であろうな。これ以上の干渉は勧められぬ」

 フレイマンの言葉にザンビエルは首を横に振る。能力の発動には多くのエネルギーを使用する。メラキの能力も言ってしまえば何かしらの力を転換して使用するものなので、消費の観点でいえばガソリンなどと大差はない。

 霊的なものと言えば摩訶不思議に聞こえるが、実際はより繊細で高次元のエネルギーを使っているにすぎない。たとえば精神。何かに意識を集中するだけでも人は疲労する。精神という目には見えないが実在するエネルギーを使っているからだ。同時に肉体を持つ者ならば生体磁気も消費するだろう。生体磁気は肉体における栄養素のようなもので、老化現象にも深く関わる重要な物質である。

 人間は成人してから死ぬまで、この生体磁気の総量自体はさほど変わらない。それをどれだけ消費しているかによって老化が早いか遅いかが決まっていく。若くても老いた身体の人間、年齢を重ねても若い人間がいるのはこれに寄るところが大きい。

 一般的には成人後、社会に出ることで肉体的にも精神的にも過労状態になり、より多くのエネルギーを使うようになる。補充される量には限度があるので、結果的にマイナスの状態が続き老化が早まっていくことになる。

 メラキの能力は便利であるが非常に消耗が激しいのが難点である。ミユキとマユキの大転移も恐るべき力を使う。その多くは【ブースター】と呼ばれる補助装置を使って補っているがやはり限界はある。

 彼女たちもこうして力を過大に使用していけば、老化以前にそのまま衰弱して死んでしまう可能性が高くなる。何事にも限度というものがあるのだ。これ以上のエネルギーの消耗はWE・Eにとっても危険である。

 ただ、こうした力の中にもさまざまな種類があり、ザンビエルのように高級霊界からの援助をもらえる条件を整えれば、預言のような強力な能力を使ってもさしたる消耗はない。自分のエネルギーを使うわけではないからだ。エネルギーは無限の愛から注がれ、それを受ける側はむしろ強化されていく。

 が、これまた何事も限度というものがある。ここが地上世界である以上、物的法則に従わねばならない。それには数多くの制限があり、結果的にメラキの大半も全力で能力を使える場面は限られている。いかに賢人の遺産を持つ彼らであっても限界はあるのが現状であった。

「やつらも網を張り出しておる。時間を得たのは我々だけではない」
 しかもザンビエルは、すでにいくつかの対抗策が打ち出されていることを察していた。

 エネルギーの消耗を少しでも防ぐためWE・Eはダマスカスに滞在し、いくつかのルートを通じて情報がザンビエル側に届くようにしている。しかし機先を制したとはいえ、ダマスカスは相手の本陣である。相手はなりふり構わず対抗策を打ち出すだろう。

 現に少しでも怪しい者は一般人でも拘束している様子が遠視できる。WE・Eが滞在しているホテルもけっして安全ではないのだ。特に指揮系統周りは相手の警戒も強く、術者による結界も強化されている。観測自体は打ち破れなくても痕跡を発見する可能性は否めない。

「こちらも正攻法でやるしかないようですな」
 フレイマンはメラキによるからめ手を諦めるも、そこに落胆の色はない。いざ戦闘になれば裏方がメインのメラキの出番はほとんどない。戦うのはそれこそバーンの役目なのだ。

「もとよりそのつもりだったからね。問題はない。しかし彼があのアーマイガーに勝った男か。興味深いね」
 リストを見たゼッカーが、一見すればイケてないハブシェンメッツに興味を示す。やはり注目はこの点、アーマイガーに勝ったという経歴である。

 何者かがアーマイガーに軍人将棋で勝ったという話は、一部都市伝説化しているものの意外と世間では知れ渡っているものだ。それがハブシェンメッツであることを知り、ゼッカーは興味を示したのだ。

 アーマイガーといえば【ルシアの悪知恵】と呼ばれるほどの戦略家で、現在のルシアの植民地戦略の基盤を生み出した人物といえるだろう。その手腕はまさにハブシェンメッツが言うとおり、巧妙さと狡猾さにかけては誰もが舌を巻く。

 まぐれであってもその彼に勝った。そんなことは誰にでもできることではないのだ。ゼッカーが注目するのも当然である。

「しかし、それ以外の目立った経歴はありません。それが逆に不気味ではありますが…」
 フレイマンの言葉もまた真実である。唯一目を引くのがその点であるだけでハブシェンメッツの能力については不明。どのような戦術を好み、どのような手を打ってくるのかはまるでわからないのだ。その意味においてはリストにある名将たちよりやりにくい。

 ラーバーン側としては今回の連盟会議に帯同している二人、青風位の上位職である青空位せいくういのイルビリコフ、ルシア帝国軍でも知将と名高いシェルビカッツ提督などを想定していたので、今回の人選は意外であった。リストには載っているもののハブシェンメッツは正直蚊帳の外であったのだ。

「ふっ、天帝も面白い手駒を持っているものだ。いや、アーマイガーに先を読まれたかな」
 ゼッカーは笑う。少なくとも自分の演技を見破ったのは間違いない相手である。将棋の相手としてはなかなかに悪くない。

「笑い事ではありません。不確定要素が増えてきました。早めに目的を達するべきかと」
 そんなゼッカーをたしなめるようにフレイマンが釘を刺す。フレイマンには若干ながら焦りがあった。それはルシア帝国の動きだけが原因ではない。

 さきほどホウサンオーたちに接触した相手にも問題がある。メイクピークとバードナーを救出した者たち。個人の力量もさることながら、何よりも転移術を使ったことが問題である。マレンの映像には映っていなかったが、能力の発動はザンビエルによって感知されていた。そして可視化された映像によって、それは門であることが確認されている。

 となれば、ミユキとマユキと同族。おそらくは芸門きもんの一族の出身である。あの門の形状がそれを示している。ただし、規模は違う。ミユキとマユキがなぜルイセ・コノより上のメラキ序列四位なのか。彼女たちは一族の筆頭であり代表となるほどの天才なのだ。一度に送れる量も質も速度も圧倒的だ。対して相手は極めて平凡な門で実に質素なものである。

 それは門の形状にも如実に表れている。見た目が華やかなのは演出でも虚勢でもない。それだけ力が大きい証拠である。見た目はその表現なのだ。簡素な冠木門の形状から見るに、相手はおそらく一族でも中位以下に位置する存在であろう。下野した者か、かつて分かれた一族の末裔かもしれない。一度に送れるのはせいぜい一人が限度だろう。

 それでも転移を使えることは事実。フレイマンはそこを憂う。

「敵側に転移が使える相手がいるのは想定外です」
「敵とは限らないさ。彼らは攻撃を仕掛けてこなかった」
「しかし、味方であるとも思えません」

 出現した者たちは明らかな敵対行動は示さなかった。これは重要な点である。もちろんオブザバーン相手に抵抗できなかった可能性も否めないが敵意は発していなかった。もし発していれば、姿は見えずとも各国の諜報員に気づかれていたはずである。

 彼らはあくまで【緊急措置】を行ったにすぎない。少なくともあの二人を失うことは避けたかったのだろう。とすれば、おのずと正体も見えてくる。

「敵対しないのならば当面は放っておけばいい。なにせ周りは敵だらけだからね。今はルシア相手に集中しよう」

 ゼッカーは静観の立場を崩さない。その余裕がないのだ。投入できる戦力には限界があり、すでにこちらはホウサンオーとガガーランドという最上位バーンを投入している。つまりはすでに戦力的には中核クラスを出しているわけだ。この段階で駒が足りていない。

 いかに優秀な戦術家であっても駒がなければ満足に戦えない。すでに奇襲を成功させた今、今度は受けに回る側となる。おそらく防衛だけで精一杯だろう。

(メラキは不確実すぎるうえ、バーンもまだ数が足りない。そこは埋めねばならんな)
 今後はメラキに頼りすぎない実行力も求められる。それはすなわちバーンである。

 フレイマンはふとランバーロの司令室に貼られている【リスト】に目を向ける。そこにはバーンとメラキの序列が刻まれたリストがあるのだが、その様子はまるで学校の掲示板に貼られた成績表のようで、何とも珍妙なものに感じられる。

 実際あのリスト、適当に書き殴ったような序列のリストは子供のメラキであるヨハンが書いたものである。いつだったか突然彼が司令室にやってきて紙とマーカーで何かを書き出し、無造作にガムテープで貼りつけたのだ。

 最初は「ここは保育所か」と呆れていたフレイマンであったが、そのリストはけっして剥がれることはなく、いまだに何かの力で強力に接着されている。武人であるフレイマンが全力で引っ張っても取れないので、残念ながらディスプレイの一つが使えなくなったまま今に至る。

 そしてリストの不思議なところはそれだけではない。

 【自動的に名前が浮かび上がっていく】のである。

 リストには序列の数字が書かれており、名前の欄にはまだ空白の場所も目立つ。しかし、仲間が増えるとそこに自動的に名前が浮かんでいく。しかもその序列が的確なのである。当然ゼッカーやザンビエルが能力を調査して序列付けをするわけだが、その結果はまさに浮かび上がった通りになる。

 ザンビエルいわく、これはヨハンの能力である【黙示録】の力であるという。彼の能力はまだ発展途上で未知数なところもあるが、能力の規模と威力自体はザンビエルを凌駕する。おそらくメラキ最強の力を有する、というのが上位メラキの見立てである。

 一番怖いのが、ヨハン自身が能力を意図的に使えないこと。逆に考えれば、いつ発動して何が起こるのか誰にもわからないのである。一応、彼の守護霊団が細心の注意を払って管理しているが、マルカイオとの一件のように感情の起伏が激しくなると抑えきれないこともあるようだ。

 何にせよ黙示録が発動して生み出されたリストの信頼性と信憑性は極めて高い。ここに書かれたことは【絶対に実現する】のである。これがザンビエルの預言とは多少違う点である。

 そして、現在リストの上から十番目、空欄の位置が光っていた。これはもうすぐ名前が浮かび上がる前兆である。

(序列十位。上位バーンか)
 この現象にフレイマンは驚きと期待を隠しきれないでいる。

 バーンの【序列十位以上】を【上位バーン】と呼ぶ。ホウサンオーを見てもわかるように彼らの力はそれ以下の中位・下位バーンとは一線を画する圧倒的な力を持つ。

 ホウサンオーやガガーランドが仲間になった時も思ったが、上位バーンが加わることはラーバーン側にとって最大の戦力補強なのである。MGはいくらでも用意できるが、強力な武人だけは生み出すことができない稀少なものだ。

 それが光っている。光り出したのはついさっき。連盟側が対抗措置を決めた時からである。そこで【宿命の螺旋】が動き出したのだ。

(相手側の抵抗が強くなればこちらも強くなる。これが螺旋か)
 破壊と再生は同時に起こることもある。両者に優劣はなく同列で不可欠なものとして配置されているからだ。ただし、いまだ世界は破壊を必要としている。すでに誤ってしまったシステムを破壊するには強大な力が必要になるのだ。そしてその力はラーバーンに集まりつつある。

「コノを急がせる必要はない。彼女は自分の世界に集中してもらえればいい。それをサポートするのが我々の仕事だ」
 ゼッカーは改めてそこを強調。今回の作戦の肝は誰がなんと言おうがルイセ・コノである。ホウサンオーでもガガーランドでもない。すべては彼女を支援するための行動。ただそれだけなのだから。

 ラーバーンの命運はルイセ・コノにかかっている。彼女が遅れれば、ともすればバーンの何人かを失う結果になるかもしれない。がしかし、それでも成し得なければならない重大な使命があるのだ。

「こちらと違ってジェイドのほうは順調のようです」
「そうか。やりすぎないようにと伝えてくれ。重要なピースだからね」

 フレイマンがそっとゼッカーに耳打ちすると、ゼッカーは少しだけいつもと違う笑みを浮かべる。今回の作戦はさまざまな要素が入り交じった複雑なものである。それを同時進行させるためにも、この勝負で勝たねばならない。

「さて、ロイス・ハブシェンメッツ殿、貴殿の手並みを拝見させてもらおうか」

 そう言ってゼッカーは【勝負席】につく。

 目の前には巨大な将棋盤が広がり、対面にはハブシェンメッツがいる。空気が、感覚が、それを伝えている。二人の意識が混じり合い戦場の基礎を形成していく。

 他のすべては道具。それを操るのは二人だけである。ただ互いの知略を競い合う場ではない。この戦いにダマスカスの未来が、いや、世界の未来がかかっているのだ。



   ††† 



(見られている)

 指揮を執るために会議場から出たハブシェンメッツは、少しずつ青空が夕焼けに変わりつつある青と赤の中間の世界でその視線を感じていた。明らかに自分を意識する者の視線と感情。どれだけ離れていてもこの感覚だけは間違えることはない。

 群衆乱れる交差点の中でただ一人、自分を強烈に見つめている者がいる。

 上から見下ろす強者による圧倒的な威圧感と存在感。そうでありながら冷静であり、まるでこちらを罠にかけようとほくそ笑んでいる不気味さもある。

(あの男…か)
 ハブシェンメッツは、それが悪魔のものであると瞬時に理解した。あの会議場での威圧感とまったく同じだったからだ。

 やはりアーマイガーに通じたものを感じる。こちらを試そうとする強者の立ち位置。それ自体は嫌いではないが、ハブシェンメッツ当人としてはやりにくさを感じるものだ。これがいわゆるプレッシャーというものなのだろう。

(どうしてみんな、僕なんかに押しつけるのだろうかね)
 いまだにハブシェンメッツ当人は、なぜ彼らが自分を試そうとするのか理解できないでいる。ハブシェンメッツは出世や自己顕示欲にはまるで興味がなかった。そんなものに意味を見いだせなかったのだ。

 ルシア帝国にとどまらず人間が社会を生み出すと、その中で地位を求める者たちが出てくる。理想からそうする者もいるが、多くは肥大化した自尊心が原因になっている。誰もが自分を目立たせたいと願う。資質なき者ほどその傾向が強く、その矛盾が結果として社会を混乱に陥れる。

 これらは人類が生み出した社会全体の歪みであるとハブシェンメッツは考えていた。

(どこかで人は間違えてしまったのだろう)
 いつどこでこうした歪みが生まれたのかはわからない。もしかしたら物質への羨望が恐怖や不安に変わった時に生まれたのかもしれない。

 その瞬間、人は未来を視る目を失った。

 言い換えれば、人類の指標となるべき偉大なる者を見失ったのだ。光が見えなくなった人間は闇の中で自身が生み出したものに囚われ苦しむ。自身が生み出した【幸福にはなれない価値観】の環の中で永遠に廻り続ける哀れな存在となった。

(そうだ。僕はそれに疲れたのかもしれない)
 ハブシェンメッツは、ただただその哀れな光景を見つめていた。ホームレスとして生活しながら人の社会の闇を見続けていた。絶望でもなく希望でもない。ただ彼はじっと見続け、哀れむでもなく救うでもなく生きてきた。愚かなことをしなければ間違えないで済む。それはそれで正しいことである。

 しかし、それで何かが起こることはない。

 人は行動することによって悪を引き起こす可能性が高くなるが、代わりに正義や善すら生み出さない人形となる。何もしないのはけっして良いことではない。今までハブシェンメッツはそう暮らしてきた。ある意味において自己を諦めながら。

(でも一つだけ僕には戦う理由がある。それを示してくれるならば…)
 ハブシェンメッツは生まれて初めて自分の心の中に火が灯りつつあることを悟った。悪魔という存在は端から見ればピエロ以下の存在である。その一方で、悪魔はやはり悪魔。悪魔たりうるだけの資質を備えているのだ。

(どちらの悪知恵が上回るか、それだけは楽しみだ)
 ハブシェンメッツにとって唯一の楽しみはそれだけである。互いの知略を競う。ただそれだけに価値を見いだしていた。

 褒められたものではない。もとより褒められるつもりもない。少なくとも自分は世界を背負って戦うなど馬鹿らしいし、到底無理だとわかっているからだ。だからこそ、このシチュエーションはハブシェンメッツにとって価値があるのだ。

 そんな男が世界を持ち出した悪魔に勝つ。

 そうなればこの混乱も【喜劇】で終わるのだろう。ならば死ぬ人間も少なくて済む。同じ劇ならば悲劇より喜劇のほうが良いに決まっている。

「風位、本当にこれでよろしいのですか?」
 思考に耽っていたハブシェンメッツを現実に引き戻したのは、用意された装甲指揮車を不安げに見つめる部下の声であった。アルザリ・ナム、二十歳、男性。ハブシェンメッツの世話役としてつけられている青年である。階級は【藍六位あいろくい】。

 行政府の階級はこうした名称で用いられることが多いので非常にわかりにくいが、軍隊で言えばハブシェンメッツの青風位は少佐に相当する。アーマイガーの蒼天位が元帥、アルメリアの紅天位が大将、青風位の上位である青空位が大佐クラスと考えるとわかりやすいだろうか。

 部下のアルザリ・ナムは藍六位で、小尉に相当する。下級役人には、藍十位と呼ばれる文字通り十段階に分かれた階級が与えられ、数字が少なくなるほど権限が上がる。

 アルザリ・ナムはまだまだ駆け出しの新人といった部類であるが、この若さで六位になるには相当な実力が必要である。しかも彼が移民出身(ノンキャリア)であることを考慮すれば、どれだけ優れた資質を持つかがうかがい知れる。

 ちなみに行政府での敬称は役職の位を用いる。青風位ならば、誰々風位と呼ぶ。ルシアでの青は叡智(戦略・戦術)を示す一方、内政を血液と捉えて赤(紅)で表す風習があり、青風位のほかに内政担当の紅風位もあるが、基本同格なのでこれもまた風位という敬称になる。よってアルザリ・ナムの場合は六位と呼ばれる。

「何か問題かな?」
 そんなアルザリ・ナム六位の言葉に適当に相槌を打ちながらハブシェンメッツ風位は平然と装甲指揮車に乗り込む。アリザリ・ナムも慌てて上司の後に続いて装甲車に乗り込むが顔色は優れない。

 それも仕方がない。本来、戦術士が指揮を執る際は安全な場所に陣取るものである。出向く必要がないならば基地の司令室、戦場ならば強固な旗艦というように、もっとも安全性の高い場所に位置するものである。

 しかし、ハブシェンメッツは自ら戦場に出ることを決めた。

 ここは広野でもなければ公海でもない。巨大都市であっても戦艦が入れるほど大きい道路は当然ながら存在しない。アピュラトリスを守る都合上、至る所に障害物が意図的に配置されており、戦艦が突撃しづらいように設計されているのだ。よって、乗れるものがあるとすればMGや小型の輸送船か駆逐艦、あるいは目の前にある装甲車くらいのものである。

 ハブシェンメッツはその中でも小回りの利く高機動タイプの装甲指揮車を選択する。防御力はダマスカス陸軍が使っていた戦車と大差なく、MGの攻撃が直撃すれば一瞬でお陀仏である。

 武人ではないアルザリ・ナムが青ざめるのも当たり前の反応である。いや、すでに敵の攻撃力が判明している以上、武人であってもこれは躊躇するだろう。

 ハブシェンメッツも武人ではない。多少武人の血が覚醒しており、二週間くらい飲まず食わずでも死なない程度に体は頑強だが、世間一般で武人と認められる基準には達していない。

 これくらいの覚醒率ならば一般人でもそれなりに数多くいる。がんばればギリギリ兵士として採用される程度のもので珍しくもないので、今回のレベルでいえば、MGの攻撃以前に生身の敵兵力に襲われてもあっけなく死ぬだろう。

「せめてチヌルク艦にお乗りください。あれならばまだ耐えられます」
 チヌルク艦とは、ルシア帝国で一般的に使われる軍事用の小型輸送船の総称である。輸送船といっても民間のものとはまるで別物で、小型の戦艦とでもいえるような強固な装甲を持ち、要人護送にも使われる【艦】である。

 一方、装甲車は軍事用とはいえやはり【車】である。艦と車では、戦闘面での運用で天と地ほどの差がある。ルシア帝国も大型戦艦こそ持ち込んでいないが、高官護送用にチヌルク艦を二十隻は持ち込んでいる。アピュラトリス周囲は幅百メートルを超える比較的大きな幹線道路が多いので、この艦クラスならば十分余裕をもって通ることができる。

 ゆえにアルザリ・ナムはチヌルク艦を使うと思っていたのだが、実際に目の前にあったのは平凡な装甲車である。ただでさえ戦術士が戦場に出るのはリスクがあるので、このチョイスに驚かないほうがおかしい。

「これでいいのさ。なぜかわかるかい?」
 ハブシェンメッツは教師が生徒に尋ねるようにアルザリ;ナムに問う。

「会議場は狙われやすいからですか?」
 即座にアルザリ・ナムの頭に浮かんだのがこれである。会議場は強固な術式で守られてはいるが相手からすれば明確な目標になりうる。その気になれば敵MGが会議場に狙いを集中することもできる。あれだけの強者に狙われれば、いくら強固なプロテクトでも危ないだろう。

「そうだね。それも一つの理由だ。僕としては避難してほしいのだけれど、お偉方はそうもいかないようだ」
 ハブシェンメッツも駄目元で避難を勧告してはみたが、アルメリアにあっさり拒否された。ここには偶像とはいえルシア天帝がいるのだ。避難などすれば逃げることと同じである。ルシアの天威が敵を前にして逃げることはありえない。それが答えである。

 ただし、それも正しい選択である。移動することにはリスクもあり、敵がその機に襲撃しないとも限らない。移動中は混乱も起きやすいので、移動しないという選択はあながち悪いものではない。

「ですが、陛下はともかく雪華公の御身は危険なのではありませんか?」
 天帝は偶像だから壊れても問題ない。一方のアルメリアは生身である。彼女も武人であるとは聞いていないので攻撃を受ければひとたまりもないはずだ。

「君は彼女をどう見る?」
「どう見る、ですか? 優れた人であるとは聞いていますが…」
 ハブシェンメッツの意図がわかりかねてアルザリ・ナムは口ごもる。口ごもるということは、あまり良い評価ではないことを示している。絶対階級社会のルシアでは、藍六位程度が紅天位に対して口を出すなど常識的にありえないからだ。

 ただ、アルザリ・ナムが悪いのではない。それが世間一般の正当な評価なのだ。やはり【大貴族のご令嬢】という側面が彼女の評価を下げているのだろう。しかし、ハブシェンメッツは雪華公と呼ばれる女性の本質を感じ取っていた。

「彼女は生まれながらに権威が何であるかを知っているんだ」
 ハブシェンメッツはアルメリアに対して恐怖心を感じてはいないが、その才覚に恐れを抱くことはある。紅天位でもあるアルメリアが逃げないのは当たり前なのだが、彼女は自らの価値と意味をよく知っていた。

 紅虎やカーリス法王のエルファトファネスを見てもわかるように、この世界において【シンボルとは女性】を指すことが多い。偉大なる女神が世界を導いているこの世界で、人は母に対して畏敬の念を潜在的に持つ。女神こそ人類の霊的頂点に立つ存在だからである。

 そして、それは地上の人間の女性にも当てはまる。一説によれば女神は自分の分霊を地上に送り人間として生活させ、人々に愛と正しい生き方を教えるという。

 女性だからこそ、その言葉は心に響き。
 女性だからこそ、その行動は優雅になり。
 女性だからこそ、その愛は無償になる。

 人は男女ともども霊の本質に差はないのだが、この地上においては女性の役割は非常に大きいものとなる。人類が女性を排他してきたがゆえに、今では逆に女性である意味合いが強くなっているのだ。

 それは人類が女性を欲している、ということ。

 男性だけの力では世界が成り立たなくなってきているということを示している。

 そうしてアルメリアは大貴族という権限だけではなく、自らが女性であることも上手く利用している。無骨な武人がその場に居座っても、それはそれでしかないが、アルメリアという女性かつ強い意思を持つ人間が残ることで、内外に強烈なメッセージを伝えることができるのだ。

 その中で一番恐ろしいのが、彼女は自分が死ぬとは絶対に思っていないことである。男ならば「死ぬ覚悟」という言葉で着飾るのだが、彼女は単純に死ぬつもりはまったくないのだ。それもまた女性が持つ現実主義者の側面である。

「案ずることないよ。ルシアという国はね、やはり大きい。その中で【魔窟まくつ】で生きる人間は、さらに恐ろしいものだよ」

 ルシアの中枢は魔窟という言葉で表現される。政治的な駆け引きだけで使われる表現ではない。実際、ルシアの権力者の多くは恐るべき生命力を持っているのだ。それこそ片腕をもがれたくらいでは動じることもないほどに【生き物としてタフ】である。

 おそらくは雪がそうした強さを培ったのだ。物資の少ない自然の中で人は強くある必要があった。そうしなければならなかったのだ。そして、対する悪魔もまた雪の世界を知っている。

「悪魔がルシア訛りだったことに気がついただろう。あれにはいろいろなメッセージが詰まっているはずだ」
 悪魔があえてルシアを挑発したことは、ルシアを表舞台に引っ張り出したい理由があるからにほかならない。ハブシェンメッツは、あれは挑発でもあり一種のアピールでもあると感じていた。

「復讐でしょうか?」
 移民出身のアルザリ・ナムが真っ先に復讐を思い浮かべるのも仕方がないことである。ルシア帝国がここ五百年で急速に力を伸ばしたということは、それだけ強引なやり方をしてきたことを示している。

 植民地に多大な恩恵を与えている一方、恩恵を受けられない者からの反発は強まっていく。特に血に関すること、民族や思想について問題が起こることが多い。そのため潜在的な反勢力組織は数十万に上るともいわれている。悪魔がそうした勢力の一つである可能性も考えられるし、そう考えるのが自然でもある。

「その線もあるけれど、今回は逆かな。【見せすぎ】だからね」
 ハブシェンメッツは悪魔があまりにも露骨だったことが気になっていた。

 特にあの金髪、ルシアンブロンドである。わざわざそれを見せたこと。自分が純血の血を引いていることを見せた意味は、簡単に語れないほど大きく深い。ルシアにおいて血のつながりは他国を圧倒するほどに非常に強いのだ。それが純血ともなれば家族以上の絆を持つことを意味している。

 悪魔が「私はあなたと同類ですよ」とアピールした。
 となれば、それは敵対とは正反対の意味を持つ。

「では、狙いは連盟の分裂ですか」
 ルシア天帝が悪魔を評価したのは、その才覚だけが理由ではない。いくらかでも純血を持つ者だからである。

 悪魔が何であろうとルシアの純血を持つのならば、そこには融和の可能性が見えてくる。が、同時に他の常任理事国との亀裂にもなりえる。普通に考えれば後者を狙ってのことだろう。

「さて、それだけならば楽なんだけど、その先があるようにも思えるね。いや、きっとある。僕はそれを知りたいと思っているのさ」

 ルシアを引っ張り出す一つの意味は連盟の分裂であることは間違いないだろう。ルシア帝国は軍事力ばかりが目立つが、実際はそれを材料とした交渉が主な戦略である。

 何事も使わずに済めばそれが一番である。破壊した物には価値がなくなるのだ。それをよく知っているルシアは戦う前に勝負を決めてしまうことが多い。

 本来は今回も戦いたくはなかったのだ。挑発されて、それがあまりにも問題だったために仕方なく参戦しているにすぎない。しかし悪魔の立場からすれば、それだけ天帝に【見せたいもの】があるのだろう。

 それが何かは今はわからない。
 だからこそ、ハブシェンメッツはここにいるのだ。

「彼の空気をもっと知りたい。それができるのはこの戦場だけだ」
 ハブシェンメッツがわざわざ出てきたのは、悪魔と称する者の真意を探るためである。そして現に悪魔はこちらを見ている。これだけの実感があるのは、自ら戦場の空気に身を晒しているからにほかならない。

「それで、答えがこの装甲車なのですか?」
 結局、装甲車である意味を教えてはもらえなかったことに気がつくアルザリ・ナム。ハブシェンメッツは自らの考えを他人に語る性格ではないので、聞いてもはぐらかされて終わるに違いない。

 実際そのとおりで、彼は笑うのみである。

「大丈夫。直撃を受けても死ぬときは一緒さ。それより作戦が終わったら報酬にパンとコーヒーをいただくとしよう」

 ハブシェンメッツの言葉にアルザリ・ナムは、ふと過去を思い出した。あの時、ボロボロの外套に身を包んだゴミの臭いをさせた胡散臭い男は今と同じことを言ったものだ。

「君を助けてあげよう。その代わり報酬としてパンとコーヒーをいただくとしようか」

 そう言って幼いアルザリ・ナムに逃げ道と問題の対処法を教えた彼に与えられたのは、彼の外套よりボロボロの固いパンと煤けた豆から作られた安物のインスタントコーヒーである。だが、彼はそれを最高のごちそうのように夢中で食べた。その時の光景はいまだに忘れることができない。

 その出会いによってアルザリ・ナムはここにいることができる。そう思うと心が温かくなるのを感じた。ハブシェンメッツがいれば何でもできるように感じる。そばにいるだけで不安が消えていく。そう、アルザリ・ナムにとってハブシェンメッツは憧れ以上の存在なのだ。

(これは風位にとってチャンスだ。そして、自分にとっても)
 リスクを伴わなければ大きな結果は得られない。移民出身の自分と元浮浪者のハブシェンメッツ。彼らがのし上がるための最大のチャンスが訪れた。

 ただし、そう思っているのは周囲の者たちだけである。肝心のハブシェンメッツには興味のないこと。彼が興味があるのは、自分よりも優れたものだけ。


「では、話題の悪魔君と勝負といこうか」


 ハブシェンメッツも勝負席に座る。

 目の前に広がるは将棋盤。対するは世界を燃やすほどの力と才能を持つゼッカー・フランツェン。黒の英雄王、金髪の悪魔と呼ばれ、今後数千年に渡って人類史上最高の逸材と称される天才である。

 当然、その正体を今のハブシェンメッツが知る由もない。だが、わかる。感覚的にわかってしまう。この相手は強いと。自分を追い詰めてくれると。だから自然と笑みがこぼれるのだ。


 そして、最初の一手はハブシェンメッツが打った。


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