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零章 第三部『富の塔、奪還作戦』

四十話 「RD事変 其の三十九 『奪還作戦会議①』」

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 第四会議場に場は移る。
 
 この場に集まったのは五大国の首脳陣に護衛団、ヨシュアのような五大国以外のゲストを含めて五百人程度である。第一会議場に二万もの人間がいたことを考えれば実に少ない人数だが、その顔ぶれは豪華かつ多様である。

 五大国以外にも元首に準ずる王族や皇族、その中でも将来有望とされている次世代の次期元首候補たちが集まっている。彼らはいずれ各国を率いて世界を導く立場にある存在である。

 それに【シンボル】あるいは【アイドル】を加えれば世界の縮図が完成する。紅虎のような特殊な存在やカーリスの法王などがそれに該当する。彼らは国家や人種すら凌駕する存在である。まさにシンボル。存在そのものが巨大な影響力を持つ者たちだ。

 悪魔は富ならずカーリス教までも否定してしまっている。民族、階級すら否定したのだから全世界を敵に回したようなものである。

 移動に使った二十分を含めると時間的猶予は一時間四十分。その間に反撃の準備は同時進行で進められているとはいえ、早急に打開策を決めねばならない状況にあった。

 まず動いたのは主催国であるダマスカスの大統領カーシェル。

「今この場を襲撃されたら世界は終わるかもしれないね。ははは」
 という、ある種カーシェルらしい空気を読まないジョークを発したあと、周囲の冷たい視線に耐えかねて本題に入る。

「さて、みんなで協力してアピュラトリスを奪還したいと思うのだが、どうだろうか?」
 カーシェルは改めて他国の元首にそう提案する。
 
「皆で…か。主催者であるうぬは、それでかまわぬのか?」
 ルシア天帝ザフキエルの偶像の目が射抜くようにカーシェルを見据える。基本的に主催国が警備を担当するのが決まりである。自国なのだから至極当然の話だ。これがもしルシアならば、絶対に他者の力は借りないだろう。

 しかし、カーシェルの意見は違う。

「このままだとみんなが困る。私もあなたも、そこの人もあそこの人も誰一人得をしない。ただ一人を除いてね」
 カーシェルは唯一得をする者、金髪の悪魔を思い浮かべる。

 現行の金融システムが破壊されて得をする国は実のところ少ない。
 それは【流通の破壊】を意味するからだ。

 多くの国が貿易によって資源を得ている今、流通がいかに大切かは誰もがわかることである。そもそも自国だけでは需要と供給が成り立たなくなっているのだ。

 国家のそれは、まるで人と人との関係のようである。自分だけの世界ではどうしても限界がやってくる。自分の持つものを他者と交換してこそ、やりがいや活気が生まれるのと同じように、人の多様性を保持するためには流通はどうしても必要なものだ。それを支えるのが世界共通の金融システム、つまりはアピュラトリスである。

 カーシェルが改めて述べるまでもなく、アピュラトリスこそ世界安定の最後の砦である。逆説的にアピュラトリスさえ無事ならば何とでもなるのだ。そのために手段を選んではいられない。

「我々が結束すること。それが重要だ」
 カーシェルは集まったすべての人間がそれを実感できるように、強く大きく言葉を発する。悪魔の狙いはまだ不明であるが、あの挑発的な物言いから察するにこちらの動揺を誘ったのは間違いない。

 カーシェルもそれなりに修羅場は潜っている。相手の狙いがこちらの分裂であることは明白である。ここでまとまった姿を見せつけることで国際連盟の価値も上がる。そう付け加える。

「正論だな。だが、うぬはすでに二回も失敗している。これ以上はダマスカスに任せてはおけぬ」
 残念ながらザフキエルの言葉に反論する者はいない。アピュラトリスを占拠されたうえに防衛にも失敗している。ダマスカスが講じたすべての防衛手段がいともたやすく破壊されたのだ。

 すでにダマスカスの信頼は地に落ちた。

 主催国が会議を取り仕切る決まりであるが、ここまで失敗したダマスカスに全権を委ねておくわけにはいかない。ザフキエルはそう言っているのだ。

 しかしカーシェルはその程度では動じない。

「それは当然の意見だ。現に我々が失敗したのは事実だからね。ザフがそうしたいのならルシアが主導してもかまわないよ」
 カーシェルはあっさりと認め、指揮権をルシアに委ねてもよいと言い放つ。

(相変わらず小賢しい男よ)
 その迷いのない素早い判断に対し、ザフキエルは即答を避ける。カーシェルの魂胆が見え見えだからだ。

 ダマスカスにとってみれば過程は何でもよいのだ。重要なのはアピュラトリスを守ること。アナイスメルという存在を取り戻すことである。結局、そこに恥や外聞など必要ない。富の塔を取り戻してしまえばダマスカスの優位性はまったく変わらないからだ。

 世界の金融にとってダマスカスは絶対に無視できない中核であり、今後もそうあり続ける。最初からそういう仕組みになっているのだ。それを壊す存在が現れるならば、どのような手段を使っても排除しなければならない。それこそが富の国ダマスカス大統領の最大の責務であり、カーシェルは責務を実直に遂行しているにすぎない。

(うん、彼も変わらないな)
 シェイク・エターナル連合国家大統領ベガーナンは、カーシェルという男に一目置いていた。

 世間ではカーシェルをこう称する。

 【無欲な蛇】。

 やっていることは非常に現実的で、ある意味では狡猾であるのに毒気がない。カーシェルには権勢欲というものがない。独占欲もなければ自己顕示欲といった類のものがまるでない。

 仮に彼が何かを提案しても、それはたいてい複数人あるいは全体の利益を指し示すことが多い。当然、反発はあるだろう。しかし、そもそも意見というもの自体、常に反対意見を含むものである。

 もっと言ってしまえば、人が生きる限り必ず反対の存在と出会うものなのだ。批判、不利益、葛藤、そうしたものを含むからこそ人生は複雑で面白い。彼はそれをよく知っていた。

 そのすべては一人の女性と出会った時から始まった。紅虎と出会い、カーシェルは【人というものを知った】のだ。偉大なる者とは美しく強く、穢れないものだと思っていた。完全なる人間を体現した完璧な存在だと思っていた。

 だがそうではなかった。

 人間とは【不完全であることに意味がある】のだと悟った。完全は完全の中にはないのだ。人間は不完全だからこそ完全へと至れるのだ。

 完全であり続けようとする時にのみ完全が存在する。

 不満足の中で満足を見いだそうと必死に夢中になっている時、人は唯一満足感を得ることができる。一見すればパラドックスを含んだその悟りにこそすべてはあった。その時からカーシェルは不屈の闘志を持つに至ったのだ。

 完全でなくてもかまわない。失敗や不安定でもかまわない。そもそも人間とはそういうものだ。それを受け入れてこその人間である。そして、彼自身は何も持たないがゆえに、多くの人間に利益を与え続けて大統領にまでなったのだ。紅虎という存在に心奪われたからこその無欲さが、カーシェルを導いた。

 カーシェルからすれば紅虎以外のすべては無意味、無味乾燥、無臭のものにすぎない。彼が欲しいものがあるとすれば紅虎のみ。そしてそれは永遠に手に入らないからこそ彼を引きつけ続ける。

 カーシェル自身、アピュラトリスに執着はない。ただ単にアピュラトリスが現在のシステムを維持するうえで絶対不可欠のものであるから守るだけのことだ。もしアピュラトリス以上のものが生まれれば、カーシェルはあっという間に鞍替えするだろう。だが、今はアピュラトリスが最高のものである。ならば守ることに迷いはしない。

 こうして提案するのも全体の利益を考えてこそである。今のシステムを維持したほうが相対的に、結果的に得をする。そのほうが賢明であると知っているからだ。

「今は手段を選んでいる場合ではない。誰がやるかではなく、みんなで取り戻すんだ」
 カーシェルの言葉には誰も異論を唱えられない。無欲で無害なものに対しては人は不平を言えないものであるから。

 ただ、カーシェルが一番気になっているのはグレート・ガーデンのアダ=シャーシカである。彼女の性格上、何かトラブルを持ち込む可能性が高い。

 が、カーシェルが視線を向けてもアダ=シャーシカは特に反応しなかった。それよりも悪魔が気になっているのか、隣にいる執事のポーターと何か話しているようである。

(このままおとなしくしていてくれればいいが…)
 カーシェルはアダ=シャーシカとは数回会った程度であるが、紅虎から注意するようには言われてた。

 さきほどの【戯れ】を見て警戒感は一気に高まる。思った以上にじゃじゃ馬のようである。紅虎でも手に負えないような相手なのだから敵にはしたくないのが本音だ。

 今回の会議には、グレート・ガーデンからは元首のアダ=シャーシカとポーターに加え、護衛の守護天使が一名付いている。多くの技術産業関係者も参加しているが、政府関係者の数は他国と比べて圧倒的に少ない。

 ルシアの使節団が、会議に出席していない者を含めて一万になるのに対し、グレート・ガーデンは五八人。国土自体が小さいグレート・ガーデンとルシアを比べるのは難しいが、グレート・ガーデンの人口は一億に近いのだからこの数はやはり少ない。

 やはりそれはアダ=シャーシカが出席していることと関連しているようだ。彼女の存在そのものがシークレットに近い。ガーデン人でも超帝の名前は知れど、アダ=シャーシカ当人を知る人間は少ないのではないだろうか。

 もともと非公式の存在なので守護天使の詳細も不明。サーティーンズの第二天使で、アビラ=ウンジャという名前であることだけはわかっている。

 アビラ=ウンジャの外見は非常に中性的で、男のようにも見えるし男装した女性のようにも見える。アダ=シャーシカに似た民族衣装を甲冑風にアレンジすると、ああいう服装になるのだろう。

 アビラ=ウンジャはただ黙してアダ=シャーシカに付き添っている。寡黙なのかアダ=シャーシカとポーターがうるさすぎるのか、どちらにせよ他の常任理事国とは趣が異なる様相が神秘的である。

 カーシェルが紅虎に視線を移すと目が合う。それからカーシェルに向かって笑顔で軽く手を振っていた。その様子は甥っ子の発表会を見守るお姉さんのようである。

(やっぱり姉さんは助けてくれそうにないな)
 わかってはいたが、カーシェルは少しばかり寂しくなる。紅虎は基本的には積極的に地上の揉め事には関わらない。ああ見えて直系という自分の立場をよくわきまえているのだ。

 彼女は【偉大なる者の代理人】のようなもの。

 偉大なる者が【愛の波動】によって人を導くのと同じく、紅虎もまた地上人の自由意志を尊重する。地上のことは地上人が解決する。これはとても重要なことなのだ。人が自らの力で歩むことを決めた時から決まっている完全なる宿命なのだから。

 といっても、紅虎はかなり積極的に干渉するタイプなので、どれくらいの制約があるかはいまだ不明であるが。

「異論はありませんが、やはり指揮系統は統一したほうがよろしいのではありませんか?」
 そうカーシェルが考えていた時、一人の男が発言をした。発言したのはロイゼン神聖王国、第一王子のヒューリッド・ニュー・ロイゼンである。

 端正にも見えなくはないが、どちらかというと骨格がしっかりした顔立ちであり、鍛えた身体がゆったりした服の上からでもはっきりわかるほど逞しい。そうでありながら言葉遣いはとても柔らかく、まるで美しい鳥の鳴き声のように繊細でよく通る。人々からの信任も厚く、国民からは【聖ヒューリー】と呼ばれるロイゼンの逸材である。

 今回は国王のヒューゾルの体調が悪いため代理元首として連盟会議に出席している。彼の言葉はロイゼン国王の言葉として扱われる重要な意見である。

「相手は相当な手練れの様子。ただ向かっていくだけでは危険でしょう」
 ヒューリッドは言葉を選びながら慎重にそう伝える。つまりは、ダマスカス軍の惨敗を教訓にしろと言っているのだ。あれだけの数に加えてゼルスセイバーズという特殊部隊をもってしても倒せなかったのだ。無策で挑むのは自殺行為である。

 ヒューリッドの意見は至極もっとも。あのように悪魔が力を見せつけたのは、こちらの戦意をくじくためである。いかに五大国家が集まっているとはいえ、あれだけの敵を相手に単機で打開できる者はこの場にいないだろう。

 さらには各国とも戦力を保有はしているが、あくまで自衛のために用意したものである。ここに戦争をしに来たわけではない。不要な損害は避けたいのが当然の心理である。

「シャーロン、君は敵の戦力をどう見る?」
 ベガーナンは隣にいるシャーロンに意見を促す。世界最高の暗殺者と呼ばれる彼女の意見は相手の力量を測るうえで重要な参考になる。

「予想以上であったな。正直に言えば、あの黒い剣士はわしでもどうにもできん」
 シャーロンは迷うことなく相手の力を認める。ナイト・オブ・ザ・バーンの力はあまりにも突出している。あの戦闘力はシャーロンから見ても異常である。

「あまり認めたくはないが、もう一つの巨大なMGも黒い剣士とほぼ同レベルと思ってよかろう」
 この事実は、シャーロンでさえ肩をすくめたくなる最悪の状況である。一機だけでも危険な相手がもう一機いる。これだけで危険度は三倍にも四倍にも膨れ上がるからだ。

「ふむ、君がそう言うのならば相当のものだね」
 ベガーナンはシャーロンがお世辞を言わないことを知っている。どんな賛辞であっても自分が本当に認めたものしか褒めない。そのシャーロンがここまで評するのだから相手の実力は並外れているのだろう。

「相手が連携する可能性もあります。自分には少々さきほどの戦いが気になりますからね」
 そう発言したのはシャーロンの部下でありジュベーヌ・エターナル副隊長のザッカルト・C・メイブッシュである。最強実働部隊の副隊長を務めるだけあってザッカルトも超一流の武人である。その彼が気になるのは、さきほどのデモンストレーションである。

「自分には、こっちを誘っているように見えますよ」
 ナイト・オブ・ザ・バーンの【殺陣たて】は、見映えがとても良い。それはたしかに大きな力を見せつけた。自分がいかに強いかを思い知らせた。しかし、圧倒的がゆえにその不自然さもまた目立ってしまう。

 ナイト・オブ・ザ・バーンは強いが、あえて単独で戦う必要はない。せっかく無人機やヘビ・ラテあるいはドラグニアがいるのだから連携して戦えばもっと効率は上がる。相手はわざとそうした隙を見せて、こちらが仕掛けるのを誘っているようにも見えるのだ。

 この段階では相手の戦力は確定されていない。あくまで現在出現した数で想定するしかなく、敵の増援や伏兵がないとは言いきれないのだ。ザッカルトはそれを危惧している。

「フェイクの可能性もある…か。ますます判断は難しいね」
 敵の狙いがまだ明確ではない。富の塔が占拠されたことは事実だが、相手の狙いが会議場であった場合、そちらに戦力を傾けすぎるのも危ないのだ。ベガーナンは相手に先手を取られたことを改めて痛手と感じる。

 ここまでは完全に悪魔のペースである。悪魔のすべてを見透かしたような態度や雰囲気に誰もが呑まれてしまっている。また何か仕掛けるのではないか。また裏があるのではないかと勘ぐってしまう。そこが一番怖いところである。

「ところで、敵の素性は割れたのですか?」
 ヒューリッドが気になる発言をする。悪魔がこうして先手を取れたのは【情報戦】で圧倒しているからだ。アピュラトリスの情報を得て、会議場すらハッキングする諜報力は脅威である。ならば、それを少しでも覆すことで状況は変わるはずだ。

「声紋のチェックは?」
 カーシェルがバクナイアに問う。黒機が肉声を発したことはすでに情報に入っており、そのチェックも進めさせている。そろそろ結果が出てもよい頃であった。

「残念ですがまだ特定はできておりません。存命中の武人はほぼ照合したのですが…」
 バクナイアが無念そうに報告する。現在、アピュラトリスがあのような状況であり、ダマスカス最大の情報力であるアナイスメルの力が使えない。仕方なく他の機器を使って調べているが、いまだ該当者は見つかっていなかった。

「あれだけの実力者が野良とは思えないがね」
 カーシェルは手に顎を乗せながら疑問を呈する。

 野良にも強い武人は大勢いる。むしろ最近の騎士は温室育ちが多くて血の覚醒率が低いともいわれる時代である。厳しい環境でこそ血は燃える。あの覇王ゼブラエスとて最初は無名の青年だったのだ。が、あれだけの剣技を操る男がまったくの無名とは考えにくい。それとも無名だからこそ肉声を発したのだろうか。

「ならば【亡霊】、ということですか。それはそれで興味深い」
 そう発言したのはロイゼン神聖王国、筆頭騎士団長かつカーリス教団神聖騎士長のシャイン・ド・ラナーである。

 いくらアピュラトリスが使えないとはいえ、ダマスカスの情報力は一級品である。その彼らが調べて現存する武人に該当者がいないのならば、相手は亡霊であるといえる。

 黒機のパイロットは【すでに死んでいる】のだ。

 何の因果か悪魔の片腕として舞い戻った亡霊。
 なんとも滑稽で似つかわしい組み合わせである。

「ラナー卿、何か思い当たることがおありかな?」
 ヒューリッドはラナーがそうした発言をしたことが意外であった。むしろ礼節を重んじるラナーには、そういった軽口は似つかわしくない失言であるともいえる。その彼があえてそうした発言をするとなれば、何かしら意図があるのだろう。

 ヒューリッドはただ単にたしなめる意味合いもあって発言したのだが、彼はこの後、予想だにしない言葉を聞くこととなる。

「恐れながらヒューリッド殿下、私にあの黒い剣士討伐の任をお与えください」

 ラナーの言葉に周囲の空気が大きく揺れ動く。ヒューリッドもしばし呆然としてラナーの顔をまじまじと見てしまった。

「卿はその言葉の意味を理解している…のだろうね」
 ヒューリッドはラナーのことはよく知っている。少なくとも無謀な人間ではないし、自己の名声のためにパフォーマンスを演じるような男でもない。

 剣聖と準聖人の称号を持っているため、今でさえ多くの称賛と同等のやっかみを受けているのだ。彼は常々、そうした外部からの干渉を嫌っていたはずだ。ゆえに、そんなラナーがあえてそうした言葉を発するのならば、単純に【勝算】があるからにほかならない。

 ラナーは、黒い剣士に勝てると言っている。
 自分ならばやれると。

 しかし、ヒューリッドの立場上、こう言うしかない。

「たしかに卿は優れた剣士だ。それに異論はない。だが、ロイゼンとしては簡単には許可できない」
 ヒューリッドは国王の代理としてロイゼン騎士団を預かる身である。ラナーの申し出は騎士として立派であるがロイゼンの国益と直結する問題であるがゆえに簡単には答えは出せない。

 ヒューリッドが最初に指揮権について言及したのは責任問題を踏まえてのことである。そう、この場で誰もがなかなか積極的になれない理由は【敗北の可能性】があることと、その責任を誰がどう取るのかという問題があることだ。

 ナイト・オブ・ザ・バーンは強い。どう考えても犠牲なくして勝利はありえないだろう。されど、各国とも無駄な被害は出したくない。身を守るためならば護衛団も力を尽くすが、今回は悪く言えばダマスカスの手落ちである。わざわざ参加国が犠牲を出す必要はないのだ。

 しかもすでにカーシェルは先手を打っている。軍属からの批判覚悟で他国の力を借りると宣言し、指揮権すら渡すと言っているのだ。本来これは機密が漏れるリスクすらある難しい判断である。カーシェルだからこそ即断したが、普通はそう簡単に決断はできない。

 その代わり、より大きな意味での責任を回避したともいえる。仮に指揮権を得た国が敵に遅れをとることになれば、その責任はその国家が負わねばならない。

 むろんダマスカスに最初の責任があるものの、人々は最後に起こったことを強く印象付けてしまうものだ。戦争のきっかけよりも戦争の悲惨さを思い出し続けるように、スポーツの大会で優勝すれば予選初戦に敗退したことも好意的に捉えられるように、何事も最後が重要なのである。

 それに巻き込まれる形で自国の手駒を失いたくないのは、どの国にしても当然の心理となる。それはロイゼンも同じ。しかも【カーリス法王】であるエルファトファネスもいる。ラナーはロイゼンの筆頭騎士団長としての役割もあるが、同時に枢機卿として法王を守る立場にある神聖騎士長なのだ。

 ここにはロイゼン独特の一つの決まりがある。

 ロイゼン国王(王族)とカーリス法王が同時に護衛対象になった場合、カーリス法王を最優先に守らねばならない、という暗黙のルールである。

 国王が死ぬことは問題だが、法王が死ぬことはもっと問題である。それこそロイゼン一国の問題にとどまらない深刻な影響力を持つ。その影響力はルシア、シェイクにとどまらず、グレート・ガーデンにすら響く可能性もある。信仰の自由に国境は関係ないからだ。

「できれば卿には法王猊下の護衛を頼みたいのだが…」
 そのヒューリッドの意見は私利私欲から出たものではない。悪魔がカーリスを否定したということは【法王暗殺】の可能性すらあるのだ。ロイゼンとしては神聖騎士団はすべて法王の護衛につかせたいと考えている。

 他国の人間でさえ納得できる理由である。むしろラナーはそうした役目を自ら請け負うと思っていたので、申し出について驚いた人間は多いだろう。

 しかし、ラナーにも譲れないものがある。

「殿下のお言葉はもっともでございます。ですが、これは【剣聖】としての責務であると確信しているのです」

 ヒューリッドはその瞬間、すべてを悟った。

(相手の正体に気がついたのか)

 ラナーは相手の正体を知ったのだ。そのうえで戦いを挑むつもりでいる。わざわざ剣聖という言葉を出したのがその証拠だ。剣聖とは理によって動くものではない。【義】によって動くものだ。誰もがためらうことを率先して行い、自らの正義と信念にのっとり行動を起こすものである。

 そして、それが【弱き人々のため】になることであらねばならない。

 人によって価値観は違う。人間である以上、剣聖であっても間違えることはある。それでも自分が信じた道を貫くには強い覚悟が必要である。ラナーはそれを貫こうとしているのだ。だから譲れない。

 しかし、解せないことがある。ラナーがそれを公表しないことだ。相手の正体を伝え、自らの正当性を証明すれば誰もが賛同してくれるだろう。こうしてわざわざ自らの立場を危うくする必要性はまったくない。

(公表できない理由があるのか)
 ヒューリッドはそう結論付ける。そして、それは剣聖、【剣の義】に関わることなのだろうと察する。

 剣王評議会の剣士たちにとどまらず、そうした武人だけで組織される組合や集まりにおいては、国家とはまた違う価値観が存在する。武人独自のつながり、決まり事が存在し、場合によっては自らが所属する国家よりも優先しなければならないこともある。

 なぜか。
 武人が人間の可能性であるからだ。

 より力を持ち、可能性を開花させた人間は、そうではない人間よりも重い責任がある。知識ある者が犯した詐欺が無知な窃盗犯よりも何倍も悪質なように、能力ある者にはより厳しいルールが存在するものだ。

 たとえば抜け忍が死ぬまで追われるように、あえて罪を犯した人間に対して各組織は厳しい罰を与える傾向にある。追っ手を差し向けて実力で排除することも珍しくはない。

 黒機のパイロットは【剣王評議会関係者】。

 そう考えるのが妥当であろう。相手が剣士である事実がラナーの言葉を裏付けている。詳しい事情はわからないが、ラナーは何らかの理由で剣聖としての責務を果たさねばならないのだろう。

 ただ、ロイゼンとしては公に認めるわけにはいかない。ルシアでさえ、いの一番で動くという素振りはないのだ。それは相手の力をよく理解しているからだ。もし普通の相手ならばザフキエルが何を言うまでもなくルシア側が動いて制圧しているだろう。

 しかし相手は悪魔。ザフキエルの王気すら受け止めるだけの力量を持った存在なのだ。ただの力押しで攻めればどうなるかは、ルシアが強者であるがゆえによく知っている。いかに勇猛であれ、落とし穴があるとわかっていて突進する者はいない。それは蛮勇な愚者のすることであるから。

「ヒューリッド殿下、私のことはどうぞおかまいなく。ラナー卿の好きにさせてあげてくださいませんか」

 ふと落ち着きのある優しい声が、その場の雰囲気を浄化させる。声の主は一人の女性。すでに足腰は弱り車椅子での生活が多くなっている。顔には幾重にもシワが生まれ、今まで生きてきた人生の苦労がにじんでいるようだ。

 老婆である。ただただ普通の老婆である。しかし、彼女こそカーリス教の最高指導者であり、最高位の神官、法王エルファトファネスその人である。

 カーリス教に詳しくない人間が初めて法王を見ると、女性であることに驚くことが多いという。世界の指導者の多くは男性だからである。実際その傾向は強い。なぜならば、人を導く【王気】を発する人間は男性が圧倒的に多いからだ。エネルギーそのものが男性的な力の象徴なのだから当然といえば当然である。

 だが、カーリスの法王は、代々女性が選ばれる慣習になっている。これは女神信仰や聖女信仰がカーリスの前提にあるからである。国を導くのが男性の仕事ならば、母なる法を教えるのが女性の役割である。優しさ、労り、共感、慈善、慈愛。宗教とは、そもそもそうした女性的な役割を教えることが最大の目的なのだ。

 力は、力そのものではただのエネルギーでしかない。母の知恵と愛あってこそ力は正しく使われる。だからこそすべての上位に存在しているのだ。

 偉大なる父たちが女神に従うのを見よ。
 彼らは知っている。
 母たる愛がなければ、力は力として顕現しえないのだということを。

 そうして人類を導く偉大なる女神の意思を人々に伝えることがカーリスの役目。【初代聖女】から地上の聖女カーリスに受け継がれ、現在まで脈々と受け継がれている崇高な仕事なのである。

「ラナー枢機卿、それは人々のためなのですね?」
 エルファトファネスは、まるで聖母のような優しい眼差しでラナーを見る。

「はい。偉大なる女神に誓ってそう自負しております」
 ラナーはひざまずき、法王に頭を垂れる。

「ならば迷うことはありません。さあ、これをお持ちなさい」
 エルファトファネスが指示すると、お付きの高位神官が一本の剣を持ってくる。鞘も柄もまばゆい銀色に輝く美しい剣である。

 これこそ【聖剣シルバート】。

 単体でも実に見事な剣であり、剣士ならば誰もが一度は持ちたいと思う業物である。しかも特殊な術式で祝福を与えられた【聖剣】と呼ばれるカテゴリーに入る幻の逸品でもある。

 この世界で剣は数多くあれど、聖剣と呼ばれるものは通常の剣とは比較にならない価値を持つ。現存する聖剣の多くはすでに失われた技術をもちいて生み出されたものであり、遺跡や地下からたまたま発掘されたものばかりなのだ。

 もはや骨董品に近い、いやそれ以上の価値を持つ代物なのである。そうでありながらもここまでの価値を持つのは、単純に剣としての質が【桁違いに良い】からにほかならない。

 聖剣シルバートは付与された祝福によって使用者を守る特殊な能力を持っている。これだけ見ればヨシュアが持つエクスエンドと同じに見えるが、シルバートが生み出されたのは一万年以上前とされている。

 その間、数多く使用されているのに刃こぼれどころか色あせることすらない。幾多の激戦を続けてもエネルギーが枯渇することはないのだ。それは永続性のある自己修復能力と自己充填能力を持つからである。

 残念ながら現在の技術では半永続性を持つ術式を組み込むことはできない。エクスエンドはローゲンハイム家が正式に忠臣として認められた際、当時のガーネリア王が一級鍛冶師に依頼して造らせた【特殊剣】である。

 ある程度エネルギーは自己充填するものの、基本的には他のジュエルの力を吸収させるなどの定期的なメンテナンスが必要である。ヨシュアの場合は戦気が上質なので、自己の生体磁気を吸収させてエネルギーに変換することもできる。

 が、本来の聖剣は【力を与えるもの】であるため、使えば使うほど疲弊するエクスエンドはやはり聖剣とは呼べないものである。刀鍛冶師も聖剣を生みだそうと命を削って挑んでいるものの、実際に聖剣に及ぶものができたという例はごくごくわずかである。

 聖剣製造には特殊な金属をもちいることと、高位術者による援助が必要なことがその要因ともいわれる。かつてと比べて術者のレベルも著しく低下しており、さらにはこうした剣に力を付与する特殊な術の使い手も激減している。

 単純に技術的に難しいのだ。成功した稀少な例を見ても、多大な犠牲を払ってマスター〈支配者〉の協力を得たもの、極大儀式とも呼べる大がかりな術式を何十年もかけて施したものなど、実にハードルが高い。

 また実のところ、そこまで聖剣の需要があるわけではない。そうして多大な犠牲を払っても造れるかどうかわからない聖剣一本にかけるより、エクスエンドのような聖剣に準ずる特殊剣を何本か造ったほうが鍛冶師にとっては利益になる。

 これも残念なことに聖剣を扱えるだけの超一流の剣士が少なくなったことも要因である。どんなに優れた剣も使えなくては意味がない。使いこなさなければ宝の持ち腐れなのだ。

 ラナーは剣聖という称号を持つ超一流の剣士である。彼が聖剣を持つに相応しい存在であることに異論はないだろう。

 ただし、シルバートにはそれ以上の価値がある。

 シルバートは神機【シルバー・ザ・ホワイトナイト〈信仰に殉ずる白き騎士〉】の起動キーでもある。この聖剣を使いこなすだけの技量、そして何より【信仰】がなくてはけっして乗ることのできない機体なのだ。

 シルバートは持つ者の信仰心を試す。
 それに認められた者だけが輝ける白銀の騎士を操ることができる。

 それが意味するもの。

 その騎士こそ【カーリスの守護者】であるということ。
 カーリスに、法王に選ばれた騎士であるということ。

 それはあまりにも大きな意味を持つ。

「ありがたき幸せ。シルバートの名に恥じぬよう務めを果たします」

 ラナーがシルバートを持つと、聖剣は薄く光り輝く。彼の信仰心が本物である証拠である。この瞬間、ラナーは激しい高揚感を覚え、心が奮える。その恍惚感は醜い欲望ではけっして叶えることができない究極の喜悦である。

 自らが正しいことを女神に肯定された。
 そんな気高さが彼の心を満たすのだ。

「さすがラナー卿。見事だ!」
 その様子を見ていたロイゼン神聖王国、第二騎士団長のアレクシートもラナーが聖剣に認められる光景に感動を隠しきれない。

 法王自らに剣を与えられる。カーリスの神聖騎士にとって最高の栄誉である。そして聖剣の輝きと守護あれば怖れるものはない。ロイゼンの聖騎士たちの士気が急激に上がっていく。その場はまさに式典であり神聖な儀式の場。会議場とは思えないほどの厳かな空気さえ感じさせる。

 ただその一方、この男だけは場違いな空気に戸惑っていた。

(ラナー卿も面倒な人だ)
 ヒューリッドはその様子を見てラナーを頼もしく思いつつも、彼の【性癖】に辟易していた。実は、ラナーは常にシルバートを携帯する許可を与えられている。なにせ使える人間が彼しかいないのだ。常に使えるように当人が持っているほうが楽に決まっている。

 ヒューリッドはロイゼン王家の習わしに従い、幼少の頃からカーリスの教えを受けた【司教】でもある。ただし、彼は国を率いる王子であるため、ラナーのようにただ神聖さだけを追い求める【夢見人ゆめみびと】にはなれない。

 カーリスの博愛の精神は素晴らしいと思っているが、国を維持するためには現実主義者であることも求められる。そんな彼には、わざわざ法王に剣を与えられる儀式はパフォーマンス以外の何物にも映らない。

 場合によってはラナーが恍惚感を味わうためにあえてやっているのではないかと疑っているくらいだ。といっても実際に神聖騎士たちには効果があるので認めるしかなく、若干冷めた態度でそれを見るのが慣習となりつつある。

(しかし、まいった。できれば傍観者でありたかったのだが…)
 すでにラナーはやる気である。彼の思惑はともかくとして、シルバートを得た彼自身が遅れをとることはありえないだろう。カーリスの宝剣になるくらいだ。シルバートの能力は聖剣の中でも群を抜いている。そこにラナーの剣技が加わればもはや無双である。

 しかし、他の騎士は違う。アレクシートやサンタナキアのレベルに達していない騎士には犠牲が出る恐れもある。ヒューリッドも武人として力量を測る力はある。どんなに贔屓目に見ても、ロイゼンの神聖騎士がゼルスセイバーズを上回っているようには思えないのだ。

 たしかに精鋭を連れてきてはいるが、今回連れてきたのは若い騎士が中心で、実力的には本国に残してきた主力騎士団【シルバーナイツ〈白法聖騎士団〉】より数段劣るのは間違いない。自国の警備を優先した結果であるし、あくまで法王を護衛するのに必要な分の戦力しか有していないのだ。

 ロイゼンとしては被害を出したくない。その理由は単純な損害を嫌うだけではない。この大恐慌で五大国家中、一番影響を受けなかったのがロイゼン神聖王国だからである。

 信仰の国であるロイゼンにおいてもっとも重要なのは信仰心である。
 では、その信仰心を証明するにはどうすればよいかは簡単である。

 カーリスの教えを実践すること、である。

 カーリスの教えの根幹にあるのは博愛の精神である。孤児の保護や養育、貧困者への施しなど、真面目な信者たちは自己のやれる範囲で精力的に活動している。

 今回の大恐慌の際には一時的に混乱はあった。カーリス教徒であってもすべての人間が博愛精神に満ちているわけではない。中にはパニックになって犯罪行為を犯す者もいた。

 しかしである。

 そこは法王のお膝元。エルファトファネスの言葉によって多くの市民は平静を保ち、むしろ信仰心が増す結果となっていた。このような状況だからこそカーリスの教えが必要なのだと感じ、物資が少ない地域に対して自ら援助を申し出るものも大勢いた。

 結果としてロイゼンは【大恐慌前よりも強くなった】のだ。拝金主義の横行するシェイク。純血主義の弊害に苦しむルシアが大恐慌で揺れる中、ロイゼンはさらに自信を深める結果になった。

 もともとロイゼンの人間には、ルシアやシェイク、ダマスカスを軽蔑する感情が強い。物質中心主義に酔いしれ、金の子牛を崇拝する彼らは、博愛主義を目指すロイゼン人から見れば完全なる悪徳の象徴である。

 金融という存在に半ば依存しつつも、そうした感情はヒューリッドにも存在する。今回の事件にしてもダマスカスを中心とした金融至上主義者たちが招いた当然の結果に思えるのだ。そんな面倒なことに首を突っ込んで無駄な損害を受けたくない。それが本音である。

 しかし、状況はもう止められるレベルを超えているようだ。ヒューリッドは仕方なく受け入れることにする。すでに事は政治問題から【宗教問題】へと発展してしまったのだから。

(ヒューリーには悪いけれど、これも私の務め。許してちょうだい)
 エルファトファネスは少し疲れた表情のヒューリッドを見ながら心の中で謝罪する。

 ヒューリッドが子供の頃からエルファトファネスとは交流があった。その頃はおばあちゃんと孫のような関係で、今でも非公式の場ではそうした空気を楽しむ間柄である。しかし、ロイゼン王室の考えも理解できるが自分は法王の立場として行動しなければならない。カーリスを否定された以上、ただ黙っているわけにはいかないのだ。

(偶像というのも難儀なものね)
 偶像は偶像でも、文字通りの偶像を使っているルシア天帝にエルファトファネスは同情の念を向ける。生まれながら偶像であることを義務付けられているとは、なんと不幸なことだろう。

 エルファトファネスはロイゼン人ではない。エルゼアという東大陸にあるロイゼン支配領の小さな国で生まれた、ごくごく普通の女性である。彼女はカーリスとも無縁な人生を過ごす。むしろ二十五歳まで普通の女性として平凡な人生を過ごしていたのだ。

 苦労がなかったわけではないし、貧困と呼べる状態にあったかもしれない。それでも彼女はそれなりに幸せであった。愛する夫がいて、慎ましい暮らしを続けていられればよかったのだ。

 だが、何の因果であろうか。
 ある日突然、彼女は【聖女】となってしまったのだ。

 それから彼女の人生は一変した。カーリス神殿に招かれ、いや、半ば強制的に連れていかれ、まさに偶像としての生活が始まったのだ。何不自由のない生活。人々から崇められ、与えられるだけの生活。そうした中でもカーリスの象徴としての責務を果たさねばならない。

 それは【地獄】

 何の自由もない、誰一人として本当に愛することができない生き地獄である。だからこそ悪魔がカーリスを破壊すると言った時、エルファトファネスは衝撃を受けた。そういう発想があることを知らなかったのだ。

 そして、いつしか自分自身がカーリスを受け入れていたことを知った。受け入れるしかなかった。その選択肢しかなかったのだから。だが、悪魔はそれを破壊するという。この強固で絶対的な【枷】を壊すという。

(ならば坊や、やってみなさい。やれるものならば見せてみなさい)
 ラナーの強さは素人であるエルファトファネスにもわかるほどである。この前見た御前試合では圧倒的ではなかったが、その理由も知っている。カーリスの神聖騎士は信仰に燃えている時こそ最大の力を発揮するからだ。

 今、神聖騎士たちは悪魔に怒っている。

 それも激しい怒りだ。存在そのものを否定されたのだから当然であろう。彼らにとって信仰こそがすべて。それがどれだけのものか普通の人間にはわからない。

 いや、誰であっても自分が神聖視しているものを侮辱されれば怒る。温厚な人間でさえ激怒するだろう。それが自分の全人生をかけているものならばなおさらである。仮に相手がただの凡夫ならば見過ごすだけの度量は神聖騎士にはある。ただの口先だけの弱者の言葉など何の価値もないからだ。

 しかしだ。
 今、神聖騎士は本気で怒っている。

 それはどういうことか?
 直感的に悪魔が【本当に壊せてしまう】ことを悟ったからだ。

 今まさに目の前にナイフを持った強盗がいる。殺意をもって身構え、こちらを脅している。背を向ければ間違いなく襲いかかってくる。それは敵。自身の存在を脅かす本物の敵である。それに対して神聖騎士は【焦っている】のだ。

 口には出していないが、早く対処しないといけないという焦りがエルファトファネスにはよく見える。もとよりエルファトファネスが止めたところで神聖騎士たちの気持ちは収まらないだろう。その不満はいずれどこかで爆発するに違いない。

(ラナー卿は見事でしたね)
 エルファトファネスは法王としてラナーに感謝しなければならない。ラナーは神聖騎士たちの気持ちを知っていたのだ。当然、彼自身もそうであっただろうが、あえて自己の立場を危うくすることはなかなか難しい。

 それこそ信仰。忠義のなせる業。

 もしラナーが言い出さねば、法王たるエルファトファネス自らが討伐を命じねばならなかったことだろう。まったくもって因果な立場。好き好んでやりたいとは思わない役割である。ただそうなれば、大きな損害が出た際、法王が責任を取らねばならなくなる。

 法王に求められるのはカリスマであり神秘性でもある。女神の代理人である法王の命じた任務に失敗は許されない。だが、現在派遣されているロイゼン騎士団の状況を考えれば、あの難敵相手に犠牲なしとはいかない。ラナーがいるとはいえ場合によっては失敗する可能性もある。

 少なくとも法王が自ら命令することは避けねばならなかった。なおかつ信仰を維持するために戦わねばならない。この二つを同時に成立させられる唯一の存在はラナーだけである。剣聖という言葉を使ったのも、あくまで責任は自分一人にあることを強調するためだ。

 これで仮に失敗してもラナーの責任となる。ラナーの代わりはいるが法王の代わりはいない。これだけでもカーリスは救われるのだ。

(まあ、ラナー卿には別の目的もあるようですが)
 エルファトファネスはラナーから他の神聖騎士とは違う感情も見えていた。

 好奇心。探求心。

 あの黒い剣士の正体に感づいたのか、自らの剣を試してみたいという欲求が垣間見える。あれだけの力を見せられても臆していないのは心強いのか呆れたほうがいいのか。どちらにせよラナーに任せるのが適任だと結論付ける。

「シルバーの準備を! 我ら神聖騎士の力を見せる時だ!」
「おおお!!」

 ラナーの声に神聖騎士たちも呼応する。
 そして、呼応したのは神聖騎士だけではない。

「ラナー殿の心意気、見事! 陛下、我らにも出陣の機会を!」

 ルシアの雪熊ジャラガンがザフキエルに嘆願する。今まで黙っていたのは、ここが政治の場だからである。あくまで主役は主人たるザフキエルであらねばならない。そのため口を慎んでいたのだ。

 しかし、他国の騎士にあれだけの心意気を見せられて黙っていられるほどジャラガンは老いてはいない。戦いならば武人の仕事。そのために日々研鑽を積んでいるのだ。

 忘れてはならない。悪魔はルシアを侮辱したのだ。ルシアの根幹を担う天帝を、その血を悪魔は否定した。カーリスの神聖騎士が怒るのと同等以上にルシア騎士も激しい怒りを覚えている。

 この場にいるのは誰もが愛国心の強い騎士ばかり。本来なら最初に名乗りを上げたいと思っていたのだからロイゼンに先を越されたことに不満を感じている者も多いだろう。

「陛下、あの下賤な賊は崇高なるルシアの血を穢したのです。このままでは天威てんいに関わるかと」
 ルシアの事務方のトップであるアルメリア・ベルシェメーラーもジャラガンの意見に賛同する。

 天威。すなわち天帝の権威に関わる問題であると。

 たしかにルシアでは貴族の腐敗や横暴が目に余ることはある。しかし、それでもまとまっているのは天帝という存在がいるからこそ。天帝という頂点があってこそ天威はすべてを超越する。天帝は騎士を統べる者であり、騎士は天帝のみに剣を捧げる。けっして貴族に対して忠義を尽くすのではない。

 天帝の勅命あれば、相手がどのような大貴族であろうとも斬り伏せることができる。理由など必要ない。ただただ絶対的な実力と強制力によって排除することができる。それこそが天威。最高の力なのである。

 結局のところ最後にすべてを支えているのは強大な支配力である。それは騎士あってこそ、武人あってこそ成り立つもの。それが軍事力なのだ。ルシアにとって天威とは、ロイゼンの信仰と同じく絶対に失ってはいけないものである。

 悪魔は天威を侵そうとした。
 ならば排除するしかない。

 そしてザフキエルは決断する。

「我らルシアがこの戦いの指揮権をもらう。かまわぬな?」
 ザフキエルの言葉はベガーナンに向けて発せられていた。

「そうだね。それが妥当だろう。異論はないよ」
 ルシアと並ぶ世界最大国家、シェイク・エターナルを統べるベガーナンはザフキエルの意思を尊重する。

 悪魔はルシアを挑発していた。小物ならばあしらえばよいが、相手は思った以上の大物である。受けねばルシアの沽券に関わるのだから任せるのが筋だろう。シェイクもわざわざ火中の栗を拾うことなどしたくはない。ルシアがやるというのならば、任せればよいだけのことだ。

「ただ、共闘はできないと思うけどね」
 そうベガーナンは付け加える。ルシアが主導権を得た以上、シェイクは下がるしかない。これがバランス。巨大な二つの力は拮抗しているがゆえに同時に同じベクトルには動けない。もしそうなったら世界が破滅しかねないのだ。

「手を借りるつもりはない。これはルシアの問題よ」
 ザフキエルもはっきりと断る。これはルシア騎士たちも同じ意見である。もともと戦い方が違ううえに指揮系統も違う。連携も機密情報であるために他国の騎士との共闘は最初から無理なのだ。

 ルシアはルシア。ロイゼンはロイゼン。互いに個別に作戦行動を取るのが一番スムーズなやり方となる。

 こうして奪還作戦の概要は少しずつ固まっていく。かりそめの共闘とはいえ、こうして五大国家が集まることは歴史上初のこと。誰もが大きな戦いの予感に高揚していた。

 しかし、一人だけは違った。

(皆、知らないのだ。彼を敵に回すことがどれだけ恐ろしいか)

 ヨシュア・ローゲンハイムはただ一人、強烈な不安に苛まれていた。

(きっと大勢死ぬ。彼が半端なやり方をするわけがないのだ)

 ヨシュアにできることは、犠牲が少ないことを祈るだけであった。

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