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零章 第一部『富を破壊する者』

十五話 「RD事変 其の十四 『アピュラトリスの理念』」

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   †††

 アピュラトリスの入り口は地上六階に存在している。そこにたどり着くには専用のエレベーターに乗らねばならない。

 エレベーターは全部で二つ。

 一つは搬入業者が使用するエレベーターで、幅三百メートルはあろうかという大きさである。これはMGや戦車を搬入するためにも使われるので、二万人のスタッフの生活を維持していくためには小さいくらいでもある。

 もう一つは主に人間が乗り降りするためのもので、密閉された巨大なテラスのようなデザインになっている。

 内部には椅子やテーブルがあり、くつろげるスペースがいくつも存在していた。常備されている軽食を取ることもでき、簡易ベッドやトイレまで完備されている。

 これは各階層で入念なチェックを受けるためで、場合によっては何時間あるいは何日も待つことがあるからだ。仮にどこかに異常があれば、一旦地上に戻して再チェックを行う徹底ぶりである。

 そして、本日運ばれるのはたった四人。招待者のエリスとディズレー、志郎とデムサンダーである。もともとアピュラトリスに出入りする人間は少ないのだが、現在はこの広いエレベーターは四人の貸し切りになっていた。

「なんだか申し訳ないね」
 志郎は、自分たちを運ぶためにわざわざエレベーターを降下してもらったことに、そんな印象を覚えた。降りてくるのを待っている間、周囲からはずっと注目を浴びていたので、それもまた恥ずかしかった。

「あらそう? 招かれたのですから当然ですわ」
 一方のエリスはたいしたもので、すでにテーブルでディズレーに入れてもらった紅茶を飲み、さも当然かのように堂々としている。

 しかも茶菓子まで用意している周到ぶりである。ちなみにこの茶菓子類は、連盟会議場にあるものとほぼ同じの高級菓子である。

「エリスは招待客だからいいけど、僕たちも入っていいのかな?」
 志郎はいまだに迷っていた。もちろん内部は気になるのだが、入ることにかけては鉄壁を誇るアピュラトリスに、自分たちが入れるだろうかという心配が募る。

「それならそれで帰ればいいんじゃねーの? もともと俺たちには関係ない話だからよ」
 デムサンダーは茶菓子類にはあまり興味がないようで、エレベーターの金属部分を叩いて頑丈さを確かめたりしている。

「あら、もう怖じ気づいたのかしら」
「入れなかったらどうしようもないだろう。俺としては門前払いのほうに賭けるがね」
 デムサンダーの言うことももっともだ。入れるかどうかは行ってみないとわからないし、こうして付き添っている段階でメイクピークへの義理は果たしたといえる。

「そのわりには、ちゃんとついてきてくれたね」
 志郎が茶化すように言うと、デムサンダーはしかめ面になる。

 デムサンダーにしても、エリスのことが心配ではあるのだ。なにせ手榴弾を転がして挑発するような少女だ。何かあれば寝覚めが悪い。

「売り言葉に買い言葉ってやつさ。どうせ暇だったんだ。入口くらいまでなら付き添ってやってもいいと思ってな」
「そういうことにしておくよ」

 志郎は相方の優しさに口元を緩めた。


 エレベーターが二階部分に到着すると同時に、室内の光に、ごくごく薄い赤味が加わる。三秒後、自動音声でアナウンスが流れる。

「武器を携帯している方は、こちらのボックスに入れてください」
 二階は、危険物の持ち込みがないかを厳重に調査するエリアである。この赤味の光はエレベーターの内外全体をスキャンし、さまざまな形態の武器を感知するものだ。

 精度は高く、飲み込んだ爆弾も簡単に見つけだすことができるほどである。まさに身体の隅々までデータと照らし合わせて調査するのだ。その光は、しっかりとエリスの腰にぶら下がっているものをマークしていた。

「お嬢様、ナイフと銃を」
 ディズレーがエリスに装備している物を出すように促す。だが、エリスは渋る。

「たかが銃くらいで大げさなものですわね。ここは天下のアピュラトリスでしょう?」
「ですが、ここは従っておきませんと、後々面倒になります」
「むぅ…」

 ディズレーに諭され、かなり嫌そうに銃とナイフを提出する。

「エリス、手榴弾もだよ」
 さりげなく手榴弾を服の中に隠したことを志郎は見逃さない。どうしてもあれだけは手放したくないようだ。お守りにしては物騒である。

「そんなのずるいですわ」
「ずるくねーよ。さっさと入れないと進まないぞ、これ」
 この検査は徹底されており、エリスが武器を入れなければ何日でも停止するに違いない。降ろされて外に放り出される可能性もある。それはエリスも御免である。

「屈辱ですわ」
 これまた渋々手榴弾も入れるエリス。

 ここで回収された武器は、その人物が絶対安全だと判断されたのちに再び戻される仕組みになっている。軍部や警備の人間などがそれに該当する。

「もういいですわね」
 エリスが戻って椅子に座ろうとすると、追加のアナウンスが流れる。

〈髪留めの爆発物も提出願います〉

「ちっ」
 エリスは舌打ちしながら髪留め型の小型爆弾も取り外す。ちゃっかりと隠して持ち込もうとしていたあたり、非常に恐ろしい。

「エリス、他にはないよね? 本当にないよね?」
 志郎も疑念の目を向けざるをえない。自身は戦士なので軍人の装備には詳しくはないが、髪留めが爆弾であった以上、他にもあるかもしれない。

「もうないですわよ」

〈靴底のプラスチック爆弾も提出願います〉

「エリス…」
 力ない志郎の声が響く。もう体中、爆弾で埋め尽くされているようだ。

「物騒なお嬢さんだな。さっさと脱げよ」
「女性に向かって脱げとは、なんて無礼な」
「うるせーな。早くしろ」
「ちっ」

 デムサンダーにも促されて仕方なくブーツごと提出し、予備の普通のブーツに履き変えた。正真正銘、これで全部である。

 余談ではあるが、アズマが入るとき、ここの検査でかなり揉めた。刀は剣士の命であり手放すことはできないと三日間揉めた。激しい抵抗の末、最後はマスター・パワーの顔を立てて折れることになったが、中で刀を受け取ったあとも不機嫌そうであった。何回も拭いていた。

 もともと刺々しい雰囲気を醸し出していた男であるが、その一件もまた周りとの軋轢の原因になったようである。だが、チェックされるのは武器だけではない。当然武人としての資質もチェックされる。

 それは三階でのこと。

〈三番と四番のお二人は、第二番扉においでください〉

 エレベーターに入った時に、各人には番号がつけられていた。三番は志郎、四番はデムサンダーである。

「ちっ、ごまかせないか」
「そりゃそうだよね。アズマさんだって隠しきれなかったんだもの」
 デムサンダーが舌打ち。志郎もやや苦笑いである。

 二人はできるかぎり自己のオーラを常人クラスにまで抑えていた。それなりの腕前の武人が見ても、一般人と間違えるくらいにまで巧妙に隠していたのだ。

 だが、アピュラトリスの警備は伊達ではない。発せられた生体磁気を詳細に感知する高度な探知システムが搭載されている。仮にここを突破したとしても、次に血液検査が待っているのでどのみちわかることであるが。

 二人は致し方なく指示に従い、エレベーター内にある二番と表示された扉を開ける。扉の内部は大きな棚のようになっており、金色の腕輪がいくつも並べられていた。

〈それを両腕にお付けください〉

 二人は指示通り両腕に腕輪をつける。すると力が抜けるような感覚に陥った。重くはないが握力がなくなったような感覚だ。

(対武人用の拘束具だ)
 志郎は、すぐにこの腕輪の正体に気がついた。エルダー・パワーの里にも似たものがあるからだ。

 武人に対して通常の拘束具はまったく意味をなさない。金属であっても戦士ならば簡単に引きちぎってしまうだろう。だが、これは武人用に調整されたもので、生体磁気を抑制する効果がある。

 しかもアピュラトリスの拘束具には、かなり強い抑制効果があるようだ。志郎でも若干の倦怠感を感じるほど強い。

 それもそのはず。これは現状で最高の効果を誇る【リグ・ギアス〈怠惰の鎖〉】である。生体磁気の抑制に加えて、周囲に特殊な電磁波を発生させて戦気の化合を抑える特別製だ。

 戦気の媒体となる普遍的流動体は大気中に無限にあるので、厳密にいえば、腕輪を付けた人間の生体磁気を強制的に別の無害なものに化合させ、戦気を生み出す余地を与えないというものだ。

「なるほど、戦気が出ねえな」
 デムサンダーもその効果を自身で味わっているところだ。試しに戦気を練ろうとしたが、わずかばかりもやのようなものが生まれた程度である。

 多少熱を放出するので、寒い日には暖房器具の代わりにはなるかもしれない。

「ちゃんと外してくれるんだろうな?」
「たぶんね」
「まったく、これだけでも災難だぜ」

 これで二人の武人としての能力は封印された。今の二人は、自身が持っている素の運動能力しか持ち合わせていない。それでも常人の数倍以上は動けるのだが。

 アズマは軍人と一緒に入ったので、この工程は省略されている。あくまで外部から武人が隠れて入らないようにする措置であり、無害と判断されれば内部で解除される。

 それから四階の血液検査と五階の生体身元照会を経て、ようやく六階にたどり着いた。

 その間に要した時間は三十分程度。これはアピュラトリスの検査としては、ありえないほど短時間である。通常は最低六時間は覚悟しなければならない。場合によってはアズマのように一週間はかかるし、一ヶ月以上かかることもある。

 今回のように三十分で終わるのは、アピュラトリスの責任者であるヘインシー・エクスペンサーくらいのものである。それを考えれば特例措置であるといえた。

 それはエリスが、間違いなく招待された者であることの証明である。ただ、こうした事情を知らない彼女たちには、それでも長く感じられたようだが。

 ついにエレベーターが開き、エリスたちはアピュラトリスの六階にある玄関口に出る。

 六階の玄関口は出た瞬間から大きな庭園になっており、見るからに高級そうな彫刻や美しい木々が並んでいる。下は砂利で、歩くと小気味よい音が鳴る。これもただの砂利ではなく、体重や身のこなしなどを探るセンサーが付いている。

 一応ながらここはすでに塔の内部ではあるが、まだ完全に入れたとはいえない。最後のチェックが残っているからだ。

「エリス・フォードラ様ですね」
 アピュラトリスの事務員に支給される青い制服に身を包んだ黒髪の女性が、四人を出迎える。その視線は、しっかりとエリスに向けられていた。

「エリス・フォードラ。ただいま参上いたしました」
 これがドレスならば優雅にお辞儀をしたところだが、今は迷彩服なので軽く頷いた程度である。

「初めまして。担当員のキリル・リラーです」
 キリルはエリスに対して挨拶をしたあと、他の三人、特に志郎とデムサンダーを観察するように見つめる。

「失礼ですが、こちらのお二人は招かれておられないようですね」
 ディズレーのことはアピュラトリス側も把握しており、彼が追従することは問題なかった。ただ、突然加わった二人に対しては警戒を強めているようだ。

 アピュラトリスには、メイクピークから四人の人間が向かうと告げられてはいるものの、そもそも招待されていない人間が来るとなれば難色を示すのは当然である。

 しかもすでにアズマが中に入ってるので、志郎とデムサンダーがエルダー・パワーであることも知れ渡っている。どう説明しても、軍部の関係者である以上は警戒されてしかるべきである。本来ならばエリスがいなければエレベーターにすら乗れなかったのだ。

「あの、僕たちは…」
「この者たちは私の従者です。一緒でなければ入りません」
 志郎が説明するより先にエリスが言い切る。そのあまりの堂々とした嘘は見事としかいいようがない。宣言通りに押し通すつもりだ。

「規則では招待者しか入れないことになっております」
 キリルは好感を抱くスマイルで、やんわりと、しかし反論を許さない凄みをもって断ってきた。

 アピュラトリス側としては、彼らを受け入れる筋合いはまったくないのだ。ただ、招待客のエリスの手前、露骨に不快感を出さないだけにすぎない。そのあたりはさすがプロである。

 その笑顔は強烈で、ただでさえ場違いだと考えていた志郎は萎縮する。非常に気まずい。しかし、同性の強みなのか彼女の性格なのか、エリスはまったく物怖じしない。

 それどころかさらに強気に出る。

「彼らが一緒に入れないのならば、私はここで失礼いたしますわ」
「お嬢様…!」
 その言葉にディズレーは驚く。わかってはいたが、実際にこうしてやれてしまうのがエリスのすごいところなのだ。

「……」
「……」
 心配そうにディズレーが見守る中、エリスとキリルがしばし無言の視線を交わす。

 もしこれが漫画であれば、両者の間には激しい衝突の効果線が入れられたことだろう。志郎とデムサンダーも、ただじっと見ていることしかできない。

「本気なのですか?」
 キリルは探るように尋ねる。それでも言葉には強い力がこもっていた。相手は本気で聞いている。

 だからこそ、答えはこうである。

「私が本気でないことは、今までの人生で一度たりともありませんでしたわよ」
 エリスは本気だった。その目に宿っていたのは決意を超えた覚悟。目の奥の輝きは炎のように燃え盛っていた。もしこれが拒否されるならばすぐに帰る。これははったりではない。目がそう訴えていた。

 キリルはじっとその目を見つめ、しばし思案したのち静かに頷いた。

「わかりました。確認いたしましょう」
 その後、庭園の脇に設置された応接間に案内され、しばらく待つように伝えたあとキリルは去っていった。

 志郎はソファーに腰をかけると息を吐く。

「ふぅ、怖かった」

 女性同士の本気の睨み合いを見るのは初めてだったので、見ている自分のほうが消耗してしまったのだ。目には見えずとも両者の間には激しい衝突があったのがわかった。

 意念と意念のぶつかり合いだ。それは武人と武人の戦いにも通じるものがあり、互いに本気であることを示すのに、性別も血も関係ないと改めて知った。

 あれほどの本気のぶつかり合いは、エルダー・パワーの女性陣の間でもなかなか見ることはできないだろう。エリスは本気だったし、キリルも本気だった。それは間違いない。

「あのキリルって女も、アミカといい勝負だよな」
 デムサンダーも、二人のやり取りには目を見張るものがあったようだ。

 キリルは笑ってはいたが、眼光の鋭さはかなりのものであった。さすがアピュラトリスの玄関口の対応を任されるだけはある。その目つきはアミカ・カササギに匹敵する。

「あの細い目とかがさ。細目の女に睨まれると怖いよな」
「え? そっちの話だったの?」
 どうやら単純に切れ目のことを言っていたようだ。眼光は関係なかったらしい。

「でもエリス、本当によかったのかい?」
 志郎はさきほどのやり取りをエリスに確認する。どう考えても釣り合いに出すような問題ではない。志郎に至っては、キリルの言葉を受けてすぐに帰ろうと思ったくらいである。

 だが、エリスの考えは違う。

「もしこの程度の要求が通じないようならば、私がここに入る意味なんてありませんわ」
 エリスの目的は、アピュラトリスに招待されて喜ぶ可憐な女性を演じることではない。中に入って富を得ることが目的なのだ。

 さきほどのやり取りで自身の価値を値踏みしたのである。仮にこの程度が拒否されるようならば、入ったところで何も得るものはないだろう。到底フォードラ家の再起などは不可能だ。

 だがもし自分がアピュラトリスにとって、あるいはダマスカスにとって有用な存在ならば話は違う。その価値を判断するためにはうってつけの場であったのだ。万一失敗しても陸軍とのつながりは確保できる。そういうしたたかさも持ち合わせていた。

「しかしまあ、よく堂々と嘘をつけるもんだ」
 デムサンダーは、エリスがあまりにも自然に嘘をついたので舌を巻いていた。二人が自分の従者であるという点である。

「あら、嘘をついてはいませんわ。あなたたちは私の従者ですもの」
「初耳だぞ」
「あなたたちは私のエスコートをする義務があります。一度請け負ったのならば最後までやり通しなさいな。男でしょう?」

 エリスは嘘をついたことはない。なぜならば彼女の言葉は、いつだって本当になるのだ。いや、本当にしてしまうのだ。もっと簡単にいえば勝手にそう決めてしまうのだ。

 その証拠に、エスコートを請け負ったのは志郎であってデムサンダーではないのだが、いつの間にか一緒にされている。それは彼女がそう決めたからだ。

「ずいぶんと勝手な女だな」
「世界は私の思い通りになる。誰にだってその力がある。あとはそれをするかしないかだけのことですわ」
 信じて疑わない。たとえ障害があってもしがみついて離れない。離されたとしても別の方法を考えてけっして諦めない。それがエリスであった。

「こんな自己中心的なやつは初めて見た。よく今まで生きてこられたもんだぜ」
「それが性分ですもの。変えるつもりはないわ」
「それはもう十分すぎるほど理解したさ」

 デムサンダーは、すでに呆れるということを諦めたようだ。こうなると逆に、エリスという非常にワガママな女が、いったいどれくらいのことを成せるのか見届けたくなるものだ。

(ほんと、エリスは不思議な子だな)
 志郎は、エリスという少女から発せられる不思議な魅力を感じていた。

 彼女の言葉には力がある。
 彼女の目には意思がある。
 彼女の雰囲気には侵しがたい迫力がある。

 どれも普通の少女が持っているものではない。得ようとして簡単に得られるものでもないだろう。やはり特別なのだ。

(エリスならば本当にできるのかもしれない。ただ、今は守らないと)
 エリスは本当に何かを成すのかもしれない。そんな予感がある。しかし今はまだ幼い雛鳥。簡単に死んでしまう、か弱い存在なのだ。

 少なくとも自分が関われる範囲においては彼女を守らねばならない。なぜか志郎は強くそう思った。

 そうして応接間に通されてからしばらくして、ようやくキリルが戻ってきた。

「お待たせいたしました。フォードラ様を含めた四名様のご入塔を認めます」
 この瞬間、エリスがアピュラトリスにとって重要な人物であることが確定した。その程度はわからないが、少なくとも低いものではないことが知れたのは価値がある。

「こちらに手をお乗せください」
 キリルは、持っていたタブレット型の端末をエリスに差し出す。

「こうかしら?」
 エリスが端末に手を乗せると、手のひらの形がそのまま光とともに残り、いくつかの文字が表示された。キリルをそれを見て頷く。

「それは何ですか?」
 キリルがあまりにもその【手形】を見つめているので、志郎が思わず聞いてしまった。

 キリルは志郎に視線を移し、微笑のみをもって答えとする。それは営業スマイルではなく、心からの笑みのようであった。

「では、ご案内をしながらご説明いたしましょう」
 案内人のキリルを先頭に、アピュラトリスの玄関口から内部に入る。外側は美しい庭園であったが、進むにつれて次第に無機質で殺風景になっていく。

 内部は、いくつかの区画をまとめたブロックエリアが存在し、ブロック同士をつなぐ扉を開くには、いちいちキリルの認証が必要となっていた。

 壁の様相も変わっていき、ところどころに光る流線が走り、神秘的で神々しさすら感じさせる趣へと変わっていく。こうして歩いている間も周囲では何かが動いている音がしていた。通過者の生体情報を取得し、常にアナイスメルへと送られている音である。

 これは映像や集音などではなく【波動】によって行われている。入塔の際に収集した生体磁気などの生体情報と、実際のリアル情報を常に照らし合わせて総合情報を更新しているのだ。それに加えて、世界中から集められたデータから似た傾向を持っている人間同士が分類される。

 こうした波動あるいはオーラには、さまざまな感情の情報も入っているので、もしその中に害悪を及ぼす可能性がある人間がいれば、すぐに見つけだすことができるだろう。こうしたデータによってダマスカスは富を得ているのだ。

 ただ、それは絶対ではない。アナイスメルは巨大なシステムであるが、人が情報を操作する必要がある以上は手の届かない部分がある。そうしたものは監視カメラや感熱センサーなどを使って補っている。

 アピュラトリス内部で勤務している人間の大半は、こうしたセキュリティに携わる人間である。その厳重さは、さすがアピュラトリスであった。しかもここに来るまで誰とも出会っていない。

 そして、四つ目のブロックに入ったとき、キリルが志郎の質問に答える。

「あなたがたは、なぜフォードラ様がここに呼ばれたかご存知ですか?」
 それは誰もが疑問に思うことである。志郎はもちろん、エリス当人すらも知らないのだ。わかるはずがない。

 その呆けた顔が答えとなり、キリルは言葉を続ける。

「このアピュラトリスは巨大なシステムなのです。そう、まさに全世界を動かす大きな機械のようなものです」
 キリルが壁に手をかざすと、そこにアピュラトリスの映像が浮かぶ。視点は徐々に空に舞い上がり、最後は世界地図を映し出す。

 地図の中心にあるのはアピュラトリス。

 全世界の金融を管理し、あらゆる情報を管理運用する巨大なシステムがアピュラトリスである。

 アピュラトリスが武器にするのは【思考】。

 ただのデータとしては意味がない情報でさえ、アナイスメルにかかれば莫大な財宝に変わっていく。関連性を自ら調べ、推察し、たわいもない情報から大きな情報を見つけてくるのだ。

「たとえばこの男性、彼はこのお金をどうするのでしょう? 何のために、何を目的として使うのでしょう?」
 キリルが次に映し出したのは、ATMで金を引き出す男性の姿。ATMが機能していることから、おそらくダマスカス国内の映像なのだろう。

 このATMで引き出した金銭が、実際にどう使われるかまでをサーチし、その人間の素性、信条、動機、金が使われた組織や企業の情報、目的、理念などをすべてさらけ出す。こと金融に関わることでアピュラトリスが知らないことは何もないのである。

「なあ、これってプライバシーとかの問題になるんじゃないのか?」
 今まで黙っていたデムサンダーであるが、男性のプライベート映像が赤裸々に映し出されるのを見て、少しは思うところがあったようだ。

「それが何か?」
「いや、改まって何かって言われると困るんだがな…」
「プライベートなど、この世にはありません。あると思っているのは無知な俗人だけです」

 この世にはプライベートなど存在しないのである。誰がどこで何をやっているかなど、こうしてすでにお見通しなのだ。また、プライベートを強調する人間ほど、実際はたいしたことをやっていないものである。

「情報には価値があります。特に金融が世界を席巻するようになってから、ダマスカスは情報を握ることで世界を支配したのです」

 文明が未発達のころは武力だけがすべてであった。もちろん、今でもそうではあるのだが、現在世の中で力を持っているのが金融である。人々は金融によって世界を維持することを望み、それによって一時的にせよ平和と安息を得たのだ。

 そうなれば、いかに情報を手に入れるかが重要となる。

 株式や物価の変動、原材料や生産量の情報。そうした物的な情報が終われば、次は人間や生物、自然の情報。これを手にした者が世界の覇者となる。

 そして、ダマスカスは手に入れた。

 アピュラトリスという巨大なシステムを構築することで、全世界の情報を誰よりも早く入手し、金融市場を支配したのだ。

 ダマスカスは小さな国である。同じ常任理事国のルシアやシェイクと比べれば小国といっても過言ではない。そんな国が世界のトップになるためには、こうした巨大で強固なシステムが必要なのである。

 そこには個人の感傷も感情も必要ではない。これは単なるデータである。どう活用するかの問題であって、それはシステムの維持に必要な絶対要素なのだ。個人の事情など、全体の莫大な利益に比べれば些細なこと。考慮することすら馬鹿馬鹿しいものである。

「その情報は悪用されないのですか?」
 志郎が気になるのは、その点だ。

 これだけの情報があるのならば、悪用しようとする者とているはずだ。そんな人間に渡れば危ないのではないか。たとえばインサイダー取引などに使われないか、ということだ。

「それすらチェックされているのです。リークすれば事前に排除することもできますし、最初から渡すこともないでしょう」
 そう、アピュラトリスはすべてを監視している。すべての取引を見ているのだ。ならばインサイダーなどもありえない。

 何より、情報を渡す相手をこちらが決めることで【世界を操作】しているのだ。誰にどの情報を渡せばどう動くのか。それも考慮して情報を管理している。

 ここでキリルは、改めてアピュラトリスの存在意義を示す。

「皆様が疑念を抱く気持ちもわかります。しかし、このアピュラトリスは完全に独立した存在です。そもそもダマスカスという国は、アピュラトリスの【外壁】として生まれたのですから」

 ダマスカスは、アナイスメルを研究する人間が集まって生まれた国である。その目的はヘインシーが語るように知的探究心であり、人類の知性の発展である。

 しかし、金融システムが生まれてからダマスカスの存在意義が変わってきた。ダマスカスは世界の中心という座を維持するために、すべてをアピュラトリスに捧げたのだ。

 今では本来の目的、人類の発展を望んで管理している者はほとんどいないのが現状だ。市民も政府も軍も、すべて金融市場の維持を望み、現状の存続に腐心している。

「あなたがたエルダー・パワーも、陰ながらダマスカスを守る存在。いわばアピュラトリスの盾でもあるのです。だからこそ、この塔に入れたのです」
 当然、アピュラトリス側はエルダー・パワーについても熟知していた。目的は違えど、ともにダマスカスを守る存在。結果的には富の塔を守っていることになる。

「僕たちが守るのは人の命です。利権ではありません」
 志郎は、そこをはっきりと強調する。エルダー・パワーとして武を扱う以上、譲れない側面である。

「人の生活に経済活動は必須です。人間の生とは、ただ呼吸をすることだけではありません。富とは、人が使うためのエネルギーでもあるのです」
 キリルは、富とは何かを説明する。

 富とは、単なる金銭や物品の収集を意味するのではない。ましてや、一部の人間が欲望を満たすための道具でもない。富とは豊かさ。物的かつ精神的で、人間が人間らしく自己を表現するために必要なもの。そのエネルギーとなるものである。

 たとえば、こうしてさまざまな技術が発達するのも自由があるからだ。何かを成し遂げたいと思う若者が、自分の思うままに求め、研究し、見つけることで生み出される。

 その根源にあるのが情報であり、資金であり、情熱であり、人手である。それをすべて含めて富なのである。

「私たちは、エネルギーとなる富を適切に平等配分することによって、人類の発展に寄与しているのです。富とは悪いものではないのです」
 キリルは富の有用性、人間生活にとっての価値を説明。しかし、そこにデムサンダーが噛み付く。

「へえ、平等ね。ならよ、俺にもその富ってのをくれるのかい? 俺には、どうしても富が平等とは思えないんだがな」
 エルダー・パワーの大半は孤児である。他国から集めることもあるが、ダマスカスでも飢える子供たちがいる。親が死んだり、経済的に困窮して手放すしかない者、虐待されて保護されるもの。

 そうした現状を見てきたデムサンダーには、どうしてもキリルの言葉を信じられないのだ。だが、ここでもキリルは断言する。

「それは使い方が悪いのです」
「言い訳か?」
「いいえ、事実です。我々が行っているのは自由意志に根ざした発展的分配です。その使い方は各人に任されているのです」

 たとえば、ここに宝くじがあるとしよう。それを誰に当てさせるか(与えるか)を決める権利はアピュラトリスにある。では、誰に与えようかという話になる。

 そこで重要なのが、その人間の責任と自由意志である。

 人間にはそれぞれ能力が存在し、個体によって知性や活動に差が生まれている。たしかに、これ自体は不平等である。しかしながら、こうした不平等はさしたる問題ではなく、むしろ人類の発展に必要なのである。

 差がある世界であるから、そこに動機が生まれる。活動する意味が生まれる。

 アピュラトリスは、まず能力のある者に富を与える。活動的な人間に与えなければ、富は瞬く間に腐って役割を失ってしまうからである。あとは、与えられた人間が自らの意思で富を有効活用し、あるいは増やし、他の者に分配すれば一般的な平等は成立する。

「デムサンダー様のお言葉が事実であれば、それは富める者が誤まったからにほかなりません。我々に責任があるのではなく、その人間が誤まったことによる弊害にすぎないのです」

 貧困が起こるのは、富む者が独占するからである。子供が飢えるのは、親が無駄に使うからである。または、そうした社会を生み出すことを容認したからである。人が自ら選んだ選択肢の一つにすぎない。

「それを我々のせいにするのは間違いです」
「でもよ、間違った人間に富を与えたのはお前たちだろう?」
「可能性のある人間にチャンスを与えることこそ、真の平等ではないのでしょうか? チャンスのない世界に発展はないものです」

 【間違えるチャンス】すらなければ、それこそ独裁であり独占である。しかし、アピュラトリスは富を管理する者。富の可能性を示す者である。ならば、多くの人間にチャンスを与えるのは正しいことだ。

 ただ、その多くが失敗しているから現状の不均衡な社会が生まれているにすぎない。それはアピュラトリスの責任ではないのだ。

「ところで、それを決めているのは誰なのですか?」
 志郎のその言葉は、まさに神に対する問いのようであった。「人の運命があるとすれば、誰がそれを決めているのか?」というもの。

 それを聞いたキリルは、今までとは違う、少しばかり感情が宿った表情を浮かべ、ついにその言葉を紡ぐ。

「それこそアナイスメル〈蓄積する者〉なのです。そう、すべてはアナイスメルという神の思考が決めることなのです」

 誰に何を与えるか。そこにどんな可能性があるのか。これらを決めているのは、すべてアナイスメルである。それゆえに、結果的にどうなるかは人間の身ではわからないのである。

 現状を見ればアナイスメルが間違っているように見えるかもしれない。が、よくよく観察してみれば、その人間にはちゃんと可能性があるのである。人生を振り返ってみれば、もし自分なりに正しい生き方をしていれば、周囲の人間を幸せにする可能性は十分あったと知るだろう。

 ある程度の人為的操作を行うことはもちろんあるが、最終的にアナイスメルがすべてを決めている。そして、それを信じること。アナイスメルの思考を信奉すること。それこそがアピュラトリスのすべてであり、唯一守るべき理念なのである。

「アナイスメル…」
 初めて聴く言葉の響きが、エリスには妙に引っかかった。それは単なる言葉ではない。もはや聖なる波動を宿した神託に等しい響きがある。少なくともキリルからは、そうした感情が見て取れた。

「おい、志郎、わかるか?」
「もうそろそろ無理かな。経済のことなんて知らないし」
 話がアナイスメルに入ってきたあたりから、すでに志郎とデムサンダーは会話に参加できなくなる。もともと格闘術にしか興味がなかった二人である。思考放棄も致し方がない結果だろう。

 キリルも最初から議論するつもりはなかった。相手が理解しようがしなかろうが、存在しているシステムを変えることはできないのだ。受け入れて成功するか、拒否して落ちぶれるか、それだけのことである。

 そして、キリルは本題に入る。

「さて、本日フォードラ様をお招きしたのは、まさにアナイスメルに関わることなのです。たしかにアナイスメルは究極の思考とも呼べるものですが、唯一の欠点があるのです」

「それは、人が扱わねばならない、という点です」

 アナイスメルは、それ単体ですでに完成されているのかもしれないが、未完成な人間が扱うとなれば、いろいろと問題が出てくるのは道理である。

 それを解決するために、どうしてもアピュラトリスはエリスが必要だった。それこそ何を対価にしても絶対に得ねばならない人材なのだ。

 なぜならば


「あなた様は、富の塔の電池なのです。全世界を動かすための…ね」


 エリスには才能があった。

 【電池】としての、唯一無二の才能が。

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