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零章 第四部『加速と収束の戦場』

八十九話 「RD事変 其の八十八 『冷美なる糾弾⑭ 凍れる愛の昇華』」

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「はぁああああ!」

 壱式が身を屈め、下段への攻撃を繰り出す。皇型は、それを読んでいたかのようにクリスタルソードでガード。続けて中段、上段、フェイントを入れてからの小手への攻撃、再度下段への攻撃に移行する。

 だが、それもすべて防がれる。

「生真面目な性格なのねぇえ! 嫌いじゃないわよ!」
「ぐっ!」

 薙ぎ払われたソードをリンドウが受け止め、ギィインという振動波の音が響く。その耳障りな音が、アミカはとても不快である。

(パターンが読まれている。いや、私が同じ行動をしてしまうのだ!)

 剣術には、型があり、基本がある。それは優れた剣士たちの、血の滲むような実戦経験の中で生まれた必殺のパターン。古来より伝わる殺法の一つである。

 下段への攻撃は有効だ。誰だって、足元は攻撃されたくないもの。アミカの攻撃は、まずそこから始まる。手始めにローキックから入るのと同じである。そこから体勢を崩し、得意のコンビネーションにつなげるのだ。

 しかし、それが癖になっている。

 いつでも足元を攻撃すればよい、というものではない。その状況に合わせた攻撃、あるいは膠着した状態ならば、奇をてらった攻撃も必要なのである。アミカには、それがない。

 慎重で真面目といえば聞こえはよいが、単にワンパターンなのである。いかに優れた剣士であっても、それでは防御されるのも当然だ。

 しかも相手は、自分よりも反応に優れた相手。遺伝子強化されているため、もともとの覚醒値も違えば、殺した人数という意味での経験値も相手が上。正直、勝てる道理のない敵である。

 だからこそ、このままではいけない。

(打開しなければ! 小手先で通じないのならば―――!!)

 壱式が、思いきって飛び込む。必殺の念をもって、刀を突き出す。

「ふふんんんーー! 悪くないけど、それじゃああねえぇえええ!」

 皇型が横にステップ。それだけで軸がずらされ、決死の覚悟で向かった一撃がかわされる。

 この光景は、最初と同じであった。

 アミカが初めてナサリリスに対して攻撃したとき、彼女は高速移動で横に回避し、優位なポジションを取った。やはり巧い。接近戦においても、彼女の位置取りは完璧である。

 だが唯一、最初と違うことがある。

「クレイジー・バズ・カーネリアン!! 挽き裂け!!」

 そこに、ジュエルの力を開放したネルジーナの呂貌が、ブリザードの嵐の中を突き抜けてきた。すでに消耗している彼女は、今までのように臨気のガードを満足に張れず、機体のあちこちに水晶が突き刺さっている。

 それでも気にしない。

 皇型の背後から、挽手を振り下ろす!!

「あなたの相手はぁああああ! 楽しいけどねぇえええ!」

 ステップの勢いのまま回転し、呂貌を迎え撃つ。クリスタルソードを突き出し、挽手と衝突。ガリガリガリ、と激しい音を立てながら、挽手がクリスタルとなった刃を破壊していく。

 挽手があと一歩のところまで迫るが、皇型はクリスタルを射出。発生した風によってのけぞることで、紙一重で回避。ただ、臨気の余波は皇型の装甲に飛び散り、フライパンの油が肌に飛び散ったような痛みが走る。

「あはぁああーーーー!! 効くぅううう! でも、私には足りないないのよぉおお!」

 皇型の左手から、戦弾が発射。フルオートショットガンのように連続して放たれる散弾が、呂貌に襲いかかる。呂貌は、両腕で顔と胸を防御。

 着弾。

 クリスタルソードによって貫かれた左肩、リフレクターによって刺された右足の反応が遅い。肺も貫かれているので、練気も微妙。そのため、いつもなら完全防御可能な戦弾も、今の彼女には相当にしんどいものであった。

 バンバンバンという銃声とともに、呂貌が人形のように揺れる。急所は押さえたが、それ以外は、ほぼまともにくらってしまった。コックピットのモニターに、警告音が響く。損傷率が三十パーセントを超えた音だ。

「おば様!!」
「何をやってるの! 今よ!!」
「っ―――! う、うおおおお!!」

 ネルジーナの攻撃は本気だったが、半分は囮でもあった。挽手という凶悪な一撃を、ナサリリスは無視することができない。背後を見せたまま避けられるほど、甘い攻撃ではないからだ。

 だからこそ、今がチャンス。
 アミカの目には、がら空きの皇型の後姿。

 壱式が、リンドウを立てて突っ込む。

(この間合いならば!)

 アミカの直感が、これならば当たると確信する。装甲は厚くないはずなので、リンドウの一撃でも致命傷を与えられる可能性は高い。命気で回復力を高めても、急所への致命傷は簡単に癒せないはずだ。

 今までの借りを返す。その意気込みで突っ込む。

「それでもぉおおおお!! 遅いのよねぇええ!」


―――が、クリスタルリフレクター


 上空から、クリスタルリフレクターが降ってきて、リンドウの前に立ち塞がる。刀とリフレクターが衝突。水晶化したリフレクターは、シールドとしての効果を発揮し、刀を弾いた。

 挽手においては、緩衝材の役割しか果たさないものだが、リンドウ程度の攻撃ならば十分耐えられる。決死のアミカの突進も、またもや無意味になってしまった。

(上空まで気にしなくてはいけないのか!?)

 リフレクターには、もともと浮遊能力がある。正確には、一枚一枚に風のジュエルを使った風圧ジェネレーターが内蔵されており、常時風を発生させて浮かんでいるのだ。

 リフレクター自体には、攻撃能力はない。ただの反射板である。そのためこの程度ならば、女神の規制に引っかからないのだ。また、この状態での移動や攻撃には、ブリザードの風を使っているので、言ってしまえば、台風で飛んでくる金属板くらいなものだ。

 だが、それが厄介。

 もともと人間は、上空からの攻撃には弱い。目が対応できないからだ。ただでさえ速い相手に対し、上空までフォローしろというのは無理がある。

「どうすれば、どうすれば…」
「無駄じゃない!!!」
「っ―――!!」
「無駄なことなんてない!! 無意味なことなど、ない!! 続けなさい!!」
「おば様…」

 ネルジーナは叫ぶ。今は駄目でも、今が駄目でも、次がそうなるとは限らない。それを怖れることで、足が鈍くなることを彼女は知っているのだ。

 強者との対戦回数。

 いかに強い相手と戦うか。戦い続けるか。この価値は、弱い相手と戦ったときに実感するのではない。再び強い相手と出会ったとき、打開策を閃くために必要なのだ。

 相手も人間である。機械ではない。機械は「精確」だが、それだけだ。それを超えることはない。間違えたり、迷ったりするから人間なのだ。だからこそ美しいし、気高いし、より強くなれる。

 次こそは、貫く一撃となれる!!

(一度弾かれたからといって、それがなんだ!!! だからどうした!! 私は戦うと決めたのだ!!)

 迷って、迷って、何度も迷って。決断して、しくじって、決断して、迷って、しくじって、また迷って。そんなことの繰り返しの中にも、無駄は一つもない。あってたまるものか。

 悩んだだけ、価値があるのだ!!

「うおおおおおおおおおおお!」

 壱式が、再度駆ける。クリスタルシールドを身体ごと押し込み、がむしゃらに刀を振る。皇型には、もう少し。あと少し。

「だぁ~~~~~~めよおおおおお!」

 反転した皇型が、クリスタルソードを振るう。その一撃は、余裕をもってまた壱式のリンドウを払う。そう思ったが―――



―――激突



 パーーーーーン! という音を立てて、一瞬、世界が止まる。


―――そして、衝撃


 発生した衝撃波が、壱式と皇型を吹き飛ばす。その余波に弾かれて、呂貌も後ろに流れていく。

「これは―――!!」

 アミカの目に、はっきりと映った。壱式の刀とクリスタルソードが、完全なる衝突を起こしたことを。両者の一撃が、【完全なる一致】を果たしたことを。

 壱式の攻撃が、真芯を捉えたのだ。
 同じ力で、同じ勢いをもって。

 今まで一度たりとも、こうして満足に捉えることはできなかったナサリリスの剣。才能や経験の差を疑い、自己不信に陥っていた彼女が、この奇跡のような一撃を放ったのだ。

「はあぁっ! はっーーー、あはあーーーー!! いい、いいわぁあああ!! まさか、ここまでやるなんてねぇえええ!! 本当に、本当に、ホントウニィイイ!! イイッ!!!」

 ナサリリスは、ブリザードを使わないというハンデを与えたが、それ以外は本気である。剣での接近戦においては、何一つ油断はしていない。だからこそ、そこに痺れる。

 皇型のクリスタルソードに、ヒビが入っていた。今のリンドウとの衝突で生まれた傷だ。へき開に強い命気の水晶に亀裂が入るなど、通常はなかなかないことである。

 それもアミカの剣が、彼女に届いた証拠である。

「それでいいのよ! あなたはやれる!」
「わ、私が…私がやった!」

 その感触に、アミカは打ち震えた。痺れるような感触が、手に残っている。確実な手応え。それが彼女の熱を確かなものとする。

 無駄ではなかったのだ。

 一つ一つはそう見えても、確実に積み上がっていく。それこそアミカがもっとも欲する安心感。努力が結実する瞬間である。これを知るからこそ、今までがんばってこられたのだ。その初心を思い出したのだ。

 そして、もう一つの要素を思い出さねばならない。

「リュウ君も言っただろうけど、その機体は、今のダマスカスで最高の機体なの。この呂貌よりも、遥かにね」

 呂魁や呂貌のデータも、武力計画には受け継がれている。それを踏まえたうえで、最高の機体を造ろうとして生まれた計画なのだ。その集大成の一つが、このブリキ壱式である。

 今はほっそりとした外見だが、宿したパワーは呂貌を超える。すっかり自信をなくしていて忘れていたものの、アミカが乗っている機体は、リヴィエイター以上の名機なのである。

「その子は、まだ生まれたばかりの子供よ。可能性は無限なの。そして、あなたが実戦で初めて乗ったなら、あなたこそが親であり先生であり、その子そのものなの。その子の未来も、あなた次第というわけよ」

 ホウサンオーは、黒神太姫に対して何をしただろうか。自分の動きを教え、理解してもらい、トレースさせた。いざというときに、自分の代わりに動いてもらえるように。黒神太姫が、完全なる力を発揮できるように。

 その姿は、生徒を教える先生、弟子を鍛える師範。

 いかに才能があっても、教える側が下手では、生徒も弱くなる。力の出し方を知らないボンクラになる。それでは、せっかくの名機が泣く。

 壱式もまた、ナイト・オブ・ザ・バーンと同じ赤子。これが初陣。だからこそ、アミカという存在は非常に重要なのだ。その動きも感情も、すべてを見ている。観察しているのだ。

「わ、私が先生!? そんな! 私に何が教えられるというのですか!? こんな弱い私に!」
「誰だって最初はそうよ。それに、アミカちゃんが慣れないことをしても、結局はすぐに化けの皮が剥がれるわ。なら、そのままでいいの。そのままの本当の姿で、あなたは駆ければいい」


―――「信頼してあげて。その子は、あなたの【剣】なのだから」


「―――っ!!」

 信用する。
 機体を信頼する。命をかける。

 それは大前提。戦ううえでの基本。いつ底が抜けるかもしれない靴を履いて、陸上競技などできない。走ることなどできない。ましてや、駆けることなんて不可能である。

 棒高跳びの選手が、棒を信頼できなくてどうするのか。野球選手が、自分のグローブやバットを信頼できなくて、何がアスリートだろうか。


―――刀を信頼できなくて、なにがサムライか


―――なにが剣士か


「そう…か。私は、お前を信頼していなかった…のだな。本当の…意味で。心の奥底から…」

 アミカは、壱式のことが急に哀れに思えてきた。そして、リュウが言ったことを思い出す。

 リュウは言った。

 魔人機は人間に頼るしかない、と。
 乗る武人が引き出してやらないと何もできない、と。
 その悔しさがわかるか、と

「刀を信頼しなくてどうする。だが、私とお前は、今日出会ったばかりだ。いきなり信用しろなんて、私にはそんなことはできない…」

 アミカは、何をやっても最初は駄目な子である。刀だって、扱えるようになるまでには時間がかかったし、本当の意味で信用できるようになったのも、そんなに昔のことではない。

 ましてや、慣れない魔人機。

 ずっと苦手で、嫌っていた魔人機。今日出会ったばかりで、訳もわからない試作機。自分のために造られた機体でもない。愛着など、湧くわけがない。

 だが、だがしかし―――

 そうであっても、そうだとしても―――

「お前は、私と一蓮托生だ!!! 私はお前に頼るしかない! お前も、私がいなければ価値を証明できない! スクラップだ! ゴミだ!! 私など刀がなければ、ただの無愛想な女だ!! 何の特技もない行き遅れだ!」

 踏みしめる。大地を。
 握りしめる、刀を。

「お前は、ここまで耐えてくれた! 私のせいで黒焦げになっても、まだ戦ってくれている! 私を見捨てていない!! そうだ! お前は、それしかできないからだ!! そんなお前を、私も見捨ててたまるかぁあああああああああああああああああああ!!」

 アミカの戦気が燃え上がる。真っ赤に燃え広がった炎は、徐々に色を薄め、白く、それでいて清水のような青い光を放つ。そのキラキラと輝く戦気は、清らかな川に流れる、美しい、とても美しい水の色合いに似ていた。

 そこには、魚が住む。清くて、澄んだ世界に、さまざまな生物が寄ってくる。自然の息吹があり、躍動があり、生命の螺旋があるから。

 アミカには見えなかったが、のちの周囲の話によると、壱式の機体に広がっていた外装接着用の粒子が光輝き、収束を始め、まるで青白い鎧をまとったように見えたという。

 それは甲冑のようでありながらも、柔らかさをもった女侍の鎧。強さと柔軟さを兼ね備えた、重くなく、されど脆くもない、彼女に相応しいものであった。

 そして、リンドウにまとわりつき、硬質化し、物質化した刀。

 アミカの愛刀【白咲き】によく似た、柄も刀身も真っ白な刀。刃文がうっすらと白桜色に色づいており、豊かで奥深いウェーブは、どこか花びらを彷彿させ、満開の白桜の中に迷い込んだような雅な趣を感じさせる。

 壱式のモニターに、見慣れぬ紋様が表示された。アナイスメルの石版に描かれたものとよく似たそれが、光り輝いている。いまや誰にも解読できないが―――

 その意味は―――花は白く咲き誇り、鳥は雅にかける。


 ダマスカス陸軍、第十四世代型特別強襲用MG



―――白花翔しろかしょう



 ブリキ壱式、真の名である。


「いくぞぉぉぉおおおおお!!」

 駆ける。ただ相手を目指して。

「はぁあああ!! いらっしゃいぃー!! 化粧直しは済んだみたいねぇええ!! その力を、私にぃいいい! 見せてちょうううううだああーーーーーーーーーい!!」

 クリスタルソードを修復し、待ち構える皇型。その圧力は、強者特有の恐るべきもの。今までのアミカだったら、恐れ、怯え、立ち止まりそうになっていたほどの強さ。

 だが、アミカはもう迷わない。ただ信じて、すべてを託す。この刀はけっして折れない。自分が折らせない!!

 そう決めたから!!!

「はああああああああ!!」

 リンドウ改め、白咲きを上段から振り下ろす。いつもの彼女ならば、最初にいきなり上段から振り下ろすなど、絶対にしない蛮行。

 力に劣る彼女にとって、それを弾かれたら次が出ないからだ。崩れた体勢のところに追撃され、ダメージを負う。稽古でそれが続いた結果、いつの間にか自分の中で封じていた、本当の意味での思いきりのよさ。

 皇型は、迎え撃つ。刀とソードがぶつかり、再び激しい衝撃が起こる。しかし、それを予期していたナサリリスのほうが速い。

「結果は同じよぉお!! 子猫ちゃんんんんん!!」

 素早く切り返し、追撃を仕掛ける皇型。そろそろアミカの無力化を図るために、多少傷つけてもよいと判断し、攻撃に転じたのだ。利き腕の右肩を貫き、足を潰せば、もう抵抗はできないだろう、という目論見。

 ついさきほどまでの壱式だったら、致命的なダメージだったはず。

 だが、もういない。


―――かけていたから


「え?」


 いるはずの場所に壱式がいない。それは、ナサリリスの目すら欺くほどの素早さ。存在が消えた。見えない。

 当然だ。

 なぜならば、もう壱式じゃないから。

 【白花翔】は空に舞い上がっていた。上段を叩きつけた衝撃を利用し、突き出された皇型の腕すら利用し、上空にジャンプ。青く輝く粒子が、まるで翼のように広がって跳躍を助ける。

 そして、落下。

 ただ落ちるだけではなく、ブースターのように加速して急降下した白花翔が、全身全霊をもって皇型に叩きつける!!!

「私は、お前のペットではないぃいいいいいい――――――――――――――!!!

「リフレクターシールドで…」



「関係ないぃいいいいいいいいいいい!」





―――ブリザードが、割れた



 上空に吹き荒れていたブリザードが、その一閃によって二つに分かれた。白花翔が放った一撃の速さで、生み出した力の奔流で、気迫に負けて真っ二つになった。

 白咲きが、防御に回したクリスタルソードを圧し、弾き、リヴィエイター皇型の右肩に入り込み


―――切り裂く


「ぎゃあはぁあ嗚呼ああああああっぁぁぁぁぁぁぁあ嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼!」

「うおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 さらにさらにさらに、残った力をすべて叩き込むように、アミカは力を込める。刀を信頼していなければ、これはできない。

 曲がってしまうから。半端な刀では、切り裂く瞬間によれて、曲がってしまうから。それで力が伝わらないから。

 だが、これは折れない。
 アミカのものだから。

 彼女が、本気で信じて信頼して、託したものだから。
 そして、機体も自分に応えてくれたから。


 今、使い手と刀が一体となって、ここに【人刃一体】が完成する。


 ナサリリスの肩が裂け、喰い込み、押し斬られる。そして、彼女の右側の豊満な胸に、赤い線が浮かび―――


―――鮮血


 肩から胸が、ばっさりと斬られた。あの美しいナサリリスの肌が、肉が、完璧なまでの美貌が、切り裂かれたのだ。

 アミカに。
 子猫だと思っていた存在に。

「がはっ―――!! はーーーーー!! わ、ワタシはぁああああああああああああああ!」

 ナサリリスが目を見開き、痙攣し、動きが止まる。痛みというより、単純にショックと快楽のほうが強いようだ。今の彼女には、すべてのものが快楽に感じるのだろう。

「もらったわ!!」

 そして、機会をうかがっていたネルジーナが突貫する。これがおそらく最後のチャンス。ナサリリスを仕留める好機。アミカに反撃され、ショックを受けている今ならば、必殺の一撃を叩き込める。

 臨気が手を覆う。

 皇型の心臓を抉り取るように―――挽手を振り抜いた。



―――業爆



 圧縮された臨気によって、挽き裂かれると同時に激しい爆発が起こった。血が吹き飛び、コックピットを赤く染める。

 これは致命傷である。

 なにせ、ネルジーナがすべての力をかけて、振り絞って、もう倒れてもいいと思って放った、正真正銘の全力だからである。

 ナサリリスはかわせない。かわすどころではない。彼女の心臓を抉り取れば、命気の放出は終わり、回復する手段を失う。そして、死ぬ。それだけが唯一の勝機。

 しかしながら、ネルジーナは見誤っていた。
 アミカもまた、失念していた。

 この場にいるのは、三人だけではない、ということを。

「まさか……ここで動くなんて…!」

 ネルジーナの声には、悔しさと称賛の感情が滲んでいた。右手の感触は十分。されど、標的だけが違った。



 クマーリアが、血に染まる。



 乙女型の装甲が破れ、挽き裂かれ、コックピットまで火に包まれた中に、その黒い少女はいた。

 最後の瞬間で、彼女が庇ったのだ。

「クマーリア!! あああああ、クマーリアぁぁああぁあああああ!!」

 ナサリリスは、その光景に心を大きく乱す。



―――胸が、なくなっている



 心臓を抉り取られたのだ。

 呂貌の一撃。ダマスカス最強の戦士の一撃は、乙女型を破壊するのには十分な力を秘めていた。いかに強固な装甲を誇ろうと、この一撃を防ぐ手段はない。

 とっさのことだったので、防御も満足にできなかった。ただ身を投げ出し、愛する者を庇うことしかできなかった。だから死ぬ。自己犠牲に身を捧げた者だけが、美しく死ぬ。

「あぁ……おねぇ…さま」
「クマーリア…どうして、どうして!!」
「わ、わたし……お役に……たちたかった……から」
「立ってる!! 立ってるわぁあ!! ずっと立ってたわぁあああああ!!」
「傷つくのが……おねえさま…が……きずつくのが……嫌で……かわいそうで……」
「っ―――!!」

 クマーリアが、手をひらく。両手を広げて、抱きしめるように。壊れた女性を、ただただ優しく抱きしめるように。

 自分を助けてくれた女性。
 自分を愛してくれた女性。

 それが気まぐれでもかまわなかった。生きる目的ができた。
 愛するということを教えてくれた。

 だから、こうするには十分な理由。

「ワタシが…私が……おねえさまを……愛する…から!! 今度は、私が守るからぁぁあああああああ!!!!」

 半壊した乙女型が、呂貌に抱きつく。すでに力を使い果たした呂貌に、それを振りほどくことはできない。

「くっ!! さすがに…限界……かしら!」
「おば様!!」
「離れなさい!! 自爆する気よ!!」
「まさか、また!!」

 アミカは、バイパーネッドの自爆を思い出す。あの時の爆発で、壱式の強化外装は破壊されてしまった。それどころか、周囲一体は焼け野原になった。

 無人機だけでもそうなのに、バーンが乗る乙女型が爆発すれば、いったいどうなるのか。オロクカカのヘビ・ラテのように、恐るべき大破壊を呼ぶのは間違いない。

 それを想像し、アミカは真っ青になる。
 だが、離れるわけにはいかない。

「逃げるなど、できません! 助けます!!」
「覚悟を甘く見るんじゃない!! この子、本気よ!!」

 クマーリアの気迫は、完全に死を悟った者だけが放つもの。ユニサンと同じ、ジン・アズマと同じ。もう命などいらぬと、本気で覚悟した者だけが、こうした気概を放つ。

「離せ!! 手を離せ!!」

 白花翔が、白咲きで乙女型の腕を攻撃する。だが、びくともしない。不思議な力で守られているかのように、まったく離れない。

 オロクカカがそうであったように、武人は心臓がなくても、しばらく生きていることができる。力がなくなるまで、戦う意思が完全に消え失せるまで、その炎は燃え上がるのである。

 この小さな身体なのに、なんて大きい。彼女の命の炎は、この場のあらゆる存在より巨大で、煌いて、猛々しくて、微々たるもので、それでいながら優しくて、恐ろしい。

 あらゆる人間の心が集まった、何かの集合体。意思の塊としか呼びようがないもの。だから強い。だから挫けない。だから離れない。

 世界は祝福する。覚悟を持つ者を。

「どうして! なぜだ!! 信じられん!!」
「クマーリアに触らないでよぉおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「ぐっ!!」

 皇型がクリスタルニードルで、白花翔を牽制。焦っているのか、いつもの命中精度とは程遠い。当たることなく逸れていく。

 しかし、今のナサリリスには、それもどうでもいいこと。それより、必死に乙女型を止めようとする。

「クマーリア!! もういいの!! あなたが死んでは意味がないのよぉおおおおおお! 私の世界にあなたがいないなんて、それじゃ意味がないのおおお!! 本当よ!!!」
「おねえ…さま……うれ…しい。でも、わたし…もうすぐ……」
「死なない! あなたは死なせない!」

 ナサリリスが、皇型のコックピットから飛び出る。ここは戦場であるのに、敵が目の前にいるのに、それすらもどうでもいいこと。今の彼女には、クマーリアしか見えていない。

「邪魔よおおおお!」

 そして、半壊したコックピットの入り口を、力づくでこじ開け、クマーリアがいる中に入っていく。そこには、血だらけで息も絶え絶えな黒い乙女がいた。

 何も言わず、抱きしめる。

 ナサリリスの胸も、見るに無残な姿である。血が流れ、だらだらとこぼれ、この場が赤に染まっていく。それでも何の躊躇いもなく抱きしめる。すり合わせる。愛しい者に触れるのに、何の躊躇いがあろうか。

「あぁ…おねえ……さま。血が……」
「あなたと一緒。私は一緒よ!!」
「でも…、わたし……死んで……」
「死なないって言ったでしょう!! あなたは死なないのよ!!」
「心臓……が……もう……」
「そんなもの!! 私のをあげるわ!!! こんなもの、いくらでもあげるからああああああああああああああああああああああ!!」

 ナサリリスは、自らの胸に指を突き刺し、捻じ込み、心臓であるフローズン・ラブファントム〈凍てついた女王の幻愛〉を取り出す。ぶちぶちと血管がちぎれ、血が噴き出しても動じない。

 フローズン・ラブファントムは、水晶の中に層がいくつも重なっている、ファントムクォーツと呼ばれるジュエルである。その層は、見事な雪の結晶をかたちづくっており、それだけでも価値ある宝石として、何百億円の値段で取引されるものだろう。

 それをクマーリアの心臓に、胸の奥に押し入れる。凍気で固定し、命気を使って血管を作り、細胞液で満たしていく。

「フローズン・ラブファントム、根性を見せなさい!! 命令よ! クマーリアの心臓になりなさいぃいい! 血が必要なら、私のを吸いなさいなぁああ!!」
「おねえ…さま……駄目…」
「大丈夫。適合させるわ! 死なせない。あなたを…死なせない! だって、そうでしょう? 私は、あなたがいなくては…生きてはいけないの。私にとって、あなただけが太陽なの。世界を照らす光…なのだから」
「おねえさま……」

 ぽとり、とクマーリアに熱い液体が落ちる。

 ナサリリスが流した【涙】である。

 すべてが冷たく完璧な彼女。心まで凍りついた彼女でも、流す涙は熱い。熱くなったのだ。クマーリアという太陽を得て。

「あなたがいなければ……愛がわからなかった。ずっと幻の愛を抱いたまま…偽物のまま生きていたわ。だからね……私は、あなたを絶対に見捨てない!!」


―――半身だから

―――もう一人の自分だから


 そして、一つになる。

 心臓を介して、二人は一つになった。

 自分の中心を相手に渡す。心臓を渡す。

 それは完全なる自己犠牲の形。

 二つの自己犠牲が、一つになった瞬間。


「あぁ、お姉様……。こんなに…こんなに嬉しいことは…ないです」
「私もよ、クマーリア。あなたを…感じる。あなたの強さと優しさを…感じるから」
「でも、ああ…ごめん…なさい。もう止められ…なくて。爆発…しちゃう」
「そう…。なら、いいわ。ここであなたと…死ぬわ。一緒よ。いつだって、ずっとずっと。世界が終わっても、二度と太陽が昇らなくても、私はずっとあなたと…一緒」
「うう、ううう…おねえ…さま。愛して…います」

 二人が涙を流し、抱き合う。

 それと同時に、周囲に百合の花が舞った。今までよりも大きく、白く、真っ白な美麗な百合の花が、世界を覆っていく。

 その場の雰囲気は、もう誰も入れるものではない。
 捕まっているネルジーナでさえ。

「あら? 私もこのまま…死んだほうがいいのかしら? これって、感動のシーンよね? 空気を読んだほうが…」
「いやいやいや!! 違います!! あいつらに付き合っては駄目です!!」
「でもねぇ。がっしりと掴まれているのよね」

 クマーリアは、それはもう懸命に抱きついている。愛するナサリリスとの最後の抱擁なのだ。どんなに凄い爆発が起こっても、絶対に離れないようにと、渾身の力を込めて抱きしめている。

 カノン・システムと連動している乙女型は、それと忠実な動きをする。その結果、呂貌も熱烈に抱きしめられている状態になっていた。実に迷惑な話である。

「緊急脱出装置は……駄目か。うーん、壊すのが早いのでしょうけれど、力が残ってないのよね」
「おば様、私が斬ります! 呂貌のほうを斬って、取り出しますから!」
「それじゃ間に合わないわ。あなたは行きなさい」
「嫌です! 私は逃げません!!」
「ようやく吹っ切れたみたいだけど、こういうときは年長者の意見を聞くべきね。あなたまで死んだら、ますます旦那の立場がなくなるもの」

 リンクシステムは切っているので、呂貌を壊しても問題はない。ただ、今から呂貌を切り開いて、ネルジーナを救出する余裕はないだろう。

 しかも相手は、もう完全に自分たちの世界に浸っており、このまま爆死して愛を確かめ合う気満々である。それに巻き込まれるほうは、たまったものではないのだが、そんなことを聞く連中ではない。

(せっかく目覚めても、これでは嬉しくもなんともない!! 何か手はないか! 何か―――)

 とっさのことにパニックになる悪い癖が出てしまったアミカには、どれだけ考えても手は浮かばなかった。



 そのせいなのか、彼女が一番早く気がついた。




―――その場に、【五人目の人物】がいたことを




(何者?)

 ショウゴ・伊達ではない。明らかに兵士とは違う格好をしている。それどころか、おそらく軍人でもないだろう。

 その姿は、深紅の着物姿という、この場には似合わないような服装。被衣かつぎを被り、その顔までは見えないが、赤い雨の中でもはっきり見える白い肌が、艶っぽさを滲ませていた。

 その人物は、翔ける。

 まるで白花翔がそうしたように、軽々と宙に舞ってみせた。そして、乙女型の腕に乗り、刀を抜く。

 刀は、真っ赤。

 刀身まで真っ赤に染まった刀は、深く静かな気配をまといながらも、その奥底には見る者を畏怖させる迫力を宿していた。だが、その本質は、やはり静かである。

 それにようやく、ナサリリスたちが気がつく。

「誰!? せっかくの私たちの世界を邪魔するのはぁあああ!!! ここは、私とクマーリアの世界!!! 消えなさい!!」

 ナサリリスは、その人物が敵であることを知っていた。なぜ、彼女はそんな態度を取ったのだろう。目の前の人物は、とてもお淑やかで、綺麗な佇まいで、顔はわからずとも、相当に美麗な人物であるとわかるのに。

 そう、ナサリリスだからわかったこと。

 この人物は―――

「真実の愛は、誰も傷つけません。あなたたちの愛が本物ならば、ここで誰かを道連れにする必要もないでしょう」

「知った口を―――!」

 ナサリリスが叫び終わる前に、その人物は動いていた。

 刀が走る。それは予想に反して、ひどくゆっくりとした速度。子供でも、簡単に白刃取りができそうなほど、とても遅いものだった。

 ゆっくりと、ゆっくりと、それが振り下ろされる。振り下ろしたあとも刀が動くことはなく、それで動作が終了したことを物語っていた。

(何を…斬ったのだ?)

 アミカには、その人物が空を斬ったことしかわからない。何もない空間を斬ったようにしか。

「さすが……ね。格が違うわ」

 この場で唯一、何が起こったのかわかったのは、経験豊富なネルジーナ。彼女も最初、何を斬ったのかわからなかったのだが、ようやくその意味がわかった。

 それを悟るまで、数秒かかった。この数秒こそ、自分と目の前の人物の圧倒的な差を物語っていた。遠く、ものすごく遠い差。武人の実力という意味でもあるが、【人間としての差】である。

 そして、もう一人。

 何が起こったのかを悟った人物がいた。

 それはもちろん―――ナサリリス当人。

「っ―――!! !!?!?? っ―――!!!」

 ナサリリスは、自分の中の違和感に気がつく。

 今まで胸にとどまっていたものが、ゆっくりと割れ、膨張し、昇り、上り続けていくのがわかる。それは徐々に強くなっていき、加速し、回転し、螺旋のように翔け上がる。

 熱い、熱い。

 熱い、熱い、熱い。

 熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。

 熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。



―――熱いぃいいいい!!!




「ああああ、あはぁ嗚呼ああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアア嗚呼嗚呼アアアアアアアアアアアアアああああああああああああああアアアア嗚呼嗚呼アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああ嗚呼嗚呼嗚呼あああああああああああ亜あああああああああああああああああああああああ嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼あああああああああああああああああああ嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼ああ嗚呼嗚呼嗚呼あああああああああああああああああああああああああああああああああ嗚呼嗚呼嗚呼ああああああああああ!!」



 大絶叫。

 ナサリリスという存在から、そのものが飛び出たような絶叫!!

 凍気が走り、周囲を凍らせ、だがしかし、命気が満たし、包み、掻き混ぜられ、ぐるぐるぐちょぐちょになった生命の波動が、コックピットに溢れ、漏れ出し、大洪水を引き起こす。

 ごぽごぽと羊水が流れ落ち、周囲を水で満たす。命の水で満たす。そこから芽が生まれ、茎が伸び、生命を花開かせる力となって上昇していく。



―――放心



 ナサリリスが、力なく倒れる。完全に脱力したように、ぐらっと傾く。クマーリアに抱かれていたので、全身から倒れることはなかったが、背骨が折れたのではないかと思えるほど、上半身が背後に直角に曲がる。

 それからビクビクと痙攣を始める。びくん、びくん。がくがく。唾液が溢れ、見開いた目からは涙が零れ、手は宙を何度も掴み取ろうとするが、指は力なく、もはや何も掴めない。

「おねえ…様!!! おねえさま!! 何が起こって! あいつが何か―――っ!!!?」

 この時、クマーリアにはわかった。

 ナサリリスと深くつながっているからこそ、最愛の女性に何が起きたのか悟ったのだ。だが、それは認められないこと。認めてはいけないこと。

 そして、罵倒。

 フローズン・ラブファントムの命気によって、かろうじて助かってはいるものの、自分の心臓がなくなった女性が言う台詞ではないことを叫ぶ。

「なんてことをおおおおおおおお!! あなたは、なんてことを!! それは私の役目だったのに!!! 横から突然現れて、なんてことをしてくれたの!!! それは、それは!! ソレハァアぁあああああああああ!! 私のォオオオオオオオオオオオオオ!!」





「よくもよくもよくも、お姉様を―――」









―――「イカせたなあぁあああああ!!」








 絶頂。

 ナサリリスが感じる、初めての絶頂。

 今まで彼女が感じてきた快楽が一気に噴き出したように、すべてを貫き、すべてを満たす極限の場所に、それは花開いた。

 収束できず、加速だけを続けてきたものが、一つの終点を迎えた。ただそれは、もはや衝突事故である。たしかに止まったが、ブレーキをなくした高速車が止まるために、仕方なくぶつかって止まったようなもの。

 すべての衝撃が、ナサリリスに跳ね返ってきたのだ。


―――快楽として

―――すべてを貫く、至上の悦びとして


 なぜ、こんなことが起きたのか。彼女が求めて、求めて、求め続けても、それは絶対に起こらなかったのに、どうして今、この瞬間起こったのか。何がそうさせたのか。

 凍りついた彼女が与えてきた幻愛とも違う。
 クマーリアが与えた、唯一の愛とも違う。


 その人物が与えたのは、【愛】。


 ただただ、愛するという深い気持ち。
 霊から発せられる、すべての生命に対して与えられる、無償の愛。

 もしそれが、身近で愛しい人から与えられたら、それは当たり前のものとして受け取っていただろう。クマーリアが、そうするように。

 だが、敵が。いきなり現れた敵が、いきなり愛をぶつけるなど、誰が想像するだろう。それも心の奥底から、本当に愛するという気持ちをぶつけられたら、誰だって戸惑ってしまう。包まれてしまう。ほだされてしまう。

 その愛が本物で―――


―――【男】から発せられたものならば



「男が、男が、オトコが、オトコオトコオトコオトコオトコオトコオトコオトコオトコオトコオトコオトコオトコオトコオトコオトコオトコオトコオトコオトコオトコオトコオトコオトコオトコオトコがぁあああああああああああああああああああああああ!!」

「男なんかにぃいいいいいい!! お姉様を穢されてたまるものかぁああああああああああ!!」

 クマーリアは、放心したナサリリスを抱きしめ、コックピットから飛び出す。大切なものを庇うように、守るように、必死になって逃げていく。

 その姿は、あっという間に遠くなり、見えなくなった。

「え? えっ―――!??」

 何が起きたのか、アミカには理解できない。

 あんなに盛り上がっていた場が、一気に収束したのだ。しかも誰もが傷つくことなく、突然終わってしまった。そのあまりの変わりように対応できないのだ。

 「百合はどこに行ったのだ?」と、ぽかーんとしている。

 その疑念に答えてくれる者はいないが、その代わりに乙女型の腕が、力なくがくんと落ちる。

「ネルジーナ、もう逃げられますよ」
「ありがとうございます。まさか、あなたがいらっしゃるとは…野暮用ですか?」
「ええ、野暮用ですね。でも、あなたをここで失うわけにはいきません。だから、大切な用事です」

 その人物は、にこっと笑い、被衣を取った。

 腰元まで伸びる黒髪に白い肌に着物。ここまでは、どことなくアミカと同じであるが、その赤い目は、どこまでも深く、強く、すべてを包むような力に満ちていた。

 顔は童顔で、中学生と言っても通るほどに若い。容姿も端麗で、唇は化粧をしたのではないかと思えるほど赤く、蠱惑こわく的である。こう見えても、れっきとした男性である。されど歌舞伎の女形のように、女性よりも色っぽく感じるから不思議である。

 そして、腰には一本の刀。

 真っ赤に染まった刀は、それそのものが代名詞。
 【彼】という存在を示す、最大の特徴。

 それは、アミカにとっても無視できないものであるから―――叫ぶ。



御館おやかた様―――!!!」



 御館様。ダマスカスでは、武人の家の棟梁をそう呼ぶ。


 そして、アミカが所属するエルダー・パワーの棟梁となれば―――


 【マスター・パワー〈至高の武を受け継ぐ者〉】


 その名を、赤虎せきこ


 ネルジーナが、エルダー・パワーの師範を除けばダマスカス最強であるのに対し、エルダー・パワーを含めた全ダマスカスの武人の中で、間違いなく最強の存在である。


「御館様!! どうしてこちらへ!!」

 アミカが、マスター・パワーこと赤虎に話しかける。聞きたいことは山ほどあるのだ。なぜ、ここにいるのか。何が起こっているのか。全部が謎なのである。

 だが、赤虎はアミカの疑問に答える前に、空を指差す。

 すべての人間が、そこを見た。



 雨が、やんでいる。



 いや、それだけではない。

(あ…れ? 何かが違う?)

 アミカも、その違和感に気がついた。戦いに夢中で、まったくそのことに頭が回らなかったのだ。

 何度か頭を振って、必死に思い出そうとして、以前と何が違うのかが、ようやくわかった。



(そうだ。間違いない―――)




―――サカトマーク・フィールドが、止まっているのだ




 あの輝いていた塔が、輝きを失っている。



 もう、用済みとばかりに。

 すべてが終わったとばかりに。


 否、始まったのだ。


 本当の―――『世界が分かれた日』が。

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