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零章 第四部『加速と収束の戦場』

八十六話 「RD事変 其の八十五 『冷美なる糾弾⑪ 誰がための悪夢』」

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 周囲は、真っ黒な世界に塗り替えられていた。クマーリアが所有するナイトメア・オブシディアン〈黒き乙女の邂逅譚〉の能力、悪夢の力である。

 付与型のAランクジュエルで、能力は二つある。

 一つ目は名前の通り、悪夢を見せることができる力である。精神術式の一つで、闇と夢の特殊属性を使った術だ。戦気やオーラを媒介にするので、対MG戦闘においても極めて有効な能力といえる。

 悪夢の内容は指定できない。どんな悪夢を見るかは、それぞれの過去の体験、トラウマによって異なる。効果が最大限に表れれば、恐慌状態になり、戦闘不能に近い状況に追い込める。

 最悪の場合は、心に傷を負ってしまい、PTSDや自閉症のような症状を引き起こし、人間として再起不能になることもある。これも人それぞれなので、絶対にそうなるかは各人の状況による。

 範囲は自分で設定できるが、有効射程距離は半径五百メートルから千メートル程度。広げるほど力は弱まるため、離れた場所にいた兵士たちは、さしてダメージになるような悪夢は見ていないだろう。

 相手を昏倒させるという強力な能力のため、発動中は相手を攻撃できないペナルティが発生する。

 他人が攻撃することは可能だが、その場合のダメージは発動者が負うことになる。それ以前に、この黒い世界の中では、物的な攻撃が一時的に効かなくなる。

 ここは領域と同じく、ある種の【精神世界】なのである。

 仮に、この世界を砕くほどの力がぶつけられれば、即座に悪夢の能力は解除され、昏倒からも目覚める。その場合、すべてはリセットされ、後遺症は残らない。

 ネルジーナが異能と呼んだように、世の中にはこうした特殊能力を持つ存在、あるいはジュエルが存在する。だからこそ、いかなる戦場であっても油断は死を招くのだ。

 どんな強者であれ、ここに入ってしまえば特定の条件が絶対のルールになる。そして、今の場の支配者は、クマーリアである。

(ああ、使ってしまった)

 クマーリアは、自身の真っ黒になった身体を見つめながら、自己嫌悪に陥る。この能力だけは、使わないでおこうと決めていたのだ。

 彼女は、南西大陸に無数に浮かぶ群島出身で、太陽の下で自由に暮らしていた。それが悪夢に変わったのが、五歳の頃。海賊による人間狩りによって捕まり、人身売買組織に売られてしまったのだ。

 それから彼女は、さまざまなところを転々とした。単純に家や店の労働力として使われることもあったし、珍しく美しい容姿から、好色家の貴族に売られたこともある。

 その際は、さすがに貞操の危機を感じたものだが、その男は変質的な嗜好を持っており、彼女を観賞用のペットとして扱うにとどまった。自慰行為を強要されたことはあれど、貞操を奪われることはなかった。もしかしたらその時期が、一番安全で裕福であったと思うほどである。

 ただし、それも武人の血が覚醒するまでであった。彼女が高い暗殺者の資質を持つとわかってからは、生活が一変した。

 最初は護衛や敵対勢力の妨害などをこなしていたが、その能力に目をつけた輩に拉致され、怪しげな機関で本格的な殺しの技術を教え込まれた。

 その際に、男嫌いになったのかもしれない。

 好色家に飼われていた段階で、すでにその兆候はあったが、まだ身の安全が図られていたぶん、嫌悪感はあったがそこまでの忌避感はなかった。その組織で、毎日男たちに身体をいじられた経験が、激しい憎悪と怒りになったのは間違いない。

 そして、そこで行われたのが、【特殊ジュエルとの適合実験】である。

 ナイトメア・オブシディアンも、その実験で彼女と適合したジュエルであった。もともと適合したものを、さらに強化する手術を受けたため、今ではジュエルの力を百パーセント発揮することができる。

 しかしながら、その力はテロに使われた。カーシェルが覚えていた事件、その当事者こそが幼い頃のクマーリアである。

 テロは、人を殺すのが目的だけではない。その行為によって、相手に要求を呑ませる手段の一つである。実際に殺されるより、精神を破壊されるほうが厄介なこともある。

 政府は衰弱した彼らを保護せねばならず、被害者の家族も介護で仕事が手に付かない。それが頻繁に起これば、社会全体の機能が麻痺するのは自然なことであろう。

 働き手がいなくなり経済は低迷化し、若者の多くが被介護者になる。まさに現代だからこそ起こりえる地獄絵図である。

 クマーリアは、この力が嫌いだった。

 なぜならば、これはナサリリスのレフォーズ・ベルと同じく、使っている間は、自身に対しても悪夢が訪れるからである。唯一異なるのは、自分が夢を見ていることを知っている点であるが、過去のトラウマを思い出すのは最低の気分だ。

 太陽の下から日陰に連れ出された恐怖。身体を這いずる男たちの手。多くの人間たちの痛みや苦しみが、彼女自身にも襲いかかってくる。慣れているので耐えられるが、最初は発狂しそうになったこともある。

 そして、慣れているからといって、それが不快でないわけではない。嫌だと知っているからこそ、この力を使うことに、さらなる嫌悪感を感じるのだ。

 もう一つ嫌悪するとすれば、これは本来の使い方ではないからだ。ナイトメア・オブシディアン〈黒き乙女の邂逅譚〉は、名前だけを見れば、相手に悪夢を与えるような印象を受けるが、実際は逆である。

 それがもう一つの能力、正当な能力である【過去のトラウマからの脱却】である。

 このジュエルの真の力は、いかなるトラウマも克服させる【強さ】を与えること。トラウマから守り、新しい強さを与えることこそ、オブシディアンの力である。

 これを正しく使えば、心に傷を負った人を助ける力を持つ、精神医療型のジュエルとなる。傷口を洗い流し、優しく保護し、ギブスで固めて補助するという、実に力強い石なのである。

 だが、それはおとしめられた。

 ジュエルは、人の影響を受けて変質する。周囲の環境条件に自分を合わせようとする。周りが良い雰囲気に満たされていれば聖石となり、邪に満ちていれば邪石となる。

 ナイトメア・オブシディアンもまた、人間の負の意識によって汚染され、本来の能力を失ってしまっている状態にある。

 今の状況は、ザックル・ガーネットに似ている。あれも本来は、強い破邪の力を持つガーネットであるが、その力が逆転することで、不変の憎しみの権化となってしまった哀れなジュエルである。

 今のクマーリアの身体は、真っ黒。使えば使うほど、自分がより黒く、薄汚くなったような気持ちになる。惨めな気持ちを思い出す。本当は克服したはずなのに、嫌な記憶が蘇る。

「ナサリリスお姉様…、私の救世主」

 それを救ってくれたのが、ナサリリス。

 意外に思うかもしれないが、ナサリリスは【元警官】である。

 騎士団は主に軍隊を指し、行動対象は敵対国家であることが多い。治安維持にも使われることはあるが、内乱や凶悪なテロに対抗するときのみであり、普段は警察組織が治安維持を行っている。

 ナサリリスは男臭い軍隊を避け、警察組織に入ることを選んだ。彼女の武人としての能力の高さを生かすためには、反社会組織以外は、そこしかなかったともいえる。

 当時の彼女は、合法的に女性と触れ合える職場を探していた。普通の職場でもよかったが、それではセクハラなどの問題が発生するので、それを揉み消せるだけの権力が必要であった。

 貴族に取り入るのが一番だったが、忘れてはいけない。彼女自身は、絶世の美女と謳われる美貌の持ち主だ。彼女を雇い入れる者に、邪な心がないわけがない。その結果として、警察が一番妥当だったというわけである。

 あんな性格で、よく集団生活を送れたものだと思うのだが、数年間は実際に勤務していた。されど当然のごとく、他者と折り合えるはずはなく、独りで行動することが多かったようだ。

 ナサリリスは、実戦が多い実働部隊に所属していた。その中でも凶悪犯罪者を取り締まる特殊制圧部隊である。しかも、彼女の能力の高さから、単独で行動することが許されるほどであった。

 実際、彼女独りのほうが検挙率が高かったし、身内に被害が出ないという最大のメリットがあった。そのため、上層部も彼女を好きにさせていたのだ。

 ジュエルテロを起こした組織のことが判明すると、ナサリリスは単独で壊滅の任務に就く。あっという間に本拠地を制圧し、男は皆殺しに、女は保護対象にした。

 そこでクマーリアと出会ったのだ。

 ジュエルの反動によって、真っ黒になった自分に対し、漂白されたような真っ白な手が伸びる。その手は慈愛に満ちており、自分とは対照的に思えた。

 何にも汚れていないような純白の手。天使のような清らかさと、女神のような温もり。こんな自分を抱きしめてくれる慈悲深さに、クマーリアは泣いた。それはもう泣きじゃくった。

 彼女こそ、自分の救世主であると。
 彼女こそ、自分がすべてを捧げるべき女性であると。

 こんな素晴らしい女性は、この世にはほかにいないのだ、と。

 それは完全にクマーリアの思い込みであり、ナサリリスはその段階ですでにイカれているわけだが、当人はそう思ったのである。彼女がどう思おうが、それは自由である。

 というよりは、クマーリア自身にも同じ性癖があったのだろう。なにせ処女を奪ったのは拉致した男たちではなく、ナサリリスであったのだから。

 そして、ナサリリスもそこでレフォーズ・ベルを手に入れた。その組織は、違法なジュエル売買に手を染めていたので、珍しいジュエルを闇市場から大量に仕入れており、その中に魔鈴も存在したのだ。

 最初、クマーリアは自分と同じようになると忠告したが、ナサリリスはレフォーズ・ベルを支配した。自分にはできないことを、彼女は一瞬で成し遂げてしまったのだ。その時の高揚感は、いまだに忘れられない。

 強く。凛々しく。美しい。
 完全なる個であり、完全なる孤であった。

 されど、そんな彼女も片割れを探していた。自分の隙間を埋める存在を、ずっと待ち望んでいた。それこそクマーリア。凹が凸と出会った瞬間である。

 レフォーズ・ベルのおかげもあり、最高の絶頂を味わった彼女は、もうナサリリス以外の存在は見えなかった。

 クマーリアが、レフォーズ・ベルを他人に使わせたくない理由も、ここにある。絶頂は素晴らしいが、できれば二人だけのものにしたいのだ。あの最高の快感を薄めたくないのである。

 また、本物の男嫌いになったのも、この時である。

 当人は組織の男が~と思っているが、実際はナサリリスに感化された結果である。女性の良さを知ってしまったので、よりいっそう男が醜く見えたのだ。

 ナサリリスが、あまりに浮世離れした美人であることと、精神パターンがぴったりと合わさったことで、多大なる影響を受けてしまったのだ。また一方で、ナサリリスもクマーリアから影響を受け、多少人並みの感受性を得るに至っている。

 そう、あれでもまともになった部類なのである。昔はもっとヤバかった。それを思えば、クマーリアは世界を救ったのかもしれない。少なくとも、男を皆殺しにする世界からは。

(これで足止めができれば、もうレフォーズ・ベルを使わなくて済む。それで時間が来れば…)

 彼女たちもまた、足止めが目的である。時間が来れば、嫌でも撤退しなくてはならない。いかにナサリリスでも、こんな場所で逃げ遅れれば命にかかわる。アミカの【調教】が途中でも、そんなリスクは冒せないだろう。

(みんな、夢を見ている。苦しい夢、痛い夢、いろいろ)

 場の支配者であるクマーリアには、他人の悪夢の状況がおぼろげながら理解できる。

 たとえば、兵士の一人は職場での人間関係に苦しんでいる夢だ。どんなに人間関係が嫌でも、生活のために職場に行かねばならない。嫌な人間に愛想笑いをして、上司に頭を下げねばならない。

 苦痛と嫌悪、繰り返される絶望の毎日。

 この世で一番の苦しみは何だろう。働く夢を見て疲れて起き、それが夢だとわかって絶望しながら、また同じ疲れる職場に行くことだろうか。なるほど、それが続けば、たしかに悪夢である。

 もう一人の兵士は、ついさきほどのことを悪夢で見ているようだ。チョッキンブレードを持って追いかけてくる白い悪魔。男をちょん切ることに躊躇いがない存在は、男にとっての悪夢そのものだろう。

〈違う、違う、俺は…! うぁぁあああ!〉

 距離が遠く、浅い悪夢を見ている兵士たちと比べて、近くにいた伊達は深い悪夢にうなされていた。

 彼の顔の傷が出来た原因である、とある少女との夢物語である。

 自分の手に染み付いた血の跡。倒れている少女の家族、一族たち。激高して襲いかかってくる少女に、無抵抗の伊達。ただただ悔恨と無念の表情を浮かべた伊達の顔に剣が振るわれ、鮮血が走る。

 だが、武人の本能は生きることを優先し、少女の首に自分の手がかかる。嫌な音がして、少女が激しく咳き込む。吐き出した唾には、血が混じっている。

 少女の可憐な声が、老人のように枯れていた。
 喉を潰してしまったのだ。

 しわがれた声で呪詛を吐く少女。
 そうじゃないと弁明する伊達。

 初めて一般人を殺し、激しい動揺と悔恨の渦に引き込まれる。クマーリアが与える典型的な悪夢の一つだが、実際にそれが当時のリアリティをもって繰り返されるのだから、当人の精神は確実に磨り減っていく。

 強靭な精神を持つ伊達でさえ、このようなトラウマに苛まれているのだ。近くで受ければ、常人ならば一瞬で廃人である。

(ああ、あのお姉様にもこんな夢が。つらいけれど…どうしようもない)

 当然、一番近くにいたネルジーナも、同じような悪夢に苛まれているはずだ。彼女は美しい。これほど奥深い強さと美を持つネルジーナを、悪夢で傷つけることは本意ではなかった。

 だから、彼女を心配して、それと同時に少しばかりの好奇心をもって覗いてみた。彼女も元軍人である。ならば伊達と同じように、倒した相手に対しての後悔の念に苦しんでいるのかもしれない。

 そう思ったのだが―――

「―――え?」

 クマーリアが見たものは、なんとも言いようがない光景。

 椅子が飛んだり、鏡が爆発したり、銅鐸のようなものを狂ったように殴り続ける彼女の姿。そして、必死の形相で、謎のスイッチを徹夜で作り続けている彼女の姿。

(何を…してるの?)

 こんな悪夢を見たことがないクマーリアは、ただ呆然としていた。

 普通、もっとシリアスな夢を見るものである。何かに追われたり、暗い夜道をずっと歩いていたり、巨大な何かの影に怯えたり、さきほどの兵士のように仕事の夢を見たり、伊達のように強いトラウマにうなされたり。

 テロで多くの人々を悪夢に陥れた時も、大半がそうしたものを見ていた。だから、悪夢とはそういうものだと思っていた。

 だが、彼女は知らない。
 悪夢もまた、人それぞれであること。

 そして、悪夢が【誰のためのもの】なのか、ということも。

「ふっ、ふっ、ふっ―――」

 ネルジーナの呼吸が、少しずつ荒くなっていく。あれだけ動いても息切れ一つしなかった彼女が、空気を貪るように、短く強いリズムで呼吸を繰り返す。

「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ―――あいつ」
「あいつ?」
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ―――また」
「また?」

「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ!」

「ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー、ふー」

 呼吸が、さらに荒くなる。
 強くなる。熱くなる。

 身体の奥底から、盛り上がり、炊き上がり、上昇する意識となって、徐々に浮上していく。

 それはかつて、長い長い時間をかけて、慎重に慎重を重ねて、とある男が日々神仏に祈りながら【封印】していたもの。毎日貢ぎ物を供え、床に額をこすりつけながら、称賛と賛美を繰り返し、流した汗と血の涙の量に見合うだけの【謝罪】をした証。

 それは終わったことであった。
 過去のこと。昔のこと。

 だが、悪夢の力は、そんな過去をほじくり返す。もう終わって済んだことなのに、わざわざ蒸し返す。

 こいつはまだ、そんなことを言っているのか。
 もう終わったことを、ぐちぐちと。

 なんて性根の腐ったやつだ。
 お前みたいなやつは、最低の女だ。

「お前? 最低の女? 腐った性根?」
「え? え?」
「誰が……誰が」


「誰が誰が誰が誰が誰が誰が誰が誰が誰が誰が、ダレがダレがダレがダレがダレがダレがダレがダレがダレがダレがダレがダレがダレがダレがダレがダレがダレが、だれが、だれが、だれが、だれが、だれが、だれが、だれが、だれが、だれが、だれが、だれが、だれが、だれが、だれが、だれが、だれが、だれが、だれが、だれが、だれが、だれが、だれが、だれが、だれが―――」


「お前だとおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」


「きゃぁああああ――――――――――!!」


―――黒い世界が、ぜた


 まるで爆発のあとのように、黒い霧は弾け飛び、古びたディーゼルエンジンが発するような黒い煙だけが、周囲でもくもくと上がっている。

 その残った煙も、彼女が放つ光によって【蒸発】していく。ジュウゥ、という音を立てて熱せられ、消滅していく。

「な、何が起きたの…。悪夢は? 夢は!?」

 クマーリアは、何が起こったのか理解できず、ただただ周囲の状況を見つめていた。その際、思わずチョーカーのジュエルを触ったのだが―――

「うそっ! ―――ヒビが入ってる!?」

 ナイトメア・オブシディアンに、大きな亀裂が入っていた。まるで、力任せに何かで殴ったかのような大きな傷が、ざっくりと刻まれている。

 あの黒い世界では、物理攻撃は無効化される。仮に攻撃を受けても、一定のダメージ量まではオブシディアンが請け負ってくれるので、クマーリアにダメージはない。

 しかも、ナイトメア・オブシディアンの耐久力は高い。戦艦の砲撃を受けても、精神世界でのダメージに換算されるので、たとえ火焔砲弾を受けても、一発くらいならば受け止められるくらいに強固だ。

 それは、今までクマーリアが他人の悪夢を吸収し、この石を強化してきたからだ。その思念の力がエネルギーとなって、オブシディアンを強いジュエルへと変質させていたからだ。

 だが、その石に亀裂が入った。

 それはつまり―――

「何万人の悪夢より、ネルジーナお姉様の力のほうが強いの!?」

 単純に考えて、許容量を超えたと見るべきだろう。となれば、今まで蓄えた数万という人間の意識より、ネルジーナ単独のエネルギーのほうが強かったということだ。

 ただ、それ自体はありえることだろう。もしクマーリアが、上位バーンにこの攻撃を仕掛ければ、今と同じようなことになるのは間違いない。人間を超えた精神を持つガガーランドに仕掛けようものならば、一瞬で打破されるのは明白である。

 だから、精神が強い人間には絶対有利ではない。
 いや、そんなことは知っている。

 クマーリアが驚いたのは―――

「だって、あんな夢で…こんなこと。何があったの!?」

 ネルジーナの夢は、彼女には到底理解できないものだった。なぜ、彼女が叫んだのか、苛立っているのか、あの夢から想像することは不可能である。

 伊達ならばわかる。あれほどの痛みを受ければ、逆上して力を引き出すこともありえるからだ。だが、ネルジーナのものは、さしたることはなかった。一人で何かをやっていて、勝手に何かを感じていただけ。

 だがしかし、それがきっかけになったのは間違いない。
 何かが、彼女の根幹部分に触れてしまったのだ。

 そして、【ソレ】が目覚める。

「ふっ、ふっ、ふっ」

 呼吸は多少落ち着いたが、荒いまま。それによって汗を掻いたのか、彼女の美しいオリーブドラブの髪の毛が、首筋にべったりと張り付いている。

 それを鬱陶しそうに掻き上げ、風を取り入れるためにパイロットスーツを胸元まで開く。彼女の薄いペールオレンジの肌が、ほんのりと赤く染まっている。熱量のせいか、周囲には白い靄が立ち込める。

 冷房機能があるにもかかわらず、そこはサウナのような状況にあった。そのすべては彼女、ネルジーナによってもたらされたものである。

「ああ、なにか久しぶり…ね。この感じ。ああ、ああ!! まったく、もう。ああ、ああああ!!!」

 人間は苛立った時、何かに当たる。八つ当たりをする。それと同じように、なんとなく地面を蹴っただけ。べつに意図があったわけでも、理由があったわけでもない。ただ蹴っただけ。

 ゆえに、これはおかしいのである。

 踏みつけた場所から亀裂が走り―――


―――貫通したことが


「ひゃっ!」

 突如、地面がなくなり、基地内部に落下するリヴィエイター乙女型。なんとか着地に成功したが、彼女だからこそできたことである。その証拠に、伊達も一緒に落ちたが、受身を取れずにハイカランの頭から落ちている。

 ただの蹴り。ただ踏み鳴らしただけ。そんな一撃が、幾層にも固められたコンクリートを破壊し、一部に使用されているアピュラトリス外部の特殊合金を破壊し、基地の隔壁を破壊し、貫通させた。

 その衝撃が伝播し、巨大な穴を生み出したのだ。

「ふっ、ふっ、ふっ!! ああ、ムカつく。ムカつく。ああ、あああああ!!」

 呂貌から、巨大な戦気が生まれた。さきほどまで戦っていたときには、非常に洗練されて静かだった戦気が、突如として荒々しく、禍々しく、暴風のように広がっていく。

「なんなの…これ」

 その変貌ぶりに、クマーリアはどうしようもない。単純に近寄るのが恐ろしいし、今のネルジーナから発せられる戦気は、間違いなくクマーリアを遥かに凌駕する力の奔流である。

 しかし、それはまだ序の口でしかない。
 ほんの入り口でしかない。

「はぁはぁ、うちの旦那いる?」
「えっ!? あっ、ゼントーベル少佐!? ご無事でしたか!?」
「ええ、ええ、そうよ。それより早く、あいつを出して」
「あいつ? ああ、はい! 国防長官ですね! あの、その、お、お電話です!」

 突然のネルジーナからの通話に、コマツバラが驚きながら対応。言われるがままにバクナイアに繋ごうとする。

「なんだ、どうなったって!? 今ちょっと手が離せん!」

 現在、バクナイアたちは連絡通路において、マリオネットの群れと交戦中である。なんとか司令室から脱出したものの、やはり内部は人形で溢れかえっていた。

 それはもう、異常繁殖した虫の大群。至る所にマリオネットがおり、潰す以外に先に進む方法がないほどである。そうなると、バクナイアの銃の力がどうしても必要で、装填された瞬間に撃っていかないと駆除が追いつかないのである。

 だから、手が離せない。その代わり、リュウが慌てて通信機を取った。

「おじさん、俺が出る! おばさん、無事なのか!?」
「ああ、リュウ君…ね。こっちは無事よ。それで、旦那は?」
「今、手が離せないみたいで…」
「いいから、出して」
「あっ、いやでも……」
「出して」
「…はい」

 ネルジーナの様子がいつもと違うと直感したリュウは、即座に逆らうことをやめた。無事である喜びより、動物的本能が告げる勧告に従ったのだ。実に賢い男である。

「あの、おじさん。おばさんが、出ろって…」
「今忙しいんだ! あとにしろ!」
「あっ? 忙しい?」
「ごめん、おばさん! いや、今ちょっといろいろとあって…」
「いろいろ? あいつが忙しい? ふーん」
「ああ、くそ! まったく、面倒くさいやつだ! なんでこんなに手間がかかる!」
「―――っ!!!」

 説明が必要だろうか。リュウが持っている通信機は、なかなかにして感度が良い。小型であるがオペレーター用なので、ダマスカス純産の中でも最高品質の受信感度を誇っている。

 ゆえに、バクナイアの声も聴こえるのである。ただし、もちろん彼が話している相手はネルジーナではなく、周囲の敵や、自身が置かれた環境に対する不満である。手間がかかる発言も、自分が使う銃に対しての発言だ。

 切羽詰っている状況なので、声にも焦りと怒り、刺々しさがある。ネルジーナには、それがまるで自分に対する言動に聴こえたわけだ。

 当然、そんなわけがない。ただの偶然であり、不幸な出来事だ。しかし、今のネルジーナに、そんなことを考える余裕はない。いくら彼女であっても、これだけの精神攻撃を受けてしまえば、影響は免れない。

 そう、今の彼女は、まだ悪夢の影響を受けているのである。それはナイトメア・オブシディアンが、亀裂が入りながらも健在なのを見てもわかる。

 そして、それが悲劇を呼ぶ。

「忙しい…面倒くさい。あんたは、あんたは、あんたは!!! いつもそんなことばかり!!! 私がどれだけ家庭を大事にしても、あんたはいつもそんなことを言ってぇええええええええええええ!!!!」

 ネルジーナの戦気が、さらに跳ね上がった。戦気が燃える、という表現をよくするが、もはやそんな言葉では表現しきれないほど、爆発するように膨れ上がったのだ。

 戦気は徐々に火気に変わり、周囲の温度が上昇していく。その熱気を感じたわけではないが、リュウが慌ててバクナイアに無線機を持っていく。

「おじさん、やばいって! なんか、やばいから!」
「なんだ。やばいのはいつものことだろう」
「違うんだ。おばさんが、おばさんが…」
「【あいつ】がどうしたって?」

 このとき、うっかりバクナイアは「あいつ」と言ってしまった。相手がリュウだったので、思わず対外的な態度を取ってしまったのだ。

 それがネルジーナに悪夢を思い出させる。

「ああ、ああ、そうだ。思い出したわ。たしかあの時も、あいつ呼ばわりしてたわね…。ああ、そうだ。ボラスさんのところで、私のことをそう呼んで……」

 ボラスさんとは、ヘインシーの上司である、金融科学技術長官のヨシト・ポラス、その妻のことである。

 ついつい見栄を張ってしまうバクナイアは、ボラス夫人が主宰したパーティーで、うっかりネルジーナのことを「あいつ」と呼んでしまった。それは本当に単なる見栄であり、国防長官としての威厳を保つためであった。

 されど、バクナイアはその時、ネルジーナのこめかみに青筋が立ったのを見逃さなかった。その後の一週間、彼はほとぼりが冷めるまで、ヨシトとともに外泊を続けていたのである。

 それもまた腹立たしい。

「あの馬鹿が!! 逃げやがってぇええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!」

 戦気が爆発。火気が炎気に昇華され、さらに温度が上がっていく。少しずつ周囲の金属が熱され、ジュウジュウと音を立てていく。

 今までに聴いたことがないネルジーナの怒声の迫力に、さすがのリュウも縮み上がる。その声は、心の底から畏怖を呼び起こすもの。竜の逆鱗を見つけてしまったときのような、新しいものに好奇心が刺激され、そわそわしながらも身の危険を感じたときのもの。

「おじさん、とりあえず謝ろうぜ!!」
「なぜだ? だから今、忙しいと……」
「バック、私も出たほうがいいような気がするな。なにかこう、嫌な感じがする。そう、近くに猛獣の気配を感じた小動物の気分、と言うべきかな。こういうときは、後回しにするのは危険だ」
「は、はぁ」

 周囲の人間に促され、仕方なくバクナイアは通話に出る。まだ現状を理解していない彼は、おそらく妻の機嫌が少し悪いのだろう、程度にしか思っていない。

 そして、呼吸を整え、恐る恐る通話に出る。その際、無意識のうちに片手でネクタイを引っ張る。これはバクナイアの癖であり、怒られたときに踏ん張るための準備である。

 酷い場合には、ネクタイが千切れることもあるので、今までいくつものネクタイを駄目にしている。そのため、もうお気に入りのネクタイは着用しないようになった。ネクタイとは、切れるもの、観賞するものなのだと知ったのである。

「や、やぁ、ネル。どうしたのかな?」

 今回も怒られるのかなぁ、といった感じで、まずは様子を伺う。だが、事態はすでにバクナイアの想像を遥かに超えたところにあった。

「あの、その……元気…かな? 君が無事で本当に良かったと思う。当然、私は信じていたよ。君があんなものに負けるわけが……」
「あの時……」
「へ?」
「あの時、そう、あの時。あーたは、クラブに行ってた」
「く、クラブ? 何の話だ?」
「私が代理で、『女性の社会進出を促進する会合』に出席した時、あーたはクラブに行っていた。男性しか入れないクラブに」
「え? え? クラブ?」
「クラブに行ってた!!!」
「は、はい! 行きました!!」

 バクナイアは、直立不動で回答する。こう言われると、行っていないとは絶対に言えない。実際に行っていたので、ネルジーナの言葉は事実であるが。

 世の中には、さまざまなクラブ(倶楽部)がある。ダマスカスにも、それはもう多様なクラブが存在するが、その中には男性しか入れないものがある。

 よくゴルフ倶楽部で、女性禁止というものがあるだろう。単純に古くから根強く残っている女性差別もあるのだろうが、女性が加わると騒動が起きやすいことも原因の一つである。

 同じ趣味で集まって楽しみたいのに、男女関係のもつれや、キャバクラのように商売女性を連れまわす者が出てくる可能性がある。それは全体の風紀に関わる問題なので、事前に騒動の種を排除するために男性オンリーとすることもある。

 男は、男同士でゆっくり会話したいときもある。特に既婚者の場合、家庭での居場所がなく、心が休まる日がない人も多い。その捌け口として、倶楽部の役割は非常に大きい。

 そのように、男性あるいは女性しか入れないクラブというのは珍しくないが、男尊女卑の是正を目指すカーシェル政権においては、閣僚が男性専用クラブに行くというのは問題となる。

 特にバクナイアは、愛妻家として知られているので、明らかなスキャンダルのネタである。それを知った当時のネルジーナは、それはもう怒り狂った。

 そう、このように。

「私が、私が、私が、わざわざ代理で出ている時、あーたはあんなクラブに…」
「あ、ああ、あ、あれは…付き合いで! そう、ヨシトがどうしてもと言うから、付き添いで行ったんだ!! 付き合いは重要だ! そ、そうだろう!?」
「男性だけのクラブに…」
「やましいことは何もない! 単にタバコを楽しむ―――はっ!」
「タバコ―――?」

 バクナイアが通っていたクラブは、高級かつ珍しいタバコを楽しむ場所である。

 葉巻は、実に多様な種類がある。一本五千円くらいは普通にあるし、限定品ならば値が跳ね上がることも珍しくない。ただ、そのぶんだけ味は普通のものとは違い、実に濃厚でまろやかであり、まったくの別物といってもよいほど豊かな味わいを楽しめる。

 また、クラブに行けば、対外的にタバコに反対している議員たちも、遠慮なく吸うことができる。そこでは軍縮派も武闘派も関係ない。同じ喫煙仲間として、派閥を超えた会話もできるわけである。

 だからこそ、そこは禁断の楽園として、一部の男性議員たちの中では重宝されていたのだ。それがネルジーナに知られるまでは。

「タバコ、タバコ、タバコ!!! あたしが、あーたのために、あーたの健康のために、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も気を、気を遣って、遣って遣って遣って遣って遣って!!!」

「そ、それは…あの…」

「この馬鹿がぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――!!!!」


「ひぃっ―――っ!」



―――バクナイアのネクタイが千切れた時



―――炎を通り越して、【光炎】へ



 赤い光が、呂貌を包んだ。炎気が昇華され、その次のステップに入ったのだ。純粋で混じりけのない炎が、そこには存在した。

「うそ……、これって臨気りんき!? 初めて見た!」

 クマーリアが目にしているものは、おそらく臨気と呼ばれているものである。火気の上位である炎気を、さらに圧縮して臨界点まで強化すると、この臨気と呼ばれる気質に変わる。

 そう、人間が扱える炎の最上位形態である。

 臨気に包まれた呂貌に触れたものが、徐々に融解を始める。あまりの熱量に床が耐えきれないのである。

「おじさん、どうなったんだ!? おばさんは!?」
「ひぃいいい、リュウ、もう駄目だ!! 私は、私は、はっ、そうだ! 私は国外に逃げる!!」
「はっ!? 何言ってんだよ! 国外逃亡なんて、無理に決まってるじゃねえか!」
「なら、私は死ぬ!! ここで死ぬ!!」
「うわっ、おじさん!! 正気に戻れって!!」
「だから言ったんだ。嫌な予感がするって……!! 悪魔め、なんてことをしてくれたんだ!! お前たちのせいで、全部が滅茶苦茶になる!! ようやく眠らせたのに!! 眠ってくれたのに!!」



―――「【鬼】が目覚めたじゃないか!!」



「ううぅ…なんだ。ちくしょう、最低の気分だ。ああ? なんだ? これは……」

 ようやくにして伊達が目を覚ます。まだ凄惨な現場が焼きついて最悪の気分だが、かろうじて意識を戻すことには成功する。それもネルジーナの戦気が、オブシディアンの力を抑えているからであろう。

 だが、目覚めた伊達が見たものは、もっとも憧れていながらも、もっとも目にしたくないものであった。

「あぁ……。まさか、これは……」


―――激情鬼


 ダマスカスの激情鬼。

 ダマスカス陸軍で、彼女を怖れない者はいない。いや、他国でさえ、彼女を怖れない者はいない。おそらくルシア軍もシェイク軍も、彼女が出てくれば撤退を考えるに違いない。

 そこに面子などは要らない。

 必要なのは、生存するために必死に逃げること、である。

「ああ、この感じ。久々だわ。イラつく、イラつく! あいつの声を思い出すたびに、ちくちくする!! はーーー!! あーーーーー!!」

 ネルジーナの中には、ひどくねっとりとしながら鋭角的で、それでいながら断続的な苛立ちが続いていた。不愉快で、鬱陶しくて、感情を逆撫でするような怒り。

 それはけっして、直情的で爆発的なものではない。どちらかというと、胃がもたれるような、じわじわと続くことへの苛立ちである。

 だが、一度こうなって不機嫌になると、もう手が付けられない。

 たとえばこうなると、普段は優しく対応できるものでも、ついつい荒々しく扱ってしまうものである。些細なことなのに、激しく怒り、悪いと思いながらも痛めつけてしまう。

 その後に不快感と後悔の念が湧くが、それすらも引き起こした者への不満と怒りに転換されていく。そう、「教えて君」を何度も押し、自分の愛情と信頼を踏みにじった【あの馬鹿】に対する、激しい怒りとなって顕現するのだ。

 その激情鬼は、呆然とするクマーリアの前に立つ。

「さあ、行きましょうか」
「ど、どこ…に?」
「早く終わらせて、終わらせて、あいつをブチノメス!!」
「あ、あの、なんか言葉が…おかしく…」
「行くわよ」
「熱っ―――!」

 呂貌が乙女型を掴むと、それだけで臨気が機体の装甲を融解させていく。一気に融けるわけではないが、徐々に、じわじわと融けていく。それを人間でたとえると、触れた金属が徐々に熱せられていく感覚である。

 恐怖でしかない。

 ただただ、ネルジーナに対する恐怖がクマーリアを襲っている。

「なんで、どうしてですか!? なんであれだけで、そんなになるのですか!?」
「はい?」
「だって、些細なことじゃないですか!」

 クマーリアに詳しい事情はわからないが、ネルジーナが相手(おそらく旦那)への怒りでこうなったことはわかった。怒りが力となって、この臨気を維持しているであろうことも。

 しかしながら、一つだけわからない。

―――あまりに些細だから

 彼女の怒る理由が、とても些細なものに感じられるから。

 これがもっと大きな人権侵害や、理不尽な迫害のようなものならば理解できる。それはラーバーンが、心に宿す炎と同じだから。そうしたものへの怒りが力になっているからである。

 それと比べてネルジーナのそれは、単なる夫婦喧嘩程度のことでしかない。なんとも些細なことである。

 クマーリアの無遠慮な言葉に、ネルジーナの中で一瞬暴力的な衝動が起こったが、相手が【可愛らしい子猫】であることを思い出し、潰したい気持ちを抑えた。クマーリア、命拾いである。これが男だったならば、即座に潰されていただろう。

 そして、喉の奥から搾り出すような、強い情念がこもった声で答える。

「些細、些細? ええ、そうよ。些細なことね。でもね、人間というものは、些細なことのほうが許せないものなのよ。あなただって、約束を破られたら怒るでしょう? 殺したくなるでしょう?」
「あっ、その…殺したくは…」
「ねえ、わかるでしょう? ねえ?」
「はぃ…」

 人間というものは不思議である。

 大義のために死ぬことは、ある程度の志を持っていれば案外簡単にできる。それは崇高な理念に基づくもので、当人の中に満足感を宿すからである。

 がしかし、些細なことは許せない。

 劣悪な環境下において、不満一つなく任務を行える人間でさえ、仲間内の些細な言動は許せないものなのだ。

 たとえば、あいつは意地汚い。
 たとえば、あいつは嘘つきだ。
 たとえば、あいつの取り分のほうが多い。
 たとえば、あいつのイビキがうるさい。
 たとえば、あいつの言葉遣いがムカつく。

 貧困者に施しを与えるような人間でさえ、そうした身近な人間に対する不満を抱く。どんなに仲良しでも、いや、仲良しだからこそメールの返信がないと苛立つのと同じことである。

 それは心が狭いのではない。
 愛情の裏返しである。

 子供が親に対して暴言を吐くのは、甘えているからである。だからこそ無遠慮になるし、些細なことが許せなくなる。これが他人ならば関わりが少ないので、最初から期待しないが、近しいからこそ怒りを感じるのだ。

 ただし、裏返った先が無関心ではなく、憎悪や怒りになった場合、それはどこかで爆発させなければならない。

 ネルジーナにとって、それが戦場であった。
 戦いへの発散によってしか、この感情は鎮められない。

 暴力的で、威圧的で、ただただ破壊を求めるオーガ。

 激情鬼、ここに復活。
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