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「翠清山死闘演義」編
355話 「新たなる魔獣の王 その1『堕天の誘い』」
しおりを挟む危険を察知したハイザクは、森の中を全力で逃げる。
しかし、カンロたちは異常だった。
ひたすら最短距離で移動するので木に激突したり、針のような茂みで身体が傷いても、まったく速度を緩めないどころかさらに加速してくる。
そして、追いついてきたカンロが剣を振ると―――ドゴンッ!!
軽々と大樹を切断するだけにとどまらず、放出された剣圧で大地が吹き飛ぶ。
彼の強みは適応力や間合いの上手さであり、兄弟の中では一番腕力が劣っていたにもかかわらず、そのパワーは長兄のジンロを数段上回っていた。
発せられる戦気や剣気も強化されており、今までとはまるで別人だ。
今度は左手を向けると、魔力散弾を発射。
こちらも散弾と呼ぶにはあまりに大きな魔力弾が生まれ、周辺の木々ごとハイザクを薙ぎ払う。
ハイザクは、これに対して防戦一方。
剣圧で皮膚や肉が斬られ、魔力散弾で抉られても、逃げることを優先して反撃はしない。
当然ながら仲間を倒すわけにもいかないので仕方ないが、それ以前にカンロたちの攻撃が強烈で、今の弱ったハイザクではまともに相手ができない状態なのだ。
他の者たちも同様に力が強化されており、ギンロに至っても老体とは思えないほどの速度とパワーで向かってくる。
いったいどこにこんな力が眠っていたのかと思えるほど、人間離れした能力を発揮していた。
ただし、それは諸刃の剣。
彼らが攻撃を仕掛けるたびに身体が悲鳴を上げて、靭帯や腱が少しずつ切れる音が聴こえる。
骨に亀裂が入り、内臓から出血が起きても、彼らは気にせずに戦い続ける。
明らかに異常。明らかに危険。
実力以上の力を発揮していることから、『オーバーロード〈血の沸騰〉』に近い現象が発生していると考えるべきだ。
だが、彼らの目に意思の光は宿っていない。
さきほど出会った男のように焦点が合わない虚ろな目をして、ただただ操り人形として動かされているだけだ。
おそらくは、あの羽根が原因だろう。
それくらいはハイザクにもわかるが、今の状態ではどうにもできず、逃げの一手を打つしかない。
「…はぁはぁ!! ―――っ!」
しかし、ハイザクの苦難はまだ終わらない。
逃げる先々に―――魔獣の群れ!
ここに来る時は一匹たりとも出なかった魔獣が、逃走を邪魔するように次々と現れるようになったのだ。
その魔獣たちはカンロたちには攻撃せず、むしろ協調するような動きを見せて妨害してくる。
これによってハイザクは、その両者から逃げるという不可思議な状況に追い込まれていた。
逃げる、逃げる、逃げる。
ハイザクは魔獣を蹴散らしながら逃げ続ける。
もう清翔湖に向かうといったことも考えられない。どこかもわからない道を走り、ひたすら逃走を続けていた。
そして、さらなるカオスな状況が発生。
なんと【黄装束の集団】が、この戦いに参加したのだ。
「『標的』を見つけろ! 近くにいるぞ!」
前回はあまり乗り気でなかった彼らだが、此度は明確な意思をもって魔獣たちと戦い始める。
といっても、ハイザクを助けるという考えはないようで、一度もこちらに接触もしないどころか見向きもせずに、魔獣たちを倒しながら何かを探しているようだった。
ハイザクもハイザクで考える状況ではないため、その混乱に乗じて包囲網から逃げることに成功。
「…ふぅふぅ―――っ!?」
が、安心したのも束の間。
かなりの疲れが出たせいか、足を滑らせて山の傾斜を転がっていき、その先にあった深い渓谷に落ちていく。
およそ五百メートルほど落下したが、その身体の強さもあってか命に別状はないものの、腕を骨折してしまう。
その怪我も少し経てば戻ってしまうので、彼の回復力はやはり異常だ。それだけ生まれ持った才能と資質が並外れているのだろう。
しかし、いまだになぜ自分が狙われるのか、よくわからないでいた。
魔獣たちの様子から、こちらを殺すつもりはないようだった。むしろ生け捕りにするために、あえて誘導している面もある。
思えば錦王熊の戦い方も、こちらを殺すものではなく凍結させて動けなくすることを目的としていたようだ。
他の三大ボスにしても、本気でこちらを殺すのならば連携して一気にハイザクを狙うべきだったが、あえてそれをしなかったことも気になる。
それを証明するように、逃げるハイザクの前に大きな魔獣が現れた。
身体中についた傷は完全には塞がっていないものの、左目の切り傷はだいぶ癒えており、すでにかさぶたになっている。
砕けた左肩も傷跡は痛々しく残っているが、魔獣の強靭な筋肉と回復力で、最低限の動きはできるようだ。
両手の大剣は、以前持っていたものとは違って凡庸な輝きしか放っていないことから、おそらくは予備の武器だと思われた。
そこにいたのは―――破邪猿将
ハイザクと死闘を演じた猿神の王である。
「………」
「………」
破邪猿将は、じっとハイザクを見つめていた。
ハイザクもまた破邪猿将を見つめる。
ついこの前、互いの命と誇りをかけて戦った者同士だ。両者ともに感じ入ることはあるだろう。
しかし、今や立場は真逆。
ハイザクはボロボロの敗残の将であり、破邪猿将は個では敗北を喫したとはいえ、戦略上では勝利を収めた側だ。
ここでハイザクを討つことは容易い。生け捕りにすることも難しくはないだろう。
されど破邪猿将は、そのまま動かない。
ハイザクと視線を一度だけ交わしたのち、そっと道を譲る。
「………」
ハイザクも無言でそこを通り過ぎた。
そして破邪猿将は、彼が視界から消えるまで微動だにしなかった。それどころか他の魔獣がやってくると威圧して通さないようにまでしていた。
谷底まで追ってきたカンロたちがいくら強化されていても、破邪猿将には敵わない。
一瞬で叩きのめしながらも、あえて殺さないでおく。
あの時、ハイザクは強引にでも破邪猿将を殺すことができた。マスカリオンに邪魔されながらでも、とどめは刺せたのである。
だが、水を差されたこともあって勝負を見送った。
それ自体は破邪猿将にとっても屈辱ではあったものの、借りは借り。誇り高い猿の王は、人間に借りを作ることは我慢できなかったのだ。
翠清山での戦いは、なんとも厳しく奥深いものだ。
こんなところで敵である魔獣と通じる。これもまた戦場だからこそ起こることなのだろう。
ハイザクは、それからも逃亡を続けた。
しかしながら、どんなにあらがっても標的にされた以上、彼に明るい未来はなかった。
「…ふぅふぅ」
いまだ陽は昇らず、夜の闇がもっとも濃い時間。
彼の目の前に『六翼』が出現した。
どんなに逃げても、その存在はハイザクを見つけ出す。
猿の目、熊の鼻、鳥の翼を利用し、この広い翠清山を完全に掌握しているからだ。
相変わらずその姿ははっきりとはせず、輪郭がかろうじて見える程度。
ただし、今回はその中心部に『六つの眼』が開かれて、じっとハイザクを見つめる。
―――〈ひれ伏せ。超常なる者の前に〉
それは言葉ではなく『思念』で発せられた。
直接脳に響くような高音で、常人ならば一瞬で昏倒してしまいそうな強い衝撃を伴ったものだが、ハイザクは耐える。
「………」
もう逃げても無駄だ。
こいつを倒さない限り逃走劇も終わらない。ギンロたちも元に戻らない。
それを悟ったハイザクは、拳を握って構える。
だが、次の瞬間に背中に違和感。
視線を移すと、そこには三枚の羽根が突き刺さっている。
ハイザクも羽根には警戒していたが、六翼はあえて姿を見せて注意を引きつつ、事前に放っておいた羽根が遠隔操作で遅れて襲ってきたのだ。
疲労で注意力が散漫になっていた彼には、その攻撃には対応できなかった。
そして、羽根による痛みはないが―――
―――〈ひれ伏せ〉
―――〈ひれ伏せ〉
―――〈ひれ伏せ〉
「っ…!!」
頭の中に言葉が響く。
その言葉はひどく魅惑的で甘ったるく、従ってしまったほうが幸せになれるような不思議な波動を放っていた。
それは、堕落への誘惑。
もうがんばらなくていい。考えなくていい。あらがう必要はない。
苦しい思いをしなくてもよいのだと、耳元で囁きかける『堕天の誘い』。
「っ―――!! んっ!!」
ハイザクは、自分の顔面を思いきりぶん殴る!
一瞬意識を失いそうになったものの、それによって正気を保つことができた。
それからも何度も襲いくる誘惑に対して、こちらも何度も身体を叩き、刺激を与えることで耐え抜いた。
これには六翼も称賛。
―――〈良い素材だ。やはり私に相応しい〉
六枚の翼が広げられると三百六十度、あらゆる方向から羽根が襲いかかってきてハイザクに突き刺さる。
当然、羽根が増えれば増えるほど誘惑の声は多くなり、強くなっていく。
「…んんんっ―――おおおおおおおお!」
ハイザクは闘気を放ち、『バイキング・ヴォーグ〈海王賊の流儀〉』も使って必死に抵抗。
しかし、六翼に殴りかかっても攻撃が通じない。
攻撃自体が遮断されて届かないのだ。あるいは実体がないかのごとく、すり抜けてしまう。
ハイザクはパワー勝負では破邪猿将とも渡り合えるが、相手がいつだって力で戦うとは限らない。
特にこの六翼は、単純な物理攻撃とはまったく違う方法で攻撃してくる。
どんどん頭に響く声は大きくなり、次第に思考力も低下。肉体も言うことを聞かなくなっていく。
どんなに強い闘気を放っても羽根は消えない。このことから、これが『術式による攻撃』であることが確定する。
似ている。何かと似ている。
そう、それは【ホロロと同系統の能力】であり―――
「っ―――!!!!!!!!!!!!」
ついにハイザクの『精神』が敵の侵入を許す。
ベ・ヴェルが簡単に屈したように、いかに強い身体を持っていても精神だけは意図的に保護しなくては脆いものだ。
通常時のハイザクならば、筋トレで鍛えた強靭な精神力で耐えられたかもしれないが、度重なる戦闘と仲間の死によって傷んでいたことで、潜在意識の最終防衛ラインを突破されてしまう。
六翼は、ハイザクが膝を屈したことを確認すると、背後に回って―――ブスッ ズルル!!
その翼ごとに中に侵入し、すっぽりと収まってしまった。
「っ……ううっ……ううううううっ! おおおおおおおおおおおお!」
ハイザクは転げ回ったり、身体を強く叩いたりするが、中に入ったものは出ていかない。
自分の中が何かに犯される感覚は本当に最低な気分だ。自らの意思で動けなくなるのだから極めて不快だろう。
しかしながら、そんなことを考える余裕もなくなっていく。
もう駄目だ。もう耐えられない。
ぷつっとハイザクの意識が完全に立ち消えた瞬間、彼の額に三つの宝石が浮き出てきた。
「………」
するとハイザクはむくりと立ち上がり、何事もなかったかのように身体の確認を始める。
握り拳を作ってみたり、頬をつねってみたり、軽いマッスルポーズを決めてみせる。
そんなことをしていると『黄装束の集団』がやってきた。
あれだけの魔獣を相手にしても彼らはたいした損害はないようで、軽く装束が裂けている程度で収まっている。さすがの手練れである。
が、彼らはひどく険しい顔でこちらを睨んでくる。
「若様! 標的の反応です!」
黄装束の男が指さしたのは、ハイザク。
それを群青装束の少年が訝しげに見つめ、ようやくはっとした表情を浮かべた。
「まさか…最初からこの男が目的だったのか!! そのためにここまでやるとは…!」
少年も、ようやく魔獣たちの目的に気づく、
すべてはハイザクをこの場に呼び込み、支配するために『用意された戦争』だったのだ。
「若、依代ごと殺しましょう」
黄装束の青年が、警戒しながら前に出る。
しかし、少年はいまだに躊躇いを見せていた。
「なんとかならないのか? ハイザク・クジュネは、この地域にとっても重要な人材だぞ」
「どうせあの男は、我らが助けねば死ぬ運命だったのです。二度目の奇跡はありません」
「しかし、俺たちの標的はやつだけだ。上手く引き剥がせば…」
「それも不可能です。一度捕らえた時は弱っていましたが、今までの時間で回復を果たしているでしょう。こうまで堂々と出てきたことが、その証拠です」
「くっ、駄目なのか…」
「今が最大のチャンスです。ここで逃せば、またやつは戦争を引き起こすでしょう。『災厄の芽』を摘むことこそ、我らの使命ではないのですか?」
少年はしばし迷ったが、己の拳を見つめて決断。
「…致し方ない。依代ごとやつを排除する! ここで決着をつけるぞ!」
「はっ!」
(もう迷わない。ここで仕留めて翠清山の争いも災厄も止めてみせる! それが俺たち、マングラスの役目だ!)
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