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【動き出す思惑】
4:癒えない傷痕
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少し悩んだ後、レルヒィは男を家に入れることにした。
しつこく囲んできた記者達は、彼によって叩きのめされた。それぞれ別の会社なのか知らないが、身動きも取れない人間は放っておいて、体が動く人間は一目散に逃げ出した。ダウンしていた男達も、しばらくしたら、よろよろと立ち去っていった。
女が一人暮らしの家に、見ず知らずの若い男を招き入れるなど不用心だとも思ったが。どういう理由か知らないけれど助けて貰っておいて、礼の一つもせず、あからさまに警戒するというのも失礼だろう。
それに、勘ではあるがこの男は悪い男には思えなかった。目が濁っていない。
「家の前で構わない。入るわけにはいかない」と駄々を捏ねる男を「傷の手当てもあるから」と無理矢理引っ張り上げた形だ。どうやら、彼も自宅を訪ねて来たようでもあるし。
居間のソファに座らせると、男は記者達を蹴散らしたのが嘘みたいに、恐縮した表情を浮かべている。
レルヒィは男の額に出来たひっかき傷に、軟膏を塗ろうとするが。
「いや、結構だ。俺一人で出来るから。薬を渡してくれ」
そう言うので、レルヒィは彼に薬を渡した。男は額に軟膏を塗る。「畜生。腕が鈍った」とか、悪態を吐いていた。
「ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
照れくさそうに笑って、男は軟膏を返してきた。それを受け取って、レルヒィは男が座るソファから見て左に置かれたソファに座った。
「あの。突然お邪魔して申し訳ありません。俺はオルフ=ヒンメルといいます。こちらが、シュペリ=ラハン殿のお宅なんですよね?」
男の問いに、レルヒィは少し、口をつぐんだ。
「はい。間違いありません。私は、妹のレルヒィです。ですが、兄はもう――」
「いえ、みなまで言わなくても結構です。ニュースで聞きました、本当に残念に思います。心から、お悔やみ申し上げます」
沈痛な面持ちで、オルフと名乗った男は頭を下げた。
あの日、レルヒィが感じた嫌な予感は、不運にも的中してしまった。行方を眩ませていた兄は、空戦競技大会のチャンピオン決定戦を襲撃し、チャンピオンに敗れた。そして、ペイント弾で白く染め上げられた機体の中で、拳銃によって自殺した。
「あなたは、兄のお知り合いなのですか?」
「はい。先の戦争で首都防空隊にいた頃の、シュペリ中尉の部下でした。あなたのお兄様には、大変お世話になりました。今の俺がこうして生きていられるのも、あの人のおかげです」
「そうだったんですね」
「だから、ニュースを聞いて。いても立ってもいられなくなってしまい。失礼かとは思いましたが、こうして押し掛けてきた次第です。もし、葬式やお墓が用意されるというのなら、せめて祈りを捧げたいと」
「有り難うございます。そのお気持ちだけで嬉しいです。亡くなった兄も、元部下の人からこんなにも慕われていたと知ったら、きっと喜んだことでしょう」
オルフの言葉に、レルヒィは少し救われた思いがした。
「でも、残念ですがオルフさんのご期待には、添えないと思います」
「それは、何故ですか?」
「兄はあの事件の実行犯として、その遺体は占領軍の空軍基地に安置されています。いつ戻ってくるか。果たして戻ってくるのかも分かりません」
「そうでしたか」
「はい。なので、弔うことが出来るのかも分かりません。それに、私も生活が厳しくてちゃんとしたお葬式をしてあげられるかというと――」
それ以上は続けられず、レルヒィは押し黙った。項垂れ、肩を震わせる。わざわざ遠くから来てくれた、兄を慕う人にこんな事を伝えなければいけないことに、申し訳なく思う。
部屋に重苦しい沈黙が降りる。
「あの」
「はい、何でしょうか?」
「失礼ながら、レルヒィさんの生活は大丈夫なのでしょうか?」
その質問にどう答えたものか分からなくて、レルヒィは黙る。
「すみません。別にあなたの懐を探ろうとか、そんなつもりは全然無くて。ああくそっ! どうしてこう、俺って奴は。ただ、心配に思っただけなんです」
オルフはこちらの沈黙を批難と受け止めたらしい。慌てて謝罪してきた。
「いえ、大丈夫です。そのお気持ちは、ちゃんと分かっていますから」
何人もの記者を蹴散らす一方で、そんなことでおろおろするこの男を見て、レルヒィは少し面白いと思った。小さく笑う。ああ、こんな風に笑ったのも久しぶりな気がする。
「生活は、厳しいけれど私一人ならしばらくは何とかなります。占領軍に取り調べを受けて帰ってきたら、お昼の工場の仕事は無くなっちゃったけど。まだ夜の仕事もありますから」
だからこうして、次の仕事が見付かるまではお昼は時間がある。
「夜の仕事って――」
オルフが血相を変えた。その様子に、レルヒィは慌てて否定する。
「いえ、ただの素人水商売ですからっ! 主に占領軍の人達相手にお酒を注いで話し相手になるだけの。成人して、勤めることが出来るようになったんです」
本人としては至って健全なお仕事をしているつもりだが、とんでもない誤解を招きかねない説明だったと、レルヒィは耳まで赤くなるのを自覚した。
しかし、それでもオルフには納得出来ないものがあるようだった。そんな表情を浮かべている。
「それは、分かりました。ですが、出来れば昼の仕事で――」
そこまで言って、オルフは首を横に振る。
「いえ、すみません。俺はまた余計なことを言いました。レルヒィさんの事情もよく知らずに。まだこの国は、そんな真似が出来る状況ではない。そういうことでしょうから」
こくりと、レルヒィは頷いた。やれるものなら、オルフの言うとおり昼の仕事だけで食べていけるようになりたい。けれど、現実はそれを許してくれない。
「占領軍の人達も、基本的には礼儀正しい人達ばかりですし。マナーの悪いお客さんはお店から叩き出されて、占領軍の懲罰対象になりますから」
「そうですか」
そこまで言って、ようやく少しだけオルフは安心したようだ。
「あの。またレルヒィさんの傷を抉るような話になるかも知れませんが。よろしければ、教えて頂けないでしょうか?」
「何でしょうか?」
躊躇いがちに、オルフは訊いてくる。
「終戦してから、シュペリ中尉はどのようにされていたのでしょうか? 報道では、あまり恵まれていなかったとは聞いていますが。それでも、ご様子は聞きたくて」
「分かりました。オルフさんになら、お話ししたいと思います」
静かに、レルヒィは頷いた。
「とは言っても、ほとんど話せるようなことはありません。兄は、終戦後しばらくは私と二人で暮らしていました。父は出稼ぎ先で空襲に巻き込まれて、母は過労で体を悪くしてそのまま。二人とも戦時中に亡くなっていたので。親戚も、頼りに出来る当ては無くて。兄は、戦争が終わるとそれまでとは人が変わったようになっていました。ずっと、何もせずにただ空を見上げていたり。寝ていたり。何かを堪えるように、苛立った表情をいつも浮かべていました。働きもせずに」
「そうでしたか。俺にも、そんな時期はありました。結局、生活に追われて働いて、少しはマシになったと思いますが。中尉も、苦しんでいたんですね」
「ええ、兄の心は戦争で深く傷付いていたのでしょう。ですが、当時の私には、そんな兄を思いやれる余裕はありませんでした。毎日毎日必死で働いて、何で未成年の私が、大の大人の兄を養わなくちゃいけないんだって。そんな風に思っていました。私にしてみれば、兄さんこそが最後の頼りだったのに」
「いや。レルヒィさんは悪くないよ。当時の状況を考えたら、そう思うのは仕方ないと思う」
ギュッと、レルヒィは目を瞑った。
「でも、たった一人の肉親だからという思いも、ある日とうとう限界を迎えました。戦争が終わって一年が過ぎた頃だったと思います。私は兄さんに酷いことを言ってしまって。具体的に何を言ったのかは、興奮していたからもう覚えていません。そうしたら、翌日に仕事から帰ると兄は姿を消していました。ごめんなさいって、たったそれだけの書き置きを残して」
ポロポロと、レルヒィの目から涙が零れた。
「それからしばらくは、私は兄のいない開放感に安堵していました。けれど、数ヶ月もすると心配で仕方なくなりました。警察に届けても、そんな行方不明者は多いらしくて、ちゃんと捜して貰えたのかは分かりません」
目元を拭ってオルフを見ると、彼も項垂れ、堪えるように肩を震わせていた。その目から、涙も滲んでいるように見える。
鼻を啜って、レルヒィは続けた。
「私は、後悔しています。酷い事言って悪かったって。生きているなら、帰ってきて欲しいって、謝りたかった。なのに、なのに兄さんは――」
息が、詰まる。
オルフの目からも、涙が零れていた。
「ごめんなさい。そして、聞かせてくれてありがとうございます。少しでも、中尉のご様子が分かったので」
「いいえ。こちらこそ、こんな話を聞いてくれて、ありがとうございます」
レルヒィにしてみれば事実関係としては占領軍にも説明した内容だったが、こんな風に話せたのは、初めてだった。
二人で静かに、兄を偲ぶ。
だが、不意にその静寂は破られた。
乱暴に入り口の戸が叩かれる。
何事だと、二人は驚いて顔を上げた。
しつこく囲んできた記者達は、彼によって叩きのめされた。それぞれ別の会社なのか知らないが、身動きも取れない人間は放っておいて、体が動く人間は一目散に逃げ出した。ダウンしていた男達も、しばらくしたら、よろよろと立ち去っていった。
女が一人暮らしの家に、見ず知らずの若い男を招き入れるなど不用心だとも思ったが。どういう理由か知らないけれど助けて貰っておいて、礼の一つもせず、あからさまに警戒するというのも失礼だろう。
それに、勘ではあるがこの男は悪い男には思えなかった。目が濁っていない。
「家の前で構わない。入るわけにはいかない」と駄々を捏ねる男を「傷の手当てもあるから」と無理矢理引っ張り上げた形だ。どうやら、彼も自宅を訪ねて来たようでもあるし。
居間のソファに座らせると、男は記者達を蹴散らしたのが嘘みたいに、恐縮した表情を浮かべている。
レルヒィは男の額に出来たひっかき傷に、軟膏を塗ろうとするが。
「いや、結構だ。俺一人で出来るから。薬を渡してくれ」
そう言うので、レルヒィは彼に薬を渡した。男は額に軟膏を塗る。「畜生。腕が鈍った」とか、悪態を吐いていた。
「ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
照れくさそうに笑って、男は軟膏を返してきた。それを受け取って、レルヒィは男が座るソファから見て左に置かれたソファに座った。
「あの。突然お邪魔して申し訳ありません。俺はオルフ=ヒンメルといいます。こちらが、シュペリ=ラハン殿のお宅なんですよね?」
男の問いに、レルヒィは少し、口をつぐんだ。
「はい。間違いありません。私は、妹のレルヒィです。ですが、兄はもう――」
「いえ、みなまで言わなくても結構です。ニュースで聞きました、本当に残念に思います。心から、お悔やみ申し上げます」
沈痛な面持ちで、オルフと名乗った男は頭を下げた。
あの日、レルヒィが感じた嫌な予感は、不運にも的中してしまった。行方を眩ませていた兄は、空戦競技大会のチャンピオン決定戦を襲撃し、チャンピオンに敗れた。そして、ペイント弾で白く染め上げられた機体の中で、拳銃によって自殺した。
「あなたは、兄のお知り合いなのですか?」
「はい。先の戦争で首都防空隊にいた頃の、シュペリ中尉の部下でした。あなたのお兄様には、大変お世話になりました。今の俺がこうして生きていられるのも、あの人のおかげです」
「そうだったんですね」
「だから、ニュースを聞いて。いても立ってもいられなくなってしまい。失礼かとは思いましたが、こうして押し掛けてきた次第です。もし、葬式やお墓が用意されるというのなら、せめて祈りを捧げたいと」
「有り難うございます。そのお気持ちだけで嬉しいです。亡くなった兄も、元部下の人からこんなにも慕われていたと知ったら、きっと喜んだことでしょう」
オルフの言葉に、レルヒィは少し救われた思いがした。
「でも、残念ですがオルフさんのご期待には、添えないと思います」
「それは、何故ですか?」
「兄はあの事件の実行犯として、その遺体は占領軍の空軍基地に安置されています。いつ戻ってくるか。果たして戻ってくるのかも分かりません」
「そうでしたか」
「はい。なので、弔うことが出来るのかも分かりません。それに、私も生活が厳しくてちゃんとしたお葬式をしてあげられるかというと――」
それ以上は続けられず、レルヒィは押し黙った。項垂れ、肩を震わせる。わざわざ遠くから来てくれた、兄を慕う人にこんな事を伝えなければいけないことに、申し訳なく思う。
部屋に重苦しい沈黙が降りる。
「あの」
「はい、何でしょうか?」
「失礼ながら、レルヒィさんの生活は大丈夫なのでしょうか?」
その質問にどう答えたものか分からなくて、レルヒィは黙る。
「すみません。別にあなたの懐を探ろうとか、そんなつもりは全然無くて。ああくそっ! どうしてこう、俺って奴は。ただ、心配に思っただけなんです」
オルフはこちらの沈黙を批難と受け止めたらしい。慌てて謝罪してきた。
「いえ、大丈夫です。そのお気持ちは、ちゃんと分かっていますから」
何人もの記者を蹴散らす一方で、そんなことでおろおろするこの男を見て、レルヒィは少し面白いと思った。小さく笑う。ああ、こんな風に笑ったのも久しぶりな気がする。
「生活は、厳しいけれど私一人ならしばらくは何とかなります。占領軍に取り調べを受けて帰ってきたら、お昼の工場の仕事は無くなっちゃったけど。まだ夜の仕事もありますから」
だからこうして、次の仕事が見付かるまではお昼は時間がある。
「夜の仕事って――」
オルフが血相を変えた。その様子に、レルヒィは慌てて否定する。
「いえ、ただの素人水商売ですからっ! 主に占領軍の人達相手にお酒を注いで話し相手になるだけの。成人して、勤めることが出来るようになったんです」
本人としては至って健全なお仕事をしているつもりだが、とんでもない誤解を招きかねない説明だったと、レルヒィは耳まで赤くなるのを自覚した。
しかし、それでもオルフには納得出来ないものがあるようだった。そんな表情を浮かべている。
「それは、分かりました。ですが、出来れば昼の仕事で――」
そこまで言って、オルフは首を横に振る。
「いえ、すみません。俺はまた余計なことを言いました。レルヒィさんの事情もよく知らずに。まだこの国は、そんな真似が出来る状況ではない。そういうことでしょうから」
こくりと、レルヒィは頷いた。やれるものなら、オルフの言うとおり昼の仕事だけで食べていけるようになりたい。けれど、現実はそれを許してくれない。
「占領軍の人達も、基本的には礼儀正しい人達ばかりですし。マナーの悪いお客さんはお店から叩き出されて、占領軍の懲罰対象になりますから」
「そうですか」
そこまで言って、ようやく少しだけオルフは安心したようだ。
「あの。またレルヒィさんの傷を抉るような話になるかも知れませんが。よろしければ、教えて頂けないでしょうか?」
「何でしょうか?」
躊躇いがちに、オルフは訊いてくる。
「終戦してから、シュペリ中尉はどのようにされていたのでしょうか? 報道では、あまり恵まれていなかったとは聞いていますが。それでも、ご様子は聞きたくて」
「分かりました。オルフさんになら、お話ししたいと思います」
静かに、レルヒィは頷いた。
「とは言っても、ほとんど話せるようなことはありません。兄は、終戦後しばらくは私と二人で暮らしていました。父は出稼ぎ先で空襲に巻き込まれて、母は過労で体を悪くしてそのまま。二人とも戦時中に亡くなっていたので。親戚も、頼りに出来る当ては無くて。兄は、戦争が終わるとそれまでとは人が変わったようになっていました。ずっと、何もせずにただ空を見上げていたり。寝ていたり。何かを堪えるように、苛立った表情をいつも浮かべていました。働きもせずに」
「そうでしたか。俺にも、そんな時期はありました。結局、生活に追われて働いて、少しはマシになったと思いますが。中尉も、苦しんでいたんですね」
「ええ、兄の心は戦争で深く傷付いていたのでしょう。ですが、当時の私には、そんな兄を思いやれる余裕はありませんでした。毎日毎日必死で働いて、何で未成年の私が、大の大人の兄を養わなくちゃいけないんだって。そんな風に思っていました。私にしてみれば、兄さんこそが最後の頼りだったのに」
「いや。レルヒィさんは悪くないよ。当時の状況を考えたら、そう思うのは仕方ないと思う」
ギュッと、レルヒィは目を瞑った。
「でも、たった一人の肉親だからという思いも、ある日とうとう限界を迎えました。戦争が終わって一年が過ぎた頃だったと思います。私は兄さんに酷いことを言ってしまって。具体的に何を言ったのかは、興奮していたからもう覚えていません。そうしたら、翌日に仕事から帰ると兄は姿を消していました。ごめんなさいって、たったそれだけの書き置きを残して」
ポロポロと、レルヒィの目から涙が零れた。
「それからしばらくは、私は兄のいない開放感に安堵していました。けれど、数ヶ月もすると心配で仕方なくなりました。警察に届けても、そんな行方不明者は多いらしくて、ちゃんと捜して貰えたのかは分かりません」
目元を拭ってオルフを見ると、彼も項垂れ、堪えるように肩を震わせていた。その目から、涙も滲んでいるように見える。
鼻を啜って、レルヒィは続けた。
「私は、後悔しています。酷い事言って悪かったって。生きているなら、帰ってきて欲しいって、謝りたかった。なのに、なのに兄さんは――」
息が、詰まる。
オルフの目からも、涙が零れていた。
「ごめんなさい。そして、聞かせてくれてありがとうございます。少しでも、中尉のご様子が分かったので」
「いいえ。こちらこそ、こんな話を聞いてくれて、ありがとうございます」
レルヒィにしてみれば事実関係としては占領軍にも説明した内容だったが、こんな風に話せたのは、初めてだった。
二人で静かに、兄を偲ぶ。
だが、不意にその静寂は破られた。
乱暴に入り口の戸が叩かれる。
何事だと、二人は驚いて顔を上げた。
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