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第2章 狩って狩られて弱肉強食

第24話 化け物、あるいは怪物

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 黒い布で口元を隠した男が、右足を一歩後ろに下げて体を少しかがめた。
 コンクリートの床を蹴り、走り出した。そして、その速度はすぐに人間の疾走速度を凌駕りょうがする。
 超スピードに達した彼は、そのまま牙人の左側を通り抜けた。
「っ!」
 振り返った直後、俊足から放たれた蹴りが、牙人がとっさに構えた左腕に弾かれる。すぐさま右の拳を叩きこもうとするが、素早く離脱した男には届かない。
 体勢を立て直そうとしたところに、今度は右斜め後ろから気配。ガードが間に合わず、腰に一発食らった。
「痛え」
 少しだけバランスを崩すが、ダメージはそこまでではない。
 牙人は前につんのめった状態から右足を後ろに払うが、それも空振りに終わった。
 舌打ちしているうちに、また左から蹴りが飛んでくる。その次は、右。そして真後ろ……。
 攻撃は軽く、一つ一つは大したことはない。しかし、鬱陶しい。こちらからの攻撃が当たらず、苛立ちが募るばかりだ。
 ヒットアンドアウェイ。その理想形を見せられているようだった。

「……ここだっ!」
「ぬう!?」
 ようやく、横にふるった右腕に確かな手ごたえ。
 黒布の男は、声を上げながら飛びのいた。牙人から距離を取って、壁際に停止する。

「反応できなくても、タイミングでなんとかなるもんだな」
「化け物め……」
 忌々しげに睨みつけてくる男は、左肩を押さえて荒い息を吐いていた。
「そう言われるのもひさしぶりだな」
「……だが、次はない」
「それはどうかな」
 改めて構えを取りながら、軽口を飛ばす。

 そして、黒布の男は再び走り出した。
 またもやすさまじい加速度だが、牙人は思わず声を上げた。
「ちょっ、さらに速くなってないか!?」
 さっきまではぎりぎり目で追えていたが、今度は文字通りの「目にもとまらぬ速さ」だ。
 狼狽する牙人を嘲笑うかのように、ちくちくと蹴りを入れてくる。しかも、スピードが増した分、威力も少し重くなった気がする。
「面倒くさいな……」
 牙人は深く息を吐きながら、意識を研ぎ澄ませていく。
 その間も、鈍い音を立てながら攻撃は止まない。
 だが、それでいい。直感に、全神経を集中。

「っし!」
 一閃。

 背後から奇襲した黒布の男の腹に、牙人の裏拳がめり込んだ。
「があっ!」
 自らのスピードも仇となって、男は体をくの字に折って悲鳴を上げる。前のめりに倒れ込んだ男は、そのまま沈黙した。
「野生の勘をなめるなよ」
 独り言のように呟いて、牙人は拳を掲げてみせた。


「おー、そっちも終わったね!」
 後ろからの声に振り替えると、両手の指を組んで伸びをした千春が、力強く親指を立てた。
 その後ろでは、金髪の男が大の字になって目を回している。派手な色のシャツにはところどころ焼けた跡があり、傍らにはレンズの割れた色付きサングラスが転がっていた。
 対する千春は傷一つなく、むしろいきいきとしている。
 完全勝利、という言葉が似合う光景だ。この分だと、「千春はうちの最強」という栞の言葉も、誇張表現ではないらしい。

「あとは……」
 千春が顔を向けた方向には、髪を操る着物の女と攻防を繰り広げる栞の姿があった。
 髪がかたどる螺旋らせんは、帯状の“黒影”と互角に打ち合っているように見える。
「ま、そろそろ終わるでしょ」
 千春がそう呟いたのとほぼ同時、槍のように迫りくる髪の束が、栞の体から生えた黒い刃に細切れにされた。
 “黒影”が倍の大きさに膨れ上がり、いくつもの腕を女へと伸ばす。
「ひっ!」
 着物の女の顔が、驚愕と恐怖で歪んだ。
 圧倒的な質量から本体を守ろうと髪で盾が作られるが、“黒影”は鎌のような刃でもってそれを両断。
 ご自慢の武器をされた女は、その表情に怯えをにじませた。
 漆黒の帯がまゆのように女を包み込む。

「これでしまいだ」

 栞が前に突き出した右手を握り締めると、呼応した“黒影”が収縮する。
 栞が手を下ろすと、繭は霧散した。二メートルほどの高さから落下した女は、ぴくりとも動かなくなった。
「ふう」
 短く息を吐いて、栞は服を整え始めた。

「おっ、ちょうどだ……なっ」
 反対側の壁の近くで、有悟が黒服を一人投げ飛ばしながら言った。
 周囲には、倒れ伏した非能力者たちがいくつも転がっている。
 奇妙な静寂に包まれた廃工場の中、有悟が腰に手を当てながら宣言した。
「これにて、制圧完了……ってぇやつだ」



「あとは、“局”の片づけ担当を呼んで終わりだな」
 大きく伸びをしてから、有悟がポケットから紙の箱とライターを取り出した。とんとん、と箱を叩いて飛び出した煙草を一本、器用に口にくわえる。手で口元を隠しながら火をつけると、うまそうに煙を吐いた。
「結局、取引の相手っていうのは何だったんだ?」
「そこに転がってるのじゃない?」
 牙人がふと漏らした疑問に、千春が牙人の後ろを指さした。
 見ると、欧米系の彫りの深い顔立ちをした数人が白目をむいている。言われてみれば、彼らの格好は“宵闇”とは違うような気がする。

「となると、海外ともつながりがあるのか」
「どうやらそうらしいな。……ともかく、隊長。いつまでも煙草吸ってないで、本部に連絡しておきましょう」
「へいへい」
 栞に促されてライターをしまった有悟は、それと入れ替わりにスマホを取り出した。口の端には依然煙草を刺したまま、「えーと」と呟きながら画面を押し始めた。
 ……その時だった。

「——は」

 その声は、静まり返った廃工場の中で、やけに通って聞こえた。
「どうなってんだよ、これ……」
 牙人たちは、一斉に声の方、さっき牙人がぶち抜いたシャッターを見て身構える。
 そこに棒立ちになっていたのは、不健康なほどにひょろりと細長い体の男だった。
 同時に、向こうもこちらを見て、大きな隈をたたえた三白眼をしばたたかせた。その青白い顔は、みるみる引きつっていく。
「っ! お前らは……! 嗅ぎつけられたのか! なんで僕だけこんな目に!」
 歪んだ顔に苛立ちをにじませて、男はわなわなと体を震えさせる。

「寺崎。あの反応、無関係の一般市民とかじゃないよな」
「……っ」
 隣に立つ栞に投げかけた会話のキャッチボールは、息を呑む音で返された。
 訝しく思って顔を横に向けると、栞はその切れ長の眼を愕然と見開いて、呼吸を忘れたかのように男を見つめていた。
「寺崎?」
「見つけた……」
 牙人の声も聞こえていない様子の鬼気迫ったその目に、牙人は仄暗く揺らめく炎を幻視する。毛が逆立つほどの殺意に、思わずごくりとつばを飲み込んだ。
 同時に、どこか奇妙な既視感を覚える。
 ただごとではないその形相に声の真意を確かめようと伸ばした手は、ためらいにあらがえず栞の肩の寸前で止まった。
「栞……?」
 千春も、尋常ではない栞の様子に心配そうに眉を下げて声をかける。
 意を決して肩に手をかけようとするが、男の叫び声に中断された。
 頭を抱えてうずくまり、「オワコンだぁ……」とか弱々しく嗚咽おえつを漏らす男。

「くそっ、くそっ……。——あ」
 癇癪を起したように独り暴れていた男は、はたと動きを止めた。そして、今度は狂ったように「あはははははは!」と笑い始める。
「……迷子の迷子の情緒さんか」
 思わず小声でつまらないツッコミを入れるが、もちろん笑う気にはならない。

 その視線は、自らの左肩——そこに乗る一匹のトカゲへと向けられている。男は恍惚とした薄ら笑いを浮かべながら、そのトカゲを人差し指で愛おしそうに撫でた。
「はは……そうだ、忘れてたよ。今はお前がいるもんなあ……!」
 ちょっとまともに会話ができそうな相手ではない。
 有悟に指示を仰ごうと振り返った牙人の横を、風が通り過ぎた。

周郷すごうおおおぉっ!」
「ばっ、寺崎!?」
 憎悪のこもった声で絶叫しながら、栞が飛び出していく。
 バルブの壊れた水道のように、ぶわりと大量の“黒影”があふれ出す。視界を黒く染めた後、超巨大な鎌が形成された。
 その刃はむせかえるほどの強烈な殺意を乗せて、痩せぎすの男へと襲い掛かる。

「——行っておいで」

 しかし、その凶刃が届くことは、なかった。

 男の首をねる直前、数メートルはあろうかという鎌が

「は?」

 直後、栞の体がに吹っ飛ばされる。
「栞っ!」
 叫んだ千春が、焦った様子で“ゲート”を展開して飛び込んだ。
「なっ……!?」
 牙人と有悟は、眼前に広がる光景に呆然と立ち尽くしていた。

 そこにいたのは、だった。
 建物の中で心なしか窮屈そうな巨体を覆う、暗い紫色の鱗。
 琥珀色のまなこに縦長の瞳孔。
 背中には、骨格に膜が張った大きな翼。
 頭に後ろ向きに生えた、二本の角。

「グルルァァアアアアアアアアアアーッッ!!」

 そいつは、こちらをぎろりと睨みつけると、腹の底に響くような咆哮を上げた。
 牙人の口から、脳裏をよぎったある単語がぽつりと漏れる。


「——?」
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