【完結】誰にも知られては、いけない私の好きな人。

真守 輪

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苦手なのは、世界で最も美しい数式。

38話

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「ねえ、織部くん……」
「なんだ」
「怒ってるの?」
 精神的にも肉体的にも追い詰められた状況だから、自分がどんな顔をしているのかなど考えもしなかった。
 よく目つきが悪いだの、顔が犯罪者だの、ドス声が怖いだのと長らく言われてきたのだ。
 今まで別に気にも止めなかったことだが、それが原因で優衣に避けられたら、もはや俺には顔面の整形する以外に道は残っていない。

「……い、いや……そんなことはない」
 笑おうとして失敗した。口角が引きつっただけだ。
 優衣が今にも泣きそうになっている。
 子供をイジメているような気がしてきた。
 こちらが意識してイジメるのと、そうでないのとは、まるで意味が違う。
 何が原因で彼女を悲しませているのかが、今の俺には判らない。
「織部くんは……あの……」
 小さな声でボソボソと、優衣が言う。
「どうした?」
「……あの、わたしが……恋人が膝の上にのっているのに、何も感じないの?」
「は?」
 俺の発した間の抜けた返事に、優衣の表情がさらに固くなっていく。

 やばい。
 眉間に皺が寄り、口がへの字に曲がる。
 もともと潤みがちだった眼の縁に涙の露が、じわっと盛り上がってきた。
 その様子があまりにも可愛くて、いじらしくて、たまらない気持ちにさせられる。
 抱きしめようと両手を回したが一瞬、遅かった。
 優衣は、俺の膝から降りると少し離れた距離に座りなおす。
 俺が手を伸ばしても、すかさずクッションを間に置いて近寄ることを許さない。
「織部くんなんか……嫌い!」

 このバカ。
 何言ってやがる。
 怒鳴りつけたかったが、泣きべそで見上げるこいつにそんなことが言えるはずもない。
 ああ、くそっ。可愛いじゃないか。
 小さなこの顔は、表情豊かでころころとよく変わる。大人のくせに感情を抑えるのが苦手らしいが、そこがまた可愛い。
 あまりに可愛すぎて、このままどこかに閉じ込めて、俺以外の誰にも会わせたくないという犯罪者的な発想さえ生まれる。
 我ながら、危ない精神状態だ。
 とりあえず、落ち着こう。

 年上の女といえば、可愛いより奇麗だと感じるほうがあたりまえなのかもしれないが、こいつはやはり可愛い。
 可愛いくせに、妙に色気があるのもいい。だが、今はその色気はいらない。
 今の俺がいろいろとまずい状態なのが、なぜ判らんのか。
 わざとか?
 お前、わざとやってるのか?

「織部くんのバカ。鈍感!」
 鈍感はどっちだ。
 わが恋人の凶悪なまでの鈍さに、俺の方が泣きたくなる。
 どうせ、こいつのことだ。
 ちょっと抱きしめて欲しいだの、軽くキスしてくれだのと言うのだろう……。
 それで収まると思っているのか。
 お前はよくても、俺がよくないんだ。

 いや……ちょっと待て。
 男のこの状況に気づかないということは、やはりこいつは“知らない”のか。
 知らないなら、教えてやろうか。
 俺は、クッションを放り出して、優衣のほうへにじり寄った。
 頭の中では、友人が言っていたこの世でもっとも美しいと言われているオイラーの等式が踊っている。
 冷静になろうとしても、無理だ。
 こいつが、こいつでいる限り俺にはどうしようもない。

「優衣」
 俺が名を呼ぶと優衣は、泣き顔のまま膨れている。
「だって……!」
 そのマシュマロみたいな頬をつかんで、こちらに向かせる。
 思いっきりその唇に、頬や喉元にくちづけてやろうとした時、ドアをノックする音が聞こえた。
「優衣。お父さん帰ってきたわよぉ!」
 彼女の母親の声に、唇が触れるまで、1ミリという距離間で見つめ合っていた。



 eiπ+1=0
 ――この式を変形させて、愛(i)に愛(i)をかけるとイッパイ(π)の愛になるんだぜ。
 友人の言葉をふいに思い出された。
 何が愛だ。
 日常生活を送る上で、直接的にはまず使わない。
 この状況でも何の役にも立たない。
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