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ファラリスの雄牛

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 ハーデスが指を鳴らした。
 ボンと爆発音がして、煙があがる。
 ポップコーンでも作っているかのような軽い音だったのに、真っ黒な煙は目にしみて涙が出た。
 火の爆ぜる音がして、薄眼を開けてみると、さっきまで、アーレスがいた場所に青銅で鋳造された牛の像があった。
 その牛の腹の下では、小さな焚火で燃やされている。

「えっ? アーレスを牛に変身させたの?!」
 ハーデスを振り返ると彼は、にっこりと優しく微笑んだ。
「違いますよ。これは有名なファラリスの雄牛です」
「ふぁら……の雄牛?」
「この牛の背中に扉があるでしょう。そこから犠牲者を入れます」
「犠牲者って、やっぱり、アーレスのことよね?」
 あたしの問いかけに、夫はにっこり微笑んでうなずく。

「こんなもの、わざわざ、冥界から持ってきたの?」
「まさか、そんな面倒なことはしませんよ。これは、シチリア島の僭主であったファラリスに献上されたものです」
 シチリア島に僭主がいた時代って……古い話ね。紀元前のことだったかしら。
 ただ、閉じ込めるだけの嫌がらせなの?

「閉じ込めて恐怖心とストレスを与えつつ、火で炙ってじわじわと焼きあげるための拷問具です」
 あたしの考えを読み取るがごとく、ハーデスは答えた。
「人間の考えることは、果てがないと思いませんか」
 あたしの知っているシチリア島の名物といえば、ワインに塩、はちみつ、オリーブオイルぐらいなものだけど、とんでもないモノがあったんだ。
「単純に焼死させるよりもステキですよ。内部には牛の口へと伝わる真鍮の管があるから、煙で意識を失うこともできずに、焼け死ぬまで苦しみ続けることになります」
 グロい……。
 ってことは、アーレスは?!

「死ぬことはないでしょう。あれでも軍神なんですから」
 当然でしょう? と言わんばかりだ。
「決闘はどうしたのよ」
「彼が負けたから、こうなったんですよ」
「……だって、ハーデス。ちょこっと指を鳴らしただけで、何もしてないじゃない」
「軍神といいながら、意外な弱さでしたので」
 いつの間に、決着がついたの?



「内部の管は、ちょうどトロンボーンに似た形をしているから、犠牲者の悲鳴が反響します。雄牛の口から断末魔の声が聴けますよ。音楽的なね……先ほどのオペラよりいいかもしれません」
 青銅の雄牛は、ごとごとと動く。
 中に何者かがいるのは、確実なようだ。
「雄牛の中には、たっぷり香草を詰め込んであるので、臭いの心配はありませんよ」
 彼の言葉通り、ハーブが燻された煙が立ち上る。さながら、牛の丸焼きを調理しているかのようだ。

「あなたの美貌に目がくらんだのでしょうね。冥界の神后に手を出すとは……愚かな男だ。いや、哀れと言うべきか」
 ハーデスは気取ったしぐさで、あたしの肩を抱く。
 そのままくちづけせんばかりに、頬を寄せながら言った。
「オリュンポスでは有名な男ですよ。アーレスは……他者の妻を寝取って、愉しむが好きなのです」「いい趣味ね」
 あたしは、身体をこわばらせながら答えた。
 アーレスのように耳を噛み千切られそうな気がしたのだ。

「へパイストの妻、アフロディーテを寝取った時には、手ひどい仕置きをされたというのに、まだ懲りないらしい」
「そ、そう……」
 あたしは、なんでもないような顔をして答えた。
 何の屈託もなかった子供の頃とは違う。
 野原を駆け回っていたあの小さな子供たちは……もう、どこにもいない。
 そのことは、もう知っている。

「愛していますよ。わたしの后さま。でも、気を付けて……わたしほど嫉妬深い男はおりませんから……」
 あたしの耳へ吐息を吹き込むようにして夫は、ひそやかに囁く。
 くすぐったさに、身をよじると、まるで逃すまいとするかのように、ハーデスの腕に力がこもる。
「痛いわ」
 不機嫌に言うと、ハーデスはすぐに手を離した。すかさず、あたしは、背伸びして彼の首にしがみつく。
 驚くハーデスの顔を見て、思いっきり耳に噛みついてやった。
「決闘を申し込むわ。妻の不貞を疑う夫なんて、許せないもの」
「わたしが、あなたに敵うとでも思っているのですか?」
「もちろん、あなたの負けね。そうしたら、ハーデスも雄牛の中に入るのかしら」
「愛する后さまが望むなら……ね」
 平然とハーデスは答える。
 神は、嘘をつけない。
 だから、彼の言葉は、すべて真実なのだ。
「愛していますよ。わたしの光を破壊する女神ペルセフォネ―

 まっくろな煙が上がる。
 被害者の悲痛な声が雄牛の口から洩れた。
 なぜだろう。
 あたしは、その声を聴きながら不思議な昂揚感に包まれている。
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