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4章
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貴族の生活は、修道院とは逆で、昼から始まる。
そして、家族が顔を合わせるのも昼食の席でしかない。
夜から明け方までは晩餐会か舞踏会に忙しいからだ。
「教会の教えを守ることは、とても善いことだよ。ヴィスタリア」
食事も終わりかけることになって、ようやくアルジャントゥイユ伯爵が言った。
「はい、お父様」
慎ましさを装って、リアは答える。
父と言っても3歳の頃に別れて20年近く会っていない。リアにしてみれば他人も同然だ。
リアの中では、“お父様”というよりも“アルジャントゥイユ伯爵”の方がしっくりくる。
「ビアン男爵夫人は鼻骨の骨折だそうだ。新しい家庭教師を探さなくては」
意外にも、あっさりとアルジャントゥイユ伯爵は言った。
――まさか、骨折するなんて……。
思いっきり蹴飛ばしたのがマズかったのか。
リアの中でわずかばかりの罪悪感が生まれる。
――やり過ぎた? でも、あの場合は反撃しないと、こちらの貞操の危機だったし……。
以前、鼻骨は比較的薄い骨だから、軽微な外力でも骨折するのだと、ベルゼから聞いたことがある。
ベルゼのことを思い出すと、リアは急いで心の中で祈った。
――聖なる母よ。どうそ、この罪をお許しください。
ビアン男爵夫人の骨折の原因について、アルジャントゥイユ伯爵からの言及はなかった。
給仕係が食後のチーズを切り分けて、運んでくる。
「わたしたちは、由緒ある帯剣貴族だ」
そう言いながらアルジャントゥイユ伯爵は、クリスタルの杯を神経質に擦った。
「はい、お父様」
「長く修道院にいたお前には厳しいことかもしれないが、結婚とは家名を守るために必要なことなのだよ」
「はい、承知しております」
口に放り込んだチーズを葡萄酒で飲み込んでから、リアはゆったりと答えた。
修道院では考えられないほど、豪華な食事だ。
チーズの後には、苺のパイ包みやマカロンが供される。味だけではなく、見ても楽しめるような細工が施されている。
それでも、ベルゼの焼き菓子のほうが、美味しかった。
まだ、修道院を出てから数日もたっていないのに、リアは懐かしい気持ちになる。
そんなことを思い出していると、伯爵夫人が話しかけていることに気づくのが遅れた。
「ヴィスタリア。聞いていますか?」
アルジャントゥイユ伯爵夫人が、食卓を挟んだ斜め前の席から呼びかけてくる。
「は、はい。お母様。なんでしょう」
お母様とは言っても父の後妻で、歳も若い。リアにとっては継母になる女性だ。
見事な金髪と艶めかしい美貌を持ち、流行のつけボクロを口元につけていた。
「あの……ビアン男爵夫人が気になることを言っていたのですが……」
伯爵夫人は、何か言いにくそうにしている。
正面に座っているアルジャントゥイユ伯爵も無言のままだ。
沈黙は修道院で慣れているから、リアは静かに伯爵夫人の言葉を待った。
給仕が食器を下げる音だけが静かに響く。
食後のチーズと果物。お菓子が済むと、最後に香草茶が淹れられる。
香草茶が運ばれると、アルジャントゥイユ伯爵が給仕たちに部屋を出ていくように言う。
――なんだか仰々しくなってきたな。
リアは、内心ではドキドキしながらも、平静を装ってカップを取り上げた。
「ヴィスタリア。お願いだから……その、気を悪くしないでちょうだい。……その……だ、だって……修道院の生活が長いと、そういうこともありますのよ。禁欲的な生活ですもの……」
さっきまで、なかなか口を開かなかった伯爵夫人が急に饒舌になった。
「だから、万が一ということもあって、念のために確認しておきたいの。ヴィスタリアの結婚についても大切なことですもの……」
「なんでしょう?」
リアがうながすと、アルジャントゥイユ伯爵夫人はナプキンを握りしめた。
「あ、あなたが……あの……ふ、ふ、……不感症だって……」
「ふかん……とは?」
リアが聞き返すと、なぜか伯爵夫人は顔を赤くして、うつむいてしまった。
そして、家族が顔を合わせるのも昼食の席でしかない。
夜から明け方までは晩餐会か舞踏会に忙しいからだ。
「教会の教えを守ることは、とても善いことだよ。ヴィスタリア」
食事も終わりかけることになって、ようやくアルジャントゥイユ伯爵が言った。
「はい、お父様」
慎ましさを装って、リアは答える。
父と言っても3歳の頃に別れて20年近く会っていない。リアにしてみれば他人も同然だ。
リアの中では、“お父様”というよりも“アルジャントゥイユ伯爵”の方がしっくりくる。
「ビアン男爵夫人は鼻骨の骨折だそうだ。新しい家庭教師を探さなくては」
意外にも、あっさりとアルジャントゥイユ伯爵は言った。
――まさか、骨折するなんて……。
思いっきり蹴飛ばしたのがマズかったのか。
リアの中でわずかばかりの罪悪感が生まれる。
――やり過ぎた? でも、あの場合は反撃しないと、こちらの貞操の危機だったし……。
以前、鼻骨は比較的薄い骨だから、軽微な外力でも骨折するのだと、ベルゼから聞いたことがある。
ベルゼのことを思い出すと、リアは急いで心の中で祈った。
――聖なる母よ。どうそ、この罪をお許しください。
ビアン男爵夫人の骨折の原因について、アルジャントゥイユ伯爵からの言及はなかった。
給仕係が食後のチーズを切り分けて、運んでくる。
「わたしたちは、由緒ある帯剣貴族だ」
そう言いながらアルジャントゥイユ伯爵は、クリスタルの杯を神経質に擦った。
「はい、お父様」
「長く修道院にいたお前には厳しいことかもしれないが、結婚とは家名を守るために必要なことなのだよ」
「はい、承知しております」
口に放り込んだチーズを葡萄酒で飲み込んでから、リアはゆったりと答えた。
修道院では考えられないほど、豪華な食事だ。
チーズの後には、苺のパイ包みやマカロンが供される。味だけではなく、見ても楽しめるような細工が施されている。
それでも、ベルゼの焼き菓子のほうが、美味しかった。
まだ、修道院を出てから数日もたっていないのに、リアは懐かしい気持ちになる。
そんなことを思い出していると、伯爵夫人が話しかけていることに気づくのが遅れた。
「ヴィスタリア。聞いていますか?」
アルジャントゥイユ伯爵夫人が、食卓を挟んだ斜め前の席から呼びかけてくる。
「は、はい。お母様。なんでしょう」
お母様とは言っても父の後妻で、歳も若い。リアにとっては継母になる女性だ。
見事な金髪と艶めかしい美貌を持ち、流行のつけボクロを口元につけていた。
「あの……ビアン男爵夫人が気になることを言っていたのですが……」
伯爵夫人は、何か言いにくそうにしている。
正面に座っているアルジャントゥイユ伯爵も無言のままだ。
沈黙は修道院で慣れているから、リアは静かに伯爵夫人の言葉を待った。
給仕が食器を下げる音だけが静かに響く。
食後のチーズと果物。お菓子が済むと、最後に香草茶が淹れられる。
香草茶が運ばれると、アルジャントゥイユ伯爵が給仕たちに部屋を出ていくように言う。
――なんだか仰々しくなってきたな。
リアは、内心ではドキドキしながらも、平静を装ってカップを取り上げた。
「ヴィスタリア。お願いだから……その、気を悪くしないでちょうだい。……その……だ、だって……修道院の生活が長いと、そういうこともありますのよ。禁欲的な生活ですもの……」
さっきまで、なかなか口を開かなかった伯爵夫人が急に饒舌になった。
「だから、万が一ということもあって、念のために確認しておきたいの。ヴィスタリアの結婚についても大切なことですもの……」
「なんでしょう?」
リアがうながすと、アルジャントゥイユ伯爵夫人はナプキンを握りしめた。
「あ、あなたが……あの……ふ、ふ、……不感症だって……」
「ふかん……とは?」
リアが聞き返すと、なぜか伯爵夫人は顔を赤くして、うつむいてしまった。
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