正しい悪魔の飼い方

真守 輪

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地獄における人の自己欺瞞

9の巻

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「なぜ……神は許しては下さらないの。あたしも死んだらここへ来るの?」
「我が主は罰する神じゃ。愛ではなく畏怖をもって人を導く。ここへ来るのはそれを望んだ者だけじゃ」

 アスタロトの黒曜石のような双眸が、地獄の炎で炙られて底から輝くようだった。
 なんて美しいのだろう。
 この異常な状況において、あたしの感覚はひどくずれていた。
 魔性の美しさというのは、やはり地獄の中にあってこそ際立つのではないだろうか。

 その眸の色に心を奪われた瞬間、あたしはアスタロトにくちづけをされた。
 まるでついばむように。
 唇にそうされたのは、初めてのことだった。

 彼女は必要以上のスキンシップをしたり、あたしをからかうように額や手の甲にくちづけしたりしたことはあっても、唇だけにはしたことがない。
 つまり、一線を越えてしまったということだろうか。
 だが、例え公爵が悪魔であったとしてもあたしは、そっちの趣味はない……はずなのだが……。

 これは、もしかしたらストックホルム症候群とかいうものか?
 恐怖で支配された心理状態における人間の自己欺瞞。
 この恐るべき地獄の中で、今のあたしが頼れるのは、公爵だけしかいないのだ。
 遠くで地獄の業火で焼かれる亡者の悲鳴が聞こえた。あたしはなおもアスタロトの漆黒の鎧にしがみつく。

 硬く暖かい感触。
 鎧だと思ってつかんだのは、公爵の胸だった。
 いつもはふっくらとして、柔らかく弾力のある丸い二つの胸がやたらと硬くごつごつして扁平だった。
 鎧や鎖帷子などではない。
 男の胸だ。

 ――どういうこと……?

 頭の中が、疑問符で埋め尽くされる。
 もしかしたら、これは公爵ではないのではないか。
 不安にかられて離れようとしたがたくましい腕は、あたしを放そうとはしなかった。

 優しいくちづけは、不意に強引で乱暴なものに変わった。
 あたしの唇を割るように、熱い舌が滑り込んでくる。
 思い切って口を開き、相手の舌に噛み付いてやろうとした。

 男は舌をひっこめ、ゆっくりと唇を放した。
 相手の胸に腕をつっぱって、少しでも離れようともがく。
 だが、あたしより頭ひとつ大きなその男は、よく見知った顔で……。

「すまぬ。そなたは“女”のほうがよいかと思ったのじゃが、つい」
 つい……なんだと言うのか。
 これはどういう状態なんだ。

 言いたいことは山のようだが今のあたしは、言葉を発することすらできないでいる。
 鼻がぶつかりそうなほど近くに、見知らぬ美しい男の顔。
 でも、それは同時にあたしのよく知っている美女の顔でもあった。

 やや面長で、少しばかり頬がそげたようだ。
 彫りの深いはっきりとした顔立ちは、性別が入れ替わろうとそのままだった。
 いや、女の姿をしていた時よりもいっそう艶やかな色香と甘さがある。
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