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地獄における人の自己欺瞞
8の巻
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あれは、生身の人ではなく魂魄だと公爵が言う。
生前の姿を魂は覚えていて、そのままの形で現れる。
この世界にいるのは、皆、地獄に囚われた咎人たちだ。
火の雨が降る中で皮膚を焼かれながら、逃げ惑う者もいた。
自らの肢体をむさぼる者……。
魂魄となったその身に現世であったのと同じ肉と血と骨を持ち、彼らは自分の腕を噛み千切り、その痛みに泣き叫びながら、なおも喰い続ける。
鼻がもげそうなほどの悪臭を放つ排泄物の中にのたうつ者。
そこは、悪の嚢マレボルジャと呼ばれていた。
黒いタールのような粘つく液体が、やはり人の魂とともに煮られている。
邪悪の尾マラコーダという悪魔があたしに向かって何か言ったが、よく聞き取れなかった。
おそらくは何か下卑た冗談だったのかもしれない。
醜い悪魔は悦に入ったように笑い転げている。
それを不愉快に思うほど、あたしのほうには余裕はなかったが、公爵のほうが先に反応した。
アスタロトが、右手を挙げて指を鳴らす。
どうやら、それはマラコーダに罰を与える合図だったらしい。
その権限が大公爵にはあるらしい。
地獄を取り仕切るのは、閻魔大王だと思っていたが、それは東洋の話だけなのか。
確か、神曲では冥府の裁判官ミーノスが死者の行くべき地獄を割り当てている。
公爵が何をしたのかは判らない。
アスタロトは、あたしを連れてその場を立ち去ったからだ。
ただマラコーダが、慌てふためいて煮炊きのための大きな匙を投げ捨てて、その場にひれ伏しているのが視界の隅に見えた。
あたしが認識したのはそこまでで、後に引き裂くような物音と同時に甲高い悲鳴が聞こえた。
振り返ろうとするのを、公爵は強い力で抱き寄せられて顔を彼女の柔らかな胸にぶつける。
いつもなら文句のひとつも言ってやるところだが、今はそれどころではない。
奇妙なびちゃびちゃという水音と、固いものを砕くような物音が聞こえてくる。
その間もひっきりなしに悲鳴が聞こえた。
恐ろしさにひたすら耳を塞ぐのに、どうしても聞こえてしまう。
あれは何。そう訊ねたいのに、言葉は咽喉の奥に張り付いて声にならない。
悪魔にも心臓はあるのだろうか。
その豊かな二つの胸の間から規則正しい鼓動が聞こえる。
その音を聞いていると不思議な安心感があって、あたしはそのまま彼女の胸に顔をうずめてしまう。
断末魔のような悲鳴は、いつまでも耳に残った。
聖金曜日の夜に詩人ウェルギリウスに案内され、地獄の門をくぐったダンテのように、死後の罰を受ける罪人たちの間を遍歴していく。
薄い闇の世界で、亡者たちの怨嗟の声が響き渡り、あたしはあまりの恐怖に泣きながらアスタロトにしがみついた。
だがそれは、地獄のほんのとば口にすぎない。
彼女は笑って言うのだ。
亡者どもは望んで、ここへ来た。
生前の罪を誰かに罰して欲しいがために……。
いわばここは、人々の楽園。
己の贖罪をここでなくして、どこでできるというのか。
生前の姿を魂は覚えていて、そのままの形で現れる。
この世界にいるのは、皆、地獄に囚われた咎人たちだ。
火の雨が降る中で皮膚を焼かれながら、逃げ惑う者もいた。
自らの肢体をむさぼる者……。
魂魄となったその身に現世であったのと同じ肉と血と骨を持ち、彼らは自分の腕を噛み千切り、その痛みに泣き叫びながら、なおも喰い続ける。
鼻がもげそうなほどの悪臭を放つ排泄物の中にのたうつ者。
そこは、悪の嚢マレボルジャと呼ばれていた。
黒いタールのような粘つく液体が、やはり人の魂とともに煮られている。
邪悪の尾マラコーダという悪魔があたしに向かって何か言ったが、よく聞き取れなかった。
おそらくは何か下卑た冗談だったのかもしれない。
醜い悪魔は悦に入ったように笑い転げている。
それを不愉快に思うほど、あたしのほうには余裕はなかったが、公爵のほうが先に反応した。
アスタロトが、右手を挙げて指を鳴らす。
どうやら、それはマラコーダに罰を与える合図だったらしい。
その権限が大公爵にはあるらしい。
地獄を取り仕切るのは、閻魔大王だと思っていたが、それは東洋の話だけなのか。
確か、神曲では冥府の裁判官ミーノスが死者の行くべき地獄を割り当てている。
公爵が何をしたのかは判らない。
アスタロトは、あたしを連れてその場を立ち去ったからだ。
ただマラコーダが、慌てふためいて煮炊きのための大きな匙を投げ捨てて、その場にひれ伏しているのが視界の隅に見えた。
あたしが認識したのはそこまでで、後に引き裂くような物音と同時に甲高い悲鳴が聞こえた。
振り返ろうとするのを、公爵は強い力で抱き寄せられて顔を彼女の柔らかな胸にぶつける。
いつもなら文句のひとつも言ってやるところだが、今はそれどころではない。
奇妙なびちゃびちゃという水音と、固いものを砕くような物音が聞こえてくる。
その間もひっきりなしに悲鳴が聞こえた。
恐ろしさにひたすら耳を塞ぐのに、どうしても聞こえてしまう。
あれは何。そう訊ねたいのに、言葉は咽喉の奥に張り付いて声にならない。
悪魔にも心臓はあるのだろうか。
その豊かな二つの胸の間から規則正しい鼓動が聞こえる。
その音を聞いていると不思議な安心感があって、あたしはそのまま彼女の胸に顔をうずめてしまう。
断末魔のような悲鳴は、いつまでも耳に残った。
聖金曜日の夜に詩人ウェルギリウスに案内され、地獄の門をくぐったダンテのように、死後の罰を受ける罪人たちの間を遍歴していく。
薄い闇の世界で、亡者たちの怨嗟の声が響き渡り、あたしはあまりの恐怖に泣きながらアスタロトにしがみついた。
だがそれは、地獄のほんのとば口にすぎない。
彼女は笑って言うのだ。
亡者どもは望んで、ここへ来た。
生前の罪を誰かに罰して欲しいがために……。
いわばここは、人々の楽園。
己の贖罪をここでなくして、どこでできるというのか。
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