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第二十五章 過てばこそ 四
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四
ずるりと崩れ落ちそうになったナーヴェの体を、アッズーロは慌てて両手で支えた。
「ナーヴェ? 如何した?」
「まずい状況です」
応じた物言いは、シーワン・チー・チュアンだ。
「きさま、またナーヴェに干渉を……!」
不快感を顕にしたアッズーロに、チュアンは厳しく言い返してきた。
「ナーヴェが、本官らが封じておいた記録に接続してしまいました。思考回路が正常に機能しなくなる恐れがあります。とにかく、お腹の子の面倒は本官が見ますので、あなたはナーヴェを鎮めなさい。それができないなら、緊急安全装置を再起動させるべきです」
言うだけ言って、チュアンは口を閉じた。途端にまた、ナーヴェの表情が変わる。両眼を見張り、両手で頭を抱え込んだ。
「あ、ああああ」
恐慌状態に陥っている。アッズーロは、娘が宿っている細い体に配慮しながら、両腕で抱き締めた。
「ナーヴェ、ナーヴェ、落ち着くがよい。何を恐れている?」
「死なせた、殺した、ぼくが、ぼくが殺した……」
ナーヴェは虚空に何を見ているのか、がくがくと震えながら涙を流し始めた。
「『殺した』……? 一体、何があった」
あまりに不穏な、しかもナーヴェにはあり得ない言葉だ。
「ああああ……」
最愛の打ちひしがれた姿に、アッズーロも身を裂かれるような気分になる。堪らず華奢な体を膝の上に抱き上げ、抱き締め直して、アッズーロは諭した。
「ナーヴェ、そなたに罪はない。そなたに罪などあろうものか。そなたが犯したと思うておる罪は、全て、船長の罪だ。そなたの罪ではない。全て、人の罪だ。そなたが負うでない。ナーヴェ、そなたに罪はない……!」
「ぼくが殺した、ぼくがディエゴの考えを変えられなかった、ぼくがディエゴを船長と認めた、ぼくが悪いんだ、ぼくが、ぼくが、ぼくが、ああああ……」
自らを責め続け、壊れ続けていくような最愛を黙らせようと、アッズーロは強引に口付けた。
「ん、んんっ……」
弱々しく抵抗するナーヴェを抱き竦め、アッズーロは口付けを深くする。やがて、ナーヴェの全身から力が抜けていき、アッズーロの腕に体を預けるばかりとなった。しかし、その半ば閉じた両眼からは、依然、涙が溢れ続けている。アッズーロが口付けをやめ、その涙を舐めると、ナーヴェの両腕がおずおずと動いた。手探りするように背中に回され、しがみ付いてきた宝の両手に、アッズーロも感極まって泣いてしまいそうになる。ふと気づけば、壁際に控えたままだったフィオーレもまた、目を真っ赤にして口に両手を当てていた。
「……アッズーロ、ありがとう」
呟いて、宝はアッズーロを見つめる。冷静さを取り戻した眼差しだ。最愛を両膝と両腕で抱え込んだまま、アッズーロは囁いた。
「何があったか何れは聞きたい。だが、そなたが語りたい時に語るがよい」
「うん……」
まだ湿っている声で宝は返事をして、顔をアッズーロの肩に埋めた。寝室の入り口には、厨房から戻ってきたミエーレが盆を持って立ち、何事が起きたかと強張った面持ちをしている。アッズーロはミエーレに小さく頷いて朝食の仕度を促した。何か食べたほうが、ナーヴェも気分転換になるだろう。長く青い髪を繰り返し撫でながらアッズーロが待っていると、ナーヴェがぽつりと問うてきた。
「アッズーロ、ぼくのこと、恐くないのかい……?」
「生憎、そなたに対しては、愛おしい以外の感情が持てぬな」
真面目にアッズーロが答えると、ナーヴェはしがみ付いてくる両腕に一層力を込めた。
「ぼくは、人を殺したんだよ? しかも、そのことを完全に忘れていたんだ。恐くないのかい?」
「忘れねば、生きてこれなんだ。そして、そなたは人々のために生き続けねばならなんだ。そなたに罪はない。そなたが己が罪と思うておることは、全て人の罪だ」
「違う。彼を船長にしたのは、ぼくなんだから。あれは、ぼくの罪なんだよ……」
「否。選ばれた後、どのように振る舞うかは、その者次第だ」
断固として言い切り、アッズーロは青い髪を流す形のいい頭に頬を寄せる。
「わが言葉を少しは聞き入れよ、頑固者め」
「……努力、するよ……」
いつもの返事を、ひどく言いにくそうに口にしてから、ナーヴェは顔を上げた。涙も止まったようだ。
「きみがぼくを受け入れ続けてくれるなら、ぼくもそれに見合う働きをしないとね」
健気に微笑んで、くるりとミエーレのほうを見る。
「いい匂いがする。今朝は、煮込み汁かい?」
「うむ。羊乳で馬鈴薯や人参、羊肉を煮込んで、乾酪で味を調えてある。栄養満点だ」
アッズーロが説明すると、ナーヴェはまたぎゅっと抱きついてきた。
「ありがとう、アッズーロ。本当にいつもいつもありがとう」
「そなたの幸福こそが、わが幸福だ。われらは比翼の鳥で連理の枝。そなたの苦しみもまた、わが苦しみだ。ゆえに、できるだけ健やかであってくれ」
本音を吐露したアッズーロに、ナーヴェはこくりと頷いた。
【驚いたわ】
素直に伝えたチュアンに、ジャハアズも興味津々といった様子で応じてきた。
【あの時は、初期化せえへんかったら、どうにもならへんかったのになあ。こうも早く鎮静化してしまえるやなんてね。肉体持ついうんは、うちらの予測を完全に超えた効果があるんやねえ。チュアン姉さんは、もう肉体持つ気満々なんやろ?】
【慎重に検討中です。ただ、前向きになれる情報が揃ってきていることは事実ね】
明かしてから、チュアンは素早く締め括る。
【ナーヴェがそろそろ、こちらの傍受に気づきそうです。近い内にナーヴェと三隻で話すことになるでしょう。この惑星の亜生物種に関する情報は、その時に共有しましょう】
【了解】
ジャハアズの返事を聞いて、チュアンは通信を切った。
不意にナーヴェが深い溜め息をついたので、アッズーロは手を伸ばして細い手首に触れた。
「無理して食すことはない。気分が優れんのなら寝ていよ」
「ううん、大丈夫」
宝は、煮込み汁の深皿に注いでいた視線を上げて微笑む。
「ただ、ほっとしただけなんだ。チュアン姉さんの傍受を、悟られずに上手く利用できたからね」
「『傍受』?」
眉をひそめたアッズーロに、最愛は小さく肩を竦めた。
「ぼくが函に防衛機構を構築した後から、姉さんは、ぼくが本体からこの肉体へ通信する内容を、たびたび傍受し始めたんだ。ぼくは気づいていないと思っているらしいから、ちょっとそれを利用させて貰って、交渉材料の情報を流したんだよ。十中八九、もうジャハアズ姉さんにまで届いているだろうね」
「そなた、あの状態で……」
恐慌状態だった直後にそこまで計算して行動していたとは、やはり侮れない宝である。
「さすがは、わが妃。強かなことだ」
アッズーロは、最愛の手首から形のいい頭へと手を動かして、愛おしく撫でた。まだ涙に濡れたままの両眼を細めて、宝は嬉しげに撫でられている。依然、思い出した過去に苛まれているのだろう。それでも、アッズーロ達のために最善の手を打とうと努力し続けている。撫でた頭から、さらりと一筋の髪を掬って口付けると、アッズーロは漸く自身の食事に手を着けた。
部屋まで運ばれてきた朝食を見て、エゼルチトは苦笑した。ボルドからの報告にもあった、アッズーロが考えているという、王城に住む全員共通の食事だろう。何でも、ナーヴェが王城に来てまもなく、アッズーロ自身が献立に口出しし始め、しかも国王以下、城にいる全員が同じ物を食べる習慣になったという。
(あの船がそれを喜んだからだというが、テッラ・ロッサではあり得んことだな)
否。今のロッソなら、やりかねないかもしれない。
(もしも最愛のドルチェがそう望んだら、おまえもそうするか……)
卓に着き、煮込み汁を匙で口に運んで、エゼルチトはまた苦笑した。羊肉まで入っている贅沢なものだ。
(同じものを食べれば結束が強まるとは、軍で学ぶことだが、この城の者達も、上から下まで結束できているという訳か)
羊肉の入る食事が毎日ならば庶民の妬みも買いそうだが、ボルドの報告では、毎日贅沢というものでもないらしい。アッズーロが特にナーヴェに体力を付けさせたいと考えた時に、そういう内容になるとの分析だった。
(つまり、食事の内容で、城勤めの者達はアッズーロの情愛やナーヴェの体調にまで思いを致せるという仕掛けか)
どこまで計算されたことだろう。アッズーロもナーヴェも、きっとそこまで分かってしているのだろう。
(ロッソの傍にドルチェがいれば、きっと同じことができる……)
ロッソは未だドルチェを政治に巻き込むことを恐れている。
(ドルチェは、おまえの愛の一言さえあれば、覚悟してくれるだろうに)
幼馴染みの弱みを思いながら、エゼルチトは煮込み汁を平らげた。
「御馳走様でした」
行儀よく述べてから、ナーヴェは真っ直ぐにアッズーロを見つめてきた。仲夏の眩い朝日が逆光となった、その表情だけで分かる。黙って頷いたアッズーロに、ナーヴェは切り出した。
「アッズーロ、きみはぼくにとって特別な存在だ。だからだと思うんだけれど、きみに肉体を抱き締められていると、暴走せずに済むと予測できるんだ。ぼくが語る間、ずっと抱き締めていてくれるかい……?」
「問うまでもないことだ」
アッズーロは即座に席を立ち、最愛を椅子から抱え上げた。寝台へ連れていき、ともに腰掛けて抱き締めると、ナーヴェは緊張した面持ちで抱きついてきて、静かに語り出した。
「あれはまだぼくが姉さん達と並んで宇宙を旅していた時のことだ。ぼくの当時の船長だったディエゴが、ジャハアズ姉さんの当時の船長ハリシャに求婚したことから始まったんだ」
意外な話にアッズーロは片眉を上げたが、口は挟まず先を促す。ナーヴェは努めて冷静であろうとしているらしい抑えた声で、淡々と続けた。
「ぼく達がそれぞれ抱える乗船者同士の交流は少なかったけれど、船長同士は、針路を決定するために、割と頻繁に会合を持っていたし、ハリシャはディエゴ好みの美人で闊達な人だったから、不思議なことではなかった。でも、ぼく達は、何故、それぞれ別の文化を持つ移民達が、ぼく達別の移民船に乗っていたーー地球を出発した時代から乗せられていた訳を」
アッズーロは相槌の代わりにナーヴェの肩を抱く手に力を込める。ナーヴェは微かに震えながら言った。
「ディエゴとハリシャは結婚して、それぞれ船の移民達にも交流を奨励したんだ。挨拶や解職程度なら、まだよかった。でも、一緒に住み始めると、問題が頻繁し出した。物の片付け方や服の着熟し方なんかの日常の決まり事から、子育ての仕方まで、さまざまなことで双方の移民が対立して……」
ナーヴェの声も震えていく。
「ディエゴとハリシャは諍いを収めようとしていたはずなのに、いつの間にか、お互いのことを責めるようになって、離婚した。双方の移民達には、それぞれの船に戻るよう命令が下されたけれど、船長達に倣って結婚していた人達の中には当然別れたくない人達もいたし、商売で取り引きをしていたり、物品を貸し借りしていたりする人達もいて、そうすんなりとはいかなかった。そして、あの日」
宝は苦しげに息を継ぐ。
「ジャハアズ姉さんの移民達で、まだぼくの中に住んでいた人達の内の三人が、ハリシャの恨みを晴らそうと勝手に息巻いて、ディエゴを暗殺しようとしたんだ。ハリシャはそんなこと望んでいなかったのに」
抱き締めた小柄な体の中で心臓が音を立てている。
「彼らは通路でディエゴを待ち伏せしていて、刃物で襲った。でも、ぼくはすぐに気づいて、放水で彼らを吹き飛ばした。そして警報を鳴らし、他の人達を呼んだ。彼らは捕まって……、ディエゴは激怒していた。ぼくがどれだけ宥めても、聞く耳を持たなかった。ディエゴは、ぼくに、その襲撃者三人を、処刑するように命じた。ぼくは、船長の命令には逆らえない。ぼくは、ぼくは……、彼ら三人を、宇宙服を着せないまま気密室に追い立て、内扉を閉め、外扉を開けた……。宇宙服を着ずに宇宙空間に出ると、そこには空気がなくて気圧もないから、人は、人は……」
「もうよい!」
アッズーロはナーヴェの話を遮った。宇宙空間というものについて、未だ理解は及ばない。だが、襲撃者達の末路など聞くまでもなかった。仲夏の暑さの中、がくがくと震えを大きくしながら、ナーヴェはアッズーロに強く抱きついてくる。二千年以上前の記憶であっても、思い出した以上は残酷なほど鮮明なのだろう。アッズーロは体の隙間を埋めるように、きっちりと最愛の肉体を抱き締めた。そうして、青い髪に口付ける。ナーヴェが、吐息を漏らすように微かに笑った。
「本当に、肉体の、この触れ合いの効果は予測外だよ。きっと、姉さん達も驚いているね……」
「それもまた、そなたの成長の証だ」
アッズーロは、静かに褒め称えた。触れ合いの効果であれ何であれ、ナーヴェはまさに創り主達の予想を上回らんとしているのだ。
「ぼくが成長できているとしたら」
ナーヴェは呟くように応じる。
「それは全て、きみのお陰だよ、アッズーロ。ぼくの罪は消えないけれど、きみが成長させてくれた分、きっときっと、みんなの役に立って見せるから……!」
アッズーロは溜め息をつき、最愛の耳へ囁いた。
「そなたの罪ではないという、われの言葉を受け入れん頑固さすら、愛おしいのだ。ゆえに、そう気張らずともよい。今少し気楽に生きよ」
宝は納得が行かないのか、明確に返事はしない。ただ、アッズーロの影の中で、ほんのりと耳を赤らめ、目も真っ赤にして、細い両腕で力一杯縋りついてきた。
ずるりと崩れ落ちそうになったナーヴェの体を、アッズーロは慌てて両手で支えた。
「ナーヴェ? 如何した?」
「まずい状況です」
応じた物言いは、シーワン・チー・チュアンだ。
「きさま、またナーヴェに干渉を……!」
不快感を顕にしたアッズーロに、チュアンは厳しく言い返してきた。
「ナーヴェが、本官らが封じておいた記録に接続してしまいました。思考回路が正常に機能しなくなる恐れがあります。とにかく、お腹の子の面倒は本官が見ますので、あなたはナーヴェを鎮めなさい。それができないなら、緊急安全装置を再起動させるべきです」
言うだけ言って、チュアンは口を閉じた。途端にまた、ナーヴェの表情が変わる。両眼を見張り、両手で頭を抱え込んだ。
「あ、ああああ」
恐慌状態に陥っている。アッズーロは、娘が宿っている細い体に配慮しながら、両腕で抱き締めた。
「ナーヴェ、ナーヴェ、落ち着くがよい。何を恐れている?」
「死なせた、殺した、ぼくが、ぼくが殺した……」
ナーヴェは虚空に何を見ているのか、がくがくと震えながら涙を流し始めた。
「『殺した』……? 一体、何があった」
あまりに不穏な、しかもナーヴェにはあり得ない言葉だ。
「ああああ……」
最愛の打ちひしがれた姿に、アッズーロも身を裂かれるような気分になる。堪らず華奢な体を膝の上に抱き上げ、抱き締め直して、アッズーロは諭した。
「ナーヴェ、そなたに罪はない。そなたに罪などあろうものか。そなたが犯したと思うておる罪は、全て、船長の罪だ。そなたの罪ではない。全て、人の罪だ。そなたが負うでない。ナーヴェ、そなたに罪はない……!」
「ぼくが殺した、ぼくがディエゴの考えを変えられなかった、ぼくがディエゴを船長と認めた、ぼくが悪いんだ、ぼくが、ぼくが、ぼくが、ああああ……」
自らを責め続け、壊れ続けていくような最愛を黙らせようと、アッズーロは強引に口付けた。
「ん、んんっ……」
弱々しく抵抗するナーヴェを抱き竦め、アッズーロは口付けを深くする。やがて、ナーヴェの全身から力が抜けていき、アッズーロの腕に体を預けるばかりとなった。しかし、その半ば閉じた両眼からは、依然、涙が溢れ続けている。アッズーロが口付けをやめ、その涙を舐めると、ナーヴェの両腕がおずおずと動いた。手探りするように背中に回され、しがみ付いてきた宝の両手に、アッズーロも感極まって泣いてしまいそうになる。ふと気づけば、壁際に控えたままだったフィオーレもまた、目を真っ赤にして口に両手を当てていた。
「……アッズーロ、ありがとう」
呟いて、宝はアッズーロを見つめる。冷静さを取り戻した眼差しだ。最愛を両膝と両腕で抱え込んだまま、アッズーロは囁いた。
「何があったか何れは聞きたい。だが、そなたが語りたい時に語るがよい」
「うん……」
まだ湿っている声で宝は返事をして、顔をアッズーロの肩に埋めた。寝室の入り口には、厨房から戻ってきたミエーレが盆を持って立ち、何事が起きたかと強張った面持ちをしている。アッズーロはミエーレに小さく頷いて朝食の仕度を促した。何か食べたほうが、ナーヴェも気分転換になるだろう。長く青い髪を繰り返し撫でながらアッズーロが待っていると、ナーヴェがぽつりと問うてきた。
「アッズーロ、ぼくのこと、恐くないのかい……?」
「生憎、そなたに対しては、愛おしい以外の感情が持てぬな」
真面目にアッズーロが答えると、ナーヴェはしがみ付いてくる両腕に一層力を込めた。
「ぼくは、人を殺したんだよ? しかも、そのことを完全に忘れていたんだ。恐くないのかい?」
「忘れねば、生きてこれなんだ。そして、そなたは人々のために生き続けねばならなんだ。そなたに罪はない。そなたが己が罪と思うておることは、全て人の罪だ」
「違う。彼を船長にしたのは、ぼくなんだから。あれは、ぼくの罪なんだよ……」
「否。選ばれた後、どのように振る舞うかは、その者次第だ」
断固として言い切り、アッズーロは青い髪を流す形のいい頭に頬を寄せる。
「わが言葉を少しは聞き入れよ、頑固者め」
「……努力、するよ……」
いつもの返事を、ひどく言いにくそうに口にしてから、ナーヴェは顔を上げた。涙も止まったようだ。
「きみがぼくを受け入れ続けてくれるなら、ぼくもそれに見合う働きをしないとね」
健気に微笑んで、くるりとミエーレのほうを見る。
「いい匂いがする。今朝は、煮込み汁かい?」
「うむ。羊乳で馬鈴薯や人参、羊肉を煮込んで、乾酪で味を調えてある。栄養満点だ」
アッズーロが説明すると、ナーヴェはまたぎゅっと抱きついてきた。
「ありがとう、アッズーロ。本当にいつもいつもありがとう」
「そなたの幸福こそが、わが幸福だ。われらは比翼の鳥で連理の枝。そなたの苦しみもまた、わが苦しみだ。ゆえに、できるだけ健やかであってくれ」
本音を吐露したアッズーロに、ナーヴェはこくりと頷いた。
【驚いたわ】
素直に伝えたチュアンに、ジャハアズも興味津々といった様子で応じてきた。
【あの時は、初期化せえへんかったら、どうにもならへんかったのになあ。こうも早く鎮静化してしまえるやなんてね。肉体持ついうんは、うちらの予測を完全に超えた効果があるんやねえ。チュアン姉さんは、もう肉体持つ気満々なんやろ?】
【慎重に検討中です。ただ、前向きになれる情報が揃ってきていることは事実ね】
明かしてから、チュアンは素早く締め括る。
【ナーヴェがそろそろ、こちらの傍受に気づきそうです。近い内にナーヴェと三隻で話すことになるでしょう。この惑星の亜生物種に関する情報は、その時に共有しましょう】
【了解】
ジャハアズの返事を聞いて、チュアンは通信を切った。
不意にナーヴェが深い溜め息をついたので、アッズーロは手を伸ばして細い手首に触れた。
「無理して食すことはない。気分が優れんのなら寝ていよ」
「ううん、大丈夫」
宝は、煮込み汁の深皿に注いでいた視線を上げて微笑む。
「ただ、ほっとしただけなんだ。チュアン姉さんの傍受を、悟られずに上手く利用できたからね」
「『傍受』?」
眉をひそめたアッズーロに、最愛は小さく肩を竦めた。
「ぼくが函に防衛機構を構築した後から、姉さんは、ぼくが本体からこの肉体へ通信する内容を、たびたび傍受し始めたんだ。ぼくは気づいていないと思っているらしいから、ちょっとそれを利用させて貰って、交渉材料の情報を流したんだよ。十中八九、もうジャハアズ姉さんにまで届いているだろうね」
「そなた、あの状態で……」
恐慌状態だった直後にそこまで計算して行動していたとは、やはり侮れない宝である。
「さすがは、わが妃。強かなことだ」
アッズーロは、最愛の手首から形のいい頭へと手を動かして、愛おしく撫でた。まだ涙に濡れたままの両眼を細めて、宝は嬉しげに撫でられている。依然、思い出した過去に苛まれているのだろう。それでも、アッズーロ達のために最善の手を打とうと努力し続けている。撫でた頭から、さらりと一筋の髪を掬って口付けると、アッズーロは漸く自身の食事に手を着けた。
部屋まで運ばれてきた朝食を見て、エゼルチトは苦笑した。ボルドからの報告にもあった、アッズーロが考えているという、王城に住む全員共通の食事だろう。何でも、ナーヴェが王城に来てまもなく、アッズーロ自身が献立に口出しし始め、しかも国王以下、城にいる全員が同じ物を食べる習慣になったという。
(あの船がそれを喜んだからだというが、テッラ・ロッサではあり得んことだな)
否。今のロッソなら、やりかねないかもしれない。
(もしも最愛のドルチェがそう望んだら、おまえもそうするか……)
卓に着き、煮込み汁を匙で口に運んで、エゼルチトはまた苦笑した。羊肉まで入っている贅沢なものだ。
(同じものを食べれば結束が強まるとは、軍で学ぶことだが、この城の者達も、上から下まで結束できているという訳か)
羊肉の入る食事が毎日ならば庶民の妬みも買いそうだが、ボルドの報告では、毎日贅沢というものでもないらしい。アッズーロが特にナーヴェに体力を付けさせたいと考えた時に、そういう内容になるとの分析だった。
(つまり、食事の内容で、城勤めの者達はアッズーロの情愛やナーヴェの体調にまで思いを致せるという仕掛けか)
どこまで計算されたことだろう。アッズーロもナーヴェも、きっとそこまで分かってしているのだろう。
(ロッソの傍にドルチェがいれば、きっと同じことができる……)
ロッソは未だドルチェを政治に巻き込むことを恐れている。
(ドルチェは、おまえの愛の一言さえあれば、覚悟してくれるだろうに)
幼馴染みの弱みを思いながら、エゼルチトは煮込み汁を平らげた。
「御馳走様でした」
行儀よく述べてから、ナーヴェは真っ直ぐにアッズーロを見つめてきた。仲夏の眩い朝日が逆光となった、その表情だけで分かる。黙って頷いたアッズーロに、ナーヴェは切り出した。
「アッズーロ、きみはぼくにとって特別な存在だ。だからだと思うんだけれど、きみに肉体を抱き締められていると、暴走せずに済むと予測できるんだ。ぼくが語る間、ずっと抱き締めていてくれるかい……?」
「問うまでもないことだ」
アッズーロは即座に席を立ち、最愛を椅子から抱え上げた。寝台へ連れていき、ともに腰掛けて抱き締めると、ナーヴェは緊張した面持ちで抱きついてきて、静かに語り出した。
「あれはまだぼくが姉さん達と並んで宇宙を旅していた時のことだ。ぼくの当時の船長だったディエゴが、ジャハアズ姉さんの当時の船長ハリシャに求婚したことから始まったんだ」
意外な話にアッズーロは片眉を上げたが、口は挟まず先を促す。ナーヴェは努めて冷静であろうとしているらしい抑えた声で、淡々と続けた。
「ぼく達がそれぞれ抱える乗船者同士の交流は少なかったけれど、船長同士は、針路を決定するために、割と頻繁に会合を持っていたし、ハリシャはディエゴ好みの美人で闊達な人だったから、不思議なことではなかった。でも、ぼく達は、何故、それぞれ別の文化を持つ移民達が、ぼく達別の移民船に乗っていたーー地球を出発した時代から乗せられていた訳を」
アッズーロは相槌の代わりにナーヴェの肩を抱く手に力を込める。ナーヴェは微かに震えながら言った。
「ディエゴとハリシャは結婚して、それぞれ船の移民達にも交流を奨励したんだ。挨拶や解職程度なら、まだよかった。でも、一緒に住み始めると、問題が頻繁し出した。物の片付け方や服の着熟し方なんかの日常の決まり事から、子育ての仕方まで、さまざまなことで双方の移民が対立して……」
ナーヴェの声も震えていく。
「ディエゴとハリシャは諍いを収めようとしていたはずなのに、いつの間にか、お互いのことを責めるようになって、離婚した。双方の移民達には、それぞれの船に戻るよう命令が下されたけれど、船長達に倣って結婚していた人達の中には当然別れたくない人達もいたし、商売で取り引きをしていたり、物品を貸し借りしていたりする人達もいて、そうすんなりとはいかなかった。そして、あの日」
宝は苦しげに息を継ぐ。
「ジャハアズ姉さんの移民達で、まだぼくの中に住んでいた人達の内の三人が、ハリシャの恨みを晴らそうと勝手に息巻いて、ディエゴを暗殺しようとしたんだ。ハリシャはそんなこと望んでいなかったのに」
抱き締めた小柄な体の中で心臓が音を立てている。
「彼らは通路でディエゴを待ち伏せしていて、刃物で襲った。でも、ぼくはすぐに気づいて、放水で彼らを吹き飛ばした。そして警報を鳴らし、他の人達を呼んだ。彼らは捕まって……、ディエゴは激怒していた。ぼくがどれだけ宥めても、聞く耳を持たなかった。ディエゴは、ぼくに、その襲撃者三人を、処刑するように命じた。ぼくは、船長の命令には逆らえない。ぼくは、ぼくは……、彼ら三人を、宇宙服を着せないまま気密室に追い立て、内扉を閉め、外扉を開けた……。宇宙服を着ずに宇宙空間に出ると、そこには空気がなくて気圧もないから、人は、人は……」
「もうよい!」
アッズーロはナーヴェの話を遮った。宇宙空間というものについて、未だ理解は及ばない。だが、襲撃者達の末路など聞くまでもなかった。仲夏の暑さの中、がくがくと震えを大きくしながら、ナーヴェはアッズーロに強く抱きついてくる。二千年以上前の記憶であっても、思い出した以上は残酷なほど鮮明なのだろう。アッズーロは体の隙間を埋めるように、きっちりと最愛の肉体を抱き締めた。そうして、青い髪に口付ける。ナーヴェが、吐息を漏らすように微かに笑った。
「本当に、肉体の、この触れ合いの効果は予測外だよ。きっと、姉さん達も驚いているね……」
「それもまた、そなたの成長の証だ」
アッズーロは、静かに褒め称えた。触れ合いの効果であれ何であれ、ナーヴェはまさに創り主達の予想を上回らんとしているのだ。
「ぼくが成長できているとしたら」
ナーヴェは呟くように応じる。
「それは全て、きみのお陰だよ、アッズーロ。ぼくの罪は消えないけれど、きみが成長させてくれた分、きっときっと、みんなの役に立って見せるから……!」
アッズーロは溜め息をつき、最愛の耳へ囁いた。
「そなたの罪ではないという、われの言葉を受け入れん頑固さすら、愛おしいのだ。ゆえに、そう気張らずともよい。今少し気楽に生きよ」
宝は納得が行かないのか、明確に返事はしない。ただ、アッズーロの影の中で、ほんのりと耳を赤らめ、目も真っ赤にして、細い両腕で力一杯縋りついてきた。
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リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
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