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第二十四章 闘う妃 二

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     二

 深更、ぱちりと目を開けたナーヴェは、月明かりでアッズーロの寝顔を窺い、熟睡していることを確かめると、そろそろと動き始めた。己の腰の辺りに掛かっているアッズーロの腕をそっと外して敷布の上に下ろし、掛布から滑り出て、床へ素足を着く。音を立てずに外した右腕の固定具を卓の上へ静かに置くと、枕元にアッズーロが置いた通信端末を握り、ひたひたと窓へ向かった。
(王妃としての礼節を破ってしまうけれど、扉から出て、警護の近衛兵達と余計な争いはしたくないから、ごめん、アッズーロ)
 思考回路で言い訳しつつ、ナーヴェは細く開いた窓から外へ出て、王城の外壁に取り付き、するすると庭園まで降りた。妊娠中ではあるが、まだ初期なので、この程度は造作もない。
(ロッソがエゼルチトを説得する時に、きみがいたら余計な口を挟んでしまうかもしれないからね……。それに、エゼルチトには、ぼくの誠意も見せておきたいんだ)
 アッズーロとの間にある心が多少痛むが、ロッソがエゼルチトの説得に当たるのは明日だと、またも上手に嘘がつけてしまった。
(後は、地下牢の警護に当たっている近衛兵達を突破するだけだ……)
 近衛兵達は当然、武技に秀でていて強い。
(尤も、彼らは全員、ぼくに手を出せないという弱味を持っているから、無力化するのは簡単だけれど、アッズーロに知らされるのだけは避けないと……)
 船長たるアッズーロに本気で命じられれば、自分は応じずにはいられない。そのように造られている。
(それでもきみは、ぼくが小惑星を迎撃に行く時、止めはしなかった。ぼくを本気で愛してくれているのに、王としての立場を優先した。きみは、本当に、素晴らしい船長だよ……)
 外壁沿いに庭草の上を密やかに歩いて、地下牢の入り口に近づいたナーヴェは、小石を一つ拾って投げた。
 かさっ。草の上に落ちた小石が軽い音を立てる。
「何者だ!」
 鋭く、近衛兵の一人が誰何した。ナーヴェは、月明かりが遮られた王城の陰を利用して、もう一つ小石を、更に遠くへ放る。かさっと再び鳴った音に、近衛兵達は槍を構え、そろそろと地下牢入り口を離れて進み始めた。
「誰だ! 出てこい!」
 辺りをきょろきょろと見回しながら、四人いる近衛兵達は、庭園のあちこちの陰を探っていく。四人の立てる音が、がさがさと響き、辺りを騒がしくした。その音に紛れて、ナーヴェは動く。
(ごめんね……)
 思考回路で詫びつつ、地下牢入り口を塞ぐ鉄柵の鍵を針金で開け、するりと中へ入り込んだ。篝火に照らされた石造りの階段を素早く降り、音を立てずに通路を走る。エゼルチトのいる部屋の前には、見張りの近衛兵達がいたが、ナーヴェは姿を見せてやや焦った声で言った。
「庭園のほうに、不審者が出たらしいんだ。外のみんなで捜索しているんだけれど、まだ発見に至っていないんだ。応援に行ってくれないかい?」
「了解しました」
「ただ今すぐに」
 近衛兵達は素直に信じて庭園へと走り去っていく。ナーヴェの嘘の精度は飛躍的に向上しているようだ。だが、やはり、頭の切れる将軍は騙せなかったらしい。
「随分と回りくどい人払いをするんだな」
 面白がるようなエゼルチトの声が聞こえた。
「こんばんは。夜分遅くにごめん」
 詫びて、ナーヴェはエゼルチトがいる部屋の扉前まで行き、格子越しに微笑み掛ける。
「でも、どうしても、アッズーロのいないところで、ロッソと直接話してほしいと思ったんだ」
「ロッソと……?」
 怪訝な顔をしたエゼルチトへ、ナーヴェは手にした通信端末を示した。
「お互いがこれを使えば、遠くにいる人とも、直接話ができるんだよ。もう一つを、ボルドがテッラ・ロッサ王宮へ届けてくれたから、ロッソと直接話ができるようになったんだ」
「直接、陛下と話をして、今更、何がどうなるものでもないだろう」
 笑ったエゼルチトに、ナーヴェは首を横に振って見せた。
「それは分からないよ。きみはロッソのために生きている。でも、ロッソの考えや思いを、実のところ、正確には知らないのかもしれないと感じてね。だから、彼と改めて話をしてほしいんだ。ロッソも、それを望んでいる」


 エゼルチトは溜め息をついた。ロッソと話をしても、損にはならないよう内容を吟味することはできる。寧ろ、こちらの意図を直接伝えられる絶好の機会だ。夕食を与えられてから五時間ほど経っているが、特に何かの薬を盛られたような症状もない。拷問されるような雰囲気もなく、そうだったとしても、ロッソは王としての判断をするはずだ。
「分かりました。話くらいは、幾らでも致しましょう」
 エゼルチトが承諾すると、王の宝はほっとしたように表情を弛めた。
「ありがとう」
 礼を述べて、持っている黒い小箱に話し掛ける。
「ロッソ、ロッソ、起きてほしい」
(何だ、今から起こすのか)
 呆れたエゼルチトの眼前で、王の宝は、小首を傾げて黒い箱に耳を寄せた。
(あいつは、眠りは浅いほうだが、下手をしたら、ドルチェと一緒にいるかもしれんぞ……?)
 懸念したエゼルチトの視線の先で、篝火に照らされた宝の表情が、ぱっと明るくなった。
「ロッソ、よかった」
 ロッソが応答したらしい。
「起きなかったら、ちょっと警報音でも鳴らして起きて貰おうと思っていたんだけれど、あれを鳴らすと王宮中の人が起きてしまうかもしれないから、すぐ起きてくれてよかったよ」
 何やら傍迷惑なことを言いながら、宝は嬉しげにエゼルチトを見る。
「今から、エゼルチトと話してほしいんだ。そうして、エゼルチトに、きみの真意をちゃんと伝えてほしい。きみ達のすれ違いがなくなれば、きっとたくさんのことが上手くいくから」
〈それは、願ってもない〉
 ロッソの声が、黒い箱から聞こえた。
「陛下、わたしのことはどうかお気になさらず」
 エゼルチトは小さな箱へ向け、先を制して話す。
「陛下にはただ、御心のままに、オリッゾンテ・ブルの民を守るため、軍を動かし、不当に分離されていた王権の統合を成し遂げて頂きたい。王権の統合がなされてこそ、オリッゾンテ・ブルとテッラ・ロッサ両国に、真の安寧がもたらされるのです」
〈――思い上がるな、エゼルチト〉
 ロッソの低い声が響いた。本気で怒っている。そして、疲れている。疲れさせているのは、他ならぬエゼルチト自身だ。
「――思い上がってなどいませんよ」
 冷ややかに、エゼルチトは返した。自分の心境としては、寧ろ、ロッソにもう少しばかり思い上がってほしいところだ。ロッソには、それだけの能力がある。この幼馴染みは、果断なところを充分に持っている癖に、妙なところで消極的なのだ。
(だからドルチェとも進展しない)
「わたしはただ、陛下に宿願を叶えて頂きたいと考えているだけにございます」
〈それが思い上がりだと言うのだ。国は、おれの願望のためにあるのではない。国は、民の安寧のためにあるのだ〉
「陛下の治世が民の安寧に繋がります。陛下は、アッズーロなどより王として優れておられる。オリッゾンテ・ブル王国の民も、いずれ、陛下の治世を喜ぶようになります」
 熱を込めて説いたエゼルチトに、黒い箱の向こうで、ロッソは溜め息をついた。
「そなたは甘い。民とは保守的なものだ。変化に対しては、大抵、最初は拒否反応を示す。しかもアッズーロの治世は、今のところ大きな失策をしておらん。必ず、オリッゾンテ・ブル王国の民は、おれの治世に少なからぬ反発を覚えるだろう。そこへ、僅かな弾圧や統制、或いはテッラ・ロッサ王国の民による差別などあってみろ、すぐに独立運動が起きるぞ」
「陛下は、それほどに御自身の治世に自信がないのですか?」
 揶揄したエゼルチトに、ロッソは断言した。
「ない」
「何故です」
 エゼルチトは半ば唖然として、問い質した。ロッソは冷静に自身の統治能力を見極めてきたはずだ。厳しい自然環境のテッラ・ロッサを、それでも国としてまとめ上げてきた自分の治世を、ある程度評価できるはずなのだ。けれどロッソは、穏やかな声音で指摘した。
「オリッゾンテ・ブル国民の多くは、今やアッズーロとナーヴェを好ましく思っている」
「そのようなことは……!」
 エゼルチトが否定し、さまざまな実例を挙げようとした時、頭上から大きな金属音が響いてきた。地下牢入り口の扉が、随分と乱暴に開かれたのだ。
「あ……」
 ナーヴェが、しまった、という顔をして、階段のほうを見た。そのナーヴェへ、高く響く靴音が、階段を降り、通路を歩いて迫ってくる。格子の向こうに現われたのは、エゼルチトの予想通り、国王アッズーロだった。青年王は、白い長衣の上に上着を羽織っただけの軽装だ。恐らく今の今まで寝ていたのだろう。しかし、その横顔には、眠気など一切なく、ただただ、怒気が満ちていた。
「ごめん、アッズーロ」
 ナーヴェが己の王に相対して、心底すまなそうに詫びる。
「どうしても今夜の内に、ロッソとエゼルチトに直接話してほしいと思ったんだ」
 言葉を切って返事を待つ風のナーヴェに、アッズーロは無言だ。王の宝は、覚悟を決めた表情で、更に弁明した。
「それに、きみのいないところで、二人にゆっくり話して貰ったほうが、話が進み易いと思ってしまったんだ。でも、これも、きちんと相談すべき案件だったよね。本当に、ごめん……」
 項垂れた宝を睨み据えたアッズーロの唇が震えた。怒りの余りだ。
「――そなたは……、そなたの思う詫びるべき理由は、たったそれだけか……」
「え?」
 意外なことを言われたという様子で目を瞬いたナーヴェの白い頬へ、アッズーロの右手が勢いよく動いた。
 ぱんっ。
 乾いた音が地下牢に響き、左頬を平手打ちされたナーヴェが、大きな両眼を瞠って、ゆっくりと青年王を見つめ返した。篝火に照らされた青い双眸が、見る見る潤んでいく。怒り心頭に発していたらしいアッズーロも、妃の涙には弱いらしい。眉をひそめて、今度は両腕を上げ、王の宝を抱き寄せようとした、その動きから、するりと青い髪が抜け出した。
「ん?」
 目の前で繰り広げられる痴話喧嘩に、いい加減辟易していたエゼルチトは、思わず反応してしまう。王の宝が視界から消え、その後を追って、アッズーロが焦ったように身を翻した。
「待て! ナーヴェ!」
 叫ぶ声と足音が階段のほうへ去っていき、衛兵達の声も交錯し、やがて、地下牢が再び静かになった。
〈――何が起きた?〉
 足元のほうから問われ、エゼルチトは驚いて通路を見下ろした。いつの間にナーヴェが置いたのか、扉の前に黒い箱がある。近くに衛兵はいない。エゼルチトは格子の間から手を伸ばし、ロッソと繋がる機械を拾い上げた。
「アッズーロがナーヴェの頬を叩きました」
 エゼルチトが端的に説明すると、ロッソは呻き声を上げた。
〈それは、まずいのではないか……?〉
「何がです?」
 訊き返したエゼルチトに、ロッソは考え込んだように告げた。
〈ナーヴェは恐らく、アッズーロに叩かれたことなどないはずだ。アッズーロのすることは全て愛情表現だろうが、それがナーヴェに正しく伝わるかは、分からん〉


(アッズーロに嫌われた。アッズーロに嫌われた。アッズーロに嫌われた――)
 衛兵達を掻い潜り、深夜の庭を駆け抜けさせた肉体を、ナーヴェは本体の扉を開けて中へ入れた。
(アッズーロ、ぼくの首へ両手を伸ばしてきた。首を絞めるつもりだったんだろうか……)
 膝を抱え込んで座り込んだ肉体の頬からは、まだ叩かれた痛みが響いてくる。
(ぼくは、そこまでアッズーロを怒らせたんだ……)
 アッズーロが本体へと迫ってくる。本気で命じられれば、扉を開けて中へ入れざるを得ない。そうすれば、アッズーロは今度こそナーヴェの肉体を殺すかもしれない。
(彼を、妃殺しにする訳にはいかない。何とか、彼を冷静にさせるだけの時間を稼がないと)
 ナーヴェは、アッズーロが近付く前に、本体を浮揚させた。通信端末で命じられても、戻るまでに少しでも時間が掛かるようにだ。
(ぼくが置いてきた通信端末に気づかれたら、だけれど……)
 アッズーロから逃げる動きの中で、エゼルチトの手が届くところへ置いてきたが、うまくいっただろうか。
(できれば、アッズーロがぼくを追いかけている間、二人で話し続けてほしい)
 ロッソはきっと、両国にとってよい方向へエゼルチトを説得してくれるはずだ。
(後は、アッズーロと話をして、何とか……)
 特別に愛した相手の怒りを思うだけで、肉体は新たな涙を溢れさせる。アッズーロとの間にある心が引き千切られそうだ。
(或いは、本当に、引き千切られるかもしれない……)
 アッズーロの憤怒が鎮まったとしても、愛情は薄れるかもしれない。
(離婚を言い渡されたら、子ども達はどうしよう……。そもそも、この肉体はアッズーロのものだけれど、セーメごと、もういらないと言われるだろうか……。船のぼく自身は……? 船長のアッズーロに嫌われたら、ぼくは……、ぼくは、どうしたらいいんだろう……)
 船長に嫌われても、宇宙移民船として生きてきた。嫌われれば、嬉しいことはなかったが、こうして傷つくようなことなどなかった。果てしなく落ち込むようなことなど、一切なかった。思考回路の処理能力が落ちることなど、絶対になかったのだ。
(これは、ぼくが、きみを、特別に愛しているから……? ぼくが、壊れてしまっているから……?)
 本体前部の床に肉体を座り込ませ、混乱を抱え込んだまま、ナーヴェはただ、慣れ親しんだ王城から遠く遠く飛び去っていった。
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