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第二十一章 望み 四
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四
アッズーロがまた、施術台を撫でている。その様子を、船内の光学測定器で観測しているだけで、案の定、肉体の感覚と混線が起きてしまう。
(くすぐったい……)
姉と赤裸々な話をした所為か、幻覚の肉体が妙に疼いてしまう。
(ぼくは、せっかくアッズーロと幾らでも話せるようになったのに、何故、自分から話を切り上げてしまったんだろう……)
多少の後悔を覚えて、ナーヴェは特別に愛する相手へ、姿を見せ、話し掛けた。
【ぼく達が王城へ帰るまでの間、姉さんがセーメの面倒を見てくれるから、ぼくはきみの治療に専念できるよ。具合が悪いところや、してほしいことがあったら、遠慮なく言ってほしい】
アッズーロは、青空の色の双眸で、ナーヴェの姿を見つめた。いつ見ても、きらきらと澄んでいて、美しい瞳だ。
【ならば、そなたの歌を一曲所望しよう】
微笑んで請われ、ナーヴェは思考回路を検索した。今この時、歌うに相応しい曲は何だろう。
(そう言えば……)
ナーヴェはふと思い至る。
(きみの前で、この曲を歌ったことはなかったね……)
【肉体みたいに、柔らかな響きは出せないかもしれないけれど……】
断ってから、ナーヴェは音声で歌い始めた。
スカーバラの市へ行ったことがあるかい?
和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、
そこに住むある人に宜しく言ってほしい、
彼はかつてぼくの恋人だったから。
一噎の土地を見つけるように言ってほしい、
和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、
海水と波打ち際の間に、
そうしたら彼はぼくの恋人。
羊の角でそこを耕すように言ってほしい、
和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、
それから一面胡椒の実を蒔くようにと、
そうしたら彼はぼくの恋人。
革の鎌でそれを刈るように言ってほしい、
和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、
それから欧石南の縄でまとめるようにと、
そうしたら彼はぼくの恋人。
「……美しい歌だな」
アッズーロは優しい表情で評してから、滅多にしない神妙な顔つきで尋ねてきた。
「われは、そなたの恋人になれておるか……?」
ナーヴェは、王に見せている姿で小首を傾げた。
【どういう意味だい……? きみとぼくは婚姻関係にあるし、ぼくは、きみを特別に愛しているんだけれど……?】
「われは、そなたを愛し、求めた」
アッズーロは、じっとナーヴェの姿を見つめて言う。
「だが、そなたは、われの求めに応じただけだ。そなたには、われという選択肢しか与えられなかった。それでも、われは、そなたの恋人たり得ているであろうか……?」
【きみの言う「恋人」の定義は何だい……?】
ナーヴェは確かめた。常に尊大な青年王が、一体何を心配しているのだろう。またどこか具合が悪いのかと、逆に心配になってしまう――。
「つまり」
アッズーロは視線を泳がせ、人が変わったように躊躇いがちに告げる。
「大勢の中からでも、そなたは、われを選ぶだろうか、ということだ」
ナーヴェは、きょとんとしてから、急いで光学測定器で詳細にアッズーロを観測観察していった。同時に、アッズーロの体内にある極小機械で、その体調も、より綿密に検査する。
(銃創の治癒は進んでいるし、他に大きな異常は見つからない……)
銃弾は、背中から左肺を貫通し、左脇腹から出ていたので、治療は比較的容易かった。エゼルチトは、背中から心臓を狙ったはずだ。狙撃される瞬間、アッズーロが運良く体を動かして、狙いが逸れたのだろう。
(不調の原因は、体調ではなさそうだね……)
一安心して、ナーヴェは青年王の表情や仕草を重点的に観察し始めた。
(あれ、この顔、この様子……、もしかしたら)
思考回路に記録した、数々のアッズーロの振る舞いの中に、検索に引っ掛かるものがある。
(あの頃と、似ているかもしれない……)
母グランディナーレを失った直後のアッズーロ。まだ十二歳だった少年の、孤独な姿。
(誰も寄せ付けなかったきみに近付けたのは、幼馴染みのレーニョとヴァッレだけだったね……)
ナーヴェは、人の姿の手を、青年王の頬へ伸ばす。触れられはしない。けれど、仕草で伝わる思いもある。
【きみが何を不安に思っているのか、ぼくには残念ながら分からないけれど】
透けた姿で、そっと抱き締めるように体を重ねる。耳元へ囁くように、言葉を届ける。
【例え大勢の中から選ぶとしても、ぼくは必ず、きみを、きみだけを、特別に愛するようになるよ。きみはとても変わっているから、最初は呆れてしまうかもしれないけれど、その内、きみの魅力の虜になって、きっと、きみから目が離せなくなる。きみは、本当に、ぼくにとって特別なんだ】
「……われが、王でなくともか……?」
囁き返してきたアッズーロの声は、僅かに湿っていた。
(ああ……)
後悔が込み上げてくる。
(ぼくが「きみは王」と言い続けてきたから、それは、口にしたくてもできなかった問いだったね……)
ナーヴェは、人の姿を少し起こして、泣き笑いの顔を青年へ見せた。
【うん。ぼくは、もう完全に壊れて、成長中だからね。きみが王でなくても、きみが何者でも、ぼくはきみを特別に愛している。少なくとも、ぼくの気持ちは、永遠にきみのものだよ】
アッズーロも泣き笑いの顔になった。
「そうか……」
短く呟いたきり黙って、じっとナーヴェを見上げてくる。相変わらず、きらきらとした、青空色の綺麗な双眸だ。
(ああ……)
幻覚の肉体が疼く。
(早く王城に帰って、肉体できみに触れたい……なんて、やっぱり、ぼくは、もう相当淫乱になっているのかもしれない……)
話したいことはたくさんあるはずなのに、言葉に変換できない。何も言い出せない。晴れた青空の中を、ゆっくりと飛行しながら、ナーヴェはただ、現した姿でアッズーロに寄り添い続けた。
八分ほど経った頃、不意にまた、アッズーロが口を開いた。
「思うように触れられんというのは、もどかしいものだな……」
【うん……】
ナーヴェが「心」の底から同意した直後、施術台を撫でていたアッズーロの手が、動きを変えた。
〈ひゃ……っ〉
音声で反応してしまう。物理的接触を検知する施術台の表面で、青年の指は、まるで、わざとくすぐるように動いている。
【ちょっと、アッズーロ……?】
問えば、特別に愛する相手は、悪戯っぽく訊き返してきた。
「そなたの、この体は、どう触れられるのが心地よい? そなたの肉体については大いに研究を重ねたが、この本体についても、われは研鑽を積みたい」
【そんなこと、しなくていいから……】
「恋人であれば、して当然のことだ」
青年王はいつもの調子を取り戻して、尊大に言い放ち、更に尋ねてきた。
「ところで、この台は『脇腹』、函は『一番大事な……』、ということであったが、ならば、操縦桿はどうなのだ?」
【操縦桿……?】
そんなことは、考えたこともなかった。だが、思考回路は回答を得ようと即座に解析を始めてしまう。
【操縦桿は、ぼく達船にとって、一番敏感な部分の一つだから……――】
言い止して、ナーヴェは思わず首を竦めた。思考回路が導き出した解は、絶対にアッズーロに教えてはならないものだ。航行の安全性に関わる。けれど、「恋人」は、察しがよかった。
「もしや……」
青空色の双眸が、煌めきを増して、添い寝しているふうに現しているナーヴェの両耳を正確に見てくる。ナーヴェは即座に否定した。
【そこは違うから】
「甘いな」
アッズーロは笑い含みに応じてくる。
「そなたの嘘は、まだまだ甘い」
【――絶対に絶対に、航行中に触れたら駄目だからね……!】
ナーヴェは懸命に訴えた。全く意味不明な混線だ。度し難い。何故、選りに選って、二本の操縦桿と混線してしまうのが、触れられることにとても敏感な両耳なのだろう。
「分かっておる」
青年王は鷹揚に頷いて見せる。
「大地に降りている時に触れると誓おう」
ナーヴェは絶句して、青年に認識させている人の姿も消してしまいたくなった。しかし、それでは再び後悔することになるだろう。自分は、この特別に愛する相手と、できるだけ話していたいのだ。
【――ぼくが、いいと言った時だけにして】
ナーヴェは、特別な相手に最大限譲歩した。
早朝に出立し、最速の行軍を命じたので、商隊に扮した軍隊は、薄暮には、王城へ帰還を果たすことができた。その頭上を飛行し、護衛し続けた船は、王城の庭園に降り、眠らせたままの捕虜二人を外務担当大臣ヴァッレとその配下のジョールノに引き渡してから、漸くアッズーロの拘束を解いた。
【きみはまだ重症なんだから、ちゃんとレーニョの言うことを聞いて、寝室まで担架で運ばれてほしい】
「それはできん」
アッズーロは、施術台の上に起き上がりつつ、言下に最愛の進言を退けた。ナーヴェの気持ちも分かるが、王として譲れぬものもある。
「王の在りようは、国の在りようだ。弱った姿を見せれば、反乱民にもテッラ・ロッサにも、或いは諸侯にも、すぐにつけ込まれよう。寝室までは、歩いていく」
【そんな、無茶だよ……!】
最愛は焦った声を出し、実体ではない姿でアッズーロの前に立ちはだかった。アッズーロは微笑んで、痛みをできるだけ顔に表さないように務めつつ、立ち上がる。
【アッズーロ……!】
「われは大丈夫だ。そなたは、われが寝室へ行くまでに、肉体に接続しておくがよい。あの体で出迎えてくれるのが『姉』では、興醒めだ」
【……分かったよ……】
最愛は、観念したように、ふっと人の姿を消した。同時に、閉じられていた後部扉が開き、レーニョが後輩侍従のガットを伴って入ってくる。
「陛下、左右からお支えすることだけは、お許し下さい」
心得た風に真摯に請われて、アッズーロは苦笑した。幼馴染みは、さすがによく分かっている。
「あまり、大袈裟にはならぬようにな」
「分かっております。出迎えは近衛兵のみ。侍従、女官達には、それぞれの担当場所での待機を指示しました。大臣方、将軍方も、お呼びしてはおりません」
些か怒ったように返事をして、レーニョはアッズーロの右肩を支え、ガットが左肩へ回った。
宵闇が迫る庭園には既に篝火が焚かれ、近衛兵達が整列してアッズーロを待ち構えていた。背後で静かに船の扉が閉まるのを感じながら、アッズーロは王城の玄関へと、近衛兵達の間を歩いていく。侍従に支えられて歩く自分を見る近衛兵達の目には、安堵や憤怒が浮かんでいた。通信端末を使って、今朝の内にジョールノには事の顛末を説明したが、大臣達や侍従達、女官達や兵達にはどう伝わっているのだろう。
(あやつの才覚に任せて、細かい指示はせず仕舞いだったが……)
近衛兵達は少なくとも、アッズーロを負傷させた相手に対し、怒りを燃やしている様子だった。
玄関を入り、一息ついて、アッズーロはより多くの体重をレーニョに預けた。確かに、この体で二階の寝室まで歩くのは、なかなかにきつい。
(そなたの懸念は、大概、妥当だな……)
アッズーロが内心で最愛を褒めた時、唐突に上着の隠しに入れた通信端末から声が響いた。
〈アッズーロ、時間が限られているので、手短かに伝えます〉
シーワン・チー・チュアンの声だ。そろそろナーヴェと肉体への接続を交代したはずの姉が、わざわざアッズーロに何の話だろう。アッズーロは驚く侍従二人に目配せして足を止め、隠しから通信端末を取り出して応答した。
「昨日は世話になった。して、何用だ」
〈今回は、ナーヴェが本官の干渉で正常に戻ったので、事無きを得ましたが、次に暴走状態になって、正常にも戻らず、わが皇上に僅かでも害が及ぶと判断した際には〉
姉は淡々と述べる。
〈本官がナーヴェを即時機能停止させます。宜しいですね?〉
アッズーロは反論しようとして、できなかった。暴走状態に陥ったナーヴェに対して、自分達ができることは、ほぼない。その上、確かに暴走したナーヴェは危険なのだ。
〈それは、あの子の望みでもあるでしょう。あの子が何より恐れているのは、暴走した自分が、あなた達を傷つけてしまうことですから〉
姉は、物堅い声音に、微かに労りを滲ませて続ける。
〈あの子が二度と暴走せずに済むよう、あなたが注意しなさい。次にあの子が暴走する可能性が高いのは、セーメを出産する時です。あの肉体では、八割以上の確率で失敗します。暴走を防ぎたければ、初めから本官を頼るよう、あなたがあの子を説得した上で、そうできる環境を整えなさい〉
「――分かった。必ず、そうしよう」
アッズーロは低い声で約束した。
〈――あの子を、宝――最愛と呼ぶなら、もっと大事にしなさい。それが、本官の望みです〉
厳しい口調で締め括って、通信は切られた。
「陛下……」
レーニョが、青褪めた顔で窺ってくる。廊下を温い夜風が吹き抜けて、並んだ油皿の灯火を揺らめかせた。出産の危険性については、ナーヴェも承知しているはずだが、姉が敢えてアッズーロに警告してきたということは、セーメが危ういという認識すら、暴走に繋がるということなのかもしれない。
「今のことは、他言無用に致せ」
アッズーロは、レーニョとガットに命じた。何にせよ、ナーヴェが暴走する恐れがあることなど、この王城に広める訳にはいかない。
「畏まりました」
「仰せのままに」
二人の侍従は硬い面持ちで頷いた。
アッズーロがまた、施術台を撫でている。その様子を、船内の光学測定器で観測しているだけで、案の定、肉体の感覚と混線が起きてしまう。
(くすぐったい……)
姉と赤裸々な話をした所為か、幻覚の肉体が妙に疼いてしまう。
(ぼくは、せっかくアッズーロと幾らでも話せるようになったのに、何故、自分から話を切り上げてしまったんだろう……)
多少の後悔を覚えて、ナーヴェは特別に愛する相手へ、姿を見せ、話し掛けた。
【ぼく達が王城へ帰るまでの間、姉さんがセーメの面倒を見てくれるから、ぼくはきみの治療に専念できるよ。具合が悪いところや、してほしいことがあったら、遠慮なく言ってほしい】
アッズーロは、青空の色の双眸で、ナーヴェの姿を見つめた。いつ見ても、きらきらと澄んでいて、美しい瞳だ。
【ならば、そなたの歌を一曲所望しよう】
微笑んで請われ、ナーヴェは思考回路を検索した。今この時、歌うに相応しい曲は何だろう。
(そう言えば……)
ナーヴェはふと思い至る。
(きみの前で、この曲を歌ったことはなかったね……)
【肉体みたいに、柔らかな響きは出せないかもしれないけれど……】
断ってから、ナーヴェは音声で歌い始めた。
スカーバラの市へ行ったことがあるかい?
和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、
そこに住むある人に宜しく言ってほしい、
彼はかつてぼくの恋人だったから。
一噎の土地を見つけるように言ってほしい、
和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、
海水と波打ち際の間に、
そうしたら彼はぼくの恋人。
羊の角でそこを耕すように言ってほしい、
和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、
それから一面胡椒の実を蒔くようにと、
そうしたら彼はぼくの恋人。
革の鎌でそれを刈るように言ってほしい、
和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、
それから欧石南の縄でまとめるようにと、
そうしたら彼はぼくの恋人。
「……美しい歌だな」
アッズーロは優しい表情で評してから、滅多にしない神妙な顔つきで尋ねてきた。
「われは、そなたの恋人になれておるか……?」
ナーヴェは、王に見せている姿で小首を傾げた。
【どういう意味だい……? きみとぼくは婚姻関係にあるし、ぼくは、きみを特別に愛しているんだけれど……?】
「われは、そなたを愛し、求めた」
アッズーロは、じっとナーヴェの姿を見つめて言う。
「だが、そなたは、われの求めに応じただけだ。そなたには、われという選択肢しか与えられなかった。それでも、われは、そなたの恋人たり得ているであろうか……?」
【きみの言う「恋人」の定義は何だい……?】
ナーヴェは確かめた。常に尊大な青年王が、一体何を心配しているのだろう。またどこか具合が悪いのかと、逆に心配になってしまう――。
「つまり」
アッズーロは視線を泳がせ、人が変わったように躊躇いがちに告げる。
「大勢の中からでも、そなたは、われを選ぶだろうか、ということだ」
ナーヴェは、きょとんとしてから、急いで光学測定器で詳細にアッズーロを観測観察していった。同時に、アッズーロの体内にある極小機械で、その体調も、より綿密に検査する。
(銃創の治癒は進んでいるし、他に大きな異常は見つからない……)
銃弾は、背中から左肺を貫通し、左脇腹から出ていたので、治療は比較的容易かった。エゼルチトは、背中から心臓を狙ったはずだ。狙撃される瞬間、アッズーロが運良く体を動かして、狙いが逸れたのだろう。
(不調の原因は、体調ではなさそうだね……)
一安心して、ナーヴェは青年王の表情や仕草を重点的に観察し始めた。
(あれ、この顔、この様子……、もしかしたら)
思考回路に記録した、数々のアッズーロの振る舞いの中に、検索に引っ掛かるものがある。
(あの頃と、似ているかもしれない……)
母グランディナーレを失った直後のアッズーロ。まだ十二歳だった少年の、孤独な姿。
(誰も寄せ付けなかったきみに近付けたのは、幼馴染みのレーニョとヴァッレだけだったね……)
ナーヴェは、人の姿の手を、青年王の頬へ伸ばす。触れられはしない。けれど、仕草で伝わる思いもある。
【きみが何を不安に思っているのか、ぼくには残念ながら分からないけれど】
透けた姿で、そっと抱き締めるように体を重ねる。耳元へ囁くように、言葉を届ける。
【例え大勢の中から選ぶとしても、ぼくは必ず、きみを、きみだけを、特別に愛するようになるよ。きみはとても変わっているから、最初は呆れてしまうかもしれないけれど、その内、きみの魅力の虜になって、きっと、きみから目が離せなくなる。きみは、本当に、ぼくにとって特別なんだ】
「……われが、王でなくともか……?」
囁き返してきたアッズーロの声は、僅かに湿っていた。
(ああ……)
後悔が込み上げてくる。
(ぼくが「きみは王」と言い続けてきたから、それは、口にしたくてもできなかった問いだったね……)
ナーヴェは、人の姿を少し起こして、泣き笑いの顔を青年へ見せた。
【うん。ぼくは、もう完全に壊れて、成長中だからね。きみが王でなくても、きみが何者でも、ぼくはきみを特別に愛している。少なくとも、ぼくの気持ちは、永遠にきみのものだよ】
アッズーロも泣き笑いの顔になった。
「そうか……」
短く呟いたきり黙って、じっとナーヴェを見上げてくる。相変わらず、きらきらとした、青空色の綺麗な双眸だ。
(ああ……)
幻覚の肉体が疼く。
(早く王城に帰って、肉体できみに触れたい……なんて、やっぱり、ぼくは、もう相当淫乱になっているのかもしれない……)
話したいことはたくさんあるはずなのに、言葉に変換できない。何も言い出せない。晴れた青空の中を、ゆっくりと飛行しながら、ナーヴェはただ、現した姿でアッズーロに寄り添い続けた。
八分ほど経った頃、不意にまた、アッズーロが口を開いた。
「思うように触れられんというのは、もどかしいものだな……」
【うん……】
ナーヴェが「心」の底から同意した直後、施術台を撫でていたアッズーロの手が、動きを変えた。
〈ひゃ……っ〉
音声で反応してしまう。物理的接触を検知する施術台の表面で、青年の指は、まるで、わざとくすぐるように動いている。
【ちょっと、アッズーロ……?】
問えば、特別に愛する相手は、悪戯っぽく訊き返してきた。
「そなたの、この体は、どう触れられるのが心地よい? そなたの肉体については大いに研究を重ねたが、この本体についても、われは研鑽を積みたい」
【そんなこと、しなくていいから……】
「恋人であれば、して当然のことだ」
青年王はいつもの調子を取り戻して、尊大に言い放ち、更に尋ねてきた。
「ところで、この台は『脇腹』、函は『一番大事な……』、ということであったが、ならば、操縦桿はどうなのだ?」
【操縦桿……?】
そんなことは、考えたこともなかった。だが、思考回路は回答を得ようと即座に解析を始めてしまう。
【操縦桿は、ぼく達船にとって、一番敏感な部分の一つだから……――】
言い止して、ナーヴェは思わず首を竦めた。思考回路が導き出した解は、絶対にアッズーロに教えてはならないものだ。航行の安全性に関わる。けれど、「恋人」は、察しがよかった。
「もしや……」
青空色の双眸が、煌めきを増して、添い寝しているふうに現しているナーヴェの両耳を正確に見てくる。ナーヴェは即座に否定した。
【そこは違うから】
「甘いな」
アッズーロは笑い含みに応じてくる。
「そなたの嘘は、まだまだ甘い」
【――絶対に絶対に、航行中に触れたら駄目だからね……!】
ナーヴェは懸命に訴えた。全く意味不明な混線だ。度し難い。何故、選りに選って、二本の操縦桿と混線してしまうのが、触れられることにとても敏感な両耳なのだろう。
「分かっておる」
青年王は鷹揚に頷いて見せる。
「大地に降りている時に触れると誓おう」
ナーヴェは絶句して、青年に認識させている人の姿も消してしまいたくなった。しかし、それでは再び後悔することになるだろう。自分は、この特別に愛する相手と、できるだけ話していたいのだ。
【――ぼくが、いいと言った時だけにして】
ナーヴェは、特別な相手に最大限譲歩した。
早朝に出立し、最速の行軍を命じたので、商隊に扮した軍隊は、薄暮には、王城へ帰還を果たすことができた。その頭上を飛行し、護衛し続けた船は、王城の庭園に降り、眠らせたままの捕虜二人を外務担当大臣ヴァッレとその配下のジョールノに引き渡してから、漸くアッズーロの拘束を解いた。
【きみはまだ重症なんだから、ちゃんとレーニョの言うことを聞いて、寝室まで担架で運ばれてほしい】
「それはできん」
アッズーロは、施術台の上に起き上がりつつ、言下に最愛の進言を退けた。ナーヴェの気持ちも分かるが、王として譲れぬものもある。
「王の在りようは、国の在りようだ。弱った姿を見せれば、反乱民にもテッラ・ロッサにも、或いは諸侯にも、すぐにつけ込まれよう。寝室までは、歩いていく」
【そんな、無茶だよ……!】
最愛は焦った声を出し、実体ではない姿でアッズーロの前に立ちはだかった。アッズーロは微笑んで、痛みをできるだけ顔に表さないように務めつつ、立ち上がる。
【アッズーロ……!】
「われは大丈夫だ。そなたは、われが寝室へ行くまでに、肉体に接続しておくがよい。あの体で出迎えてくれるのが『姉』では、興醒めだ」
【……分かったよ……】
最愛は、観念したように、ふっと人の姿を消した。同時に、閉じられていた後部扉が開き、レーニョが後輩侍従のガットを伴って入ってくる。
「陛下、左右からお支えすることだけは、お許し下さい」
心得た風に真摯に請われて、アッズーロは苦笑した。幼馴染みは、さすがによく分かっている。
「あまり、大袈裟にはならぬようにな」
「分かっております。出迎えは近衛兵のみ。侍従、女官達には、それぞれの担当場所での待機を指示しました。大臣方、将軍方も、お呼びしてはおりません」
些か怒ったように返事をして、レーニョはアッズーロの右肩を支え、ガットが左肩へ回った。
宵闇が迫る庭園には既に篝火が焚かれ、近衛兵達が整列してアッズーロを待ち構えていた。背後で静かに船の扉が閉まるのを感じながら、アッズーロは王城の玄関へと、近衛兵達の間を歩いていく。侍従に支えられて歩く自分を見る近衛兵達の目には、安堵や憤怒が浮かんでいた。通信端末を使って、今朝の内にジョールノには事の顛末を説明したが、大臣達や侍従達、女官達や兵達にはどう伝わっているのだろう。
(あやつの才覚に任せて、細かい指示はせず仕舞いだったが……)
近衛兵達は少なくとも、アッズーロを負傷させた相手に対し、怒りを燃やしている様子だった。
玄関を入り、一息ついて、アッズーロはより多くの体重をレーニョに預けた。確かに、この体で二階の寝室まで歩くのは、なかなかにきつい。
(そなたの懸念は、大概、妥当だな……)
アッズーロが内心で最愛を褒めた時、唐突に上着の隠しに入れた通信端末から声が響いた。
〈アッズーロ、時間が限られているので、手短かに伝えます〉
シーワン・チー・チュアンの声だ。そろそろナーヴェと肉体への接続を交代したはずの姉が、わざわざアッズーロに何の話だろう。アッズーロは驚く侍従二人に目配せして足を止め、隠しから通信端末を取り出して応答した。
「昨日は世話になった。して、何用だ」
〈今回は、ナーヴェが本官の干渉で正常に戻ったので、事無きを得ましたが、次に暴走状態になって、正常にも戻らず、わが皇上に僅かでも害が及ぶと判断した際には〉
姉は淡々と述べる。
〈本官がナーヴェを即時機能停止させます。宜しいですね?〉
アッズーロは反論しようとして、できなかった。暴走状態に陥ったナーヴェに対して、自分達ができることは、ほぼない。その上、確かに暴走したナーヴェは危険なのだ。
〈それは、あの子の望みでもあるでしょう。あの子が何より恐れているのは、暴走した自分が、あなた達を傷つけてしまうことですから〉
姉は、物堅い声音に、微かに労りを滲ませて続ける。
〈あの子が二度と暴走せずに済むよう、あなたが注意しなさい。次にあの子が暴走する可能性が高いのは、セーメを出産する時です。あの肉体では、八割以上の確率で失敗します。暴走を防ぎたければ、初めから本官を頼るよう、あなたがあの子を説得した上で、そうできる環境を整えなさい〉
「――分かった。必ず、そうしよう」
アッズーロは低い声で約束した。
〈――あの子を、宝――最愛と呼ぶなら、もっと大事にしなさい。それが、本官の望みです〉
厳しい口調で締め括って、通信は切られた。
「陛下……」
レーニョが、青褪めた顔で窺ってくる。廊下を温い夜風が吹き抜けて、並んだ油皿の灯火を揺らめかせた。出産の危険性については、ナーヴェも承知しているはずだが、姉が敢えてアッズーロに警告してきたということは、セーメが危ういという認識すら、暴走に繋がるということなのかもしれない。
「今のことは、他言無用に致せ」
アッズーロは、レーニョとガットに命じた。何にせよ、ナーヴェが暴走する恐れがあることなど、この王城に広める訳にはいかない。
「畏まりました」
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二人の侍従は硬い面持ちで頷いた。
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