上 下
83 / 105

第二十章 国の要 二

しおりを挟む
     二

「……ごはん、たべたい……」
 昼前になって、眠っていた宝は唐突に呟いた。フィオーレはすぐに駆け寄り、宝の目が開いていることを見て取ると、笑顔で応じた。
「すぐに御用意致します」
 それから、執務室の入り口へ走る。だが、フィオーレが知らせるより早く、青年王は気づいて執務室から出てきた。
「ナーヴェ、大事ないか?」
 気遣わしげに声を掛け、王は素早く動いて、起き上がる宝の背を支える。宝は小さく欠伸をしてから言った。
「だいじょうぶ……。ぼくは、ミニエラ・ディ・カルボーネこうざんについたけれど、エゼルチトは、まだだから……。いまのうちに、ごはん、たべたい……」
「分かった。どのようなものなら食せる?」
 優しく尋ねた王の胸に、宝は、甘えるように凭れて答えた。
「なんでもたべられるよ……? ちょっとねむいだけで、げんきだから」
「そうか。ならば、用意させてあるものを持ってこさせよう」
 王は応じて、フィオーレを振り向いた。
「厨房に行き、若布と玉葱と露草の和え物、鮭の燻製の薄切り、緑茶、檸檬の蜂蜜漬けを持ってくるがよい」
「仰せのままに」
 一礼して、フィオーレは身を翻し、厨房へ走った。
 一階にある厨房の入り口にフィオーレが立つと、料理長チューゾは、調理台の上にあった盆を無言で渡してきた。そこには、アッズーロが指定した通りの料理が載っている。全く、以心伝心とはこういうことを言うのだろう。
「これで相違ないか?」
 一応確かめてきた料理長に頷いて盆を受け取り、フィオーレは足早に、王と王妃の寝室へ戻った。
「ぜんぶ、たべやすそう。えいようも、まんてんだね。ありがとう、アッズーロ」
 宝は喜んだ様子で王に抱き上げられ、椅子に落ち着く。フィオーレは、その前の卓に、そっと盆を置いた。
「すごくすごく、おいしそう……! けんこうにいいものばかりだし、ほんとうに、ありがとう、アッズーロ。きみは、こんだてをかんがえる、てんさいだね……!」
 両手を叩いて賛辞を送る宝に、王は複雑そうな表情を浮かべて、その隣に椅子を寄せ、座る。どれほど褒め称えられようと、王は今、無力感に苛まれているのだろう。
「いのちたちよ、いただきます」
 いつもの挨拶を、いつもより幼い口調でした宝は、肉叉を取り、和え物から口に運び始めた。
「ごまあぶらと、すのあじ、おいしい。たまねぎ、あまいね……! わかめとつゆくさ、ぼくのかみのためだね……! つゆくさは、いろいろなびょうきも、よぼうしてくれるし、うれしいよ……!」
 舌鼓を打って、宝はあっと言う間に小鉢の和え物を平らげてしまった。空腹だったのかもしれない。
「どんどん食すがよい。足らねば、また作らせる」
 王は、僅かに安堵した口調で促した。
「うん、ありがとう」
 宝は無邪気に礼を述べて、今度は鮭の燻製の薄切りに肉叉を伸ばす。鮭の燻製の薄切りは、蜂蜜掛け乾酪や羊の肝臓をまぶした麦粥、羊肉と玉葱の月餅と並ぶ、宝の好物の一つだ。
「いいかおり……! とてもおいしい。これ、もっとたべていい?」
 宝は、小首を傾げて王を見る。一も二もないだろう。フィオーレは、王の返事を聞く前に厨房へ向かった。


 フィオーレが持ってきた皿に、花の如く盛り付けられた鮭の燻製の薄切りを、宝は笑顔で、ぱくぱくと食べた。
(こやつ、食べ溜めておくつもりか……?)
 アッズーロは、素直に喜ぶなどできず、じっと最愛を見守る。この後、ナーヴェはまた肉体を眠らせるつもりだろう。
(次に目覚めるは、いつになるのか……)
 ナーヴェの本体が坑道に埋められてしまった場合、救出にどれほど掛かるか分からない。その間、肉体のほうはどうなるのだろう。
「ナーヴェ、何とかエゼルチトから逃げることはできんのか?」
 問えば、宝は鮭で頬を膨らませたまま首を横に振った。
「むり。エゼルチトのいうことをきかないと、ラーモっていうひとがころされる」
「そのラーモとは何者なのだ」
「エゼルチトのぶか。たぶん、ころされてもいいっておもっている」
 真顔で告げてから、ナーヴェは、やや沈んだ表情になる。
「エゼルチトは、ころしたくないって、おもっているとおもうけれど、でも、ひつようだったら、ころしてしまうから」
 幼い言い回しの中に、宝の苦悩を感じて、アッズーロは思わず手を伸ばし、華奢な肩を抱いた。
「すまぬ。そなたは、常に最善を尽くしている。われらが行くまで、そなたは、ただ待っているがよい」
 ナーヴェは、頬張っていた鮭を呑み込み、驚いたようにアッズーロを見上げてきた。
「きみも、くるの?」
 予想通りの反応だ。アッズーロは胸を張って宣言した。
「無論だ。準備が整い次第、そなたを救いに行くぞ」
「だめだよ、きみは、おうだよ?」
 ナーヴェは、懸命に説得してくる。三歳児並の応答機能であっても、そこは譲れないらしい。
「おうは、しろにいて、しじをださないと、みんな、こんらんしてしまうよ」
「混乱はせん。わが臣下達は優秀だ。加えて、そなたが置いていった通信端末とやらがある。これは、そなたを通さずとも、通信端末同士で話ができるから便利だ」
「そんなこと、ぼくはおしえなかったのに、だれがきづいたの……?」
 ナーヴェは恨めしそうに尋ねてきた。アッズーロは、にっと笑って訊き返した。
「誰だと思う」
「……ジョールノ?」
「当たりだ。ジョールノをこの城に常駐させ、われと連絡を取り合わせる。これで問題なかろう?」
「……きみが、しんぱい」
 ナーヴェは、ぽつりと呟いた。それきり黙って、卓に向き直り、残っていた鮭の燻製と檸檬の蜂蜜漬けを口に運ぶ。その横顔に浮かんでいるのは、怒りでも悲しみでもなく、困惑のように見えた。
「まさか、そなた、王としてのわれの行動ではなく、われ自身の身の安全を危惧しておるのか」
 確認したアッズーロに、宝は怒ったような顔を向けた。
「そうだよ!」
 涙を浮かべた両眼でアッズーロを睨み、肉叉も皿も離した両手で、縋り付いてくる。
「きみがしんぱい! きみがいちばん、しんぱい! ほかのひとより、きみが……!」
 小柄な体を震わせて泣き出してしまった宝を、アッズーロは両腕で抱き締めた。やはり三歳児だ。普段のナーヴェよりずっと直情的だ。だが、これこそが、今のナーヴェの本音なのだろう。アッズーロを特別に思ってしまうことへの罪悪感も含めて、これが、包み隠さぬナーヴェの本音なのだ。
「充分、気をつける。だが、そなたがわれを案じるように、われもそなたを案じておるのだ」
 アッズーロが、青い髪の掛かる耳元に口を寄せて言い聞かせても、ナーヴェはしゃくり上げ続けて、なかなか泣きやまなかった。情緒不安定になっているのは、妊娠の所為もあるかもしれない。
「あまり泣くな、ナーヴェ。腹の子に障るであろう」
 アッズーロは、それ以上言うべき言葉が見つからず、ただ愛してやまない宝の頭や背を、繰り返し撫でた。フィオーレもおろおろとして、こちらを見ている。
 暫くして、漸く落ち着いたらしい宝は、アッズーロの胸に顔を押し付けたまま言った。
「ほんたいで、ちょくせつエゼルチトをみて、がぞうかいせき、したんだ。それで、わかった。エゼルチトは、ズィンコと、ちのつながりがあるよ。あちこち、いっぱい、にているところがあるから」
「つまり、あの二人には裏取り引きがあるということか……?」
 アッズーロは、フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯ズィンコの、気難しげな顔を思い浮かべた。
「どんなつながりかは、わからない」
 拗ねたような物言いで応じ、ナーヴェは両手でアッズーロの胸を押した。抱擁はもういいということらしい。アッズーロが両腕を解くと、ナーヴェは盆に残っていた緑茶を飲み干し、一息ついてから、眼差しを上げた。潤んだままの青い双眸が、じっとアッズーロを見つめる。
「ぼくは、きみがおもっているより、がんじょうだから、むりしないで。とじこめられても、なんとか、すきまをかくほして、つうしんはたもてるようにして、セーメはまもれるようにするから。きみは、ズィンコとエゼルチトにちゅういしながら、くすりを、ちゃんと、くばって」
「分かった」
 アッズーロは深く頷いて見せた。
「ありがとう。ごちそうさまでした」
 ふわりと微笑んだ宝の体が、ゆらりと傾ぐ。アッズーロは慌てて細い体を支えた。宝は、幼子の如く一瞬で寝てしまっている。その口の端に付いたままの蜂蜜を、口を寄せて舐め取り、ついでに軽く唇に口付けて、アッズーロは囁いた。
「すぐに行くゆえ、待っておれ」
 大切な体を慎重に抱き上げ、寝台へ運んで寝かせる。枕から零れる長く青い髪を整えてやり、いつまでも幼げな体の上に掛布を掛けてやってから、アッズーロは忠実な女官を振り向いた。
「この状態では、襁褓をしてやったほうがよいかもしれん。とにかく、われが留守の間、ナーヴェを頼む」
「畏まりました」
 フィオーレは、深々と頭を下げた。綺麗に結ってあったはずの栗色の髪が、ややほつれてしまっている。厨房との行き来を、余ほど急いでくれたのだろう。
「おまえだから、わが最愛を任せられる」
 つい言い足したアッズーロに、顔を上げた女官は大きく目を瞠り、次いで花が咲くように微笑んだ。


(アッズーロ、寝起きでも食べ易いものばかり用意してくれていた。それに、ちゃんとぼくの好物の鮭の燻製の薄切りも、献立に入れてくれていた……)
 ミニエラ・ディ・カルボーネ鉱山の入り口は、山の中腹にあり、見晴らしがいい。エゼルチトを待って入り口前に鎮座したまま、ナーヴェは眼下のフォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯領を眺める。天候はやや下り坂だ。エゼルチトが来る頃には、小雨が降っているかもしれない。
(アッズーロ、ここはね、ぼくが見つけてみんなに教えた炭鉱なんだ)
 ウッチェーロに、簡単に燃料になるものを探してほしいと頼まれ、彼の妻トッレが作った人工衛星を使って地形を精査し、可能性のある場所に極小機械をばらまいて探索する中で発見した。
(植物というものがいない惑星に、石炭があることには驚いたけれど、この惑星にいる亜生物種の中には、植物と似た構造を作るものもいて、逆にそれらを分解する菌類はいないから、条件は揃っていたんだよね……)
 恒星の光を利用する技術の大半はすぐに廃れた。増やし始めたばかりの植物は、燃料にするには乏しかった。石炭は、当時の人々の暮らしを大いに支え、現在も利用され続けているのだ。
(もう手掘りでは以前のような量の石炭が採掘できないから、最近は火薬を使った発破採炭法を専ら用いていると聞いていたけれど……)
 だからこそ、エゼルチトはナーヴェを無効化するのに適した場所として、ここを選んだのだろう。
(大人しく埋められるまでは仕方ないとして、その後は、どうしよう……)
 どの程度深く埋められるかにもよるが、坑道の奥に行かされて、入り口を爆破され、塞がれれば、自力での脱出は難しいだろう。
(アッズーロ達が来て、ぼくを助け出そうとしているところへ、エゼルチトやズィンコが攻撃を仕掛けないとも限らない……)
 そもそも、エゼルチトは、ナーヴェ救出を許さないだろう。
(まあ、アッズーロが通信端末を持っていてくれる訳だから、肉体への接続を切らずにアッズーロと話せる)
 相談しながら、事を進めることができる。
(何とか、エゼルチトを説得できたらいいんだけれど……、多分、それはロッソでないと無理だろうから……。ぼくは、アッズーロを説得して、反乱を起こしている人達や、ズィンコと話せるようにさせて貰おう)
 今後の方針を決定して、ナーヴェは、曇天の下、山腹を登ってくる六人を光学測定器で見つめた。
(二人いなくなっている……。どこかに潜ませているのか、それとも、ズィンコか誰かと連絡を取りに行かせたのかな……)
 エゼルチトは、六人の中の三番目、人質役のラーモは二番目にいる。
(とにかく、埋められる前に、できる限りの情報収集をしよう)
 ナーヴェは幻覚の微笑みを浮かべて、音声を発した。
〈ようこそ、惑星オリッゾンテ・ブル初の炭鉱へ〉
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

王女、騎士と結婚させられイかされまくる

ぺこ
恋愛
髪の色と出自から差別されてきた騎士さまにベタ惚れされて愛されまくる王女のお話。 性描写激しめですが、甘々の溺愛です。 ※原文(♡乱舞淫語まみれバージョン)はpixivの方で見られます。

不倫をしている私ですが、妻を愛しています。

ふまさ
恋愛
「──それをあなたが言うの?」

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

【電子書籍化進行中】声を失った令嬢は、次期公爵の義理のお兄さまに恋をしました

八重
恋愛
※発売日少し前を目安に作品を引き下げます 修道院で生まれ育ったローゼマリーは、14歳の時火事に巻き込まれる。 その火事の唯一の生き残りとなった彼女は、領主であるヴィルフェルト公爵に拾われ、彼の養子になる。 彼には息子が一人おり、名をラルス・ヴィルフェルトといった。 ラルスは容姿端麗で文武両道の次期公爵として申し分なく、社交界でも評価されていた。 一方、怠惰なシスターが文字を教えなかったため、ローゼマリーは読み書きができなかった。 必死になんとか義理の父や兄に身振り手振りで伝えようとも、なかなか伝わらない。 なぜなら、彼女は火事で声を失ってしまっていたからだ── そして次第に優しく文字を教えてくれたり、面倒を見てくれるラルスに恋をしてしまって……。 これは、義理の家族の役に立ちたくて頑張りながら、言えない「好き」を内に秘める、そんな物語。 ※小説家になろうが先行公開です

別に構いませんよ、離縁するので。

杉本凪咲
恋愛
父親から告げられたのは「出ていけ」という冷たい言葉。 他の家族もそれに賛同しているようで、どうやら私は捨てられてしまうらしい。 まあいいですけどね。私はこっそりと笑顔を浮かべた。

処理中です...