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第二十章 国の要 一
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一
燦々と朝日が注ぐ中、羊の柵の中に鎮座した船の周りで、住民達は鋤や鍬を構えている。彼らが睨み付けているのは、得体の知れない船ではなく、エゼルチトとラーモ、そして姿を現している二人の配下達だ。
(やれやれ。船の姿でも、これほどの懐柔力か)
エゼルチトは、住民達に守られた船を見つめ、溜め息をついた。潜ませている、残り四人の配下達まで呼べば、住民達を無力化し、その農具を奪い、船の内部へ入って破壊することも可能だろう。
(この好機を逃す手はない)
エゼルチトは配下達に合図を送り、住民達へ最後通告をした。
「それは、愚かなる王アッズーロが自らの保身のために招き入れた、テッラ・ロッサの新兵器だ。われらはアッズーロの愚挙を阻むため、それを破壊しに来た憂国の志士! われらに道を空けよ! 惑わされているそなたらに代わって、われらがその兵器を破壊する! われらを妨げる者には、相応の覚悟をして貰うぞ!」
「違うよ!」
鍬を両手で握り締めた老婆が言い返してきた。
「あたしゃ、王都で神殿に参ったことがあるから分かるんだ! これは、こちらの方は、王の宝だ! 何しろ、神殿にそっくりだからねえ! 王の宝は、人のお姿にも、船のお姿にもなれると聞いた! だから間違いないよ! 王の宝が、あたし達の羊を、あたし達の暮らしを、救いに来て下すったんだ!」
「王の宝は、そのようなものではない!」
エゼルチトは住民達を怯ませるため、怒鳴る。
「それは、王の宝を自らの権威付けに利用せんとする、アッズーロが弄した詭弁だ! そのような世迷い言を申していると、神ウッチェーロの更なる罰が下るぞ!」
「喧しい!」
今度は鋤を手に仁王立ちした大柄な男が、顔を真っ赤にして怒鳴り返してきた。
「おれらを苦しめるだけの神ウッチェーロなんざ糞食らえだ! テッラ・ロッサの新兵器だろうが王の宝だろうが、どっちでも構わねえんだ、おれらには! ただ、おれらには羊が必要だ! 憂国の志士だか何だか知らねえが、本当にこの国のことを憂えてるなら、羊の病を治せ! それができねえんなら、黙ってろ!」
「それは、われらに仇為すものだ! われらの在りようを歪めるものだ! そなたらにも、いずれそのことが理解できる日が来よう!」
エゼルチトは言い放って、人質にしているラーモ以外の六人の配下達を、まずは民達へ向かわせた。鍬や鋤を奪わせるためだ。
〈彼らに手を出すな!〉
船が叫ぶ。
〈ぼくがさっき教えたのは嘘だ! ぼくの、この体は、内部だろうと、そんな農具では壊せない! 単純な人力や道具で壊せるような素材でも構造でもないんだよ!〉
「『嘘』か」
エゼルチトは苦笑した。自分が思っていた以上に、王の宝は「人」らしい。
「だが、それこそが嘘という可能性もある」
指摘して、エゼルチトは農具を奪った配下達に命じた。
「力の限り、その船を破壊せよ! おまえ達の力は、『単純な人力』ではないと示してやれ!」
〈無駄なことを……!〉
船は悲しげな声で抗議してくる。
〈そんなことをしても、ここの人達の大切な農具が傷つくだけなのに……!〉
けれど、攻撃はしてこない。エゼルチトの配下達が住民達から農具を奪う際、大きな怪我などはさせなかったので安堵しているらしい。船体後部の扉を閉めることすらしない。エゼルチトがラーモを傷つける可能性を、未だ排除できないでいるのか、或いは――。
(本当に、農具では破壊できないということか……?)
エゼルチトの配下六人は、開きっ放しの扉から用心深く中へ入り込んでいき、暫くすると、一人が困惑した表情で出てきた。
「座席も卓も壁も天井も床も、一体何でできているものか見当も付きません。とにかく、全く壊すことができません。罅すらできないのです……」
報告に、エゼルチトはもう一度溜め息をついた。
「嘘ではなかったということか。度し難い頑丈さだな。ならば皆、降りよ」
配下達に指示してから、エゼルチトは、王の宝を改めて脅迫する。
「船よ、おれに、この男を殺させたくなくば、即刻、ミニエラ・ディ・カルボーネ鉱山の入り口へ行け。寄り道は許さん。そこで、おれが行くまで待っておけ。もしおまえがこの条件を破れば、それが判明した時点で、おれは、このラーモを殺す。分かったな?」
〈ミニエラ・ディ・カルボーネ鉱山――かつて、このフォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯領一の採掘量を誇った炭鉱の入り口だね。分かったよ〉
船は再びあっさりと承諾すると、エゼルチトの配下達の背後で後部扉を閉めた。そのまま低い音を響かせ、藁と砂埃を巻き上げて、粛々と浮き上がる。
〈なら、先に行って待っているから〉
親しげとすら聞こえる声音で言い残して、船は一気に空へと上昇し、ミニエラ・ディ・カルボーネ鉱山へ船首を向けると、ゆっくりと飛び去っていった。
「……アッズーロ……」
王の宝の呟きに、フィオーレは急いで、その枕元へ行った。ラディーチェはテゾーロとインピアントを遊ばせるため、別室へ行っている。
「ナーヴェ様、お目覚めでございますか?」
声を掛ければ、王妃は、うっすらと目を開き、青い双眸でフィオーレを見上げて問うてきた。
「アッズーロは……?」
「ただ今、緊急の大臣会議中でございまして。お急ぎということであれば、お呼びして参ります」
フィオーレが答えたところへ、背後から当人の声が響いた。
「ナーヴェが起きたのか?」
会議を終えたらしい青年王は、足早に寝室を過って王妃の寝台脇に来る。フィオーレは素早く妃殿下の枕元を退き、一歩下がった位置から二人を見守った。
「アッズーロ、やっぱり、うそ、あんまりよくなかった」
王の宝は、開口一番、しゅんとした様子で告げた。
「如何したのだ」
王は気が気でないといった横顔をして、寝台脇に跪き、妃の頭を撫でて尋ねる。幼子のようになっている王の宝は、優しい手に嬉しげに目を細めて言った。
「むらのみんなが、ちょっとあぶなかった。おおけがはなかったけれど、くわとすきは、こわれたものもあった。こんどは、もっともっとかんがえて、うそをつくよ」
「そなたは無事なのか?」
王は、フィオーレも最も気にしていることを確かめた。
「うん……」
歯切れ悪く、宝は迷ったふうに言う。
「いまは、だいじょうぶ。でも、これからミニエラ・ディ・カルボーネこうざんにいくから、たぶん、ずっとかえってこられなくなるとおもう……」
「どういうことだ」
「きっと、エゼルチトは、ばくやくで、こうどうをくずして、ぼくをうめるつもりだから」
「何だと……」
血相を変えた青年王とともに、フィオーレも血の気の引く思いがした。
(何故、ナーヴェ様が、そのようなことをされなければならないの……? 人々のために、こんなに無理をして、羊の薬を作って下さっている方に、何故、そんなことができるの……?)
エゼルチトとは、一体どういう人物なのだろう。
(有能な将軍であるとは聞いているけれど……)
王の宝ナーヴェは、テッラ・ロッサに対しても大いに友好的だ。
(確かにナーヴェ様は神の御業を使われるから、恐れる気持ちも分からなくはないけれど、ナーヴェ様が以前よく仰っておられたように、そのお力は使いよう。テッラ・ロッサのために水路も造ろうとなさっているそのお力を、上手く利用することを考えたらいいのに……!)
両手を握り締めたフィオーレの視線の先で、当の宝は微笑んでいる。
「ぼくは、がんじょうだから、だいじょうぶ。それより、せっかくできたくすりを、とちゅうでいっぱいおとしていくから、ひろってつかって」
「そなたは……」
王は顔を歪めて、言い止した言葉を呑み込んだようだった。この幼い状態の宝相手では、どう諫めても無意味だと思い直したのかもしれない。
「とにかく、ミニエラ・ディ・カルボーネ鉱山だな? すぐに隊商に扮した軍をそちらへ向かわせる」
王が明かした作戦に、宝は両眼を見開いた。
「ぐん……? アッズーロ、エゼルチトと、たたかうの……?」
「そなたは王の宝、この国の要だ。そのそなたを害する輩に対し、軍を動かして何が悪い」
青年王の物言いは、まるで言い訳をしているようだった。公の軍事行動に私心が混じっていることを、誰より王自身が分かっているのだろう。
「でも……、ぼくは、たたかってほしくないよ……」
宝は切なく訴える。
「ぼくはまだだいじょうぶだから、くすりをひろって、アッズーロ。ぐんのひとたちに、くすりをひろって、くばってって、いって。おねがい」
幼い所為か、常よりも直接的なお強請りに、王は悲しげに応じた。
「勿論、それもさせよう。だが、そなたを救いに行くこともやめはせん。これは最早決定事項だ。そなたは、でき得る限り自身の安全を図りながら、助けを待つがよい」
宝の美しい両目から、涙が零れた。王はその涙を丁寧に指先で拭い、宝の目元に優しく口付けて諭す。
「そなたは、わが妃、わが友、わが宝だ。テゾーロとセーメの母だ。そして、この国の支柱だ。最愛よ、われらは、そなたが何と言おうと、そなたを守ることに、全力を挙げる」
「ぼくは、このほしのみんなを、まもるためにいるんだよ……?」
朝日の中、最後に涙を一筋流して、宝は目を閉じてしまった。話し合いを諦めたような疲れた顔で、宝はそのまま眠りに落ちていく。王は、沈痛な面持ちでその寝顔を暫く見守ってから、意を決したように立ち上がった。
「フィオーレ、われは隣にいる。ナーヴェに何かあれば、すぐに呼ぶがよい」
短く言い残して執務室へ去る王に一礼して、フィオーレは宝に視線を戻した。王が丁寧に拭ってはいたが、その白い頬には、窓からの柔らかな日差しに照らされて、まだ濡れた跡がある。フィオーレは、衣装箱の一つから手巾を取り出して妃の枕元へ屈み、そっと白い頬の涙の跡を拭って囁いた。
「ナーヴェ様、御無理は禁物ですよ。努力は、なさり過ぎないで下さいね」
(また、ぼくはアッズーロを傷つけた……)
のろのろと薄曇りの空を飛びつつ、ナーヴェは幻覚の溜め息をついた。エゼルチトから「寄り道は許さん」と言われたが、速度までは指定されていない。どうせエゼルチトが来るまで待っていなければならないので、ナーヴェは現在時速四粁で飛んでいた。平均的な人の歩行速度よりも遅いくらいの速度だが、それでも、空中を直線的に目的地へ向かっているナーヴェのほうが、地上を来るエゼルチトより速いだろう。低い山を一つ越えたので、そのエゼルチトからはもう見えないところへ来ている。
(そろそろ、薬の投下を始めよう)
寄り道は禁じられたので、完成した抗生物質をアッズーロ達に渡すためには、ミニエラ・ディ・カルボーネ鉱山への道中で落としていくしかない。
(まるで『ヘンゼルとグレーテル』の「白い小石」みたいになるね……。でも、オリッゾンテ・ブル軍のみんなが拾ってくれたら、寧ろ「麺麭屑」かな……)
生真面目な姉シフ・デル・ホフヌンクが丁寧に教えてくれた童話を、思考回路で一瞬だけ再生してから、ナーヴェは船体の内部作業腕二本と外部作業腕四本を稼動させた。澱粉で作った小さな繭に入れた抗生物質を、更に百個ずつ薄い羊毛の袋に入れて、順繰りに数十米下の地表へ投下していく。羊毛は、昨夜から先刻に掛けて、船内に入れた羊達から少しずつ貰ったものだ。採取したものから必要なものを素早く創り上げる性能は、この本体になっても、かなり優秀だと自負している。
羊毛を染色することまではできなかったので、地表に点々と落ちて連なる袋は白い。
(やっぱり、「白い小石」みたいに見えるね……)
ヘンゼルが道々落とした「白い小石」は、彼らを導いて無事に家へ帰らせた。
(ぼくも、ちゃんときみの許へ帰れるように、努力しないとね……)
あの優しい王を、これ以上傷つけたくはない。肉体の子宮内にいるセーメも心配だ。胎盤は順調に形成されている途上だが、肉体の状態が悪化すれば、何が起こるか分からない。テゾーロにも、もっと歌ってやりたい。フィオーレやラディーチェ、ポンテやミエーレやレーニョにも心配を掛けたくない――。
(ああ、駄目だ、これも不具合だね……。油断すると、家族のことばかり、身近な人のことばかり、演算してしまう……)
自己嫌悪に陥りながら、ナーヴェは黙々と抗生物質の投下を続けた。
燦々と朝日が注ぐ中、羊の柵の中に鎮座した船の周りで、住民達は鋤や鍬を構えている。彼らが睨み付けているのは、得体の知れない船ではなく、エゼルチトとラーモ、そして姿を現している二人の配下達だ。
(やれやれ。船の姿でも、これほどの懐柔力か)
エゼルチトは、住民達に守られた船を見つめ、溜め息をついた。潜ませている、残り四人の配下達まで呼べば、住民達を無力化し、その農具を奪い、船の内部へ入って破壊することも可能だろう。
(この好機を逃す手はない)
エゼルチトは配下達に合図を送り、住民達へ最後通告をした。
「それは、愚かなる王アッズーロが自らの保身のために招き入れた、テッラ・ロッサの新兵器だ。われらはアッズーロの愚挙を阻むため、それを破壊しに来た憂国の志士! われらに道を空けよ! 惑わされているそなたらに代わって、われらがその兵器を破壊する! われらを妨げる者には、相応の覚悟をして貰うぞ!」
「違うよ!」
鍬を両手で握り締めた老婆が言い返してきた。
「あたしゃ、王都で神殿に参ったことがあるから分かるんだ! これは、こちらの方は、王の宝だ! 何しろ、神殿にそっくりだからねえ! 王の宝は、人のお姿にも、船のお姿にもなれると聞いた! だから間違いないよ! 王の宝が、あたし達の羊を、あたし達の暮らしを、救いに来て下すったんだ!」
「王の宝は、そのようなものではない!」
エゼルチトは住民達を怯ませるため、怒鳴る。
「それは、王の宝を自らの権威付けに利用せんとする、アッズーロが弄した詭弁だ! そのような世迷い言を申していると、神ウッチェーロの更なる罰が下るぞ!」
「喧しい!」
今度は鋤を手に仁王立ちした大柄な男が、顔を真っ赤にして怒鳴り返してきた。
「おれらを苦しめるだけの神ウッチェーロなんざ糞食らえだ! テッラ・ロッサの新兵器だろうが王の宝だろうが、どっちでも構わねえんだ、おれらには! ただ、おれらには羊が必要だ! 憂国の志士だか何だか知らねえが、本当にこの国のことを憂えてるなら、羊の病を治せ! それができねえんなら、黙ってろ!」
「それは、われらに仇為すものだ! われらの在りようを歪めるものだ! そなたらにも、いずれそのことが理解できる日が来よう!」
エゼルチトは言い放って、人質にしているラーモ以外の六人の配下達を、まずは民達へ向かわせた。鍬や鋤を奪わせるためだ。
〈彼らに手を出すな!〉
船が叫ぶ。
〈ぼくがさっき教えたのは嘘だ! ぼくの、この体は、内部だろうと、そんな農具では壊せない! 単純な人力や道具で壊せるような素材でも構造でもないんだよ!〉
「『嘘』か」
エゼルチトは苦笑した。自分が思っていた以上に、王の宝は「人」らしい。
「だが、それこそが嘘という可能性もある」
指摘して、エゼルチトは農具を奪った配下達に命じた。
「力の限り、その船を破壊せよ! おまえ達の力は、『単純な人力』ではないと示してやれ!」
〈無駄なことを……!〉
船は悲しげな声で抗議してくる。
〈そんなことをしても、ここの人達の大切な農具が傷つくだけなのに……!〉
けれど、攻撃はしてこない。エゼルチトの配下達が住民達から農具を奪う際、大きな怪我などはさせなかったので安堵しているらしい。船体後部の扉を閉めることすらしない。エゼルチトがラーモを傷つける可能性を、未だ排除できないでいるのか、或いは――。
(本当に、農具では破壊できないということか……?)
エゼルチトの配下六人は、開きっ放しの扉から用心深く中へ入り込んでいき、暫くすると、一人が困惑した表情で出てきた。
「座席も卓も壁も天井も床も、一体何でできているものか見当も付きません。とにかく、全く壊すことができません。罅すらできないのです……」
報告に、エゼルチトはもう一度溜め息をついた。
「嘘ではなかったということか。度し難い頑丈さだな。ならば皆、降りよ」
配下達に指示してから、エゼルチトは、王の宝を改めて脅迫する。
「船よ、おれに、この男を殺させたくなくば、即刻、ミニエラ・ディ・カルボーネ鉱山の入り口へ行け。寄り道は許さん。そこで、おれが行くまで待っておけ。もしおまえがこの条件を破れば、それが判明した時点で、おれは、このラーモを殺す。分かったな?」
〈ミニエラ・ディ・カルボーネ鉱山――かつて、このフォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯領一の採掘量を誇った炭鉱の入り口だね。分かったよ〉
船は再びあっさりと承諾すると、エゼルチトの配下達の背後で後部扉を閉めた。そのまま低い音を響かせ、藁と砂埃を巻き上げて、粛々と浮き上がる。
〈なら、先に行って待っているから〉
親しげとすら聞こえる声音で言い残して、船は一気に空へと上昇し、ミニエラ・ディ・カルボーネ鉱山へ船首を向けると、ゆっくりと飛び去っていった。
「……アッズーロ……」
王の宝の呟きに、フィオーレは急いで、その枕元へ行った。ラディーチェはテゾーロとインピアントを遊ばせるため、別室へ行っている。
「ナーヴェ様、お目覚めでございますか?」
声を掛ければ、王妃は、うっすらと目を開き、青い双眸でフィオーレを見上げて問うてきた。
「アッズーロは……?」
「ただ今、緊急の大臣会議中でございまして。お急ぎということであれば、お呼びして参ります」
フィオーレが答えたところへ、背後から当人の声が響いた。
「ナーヴェが起きたのか?」
会議を終えたらしい青年王は、足早に寝室を過って王妃の寝台脇に来る。フィオーレは素早く妃殿下の枕元を退き、一歩下がった位置から二人を見守った。
「アッズーロ、やっぱり、うそ、あんまりよくなかった」
王の宝は、開口一番、しゅんとした様子で告げた。
「如何したのだ」
王は気が気でないといった横顔をして、寝台脇に跪き、妃の頭を撫でて尋ねる。幼子のようになっている王の宝は、優しい手に嬉しげに目を細めて言った。
「むらのみんなが、ちょっとあぶなかった。おおけがはなかったけれど、くわとすきは、こわれたものもあった。こんどは、もっともっとかんがえて、うそをつくよ」
「そなたは無事なのか?」
王は、フィオーレも最も気にしていることを確かめた。
「うん……」
歯切れ悪く、宝は迷ったふうに言う。
「いまは、だいじょうぶ。でも、これからミニエラ・ディ・カルボーネこうざんにいくから、たぶん、ずっとかえってこられなくなるとおもう……」
「どういうことだ」
「きっと、エゼルチトは、ばくやくで、こうどうをくずして、ぼくをうめるつもりだから」
「何だと……」
血相を変えた青年王とともに、フィオーレも血の気の引く思いがした。
(何故、ナーヴェ様が、そのようなことをされなければならないの……? 人々のために、こんなに無理をして、羊の薬を作って下さっている方に、何故、そんなことができるの……?)
エゼルチトとは、一体どういう人物なのだろう。
(有能な将軍であるとは聞いているけれど……)
王の宝ナーヴェは、テッラ・ロッサに対しても大いに友好的だ。
(確かにナーヴェ様は神の御業を使われるから、恐れる気持ちも分からなくはないけれど、ナーヴェ様が以前よく仰っておられたように、そのお力は使いよう。テッラ・ロッサのために水路も造ろうとなさっているそのお力を、上手く利用することを考えたらいいのに……!)
両手を握り締めたフィオーレの視線の先で、当の宝は微笑んでいる。
「ぼくは、がんじょうだから、だいじょうぶ。それより、せっかくできたくすりを、とちゅうでいっぱいおとしていくから、ひろってつかって」
「そなたは……」
王は顔を歪めて、言い止した言葉を呑み込んだようだった。この幼い状態の宝相手では、どう諫めても無意味だと思い直したのかもしれない。
「とにかく、ミニエラ・ディ・カルボーネ鉱山だな? すぐに隊商に扮した軍をそちらへ向かわせる」
王が明かした作戦に、宝は両眼を見開いた。
「ぐん……? アッズーロ、エゼルチトと、たたかうの……?」
「そなたは王の宝、この国の要だ。そのそなたを害する輩に対し、軍を動かして何が悪い」
青年王の物言いは、まるで言い訳をしているようだった。公の軍事行動に私心が混じっていることを、誰より王自身が分かっているのだろう。
「でも……、ぼくは、たたかってほしくないよ……」
宝は切なく訴える。
「ぼくはまだだいじょうぶだから、くすりをひろって、アッズーロ。ぐんのひとたちに、くすりをひろって、くばってって、いって。おねがい」
幼い所為か、常よりも直接的なお強請りに、王は悲しげに応じた。
「勿論、それもさせよう。だが、そなたを救いに行くこともやめはせん。これは最早決定事項だ。そなたは、でき得る限り自身の安全を図りながら、助けを待つがよい」
宝の美しい両目から、涙が零れた。王はその涙を丁寧に指先で拭い、宝の目元に優しく口付けて諭す。
「そなたは、わが妃、わが友、わが宝だ。テゾーロとセーメの母だ。そして、この国の支柱だ。最愛よ、われらは、そなたが何と言おうと、そなたを守ることに、全力を挙げる」
「ぼくは、このほしのみんなを、まもるためにいるんだよ……?」
朝日の中、最後に涙を一筋流して、宝は目を閉じてしまった。話し合いを諦めたような疲れた顔で、宝はそのまま眠りに落ちていく。王は、沈痛な面持ちでその寝顔を暫く見守ってから、意を決したように立ち上がった。
「フィオーレ、われは隣にいる。ナーヴェに何かあれば、すぐに呼ぶがよい」
短く言い残して執務室へ去る王に一礼して、フィオーレは宝に視線を戻した。王が丁寧に拭ってはいたが、その白い頬には、窓からの柔らかな日差しに照らされて、まだ濡れた跡がある。フィオーレは、衣装箱の一つから手巾を取り出して妃の枕元へ屈み、そっと白い頬の涙の跡を拭って囁いた。
「ナーヴェ様、御無理は禁物ですよ。努力は、なさり過ぎないで下さいね」
(また、ぼくはアッズーロを傷つけた……)
のろのろと薄曇りの空を飛びつつ、ナーヴェは幻覚の溜め息をついた。エゼルチトから「寄り道は許さん」と言われたが、速度までは指定されていない。どうせエゼルチトが来るまで待っていなければならないので、ナーヴェは現在時速四粁で飛んでいた。平均的な人の歩行速度よりも遅いくらいの速度だが、それでも、空中を直線的に目的地へ向かっているナーヴェのほうが、地上を来るエゼルチトより速いだろう。低い山を一つ越えたので、そのエゼルチトからはもう見えないところへ来ている。
(そろそろ、薬の投下を始めよう)
寄り道は禁じられたので、完成した抗生物質をアッズーロ達に渡すためには、ミニエラ・ディ・カルボーネ鉱山への道中で落としていくしかない。
(まるで『ヘンゼルとグレーテル』の「白い小石」みたいになるね……。でも、オリッゾンテ・ブル軍のみんなが拾ってくれたら、寧ろ「麺麭屑」かな……)
生真面目な姉シフ・デル・ホフヌンクが丁寧に教えてくれた童話を、思考回路で一瞬だけ再生してから、ナーヴェは船体の内部作業腕二本と外部作業腕四本を稼動させた。澱粉で作った小さな繭に入れた抗生物質を、更に百個ずつ薄い羊毛の袋に入れて、順繰りに数十米下の地表へ投下していく。羊毛は、昨夜から先刻に掛けて、船内に入れた羊達から少しずつ貰ったものだ。採取したものから必要なものを素早く創り上げる性能は、この本体になっても、かなり優秀だと自負している。
羊毛を染色することまではできなかったので、地表に点々と落ちて連なる袋は白い。
(やっぱり、「白い小石」みたいに見えるね……)
ヘンゼルが道々落とした「白い小石」は、彼らを導いて無事に家へ帰らせた。
(ぼくも、ちゃんときみの許へ帰れるように、努力しないとね……)
あの優しい王を、これ以上傷つけたくはない。肉体の子宮内にいるセーメも心配だ。胎盤は順調に形成されている途上だが、肉体の状態が悪化すれば、何が起こるか分からない。テゾーロにも、もっと歌ってやりたい。フィオーレやラディーチェ、ポンテやミエーレやレーニョにも心配を掛けたくない――。
(ああ、駄目だ、これも不具合だね……。油断すると、家族のことばかり、身近な人のことばかり、演算してしまう……)
自己嫌悪に陥りながら、ナーヴェは黙々と抗生物質の投下を続けた。
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「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
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