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番外編 ナーヴェの花嫁姿 一
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一
先日、父親からテゾーロと名づけられた胎児は、肉体の胎盤の中で元気に動いている。正直、重くて怠いが、それ以上に幸せと感じるから不思議だ。
(まあ、とても怠惰に、ごろごろさせて貰っているし、ね……)
過保護な王は、ナーヴェが一人で歩くのを見るたび、眉をひそめて駆け寄ってくるので困る。
(健康のためには、動くことも大切なんだけれど……。ぼくの歩き方が危なっかしい所為もあるのかな……)
妊娠している肉体というものは、本当に扱いが難しい。
(でも、きみを無事に産むまで、努力するからね……)
ナーヴェは妊娠五ヶ月にならんとする膨らんだ腹をそっと撫で、柔らかな朝日の中、目を開けた。
「起きたか」
すぐに王が声を掛けてくる。ナーヴェが目覚めるのを待ち侘びていたようだ。
「急ぎの用があるなら、起こしてくれて構わないけれど?」
ナーヴェが応じると、既に着替えを終えた王は、寝台に歩み寄ってきて腰掛けた。
「そこまで急ぎという訳ではない。眠りたいだけ眠るがよい。ただ、相談があってな」
見下ろしてくる青空色の双眸には、慈愛と懸念の色がある。ナーヴェは目を瞬いた。
「改めて『相談』だなんて、きみらしくないね。何か深刻な案件があるのかい?」
テッラ・ロッサへと繋げる水路工事で、問題が起きたのだろうか。
「ふむ。そなたの皮肉なぞ軽く聞き流せるほど、極めて深刻な案件だ」
若き王は大真面目な表情で頷いた。
「……別に、『皮肉』ではなくて、事実の指摘なんだけれど」
呟いたナーヴェの頬に優しく触れ、アッズーロは明かした。
「来月、仲秋の月十五の日に、われとそなたの婚儀を執り行なう。われらの婚姻について、大臣どもの同意は疾うに取り付けた上、そなたは既に懐妊済みだからな。何の問題もない。問題は、そなたがどのような衣装で婚儀に臨むかだ」
「……相談すべきは、服装ではなくて、婚儀を行なう、ということのほうだと思うんだけれど」
婚儀について初耳だったナーヴェは、控え目に抗議した。全く、この王は幾ら窘めても、独断専行をやめようとしない。
(チェーロに、王太子の教育について、もっと助言しておくんだった……)
後悔先に立たず、である――。
「婚儀は、必ず執り行なうべきもの。相談する必要はあるまい?」
アッズーロは軽く片眉を上げて言い放つと、大真面目な表情に戻って告げた。
「それより衣装だ。そなたの腹はこのように膨らんでおるし、そもそも、そなたは初夜であっても常の服装を貫いた頑固者ゆえ、どのようにすべきか、われにも判断が付かぬのだ」
「この体型で着られる服なら、別に何でも着るよ。ただ、できるだけ綺麗に荘厳に見せるほうが、政治的に意味があると思う」
ナーヴェが意見を述べると、アッズーロは、軽く驚いた顔になった。
「婚礼衣装は嫌がらんのか?」
「……嫌がってほしいのかい?」
ナーヴェは怪訝な思いで問い返した。
「いや、そうではないが……」
アッズーロは憮然とした口調で言う。
「初夜の時は、あれほど頑なだったではないか。そなたらしくもなく、フィオーレも随分と困らせて」
「あの時は……、ぼくがきみの妃になって、きみの子の母になるなんて、絶対にすべきではないと思っていたから……」
ナーヴェは溜め息交じりに答えた。ほんの五ヶ月前から、疑似人格電脳としての自分の在りようも随分と変わったものだ。
「ならば、今はどうなのだ……?」
アッズーロは心配そうに訊いてきた。ナーヴェのことを愛していると言うだけあって、最近は独断専行ながら、随分とナーヴェの意思を気にしてくる。疑似人格電脳としては複雑な気分だ。
「今は――、嬉しい、かな。この状況を、ぼくは前向きに受け入れている。きみのお陰で肉体を持って、きみのお陰で妊娠して、そうだね、疑似人格電脳がこんなことをしてはいけないと知りつつも、ぼくは、喜んでいるよ」
「そうか」
アッズーロは優しく目を細めると、ナーヴェの頬から顎へ手を動かして口付けてきた。唇を上、下と啄み、前歯を舐めてから、中へ入ってくる。ナーヴェの舌を舌で捕らえて、嬲ってくる。
「……ぁ、はあ」
息が上がる。けれど、気持ちいい。
(きみに触れられるのだけは、こんなにも快感だなんて、酷い不具合だよ……)
肉体というものは、時に度し難い。ナーヴェが陶然となっているからか、アッズーロの舌は、どんどんと奥まで入ってくる。目の端で見れば、先ほどまで寝室にいたフィオーレとミエーレは、遠慮して姿を消してしまっている。
(アッズーロ、ちゃんと歯止めが利くかな……?)
テゾーロに悪影響が出るような行為は防がなければならない。だが、ナーヴェが行動を起こす前に、若い王は不意に口付けを終えた。
「……ナーヴェ」
真上から見下ろしてきて、王は苦い声を出す。
「そのように蕩けた顔を致すな。わが理性を試す気か」
「……ぼくの所為、なのかい……?」
ナーヴェは息も絶え絶えに言い返した。
「そうだ」
アッズーロは、青い髪に指を絡めながら決めつけてくる。
「そなたが、愛らし過ぎるのだ」
「……今度、機会があれば、本体の培養槽で、外見を、少し変えようか……?」
「ならん! そなたはそのままがよいのだ」
アッズーロの即答に、ナーヴェは苦笑した。全く、我が儘な王だ。だが愛しい。
(やっぱり、ぼくの不具合は相当酷いね……)
「――とりあえず、婚礼衣装は着るのだな?」
話題を戻してきたアッズーロに、ナーヴェは枕の上で首を縦に振った。
「うん。破廉恥なものでない限りは、ちゃんと着るよ」
「破廉恥なもの、か……」
アッズーロの双眸に、不穏な光が宿る。
「よいかもしれん……」
「ちょっと、アッズーロ……?」
不安を覚えたナーヴェに、青年王は悪戯っぽい笑みを向けた。
「安心せよ。臣下どもにそなたの破廉恥な姿を見せたりなぞ絶対にせん。だが、われだけが見る夜着ならば、破廉恥なものもありかもしれん……」
「嫌だよ、そんな、何の必要性もないのに、破廉恥な格好をするなんて……」
顔をしかめて再考を促したナーヴェに、アッズーロは胸を張った。
「必要性はあるぞ。わが目を大いに楽しませ、子作りの成功率を上げる、というな。王に多くの子が授かるというは、国にとって重要なことであろう?」
「……それは認めるけれど、テゾーロを妊娠している今は必要ないし、きみは、ぼくがそんな格好をしなくても、充分、高い成功率を保てると思うよ……?」
懸命に説得したナーヴェに、アッズーロは肩を竦めた。
「冗談だ。戯れ言を信じるでない。そなたは、そのままでよいと言うたであろう? だが、婚儀は別だ。わが臣下ども、民どもに、そなたが如何に妃に相応しいかを示さねばならんからな」
説得の成功に、ナーヴェは安堵して王の双眸を真っ直ぐに見上げ、微笑んだ。
「うん。分かっているよ」
「では、早速、衣装係の者どもに命じて、製作に取り掛からせるとしよう」
アッズーロは満足げに宣言し、もう一度ナーヴェの頬を撫でてから廊下へ向かって声を張る。
「ミエーレ、朝食の準備を致せ。フィオーレ、レーニョを呼ぶがよい」
「仰せのままに」
「畏まりました」
ミエーレとフィオーレの声が応じて、静かな足音が遠ざかっていった。
「今日の朝食は何だい?」
ナーヴェは楽しみに尋ねた。悪阻で食べられなくなったものもあるが、新たに好むようになったものもある。アッズーロはその全てを把握して、献立を考えてくれるのだ。
「うむ」
アッズーロは得意そうに教えてくれる。
「発酵乳に干し杏を混ぜたもの。胡桃と兎の挽肉の月餅。それに梨果汁だ」
「月餅は久し振りだね。それに、ちゃんと発酵乳を献立に入れてあるんだ。ありがとう、嬉しいよ」
ナーヴェは心の底から礼を述べた。悪阻の所為で乾酪は食べられなくなったが、逆に発酵乳は大好物となっているのだ。
「ふむ。そなたの喜びはわが歓び。しっかりと食して、元気な子を産むがよい」
「うん。そうできるよう、努力するよ」
ナーヴェはアッズーロの助けを借りて、寝台から起き上がった。そこへ、涼やかなフィオーレの声が廊下から聞こえた。
「陛下、レーニョを呼んで参りました」
「レーニョ、そこで聞け」
アッズーロは再び声を張る。幼馴染みの侍従にすら、寝起きのナーヴェを見せる気はないらしい。
「ナーヴェの婚礼衣装を衣装係に命じて作らせよ。まずはナーヴェの朝食後に採寸に来させるがよい」
「仰せのままに」
生真面目なレーニョの声が、明るく応じた。
目に見えて腹が膨らんできたナーヴェの動きは、いつ見ても危なっかしい。アッズーロは片時も離れず、その着替えを手伝ってから、フィオーレに命じて、卓をナーヴェの寝台まで運ばせた。そこへ、ミエーレが運んできた朝食を並べる。アッズーロは自ら椅子を運んで、寝台脇に置き、ナーヴェをすぐ支えられる位置に座った。
「見た目も綺麗で、美味しそうだね」
ナーヴェは発酵乳に浮かぶ干し杏の薄切りや、月餅の上で模様を描く蜂蜜に、花のような笑顔になる。可愛い。少し億劫そうに腹に手を添えて卓に向かう姿すら愛らしい。
(孕み女を愛らしく思うなぞ、昔は考えもせなんだがな……。どのような姿でも愛らしく思うは、そなたゆえか)
アッズーロは宝の魅力に感心しながら、肉刀を使い、ナーヴェの皿の月餅二つを、それぞれ四切れずつに切り分けてやった。
「ありがとう」
律儀に、可愛らしく礼を述べて、ナーヴェはいつものように食べ物へ感謝を捧げる。
「命達よ、いただきます」
「存分に味わうがよい」
アッズーロは、ナーヴェが匙を取って、まずは発酵乳から食べ始めるのを暫く見守ってから、自身も匙を取った。
悪阻がある以外は、ナーヴェの食欲に問題はない。テゾーロと名づけた胎児の成長も順調だという。だが、産まれるまで予断を許さないのが妊娠というものだ。アッズーロは発酵乳を一口含んで味を確かめてから、最愛に問うた。
「何か他にも食べたいものがあれば、遠慮なく申すがよい」
「きみがぼくとこの子のために考えてくれる献立が、何より嬉しいよ」
ナーヴェは瑠璃色の双眸でアッズーロを見つめ、微笑む。
「そうか。ならば、毎食、知恵を絞って考えるとしよう」
アッズーロは微笑み返して、発酵乳を平らげていった。王城料理長チューゾは、アッズーロが求めた通りの味を創り出している。ナーヴェの感嘆を引き出した料理の飾り付けもチューゾの功績だ。
(また褒めてやらんとな)
寡黙なチューゾは喜怒哀楽をあまり表さないが、アッズーロの言葉は一つ一つ真摯に受け止め、研鑽し続ける優秀な料理人だ。
(チューゾにも、一度、献立案を訊いてみるか)
妊婦向けの料理について、新しい知識を仕入れられるかもしれない。アッズーロは研究心を募らせつつ、自らの月餅を切り分けた。
発酵乳を美味しそうに食べ終えたナーヴェは、月餅も兎の挽肉入りのほうから口に入れて幸せそうに咀嚼している。その顔を見ていると、アッズーロも満たされた気分になる。ナーヴェは、月餅の最初の一切れを呑み込んでから、輝く目をアッズーロへ向けた。
「香ばしいのに、優しい味だね……! 刻んで入れてある香草は何だい?」
「韮だ。羊や豚によく合わせるが、兎にも合うかと思うてな。そなたは悪阻で胡荽や三葉が食べられんようになったが、玉葱は大丈夫とも言うておったから、味の似ておる韮なら問題なかろう?」
「うん。とても美味しいよ。そう、これが韮なんだ……!」
味や匂いにとりわけ感動するナーヴェは、初めて味わう香草に舌鼓を打っている。
(これからは、香草の類もいろいろと使ってみるか。まあ、こやつも悪阻で香りの好き嫌いが激しくなっておるから、試し試しだが)
アッズーロはさまざまな香草を思い浮かべながら、自分も兎挽肉の月餅から食べていった。こちらも、チューゾはアッズーロの注文通りに作っている。
(火の通し方も完璧よな)
満足したアッズーロの視線の先で、ナーヴェは兎挽肉の月餅を食べ終え、胡桃の月餅に肉叉を伸ばした。一切れずつ胡桃の月餅を頬張り、目を細めている宝は、本当に愛おしい。
(王でなければ、そなたを喜ばせるために日夜、厨房で、われ自身が研鑽を積むのだが。しかし、王でないわれには、そなたは用がなかろうからな)
胸中で溜め息をつき、アッズーロは自らも胡桃の月餅の味を確かめていった。目の前で、宝は綺麗に月餅を食べ尽くしていく。食欲旺盛なようで、安心だ。やがて梨果汁まで全てを胃に収めた最愛は、幸福そうにアッズーロを見つめて言った。
「ごちそうさまでした」
「腹は一杯か?」
アッズーロが尋ねると、ナーヴェは笑顔で頷いた。
「うん。丁度いい量だったよ。きみの料理に関する計算は、いつもとても正確だね」
「そなたの胃袋については、好みも容量も、ほぼ掌握したゆえな。わが努力を大いに褒め称えるがよい」
胸を張ったアッズーロに、ナーヴェは相好を崩す。
「きみのそういうところは、本当に凄いなあと思うよ。テゾーロのためもあるんだろうけれど、毎日美味しいものを食べさせて貰えて、ちょっと幸せ過ぎるくらいだよ」
最愛からそのように言われると、胸が熱くなる。アッズーロは残っていた梨果汁を飲み干し、無言で席を立つと、ナーヴェの後頭部と顎に手を添えて些か強引に口付けた。
「っ……」
ナーヴェは驚いたようだったが、抵抗はしない。そのまま、食べさせた料理の味がするナーヴェの口腔内を味わい、舌を絡めて、アッズーロは口付けを深くした。可愛い舌を裏も表も根元から舐め上げると、ナーヴェの息が上がっていく。目の端に見える平らな胸が激しく上下し始めたので、アッズーロは名残惜しく口付けを終えた。
「っはぁ」
大きく息をついて、ナーヴェは涙目でアッズーロを見上げる。
「どうしたんだい、急に……?」
「そなたがわれを煽るようなことを言うからだ」
アッズーロは、当惑しているらしい宝の前髪を掻き遣って、今度は額に軽く接吻を落としてから、華奢な肩を抱き寄せて寝台に腰掛けた。そうして、形のいい顎を捉え、もう一度、宝の柔らかな唇に口付ける。
「ん……」
困った様子で、けれどアッズーロを素直に受け入れる宝を、もっと味わいたい。フィオーレとミエーレがそそくさと廊下へ出ていくのを視界の隅で確認しつつ、アッズーロはナーヴェを優しく寝台の上へ押し倒した。
先日、父親からテゾーロと名づけられた胎児は、肉体の胎盤の中で元気に動いている。正直、重くて怠いが、それ以上に幸せと感じるから不思議だ。
(まあ、とても怠惰に、ごろごろさせて貰っているし、ね……)
過保護な王は、ナーヴェが一人で歩くのを見るたび、眉をひそめて駆け寄ってくるので困る。
(健康のためには、動くことも大切なんだけれど……。ぼくの歩き方が危なっかしい所為もあるのかな……)
妊娠している肉体というものは、本当に扱いが難しい。
(でも、きみを無事に産むまで、努力するからね……)
ナーヴェは妊娠五ヶ月にならんとする膨らんだ腹をそっと撫で、柔らかな朝日の中、目を開けた。
「起きたか」
すぐに王が声を掛けてくる。ナーヴェが目覚めるのを待ち侘びていたようだ。
「急ぎの用があるなら、起こしてくれて構わないけれど?」
ナーヴェが応じると、既に着替えを終えた王は、寝台に歩み寄ってきて腰掛けた。
「そこまで急ぎという訳ではない。眠りたいだけ眠るがよい。ただ、相談があってな」
見下ろしてくる青空色の双眸には、慈愛と懸念の色がある。ナーヴェは目を瞬いた。
「改めて『相談』だなんて、きみらしくないね。何か深刻な案件があるのかい?」
テッラ・ロッサへと繋げる水路工事で、問題が起きたのだろうか。
「ふむ。そなたの皮肉なぞ軽く聞き流せるほど、極めて深刻な案件だ」
若き王は大真面目な表情で頷いた。
「……別に、『皮肉』ではなくて、事実の指摘なんだけれど」
呟いたナーヴェの頬に優しく触れ、アッズーロは明かした。
「来月、仲秋の月十五の日に、われとそなたの婚儀を執り行なう。われらの婚姻について、大臣どもの同意は疾うに取り付けた上、そなたは既に懐妊済みだからな。何の問題もない。問題は、そなたがどのような衣装で婚儀に臨むかだ」
「……相談すべきは、服装ではなくて、婚儀を行なう、ということのほうだと思うんだけれど」
婚儀について初耳だったナーヴェは、控え目に抗議した。全く、この王は幾ら窘めても、独断専行をやめようとしない。
(チェーロに、王太子の教育について、もっと助言しておくんだった……)
後悔先に立たず、である――。
「婚儀は、必ず執り行なうべきもの。相談する必要はあるまい?」
アッズーロは軽く片眉を上げて言い放つと、大真面目な表情に戻って告げた。
「それより衣装だ。そなたの腹はこのように膨らんでおるし、そもそも、そなたは初夜であっても常の服装を貫いた頑固者ゆえ、どのようにすべきか、われにも判断が付かぬのだ」
「この体型で着られる服なら、別に何でも着るよ。ただ、できるだけ綺麗に荘厳に見せるほうが、政治的に意味があると思う」
ナーヴェが意見を述べると、アッズーロは、軽く驚いた顔になった。
「婚礼衣装は嫌がらんのか?」
「……嫌がってほしいのかい?」
ナーヴェは怪訝な思いで問い返した。
「いや、そうではないが……」
アッズーロは憮然とした口調で言う。
「初夜の時は、あれほど頑なだったではないか。そなたらしくもなく、フィオーレも随分と困らせて」
「あの時は……、ぼくがきみの妃になって、きみの子の母になるなんて、絶対にすべきではないと思っていたから……」
ナーヴェは溜め息交じりに答えた。ほんの五ヶ月前から、疑似人格電脳としての自分の在りようも随分と変わったものだ。
「ならば、今はどうなのだ……?」
アッズーロは心配そうに訊いてきた。ナーヴェのことを愛していると言うだけあって、最近は独断専行ながら、随分とナーヴェの意思を気にしてくる。疑似人格電脳としては複雑な気分だ。
「今は――、嬉しい、かな。この状況を、ぼくは前向きに受け入れている。きみのお陰で肉体を持って、きみのお陰で妊娠して、そうだね、疑似人格電脳がこんなことをしてはいけないと知りつつも、ぼくは、喜んでいるよ」
「そうか」
アッズーロは優しく目を細めると、ナーヴェの頬から顎へ手を動かして口付けてきた。唇を上、下と啄み、前歯を舐めてから、中へ入ってくる。ナーヴェの舌を舌で捕らえて、嬲ってくる。
「……ぁ、はあ」
息が上がる。けれど、気持ちいい。
(きみに触れられるのだけは、こんなにも快感だなんて、酷い不具合だよ……)
肉体というものは、時に度し難い。ナーヴェが陶然となっているからか、アッズーロの舌は、どんどんと奥まで入ってくる。目の端で見れば、先ほどまで寝室にいたフィオーレとミエーレは、遠慮して姿を消してしまっている。
(アッズーロ、ちゃんと歯止めが利くかな……?)
テゾーロに悪影響が出るような行為は防がなければならない。だが、ナーヴェが行動を起こす前に、若い王は不意に口付けを終えた。
「……ナーヴェ」
真上から見下ろしてきて、王は苦い声を出す。
「そのように蕩けた顔を致すな。わが理性を試す気か」
「……ぼくの所為、なのかい……?」
ナーヴェは息も絶え絶えに言い返した。
「そうだ」
アッズーロは、青い髪に指を絡めながら決めつけてくる。
「そなたが、愛らし過ぎるのだ」
「……今度、機会があれば、本体の培養槽で、外見を、少し変えようか……?」
「ならん! そなたはそのままがよいのだ」
アッズーロの即答に、ナーヴェは苦笑した。全く、我が儘な王だ。だが愛しい。
(やっぱり、ぼくの不具合は相当酷いね……)
「――とりあえず、婚礼衣装は着るのだな?」
話題を戻してきたアッズーロに、ナーヴェは枕の上で首を縦に振った。
「うん。破廉恥なものでない限りは、ちゃんと着るよ」
「破廉恥なもの、か……」
アッズーロの双眸に、不穏な光が宿る。
「よいかもしれん……」
「ちょっと、アッズーロ……?」
不安を覚えたナーヴェに、青年王は悪戯っぽい笑みを向けた。
「安心せよ。臣下どもにそなたの破廉恥な姿を見せたりなぞ絶対にせん。だが、われだけが見る夜着ならば、破廉恥なものもありかもしれん……」
「嫌だよ、そんな、何の必要性もないのに、破廉恥な格好をするなんて……」
顔をしかめて再考を促したナーヴェに、アッズーロは胸を張った。
「必要性はあるぞ。わが目を大いに楽しませ、子作りの成功率を上げる、というな。王に多くの子が授かるというは、国にとって重要なことであろう?」
「……それは認めるけれど、テゾーロを妊娠している今は必要ないし、きみは、ぼくがそんな格好をしなくても、充分、高い成功率を保てると思うよ……?」
懸命に説得したナーヴェに、アッズーロは肩を竦めた。
「冗談だ。戯れ言を信じるでない。そなたは、そのままでよいと言うたであろう? だが、婚儀は別だ。わが臣下ども、民どもに、そなたが如何に妃に相応しいかを示さねばならんからな」
説得の成功に、ナーヴェは安堵して王の双眸を真っ直ぐに見上げ、微笑んだ。
「うん。分かっているよ」
「では、早速、衣装係の者どもに命じて、製作に取り掛からせるとしよう」
アッズーロは満足げに宣言し、もう一度ナーヴェの頬を撫でてから廊下へ向かって声を張る。
「ミエーレ、朝食の準備を致せ。フィオーレ、レーニョを呼ぶがよい」
「仰せのままに」
「畏まりました」
ミエーレとフィオーレの声が応じて、静かな足音が遠ざかっていった。
「今日の朝食は何だい?」
ナーヴェは楽しみに尋ねた。悪阻で食べられなくなったものもあるが、新たに好むようになったものもある。アッズーロはその全てを把握して、献立を考えてくれるのだ。
「うむ」
アッズーロは得意そうに教えてくれる。
「発酵乳に干し杏を混ぜたもの。胡桃と兎の挽肉の月餅。それに梨果汁だ」
「月餅は久し振りだね。それに、ちゃんと発酵乳を献立に入れてあるんだ。ありがとう、嬉しいよ」
ナーヴェは心の底から礼を述べた。悪阻の所為で乾酪は食べられなくなったが、逆に発酵乳は大好物となっているのだ。
「ふむ。そなたの喜びはわが歓び。しっかりと食して、元気な子を産むがよい」
「うん。そうできるよう、努力するよ」
ナーヴェはアッズーロの助けを借りて、寝台から起き上がった。そこへ、涼やかなフィオーレの声が廊下から聞こえた。
「陛下、レーニョを呼んで参りました」
「レーニョ、そこで聞け」
アッズーロは再び声を張る。幼馴染みの侍従にすら、寝起きのナーヴェを見せる気はないらしい。
「ナーヴェの婚礼衣装を衣装係に命じて作らせよ。まずはナーヴェの朝食後に採寸に来させるがよい」
「仰せのままに」
生真面目なレーニョの声が、明るく応じた。
目に見えて腹が膨らんできたナーヴェの動きは、いつ見ても危なっかしい。アッズーロは片時も離れず、その着替えを手伝ってから、フィオーレに命じて、卓をナーヴェの寝台まで運ばせた。そこへ、ミエーレが運んできた朝食を並べる。アッズーロは自ら椅子を運んで、寝台脇に置き、ナーヴェをすぐ支えられる位置に座った。
「見た目も綺麗で、美味しそうだね」
ナーヴェは発酵乳に浮かぶ干し杏の薄切りや、月餅の上で模様を描く蜂蜜に、花のような笑顔になる。可愛い。少し億劫そうに腹に手を添えて卓に向かう姿すら愛らしい。
(孕み女を愛らしく思うなぞ、昔は考えもせなんだがな……。どのような姿でも愛らしく思うは、そなたゆえか)
アッズーロは宝の魅力に感心しながら、肉刀を使い、ナーヴェの皿の月餅二つを、それぞれ四切れずつに切り分けてやった。
「ありがとう」
律儀に、可愛らしく礼を述べて、ナーヴェはいつものように食べ物へ感謝を捧げる。
「命達よ、いただきます」
「存分に味わうがよい」
アッズーロは、ナーヴェが匙を取って、まずは発酵乳から食べ始めるのを暫く見守ってから、自身も匙を取った。
悪阻がある以外は、ナーヴェの食欲に問題はない。テゾーロと名づけた胎児の成長も順調だという。だが、産まれるまで予断を許さないのが妊娠というものだ。アッズーロは発酵乳を一口含んで味を確かめてから、最愛に問うた。
「何か他にも食べたいものがあれば、遠慮なく申すがよい」
「きみがぼくとこの子のために考えてくれる献立が、何より嬉しいよ」
ナーヴェは瑠璃色の双眸でアッズーロを見つめ、微笑む。
「そうか。ならば、毎食、知恵を絞って考えるとしよう」
アッズーロは微笑み返して、発酵乳を平らげていった。王城料理長チューゾは、アッズーロが求めた通りの味を創り出している。ナーヴェの感嘆を引き出した料理の飾り付けもチューゾの功績だ。
(また褒めてやらんとな)
寡黙なチューゾは喜怒哀楽をあまり表さないが、アッズーロの言葉は一つ一つ真摯に受け止め、研鑽し続ける優秀な料理人だ。
(チューゾにも、一度、献立案を訊いてみるか)
妊婦向けの料理について、新しい知識を仕入れられるかもしれない。アッズーロは研究心を募らせつつ、自らの月餅を切り分けた。
発酵乳を美味しそうに食べ終えたナーヴェは、月餅も兎の挽肉入りのほうから口に入れて幸せそうに咀嚼している。その顔を見ていると、アッズーロも満たされた気分になる。ナーヴェは、月餅の最初の一切れを呑み込んでから、輝く目をアッズーロへ向けた。
「香ばしいのに、優しい味だね……! 刻んで入れてある香草は何だい?」
「韮だ。羊や豚によく合わせるが、兎にも合うかと思うてな。そなたは悪阻で胡荽や三葉が食べられんようになったが、玉葱は大丈夫とも言うておったから、味の似ておる韮なら問題なかろう?」
「うん。とても美味しいよ。そう、これが韮なんだ……!」
味や匂いにとりわけ感動するナーヴェは、初めて味わう香草に舌鼓を打っている。
(これからは、香草の類もいろいろと使ってみるか。まあ、こやつも悪阻で香りの好き嫌いが激しくなっておるから、試し試しだが)
アッズーロはさまざまな香草を思い浮かべながら、自分も兎挽肉の月餅から食べていった。こちらも、チューゾはアッズーロの注文通りに作っている。
(火の通し方も完璧よな)
満足したアッズーロの視線の先で、ナーヴェは兎挽肉の月餅を食べ終え、胡桃の月餅に肉叉を伸ばした。一切れずつ胡桃の月餅を頬張り、目を細めている宝は、本当に愛おしい。
(王でなければ、そなたを喜ばせるために日夜、厨房で、われ自身が研鑽を積むのだが。しかし、王でないわれには、そなたは用がなかろうからな)
胸中で溜め息をつき、アッズーロは自らも胡桃の月餅の味を確かめていった。目の前で、宝は綺麗に月餅を食べ尽くしていく。食欲旺盛なようで、安心だ。やがて梨果汁まで全てを胃に収めた最愛は、幸福そうにアッズーロを見つめて言った。
「ごちそうさまでした」
「腹は一杯か?」
アッズーロが尋ねると、ナーヴェは笑顔で頷いた。
「うん。丁度いい量だったよ。きみの料理に関する計算は、いつもとても正確だね」
「そなたの胃袋については、好みも容量も、ほぼ掌握したゆえな。わが努力を大いに褒め称えるがよい」
胸を張ったアッズーロに、ナーヴェは相好を崩す。
「きみのそういうところは、本当に凄いなあと思うよ。テゾーロのためもあるんだろうけれど、毎日美味しいものを食べさせて貰えて、ちょっと幸せ過ぎるくらいだよ」
最愛からそのように言われると、胸が熱くなる。アッズーロは残っていた梨果汁を飲み干し、無言で席を立つと、ナーヴェの後頭部と顎に手を添えて些か強引に口付けた。
「っ……」
ナーヴェは驚いたようだったが、抵抗はしない。そのまま、食べさせた料理の味がするナーヴェの口腔内を味わい、舌を絡めて、アッズーロは口付けを深くした。可愛い舌を裏も表も根元から舐め上げると、ナーヴェの息が上がっていく。目の端に見える平らな胸が激しく上下し始めたので、アッズーロは名残惜しく口付けを終えた。
「っはぁ」
大きく息をついて、ナーヴェは涙目でアッズーロを見上げる。
「どうしたんだい、急に……?」
「そなたがわれを煽るようなことを言うからだ」
アッズーロは、当惑しているらしい宝の前髪を掻き遣って、今度は額に軽く接吻を落としてから、華奢な肩を抱き寄せて寝台に腰掛けた。そうして、形のいい顎を捉え、もう一度、宝の柔らかな唇に口付ける。
「ん……」
困った様子で、けれどアッズーロを素直に受け入れる宝を、もっと味わいたい。フィオーレとミエーレがそそくさと廊下へ出ていくのを視界の隅で確認しつつ、アッズーロはナーヴェを優しく寝台の上へ押し倒した。
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