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第十六章 王として 三
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三
〈到着した〉
沈黙を破って告げ、ナーヴェ本体は降下を始めた。行きよりは随分と穏やかに王城の庭園へ着陸し、全員の座席帯を外して扉も開ける。アッズーロは立ち上がり、操縦席のナーヴェの肉体を、注意深く抱き上げた。
「……ごめ……ん」
微かに肉体の口を動かし、ナーヴェが謝る。右肩の包帯は既に全て血に染まり、白い腕を血が伝っている。相当痛むはずだ。
「済んだことはよい。それよりも、治療に専念せよ」
言い聞かせて、アッズーロは惑星調査船を降りた。
「陛下、ナーヴェ様!」
フィオーレが珍しく大きな声を上げて、レーニョとともに走り寄ってくる。アッズーロは玄関へ歩きながら、それぞれに命じた。
「フィオーレ、メーディコに銃創の手当ての準備をさせて寝室へ連れて参れ。レーニョ、バーゼを大臣会議に参加させて反乱民どもの内情を報告させよ。われはナーヴェの体調が落ち着き次第行く」
「はい、ただちに!」
「仰せのままに」
フィオーレとレーニョは、各々一礼し、命令を遂行するため、また走っていく。アッズーロはそのまま足を緩めることなく玄関を入り、階段を上がり、回廊を歩いて、寝室へ直行した。腕に抱えたナーヴェは、つらそうな表情で目を閉じたままだ。その顔を見ていると、胸が掻き毟られるような気持ちになる。ナーヴェは「彼ら」と言った。つまり、一人の狼藉ですらなかったのだ。何故、これほどの重症を負ったいたいけな少女に、輪姦などという悍ましいことができたのだろう。
(われは許さん……! そなたが何と言おうと、われは、あやつらを許さんからな……!)
アッズーロは怒気を表情に上らせながら寝室に入り、出迎えたポンテには目もくれず、ナーヴェの寝台に歩み寄った。右肩に負担が掛からないよう、ゆっくりと寝かせ、乱れた長く青い髪を直してやる。重症を負った宝に対し、自分は、そのくらいしかできない――。
「陛下、お待たせ致しました」
診察道具の入った鞄を抱えたメーディコが、急ぎ足で入ってきた。その後ろには肩で息をしているフィオーレもいる。まるで自分が大怪我を負ったような悲壮な表情だ。
「出血が酷い。骨折もしているらしい。弾は抜いたが、その際、焼いた火箸を使った所為で、火傷も負ったそうだ」
アッズーロは告げながら、寝台脇の場所をメーディコに譲った。
「分かりました。とにかく、まずは診てみます」
メーディコは寝台の端に置いた鞄から鋏を取り出し、ナーヴェの包帯を切って丁寧に外していく。顕になっていく酷い傷口に、アッズーロは唇を噛んだ。
深い穴のような銃創からは、鮮血が溢れ続けている。銃創の周囲は、ところどころ引き攣れたような火傷になっている。その傷口を更に開くようにして、メーディコが覗き込んだ。
「あっ、うっ……」
ナーヴェが呻いて身を捩る。アッズーロは思わずメーディコの肩に手を掛けた。
「やめぬか! 痛がっておるではないか!」
「いい……から、アッズーロ……」
息も絶え絶えに、ナーヴェが口を挟んでくる。
「メーディコ……は、きちんと、診てくれようと、しているだけ……」
「申し訳ございません。ですが、今暫くの御辛抱を」
メーディコは、ナーヴェとアッズーロ双方に向けて頭を下げ、診察を続けた。ナーヴェは、声を上げまいとしてか、歯を食い縛って耐えている。ぎゅっと閉じたその目尻から、涙が溢れて耳のほうへ流れていく。アッズーロは寝台の反対側へ回り込み、指先で、流れる涙を拭ってやった。自分には、そのくらいのことしかできない――。
傷口を覗き終えたメーディコは、次に、そっと右肩全体を触診し始めた。それもまた痛むのか、ナーヴェは殆ど息を止めて耐えている。
「少し動かします」
メーディコが前置きして右腕を掴み、僅かに動かした時には、ナーヴェは頭を振って涙を零した。
「――やはり、折れておりますな」
沈痛な面持ちで、メーディコはナーヴェから手を離し、診断結果を述べる。
「出血、火傷、骨折。どれも酷うございます。特に骨折は、常人であれば、一生涯、肩が上がらなくなるほどの複雑骨折をなさっておられます。とにかく、一切動かさぬように固定し、薬草を貼り、朝夕包帯を変えるしか手の施しようがございませぬ。後は、ナーヴェ様御自身の、驚異的な回復力に頼るのみです。傷口は、火傷の痕が残らぬよう、できるだけ綺麗に整え、縫いましょう。わたくしにできるのは、そこまででございます」
冷静に締め括った侍医に、アッズーロは文句を言った。
「結局、殆どナーヴェの極小機械頼みではないか」
「さようでございます」
殊勝に、メーディコは頷く。
「このお方は、いつもいつも、無茶をなさい過ぎます。もっと御身大切にと申し上げたいところではございますが、それは陛下が充分に仰っておられますでしょう。わたくしにできることと言えば、誠心誠意、御快復のお手伝いをする、ただそれだけにございます」
小柄な壮年の侍医の、丸い顔に浮かんだ慈愛の表情を見て、アッズーロは溜め息をついた。
「よい。分かった。では、おまえにできることを最大限致せ」
「仰せのままに」
メーディコはすぐに自らの鞄を開いて、縫合用の針と糸、消毒のための酒精の瓶、替えの包帯、薬草類などを取り出して、寝台脇の小卓の上に並べていった――。
右肩の銃創をメーディコに丁寧に治療されたナーヴェは、幾分落ち着いた様子で目を開いた。
「メーディコ、ありがとう。凄く綺麗に縫って貰ったと分かるよ。いつもいつも、大変な治療ばかり頼んでごめん」
「いえいえ」
メーディコは、小さな両眼を細めて、優しくナーヴェを見下ろす。
「多少なりともあなた様のお役に立てる。それだけで、身に余る光栄でございます、ナーヴェ様。よくお分かりでしょうが、右肩は動かさず、絶対安静に。暫くは御不自由でしょうが、耐えて下され」
「うん。分かったよ」
素直に返事をしたナーヴェに一礼し、アッズーロにも一礼して、メーディコは鞄を持ち、退室していった。それを見送ったナーヴェは、深い青色の双眸で、アッズーロを見上げてくる。
「アッズーロ……、できれば沐浴をして、体を洗いたいんだけれど、いいかな……?」
「そなた、今、メーディコに『絶対安静に』と言われたばかりであろう?」
眉をひそめて歩み寄り、アッズーロは最愛の顔を覗き込んでから、その全身を見遣った。右肩だけは綺麗にされたが、ナーヴェはまだ血と埃に汚れた長衣を纏ったまま、下半身には何も穿いていない。
「着替えついでに、フィオーレに体を拭かせる。それでは駄目なのか?」
「……もっと……、きちんと洗いたいんだ……。それに……、できれば、きみに洗ってほしい……。きみが、できるだけ早く大臣会議に出なければいけないのは、知っているんだけれど……」
言いにくそうな宝の様子に、アッズーロは目を眇め、了承した。
「分かった」
包帯の上から木製の固定具で固定された右肩に注意しつつ、アッズーロはナーヴェを抱き上げる。戸口へと歩き始めながら、アッズーロは控えているポンテとフィオーレに命じた。
「ポンテ、ナーヴェの着替えを持ってついて参れ。フィオーレ、ナーヴェの掛布と敷布と枕を取り換えよ」
「仰せのままに」
「畏まりました」
それぞれ一礼して、女官達も動き始めた。
二階の回廊から階段を降り、アッズーロはナーヴェを抱えて沐浴場へ入る。円形をした広い人工の水場には、いつも通り澄んだ水が並々と湛えられていた。その端に設けられた段の一つに、下半身が水に浸かるよう慎重にナーヴェを座らせ、その横に、自身は衣を着たままアッズーロも座る。
「まずは衣を脱がせるぞ」
告げて、アッズーロは腰帯に差した小刀を抜き、襤褸雑巾のようになっている長衣と、土と血に汚れた胸当てを切り裂いて脱がせた。その残骸を水場の淵に置き、小刀を収めて、アッズーロは隣からナーヴェの顔を見つめる。
「綺麗にしたいのは、ここか……?」
水の中で左手を動かし、白い足の間に触れると、ナーヴェは泣きそうな表情になって、こくりと頷いた。
「馬鹿者め……。そういうことは、もっとさっさと言うがよい」
低い声で叱って、アッズーロは右手を動かし、傷ついた右肩に気を付けながら、そっと華奢な上半身を抱き寄せる。されるがまま、アッズーロの胸に頭を押し付けたナーヴェは、俯いて、ぽろぽろと涙を零し始めた。
「そなた、本当に、人らしくなったな。そういうところを、あまり隠さぬがよい。特に、われにはな」
囁いたアッズーロに、宝は小さな声で疑問を呈してきた。
「何故……? こんな時に涙を流しても、きみを苛立たせたり悲しませたりするだけで、何の益もないのに……。これは、ただの不具合だよ。せっかく新しい本体になったのに、ぼくはまだ、不具合を起こしてしまう……」
「以前にも言うたであろう?」
アッズーロは、静かに言い聞かせる。
「『不具合』もまた、そなたの学習の一つだ、と。そなたはそうして、一歩一歩、人らしくなっていくのだ。だから、そなたの人らしくなっていく道のりを、隠さずわれに見せるがよい。そなたはわれの宝ゆえ、われは全てを見たいのだ」
「何の益もなく、涙を流すところまでかい……?」
頑固な宝はなかなか納得しない。アッズーロは小さく溜め息をつき、わざと明るく茶化してみた。
「そなたが益のある涙なぞ流し始めたら、さぞ見物であろうな」
ところが、宝は俯いたまま生真面目に応じた。
「――できるよう、努力するよ……」
「たわけ。戯れ言を真に受けるでない」
憮然として、アッズーロは再度言い聞かせる。
「涙に益なぞ求めぬわ。そなたがわれの前で泣く。涙を見せる。その事実に意味があるのだ。他の者の前では泣かぬがよいぞ。その泣き顔は、われ一人のものだ」
「……きみは本当に、変わっているね……」
淡々と呟いたナーヴェの涙は、ぽたぽたと零れ続けて止まらない。アッズーロは水中の左手で、無慈悲に他の男達に暴かれてしまったところを優しく愛撫し、指先を使って、間まで、中まで、できる限り清めていった。
「……もう、大丈夫。ありがとう、アッズーロ」
囁いてきて顔を上げたナーヴェに、アッズーロは軽く口付け、問うた。
「本当に大丈夫か? もっと甘えてよいのだぞ?」
「本当に大丈夫だよ。それに、これ以上、きみの時間を奪うことはできない。大臣達が、国民が、きみの裁定を待っているよ」
最愛は柔らかく微笑んで、政務に戻ることを促した。
「全く、そなたはでき過ぎた妃だ」
アッズーロはぼやいて、傷ついた細い体を注意深く抱き上げ、水場から出る。控えていたポンテがすぐに寄ってきて、手に提げた篭から大きな布を取り出した。体を拭くためのものだ。アッズーロは、水場の脇の台にナーヴェを座らせ、ポンテから布を受け取ると、自ら最愛の体を拭いていった。右肩に障るといけないので、水には下半身しか浸からせていないが、胸の頼りない突起も洗い清めたので、そこも優しく拭いてやる。腫れは少し引いたが、血の滲んだ歯型がまだくっきりと残っているのが腹立たしい。
「――あやつらを殺しはせん。だが、いずれは捕らえて罪を償わせるぞ」
アッズーロが宣告すると、宝は寂しげな表情で頷いた。
「うん。それは仕方ないと思っている。でも、どうか、彼らの未来に繋がる償い方を与えてほしい」
アッズーロは鼻を鳴らしたが、反論はせず、ポンテに布を返し、替わりに胸当てを受け取って、ナーヴェの幼げな胸を覆い、真ん中を結んだ。次いで、下袴を受け取り、ナーヴェを自らの肩に掴まり立ちさせて、片足ずつ通して穿かせ、紐を括ってやる。
「きみは王なのに、結構何でもできるよね……。テゾーロの世話も、器用にこなすし」
ナーヴェが、感心したように呟いた。
「ほぼ毎日そなたの着替えを見ておるのだ。できんほうがおかしいだろう」
憮然として言い返し、アッズーロは手早く筒袴も穿かせて、ナーヴェを座らせる。長く青い髪の上から、すっぽりと長衣を被らせ、頭を出させてから髪も出してやり、左袖だけ腕を通させて、裾を引き下ろした。
「右肩に負担の掛からん衣を仕立てさせたほうがよいか……」
顎に手を当て、考えたアッズーロに、ナーヴェが苦笑する。
「わざわざいいよ。こうして袖を通さず着ていれば、負担は掛からないから」
「御遠慮なさらず、ナーヴェ様。衣の一つや二つ、すぐ縫えますよ」
横からポンテが口添えしてきた。
「でも……」
ナーヴェはすまなそうな顔をする。
「その分、きみ達が忙しくなるだろう?」
「では、暇な時にさせて貰いますよ。それなら宜しいでしょう?」
ポンテは、さすがの貫禄で王の宝を言いくるめてしまった。
「分かった。ありがとう」
律儀に礼を述べた宝を抱き上げ、アッズーロは立ち上がる。自身の下半身はまだ筒袴ごと濡れたままだが、上半身でナーヴェを抱き抱える分には、何の問題もない。
「きみは着替えないのかい? 風邪を引いてしまうよ」
ナーヴェのほうが気にしてきたが、アッズーロは鼻を鳴らして言った。
「人の心配をしたければ、まずは己の体を己で世話できるようになるがよい。この右肩、上がらぬようになるは許さぬぞ」
「……努力するよ……」
しゅんとして、宝はアッズーロの腕の中で項垂れた。そんな姿が、堪らなく愛おしく大切で、だからこそ、傷つけられたことが許せない。
「――そなたを、ずっとわが寝室に閉じ込めて、誰にも触れさせんようにできれば、どんなによかったか……」
つい心の声を漏らしたアッズーロを、ナーヴェは驚いたように見上げてきて、真顔で指摘した。
「それなら、きみはぼくに肉体を持たせるべきではなかった」
鋭い言葉に、アッズーロはナーヴェの澄んだ双眸を見つめ返して黙る。すると、最愛はふっと頬を弛めて告白した。
「でも、ぼくはこうして肉体を持てて、とても嬉しいんだ。きみに、とても感謝している。肉体を持てたお陰で、ぼくは多くの人と関わることができている。人の痛みも喜びも、より深く知ることができた。きみと繋がって、生命の連鎖の一端に連なることすらできた。だから、ぼくにとっても、この肉体は大切なんだ。できる限り、完治を目指すよ」
「――ならばよい」
不覚にも目頭が熱くなったアッズーロは、ナーヴェから視線を逸らすと、沐浴場を出て階段を上がり、西日が差す回廊を歩いて寝室へ戻った。
〈到着した〉
沈黙を破って告げ、ナーヴェ本体は降下を始めた。行きよりは随分と穏やかに王城の庭園へ着陸し、全員の座席帯を外して扉も開ける。アッズーロは立ち上がり、操縦席のナーヴェの肉体を、注意深く抱き上げた。
「……ごめ……ん」
微かに肉体の口を動かし、ナーヴェが謝る。右肩の包帯は既に全て血に染まり、白い腕を血が伝っている。相当痛むはずだ。
「済んだことはよい。それよりも、治療に専念せよ」
言い聞かせて、アッズーロは惑星調査船を降りた。
「陛下、ナーヴェ様!」
フィオーレが珍しく大きな声を上げて、レーニョとともに走り寄ってくる。アッズーロは玄関へ歩きながら、それぞれに命じた。
「フィオーレ、メーディコに銃創の手当ての準備をさせて寝室へ連れて参れ。レーニョ、バーゼを大臣会議に参加させて反乱民どもの内情を報告させよ。われはナーヴェの体調が落ち着き次第行く」
「はい、ただちに!」
「仰せのままに」
フィオーレとレーニョは、各々一礼し、命令を遂行するため、また走っていく。アッズーロはそのまま足を緩めることなく玄関を入り、階段を上がり、回廊を歩いて、寝室へ直行した。腕に抱えたナーヴェは、つらそうな表情で目を閉じたままだ。その顔を見ていると、胸が掻き毟られるような気持ちになる。ナーヴェは「彼ら」と言った。つまり、一人の狼藉ですらなかったのだ。何故、これほどの重症を負ったいたいけな少女に、輪姦などという悍ましいことができたのだろう。
(われは許さん……! そなたが何と言おうと、われは、あやつらを許さんからな……!)
アッズーロは怒気を表情に上らせながら寝室に入り、出迎えたポンテには目もくれず、ナーヴェの寝台に歩み寄った。右肩に負担が掛からないよう、ゆっくりと寝かせ、乱れた長く青い髪を直してやる。重症を負った宝に対し、自分は、そのくらいしかできない――。
「陛下、お待たせ致しました」
診察道具の入った鞄を抱えたメーディコが、急ぎ足で入ってきた。その後ろには肩で息をしているフィオーレもいる。まるで自分が大怪我を負ったような悲壮な表情だ。
「出血が酷い。骨折もしているらしい。弾は抜いたが、その際、焼いた火箸を使った所為で、火傷も負ったそうだ」
アッズーロは告げながら、寝台脇の場所をメーディコに譲った。
「分かりました。とにかく、まずは診てみます」
メーディコは寝台の端に置いた鞄から鋏を取り出し、ナーヴェの包帯を切って丁寧に外していく。顕になっていく酷い傷口に、アッズーロは唇を噛んだ。
深い穴のような銃創からは、鮮血が溢れ続けている。銃創の周囲は、ところどころ引き攣れたような火傷になっている。その傷口を更に開くようにして、メーディコが覗き込んだ。
「あっ、うっ……」
ナーヴェが呻いて身を捩る。アッズーロは思わずメーディコの肩に手を掛けた。
「やめぬか! 痛がっておるではないか!」
「いい……から、アッズーロ……」
息も絶え絶えに、ナーヴェが口を挟んでくる。
「メーディコ……は、きちんと、診てくれようと、しているだけ……」
「申し訳ございません。ですが、今暫くの御辛抱を」
メーディコは、ナーヴェとアッズーロ双方に向けて頭を下げ、診察を続けた。ナーヴェは、声を上げまいとしてか、歯を食い縛って耐えている。ぎゅっと閉じたその目尻から、涙が溢れて耳のほうへ流れていく。アッズーロは寝台の反対側へ回り込み、指先で、流れる涙を拭ってやった。自分には、そのくらいのことしかできない――。
傷口を覗き終えたメーディコは、次に、そっと右肩全体を触診し始めた。それもまた痛むのか、ナーヴェは殆ど息を止めて耐えている。
「少し動かします」
メーディコが前置きして右腕を掴み、僅かに動かした時には、ナーヴェは頭を振って涙を零した。
「――やはり、折れておりますな」
沈痛な面持ちで、メーディコはナーヴェから手を離し、診断結果を述べる。
「出血、火傷、骨折。どれも酷うございます。特に骨折は、常人であれば、一生涯、肩が上がらなくなるほどの複雑骨折をなさっておられます。とにかく、一切動かさぬように固定し、薬草を貼り、朝夕包帯を変えるしか手の施しようがございませぬ。後は、ナーヴェ様御自身の、驚異的な回復力に頼るのみです。傷口は、火傷の痕が残らぬよう、できるだけ綺麗に整え、縫いましょう。わたくしにできるのは、そこまででございます」
冷静に締め括った侍医に、アッズーロは文句を言った。
「結局、殆どナーヴェの極小機械頼みではないか」
「さようでございます」
殊勝に、メーディコは頷く。
「このお方は、いつもいつも、無茶をなさい過ぎます。もっと御身大切にと申し上げたいところではございますが、それは陛下が充分に仰っておられますでしょう。わたくしにできることと言えば、誠心誠意、御快復のお手伝いをする、ただそれだけにございます」
小柄な壮年の侍医の、丸い顔に浮かんだ慈愛の表情を見て、アッズーロは溜め息をついた。
「よい。分かった。では、おまえにできることを最大限致せ」
「仰せのままに」
メーディコはすぐに自らの鞄を開いて、縫合用の針と糸、消毒のための酒精の瓶、替えの包帯、薬草類などを取り出して、寝台脇の小卓の上に並べていった――。
右肩の銃創をメーディコに丁寧に治療されたナーヴェは、幾分落ち着いた様子で目を開いた。
「メーディコ、ありがとう。凄く綺麗に縫って貰ったと分かるよ。いつもいつも、大変な治療ばかり頼んでごめん」
「いえいえ」
メーディコは、小さな両眼を細めて、優しくナーヴェを見下ろす。
「多少なりともあなた様のお役に立てる。それだけで、身に余る光栄でございます、ナーヴェ様。よくお分かりでしょうが、右肩は動かさず、絶対安静に。暫くは御不自由でしょうが、耐えて下され」
「うん。分かったよ」
素直に返事をしたナーヴェに一礼し、アッズーロにも一礼して、メーディコは鞄を持ち、退室していった。それを見送ったナーヴェは、深い青色の双眸で、アッズーロを見上げてくる。
「アッズーロ……、できれば沐浴をして、体を洗いたいんだけれど、いいかな……?」
「そなた、今、メーディコに『絶対安静に』と言われたばかりであろう?」
眉をひそめて歩み寄り、アッズーロは最愛の顔を覗き込んでから、その全身を見遣った。右肩だけは綺麗にされたが、ナーヴェはまだ血と埃に汚れた長衣を纏ったまま、下半身には何も穿いていない。
「着替えついでに、フィオーレに体を拭かせる。それでは駄目なのか?」
「……もっと……、きちんと洗いたいんだ……。それに……、できれば、きみに洗ってほしい……。きみが、できるだけ早く大臣会議に出なければいけないのは、知っているんだけれど……」
言いにくそうな宝の様子に、アッズーロは目を眇め、了承した。
「分かった」
包帯の上から木製の固定具で固定された右肩に注意しつつ、アッズーロはナーヴェを抱き上げる。戸口へと歩き始めながら、アッズーロは控えているポンテとフィオーレに命じた。
「ポンテ、ナーヴェの着替えを持ってついて参れ。フィオーレ、ナーヴェの掛布と敷布と枕を取り換えよ」
「仰せのままに」
「畏まりました」
それぞれ一礼して、女官達も動き始めた。
二階の回廊から階段を降り、アッズーロはナーヴェを抱えて沐浴場へ入る。円形をした広い人工の水場には、いつも通り澄んだ水が並々と湛えられていた。その端に設けられた段の一つに、下半身が水に浸かるよう慎重にナーヴェを座らせ、その横に、自身は衣を着たままアッズーロも座る。
「まずは衣を脱がせるぞ」
告げて、アッズーロは腰帯に差した小刀を抜き、襤褸雑巾のようになっている長衣と、土と血に汚れた胸当てを切り裂いて脱がせた。その残骸を水場の淵に置き、小刀を収めて、アッズーロは隣からナーヴェの顔を見つめる。
「綺麗にしたいのは、ここか……?」
水の中で左手を動かし、白い足の間に触れると、ナーヴェは泣きそうな表情になって、こくりと頷いた。
「馬鹿者め……。そういうことは、もっとさっさと言うがよい」
低い声で叱って、アッズーロは右手を動かし、傷ついた右肩に気を付けながら、そっと華奢な上半身を抱き寄せる。されるがまま、アッズーロの胸に頭を押し付けたナーヴェは、俯いて、ぽろぽろと涙を零し始めた。
「そなた、本当に、人らしくなったな。そういうところを、あまり隠さぬがよい。特に、われにはな」
囁いたアッズーロに、宝は小さな声で疑問を呈してきた。
「何故……? こんな時に涙を流しても、きみを苛立たせたり悲しませたりするだけで、何の益もないのに……。これは、ただの不具合だよ。せっかく新しい本体になったのに、ぼくはまだ、不具合を起こしてしまう……」
「以前にも言うたであろう?」
アッズーロは、静かに言い聞かせる。
「『不具合』もまた、そなたの学習の一つだ、と。そなたはそうして、一歩一歩、人らしくなっていくのだ。だから、そなたの人らしくなっていく道のりを、隠さずわれに見せるがよい。そなたはわれの宝ゆえ、われは全てを見たいのだ」
「何の益もなく、涙を流すところまでかい……?」
頑固な宝はなかなか納得しない。アッズーロは小さく溜め息をつき、わざと明るく茶化してみた。
「そなたが益のある涙なぞ流し始めたら、さぞ見物であろうな」
ところが、宝は俯いたまま生真面目に応じた。
「――できるよう、努力するよ……」
「たわけ。戯れ言を真に受けるでない」
憮然として、アッズーロは再度言い聞かせる。
「涙に益なぞ求めぬわ。そなたがわれの前で泣く。涙を見せる。その事実に意味があるのだ。他の者の前では泣かぬがよいぞ。その泣き顔は、われ一人のものだ」
「……きみは本当に、変わっているね……」
淡々と呟いたナーヴェの涙は、ぽたぽたと零れ続けて止まらない。アッズーロは水中の左手で、無慈悲に他の男達に暴かれてしまったところを優しく愛撫し、指先を使って、間まで、中まで、できる限り清めていった。
「……もう、大丈夫。ありがとう、アッズーロ」
囁いてきて顔を上げたナーヴェに、アッズーロは軽く口付け、問うた。
「本当に大丈夫か? もっと甘えてよいのだぞ?」
「本当に大丈夫だよ。それに、これ以上、きみの時間を奪うことはできない。大臣達が、国民が、きみの裁定を待っているよ」
最愛は柔らかく微笑んで、政務に戻ることを促した。
「全く、そなたはでき過ぎた妃だ」
アッズーロはぼやいて、傷ついた細い体を注意深く抱き上げ、水場から出る。控えていたポンテがすぐに寄ってきて、手に提げた篭から大きな布を取り出した。体を拭くためのものだ。アッズーロは、水場の脇の台にナーヴェを座らせ、ポンテから布を受け取ると、自ら最愛の体を拭いていった。右肩に障るといけないので、水には下半身しか浸からせていないが、胸の頼りない突起も洗い清めたので、そこも優しく拭いてやる。腫れは少し引いたが、血の滲んだ歯型がまだくっきりと残っているのが腹立たしい。
「――あやつらを殺しはせん。だが、いずれは捕らえて罪を償わせるぞ」
アッズーロが宣告すると、宝は寂しげな表情で頷いた。
「うん。それは仕方ないと思っている。でも、どうか、彼らの未来に繋がる償い方を与えてほしい」
アッズーロは鼻を鳴らしたが、反論はせず、ポンテに布を返し、替わりに胸当てを受け取って、ナーヴェの幼げな胸を覆い、真ん中を結んだ。次いで、下袴を受け取り、ナーヴェを自らの肩に掴まり立ちさせて、片足ずつ通して穿かせ、紐を括ってやる。
「きみは王なのに、結構何でもできるよね……。テゾーロの世話も、器用にこなすし」
ナーヴェが、感心したように呟いた。
「ほぼ毎日そなたの着替えを見ておるのだ。できんほうがおかしいだろう」
憮然として言い返し、アッズーロは手早く筒袴も穿かせて、ナーヴェを座らせる。長く青い髪の上から、すっぽりと長衣を被らせ、頭を出させてから髪も出してやり、左袖だけ腕を通させて、裾を引き下ろした。
「右肩に負担の掛からん衣を仕立てさせたほうがよいか……」
顎に手を当て、考えたアッズーロに、ナーヴェが苦笑する。
「わざわざいいよ。こうして袖を通さず着ていれば、負担は掛からないから」
「御遠慮なさらず、ナーヴェ様。衣の一つや二つ、すぐ縫えますよ」
横からポンテが口添えしてきた。
「でも……」
ナーヴェはすまなそうな顔をする。
「その分、きみ達が忙しくなるだろう?」
「では、暇な時にさせて貰いますよ。それなら宜しいでしょう?」
ポンテは、さすがの貫禄で王の宝を言いくるめてしまった。
「分かった。ありがとう」
律儀に礼を述べた宝を抱き上げ、アッズーロは立ち上がる。自身の下半身はまだ筒袴ごと濡れたままだが、上半身でナーヴェを抱き抱える分には、何の問題もない。
「きみは着替えないのかい? 風邪を引いてしまうよ」
ナーヴェのほうが気にしてきたが、アッズーロは鼻を鳴らして言った。
「人の心配をしたければ、まずは己の体を己で世話できるようになるがよい。この右肩、上がらぬようになるは許さぬぞ」
「……努力するよ……」
しゅんとして、宝はアッズーロの腕の中で項垂れた。そんな姿が、堪らなく愛おしく大切で、だからこそ、傷つけられたことが許せない。
「――そなたを、ずっとわが寝室に閉じ込めて、誰にも触れさせんようにできれば、どんなによかったか……」
つい心の声を漏らしたアッズーロを、ナーヴェは驚いたように見上げてきて、真顔で指摘した。
「それなら、きみはぼくに肉体を持たせるべきではなかった」
鋭い言葉に、アッズーロはナーヴェの澄んだ双眸を見つめ返して黙る。すると、最愛はふっと頬を弛めて告白した。
「でも、ぼくはこうして肉体を持てて、とても嬉しいんだ。きみに、とても感謝している。肉体を持てたお陰で、ぼくは多くの人と関わることができている。人の痛みも喜びも、より深く知ることができた。きみと繋がって、生命の連鎖の一端に連なることすらできた。だから、ぼくにとっても、この肉体は大切なんだ。できる限り、完治を目指すよ」
「――ならばよい」
不覚にも目頭が熱くなったアッズーロは、ナーヴェから視線を逸らすと、沐浴場を出て階段を上がり、西日が差す回廊を歩いて寝室へ戻った。
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