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第十五章 守るべきもの 二
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二
アッズーロは寝室に入るとすぐに、ナーヴェの寝台へ目を向けた。妃は、ミエーレに見守られながら、微かに曇った表情で目を閉じている。
「起きておるか?」
小声で尋ねたアッズーロに、ミエーレが振り向いて答えるより早く、ナーヴェ自身が目を開けた。何度か目を瞬いてから、枕元へ歩み寄ったアッズーロを見上げる。汗ばんだ顔で仄かに笑んで告げた。
「夕食は、一緒に食べるよ。食べないと、元気になれないしね……」
「そうか。卓で食せるか? それともそのまま起き上がって食すか?」
アッズーロが気遣うと、ナーヴェは掛布の上に出していた両腕を弱々しく上げた。
「卓まで連れていってほしい。寝台を汚すと、迷惑を掛けるから」
「ナーヴェ様、そのようなことは。どうか、御無理なさらず」
横合いからフィオーレが心配そうに言った。
「うむ。そう致せ。汚せば、わが寝台で寝ればよい」
アッズーロは言い重ね、ナーヴェの両腕を優しく下ろさせ、代わりに、その背と肩とを支えて起こしてやった。
「ありがとう」
ナーヴェは律儀に礼を述べ、ミエーレが、支えにと差し入れた大きな座布団に背を預ける。すかさずフィオーレが寝台脇に小卓を動かしてきて、その上にナーヴェの食事を置いた。
「これは……? 初めて見る料理だね……」
目を瞬いたナーヴェに、アッズーロは腰に手を当てて説明した。
「蜂蜜を混ぜた麺麭を千切ったものと、発酵羊乳と杏の甘煮と、それに乾酪の欠片とを混ぜた特製麺麭粥だ。食べ易く、栄養価も高い」
「へえ……。ぼくのために考えてくれたんだね。ありがとう」
顔を上げて微笑んだナーヴェに、アッズーロは頷いた。
「うむ。早く元気になるがよい」
「……努力するよ……」
ナーヴェは、すまなそうに応じて、匙を手に取り、特製麺麭粥を少しずつ食べ始めた。その様子を見守るアッズーロのところへ、気を利かせたミエーレとフィオーレが、それぞれ卓と椅子、特製麺麭粥の皿と林檎果汁の瓶とを持ってくる。アッズーロは、ナーヴェと隣り合うように寝台に寄せた椅子に座ると、卓の上に置かれた己の分の特製麺麭粥を味わった。
「うむ。思うたより、少々甘さが足りなんだか」
首を捻ったアッズーロに、ナーヴェが柔らかく告げた。
「ぼくには、このくらいの甘さが食べ易くていいよ」
「そうか。ならばよい」
アッズーロは満足して、自分にとっては少々甘さの足りない特製麺麭粥を、好ましく食べていった。
「……それで、会議の結論は、どうなったんだい……?」
ナーヴェは、アッズーロの愛情が篭もった特製麺麭粥を口へ運ぶ合間に尋ねた。
「ほう」
アッズーロは粥を咀嚼しながら、感心したようにナーヴェを見る。
「殊勝なことだ。われに密かに接続したりなぞせず、大人しく寝ていたとはな」
「……まあね。きみに訊けば分かることだから」
答えたナーヴェに、アッズーロは、今度は呆れた顔をした。
「つまり、人工衛星には接続しておったのだな?」
完全に見透かされている。というより、誘導尋問だ。観念して、ナーヴェは肩を竦めた。
「必要な時はいいって、きみの許可が下りていたからね……。それにしても、きみは随分とぼくの扱いに慣れてきたんだね……」
「当たり前であろう」
アッズーロは怒った顔をする。
「最愛の扱いに熟達したいと望むは、極自然なことであろうが」
「まあ、そうなんだろうけれど……」
ナーヴェは苦笑した。やはりアッズーロの理解力や学習能力は並ではない――。
「全く、そなた、われには早う寝ろだの何だの言う癖に、自身のことには、いつまでも無頓着に過ぎよう。その肉体は、われのものだと何度言い聞かせればよいのだ」
真剣に困っている様子のアッズーロに、ナーヴェは詫びた。
「ごめん。でも、きみが何と言おうと、ぼくは、この肉体よりも、きみと、きみの王国とを優先するよ。そこだけは、譲れない」
「たわけ」
アッズーロは匙を持っていない左手を伸ばし、ナーヴェの頬を摘まむ。
「王妃たるそなたも、その王国の大切な一部なのだぞ」
「でも、その『王妃』が、今回の反乱を招いた要因の一つなんだろう?」
指摘すると、アッズーロはナーヴェの頬を摘まんだまま、険しい眼差しで見返してきた。
「何ゆえ、そう思う」
「分析と推測から。違っているかい?」
いつもより頬が痛いと感じながら、ナーヴェはアッズーロを見据えた。
「――違わん」
アッズーロはそっぽを向くようにして認め、左手を下ろした。その横顔は、傷ついた少年のようだ。
「やっぱりね……」
ナーヴェは溜め息をついた。アッズーロが、「最愛」と口にして憚らない自分こそが、利用されたのだ。
「この反乱には、誰か、糸を引いている人がいるよ」
「――何ゆえ、そう思う……?」
アッズーロは先ほどと同じ問いを、より怪訝そうな面持ちで発してきた。
「分析と人類の経験から。こんなことは、歴史上よくあったことだからね」
ナーヴェは教えて、美味しい粥の最後の一掬いを口に運んだ。
(やはり、こやつは侮れん……)
アッズーロは、木杯の林檎果汁を淑やかに飲み干すナーヴェを見つめながら、改めて思った。政治的分析力や洞察力が並ではない――。
「ならば、糸を引いておるは誰だ?」
問うたアッズーロに、ナーヴェは空にした木杯を見下ろして答えた。
「一番高い可能性としては、ティンブロの配下の誰かと、ロッソの配下の誰かが結託して――だと、ぼくは推測している。断定はできないけれどね。ぼくの知らない情報も多いだろうから」
「――ティンブロ自身とロッソ自身、ではないのだな?」
確認したアッズーロに、ナーヴェは苦笑した。
「彼らを疑うのかい? ぼくは、直接彼らと話したことがあるからこそ、彼らではないと判断しているんだけれど」
「そなたの、その判断の根拠は何なのだ?」
「視線の動き、呼吸、口調、仕草なんかだね。人の態度には、その人が自分に対してどういう考えを持っているか表すものが多くある。ティンブロもロッソも、少なくともぼくに対して、オリッゾンテ・ブル王国民に反乱を起こさせようとするほどの不快感は持っていなかったよ。――それで、会議の結論は、どうなったんだい……?」
最初の質問を繰り返したナーヴェに、アッズーロは掻い摘まんで語った。
「奴らは、われがヴァッレへ譲位することを求めておる。ゆえに、ヴァッレ自身及び奴らの支持のあるペルソーネに、説得工作に当たらせることとした」
「まあ、今打てる最良の策だね」
ナーヴェは評価してから、付け加える。
「ただ、その手は糸を引いている相手に読まれている。更に踏み込んだ次の策が必要だよ」
「そなた、まるで軍師だな」
「ぼくはただ、人類の経験から推測しているだけだよ」
謙遜という訳ではなく、単に事実を述べたらしいナーヴェは、深い青色の双眸をアッズーロに向ける。
「次の策として、何か案はあるのかい……?」
「反乱民には、既にバーゼを潜り込ませてある。内部からの切り崩しを図る」
「いいね……。でも、多分、テッラ・ロッサ側の間諜や工作員もいる。バーゼの正体が看破される危険性もある……」
冷徹に考え深くナーヴェは指摘した。その青く癖のない髪が、窓から吹き込んだ夜風に靡き、そして――。
アッズーロは椅子を蹴って立ち、ぐらりと傾いだ華奢な上体を支えた。両腕で抱えた体が、長衣越しでも熱い。
「そなた、熱が上がっておるのではないか……?」
火照った顔を覗き込んだアッズーロに、ナーヴェは自嘲気味に肯定した。
「食事をしたら、当然、体温は上がるよ……。その所為で、少し眩暈がしただけ……」
そのまま、ナーヴェはアッズーロの腕に頭も預けて目を閉じてしまった。
「――馬鹿者め……」
アッズーロは苦々しく呟いて、そっとナーヴェの上体を寝台の上に横たえ、枕の上に頭を乗せ、掛布を引き上げてやる。ナーヴェの見地が知りたくて、無理をさせたのは自分だ。いつもいつも、馬鹿なのは、自分だ……。
「ナーヴェを頼む」
アッズーロは女官二人に声を掛け、妃の前髪を優しく掻き上げて熱い額に口付けると、踵を返して執務室へ戻った。
熱がある肉体は、動かしにくいが、眠らせることも難しい。頭痛や眩暈が睡眠を妨げる。ナーヴェは、肉体の体調管理のため接続を維持したまま、思考回路で分析を続けた。
(実際に会ったことがあるからこそ、分かる……。糸を引いている黒幕の一人――「ロッソの配下」は、エゼルチトだ……)
だが、その意図が今一つ理解できない。だからこそ、不用意にアッズーロに告げることもできなかった。
(アッズーロは、すぐ態度に出るからね……)
面と向かっての化かし合いには向かない性格だ。
(さて、どうやってエゼルチトの考えを探ろう……?)
ボルド、ソニャーレ、ジェネラーレ、デコラチオーネ、リラッサーレ、ブリラーレ、シンティラーレ、ロッソ三世……。何人かの人々を思い浮かべて、ナーヴェは溜め息をついた。
(すぐに話ができるのは、ボルドだけだね……)
誰とでも話ができる肉体は便利だが、距離的な制約が掛かるのは面倒だ。
(今の本体の飛行形態を変更すれば、すぐ飛んでいけるけれど……)
肉体を蔑ろにすると、アッズーロが悲しむ。今の本体ならば、肉体と両方同時に操ることが可能ではあるが――。
(どうしても緻密な管理はできなくなるし……、少なくとも今夜は、肉体の管理に専念しよう)
ナーヴェは寝返りを打って、肉体が少しでも心地よく休めるよう工夫し始めた。夕食の片付けを終えた女官二人が油皿の灯火を消したらしく、寝室が暗くなる。密やかな足音からすれば、ミエーレが皿や木杯や瓶などを盆で運び出し、フィオーレが寝室に残ったようだ。ナーヴェの寝台脇に置いたままの椅子に腰掛け、こちらを見守っている気配がある。
(みんな優しい……)
女官達は、きっとアッズーロの命令がなくとも、熱があるナーヴェの肉体を決して一人にはしないだろう。
(夜風が気持ちいい……)
開けたままの窓から入ってくる初夏の夜風は、火照った肌の上を爽やかに吹き抜けていく。
(ここは、とても居心地がいい……)
隣の執務室で報告書を読んでいるアッズーロとレーニョの、低い声の会話が、ぼそぼそと響いてくる。
(ぼくの子ども達みんなが、平和に暮らせるように……)
ナーヴェが世代交代の様子を見てきた人々の末裔達、その全員が、幸せに生きられるように。
(ウッチェーロ、ぼくは、ぼくの全てを使い尽くすから)
――「おまえなら、できる」
記録の中のウッチェーロが、朗らかに笑った。
「お母様、よく御無事で……」
部屋に入ってくるなり抱きついてきた娘を、ジラソーレは優しく抱き締めた。
「陛下と妃殿下に助けて頂きました」
「妃殿下の操る船は、それは凄いものだったぞ」
最後に部屋に入ってきた夫が、娘に自慢するように言った。
「あれは、ナーヴェ様の新しい本体と伺いました」
ペルソーネは父親を振り向いて告げる。
「ですから、逆ですわ、お父様。あの船が、ナーヴェ様の肉体を操っているのです」
「……そうか。話には聞いていたが、随分とややこしいのだな」
夫は困惑したように頭を掻く。普段は、しっかりとした頼り甲斐のある夫だが、何故か娘のペルソーネの前でだけは、形無しだ。とにかく、こんな時とはいえ、久し振りの家族水入らずである。
「さあ、夕食に致しましょう。今宵の料理は、陛下御自ら御考案なさったという、特製麺麭粥だそうですよ」
声を掛けて、ジラソーレは娘と夫を、夕食が調えられた卓へと誘った。
アッズーロは寝室に入るとすぐに、ナーヴェの寝台へ目を向けた。妃は、ミエーレに見守られながら、微かに曇った表情で目を閉じている。
「起きておるか?」
小声で尋ねたアッズーロに、ミエーレが振り向いて答えるより早く、ナーヴェ自身が目を開けた。何度か目を瞬いてから、枕元へ歩み寄ったアッズーロを見上げる。汗ばんだ顔で仄かに笑んで告げた。
「夕食は、一緒に食べるよ。食べないと、元気になれないしね……」
「そうか。卓で食せるか? それともそのまま起き上がって食すか?」
アッズーロが気遣うと、ナーヴェは掛布の上に出していた両腕を弱々しく上げた。
「卓まで連れていってほしい。寝台を汚すと、迷惑を掛けるから」
「ナーヴェ様、そのようなことは。どうか、御無理なさらず」
横合いからフィオーレが心配そうに言った。
「うむ。そう致せ。汚せば、わが寝台で寝ればよい」
アッズーロは言い重ね、ナーヴェの両腕を優しく下ろさせ、代わりに、その背と肩とを支えて起こしてやった。
「ありがとう」
ナーヴェは律儀に礼を述べ、ミエーレが、支えにと差し入れた大きな座布団に背を預ける。すかさずフィオーレが寝台脇に小卓を動かしてきて、その上にナーヴェの食事を置いた。
「これは……? 初めて見る料理だね……」
目を瞬いたナーヴェに、アッズーロは腰に手を当てて説明した。
「蜂蜜を混ぜた麺麭を千切ったものと、発酵羊乳と杏の甘煮と、それに乾酪の欠片とを混ぜた特製麺麭粥だ。食べ易く、栄養価も高い」
「へえ……。ぼくのために考えてくれたんだね。ありがとう」
顔を上げて微笑んだナーヴェに、アッズーロは頷いた。
「うむ。早く元気になるがよい」
「……努力するよ……」
ナーヴェは、すまなそうに応じて、匙を手に取り、特製麺麭粥を少しずつ食べ始めた。その様子を見守るアッズーロのところへ、気を利かせたミエーレとフィオーレが、それぞれ卓と椅子、特製麺麭粥の皿と林檎果汁の瓶とを持ってくる。アッズーロは、ナーヴェと隣り合うように寝台に寄せた椅子に座ると、卓の上に置かれた己の分の特製麺麭粥を味わった。
「うむ。思うたより、少々甘さが足りなんだか」
首を捻ったアッズーロに、ナーヴェが柔らかく告げた。
「ぼくには、このくらいの甘さが食べ易くていいよ」
「そうか。ならばよい」
アッズーロは満足して、自分にとっては少々甘さの足りない特製麺麭粥を、好ましく食べていった。
「……それで、会議の結論は、どうなったんだい……?」
ナーヴェは、アッズーロの愛情が篭もった特製麺麭粥を口へ運ぶ合間に尋ねた。
「ほう」
アッズーロは粥を咀嚼しながら、感心したようにナーヴェを見る。
「殊勝なことだ。われに密かに接続したりなぞせず、大人しく寝ていたとはな」
「……まあね。きみに訊けば分かることだから」
答えたナーヴェに、アッズーロは、今度は呆れた顔をした。
「つまり、人工衛星には接続しておったのだな?」
完全に見透かされている。というより、誘導尋問だ。観念して、ナーヴェは肩を竦めた。
「必要な時はいいって、きみの許可が下りていたからね……。それにしても、きみは随分とぼくの扱いに慣れてきたんだね……」
「当たり前であろう」
アッズーロは怒った顔をする。
「最愛の扱いに熟達したいと望むは、極自然なことであろうが」
「まあ、そうなんだろうけれど……」
ナーヴェは苦笑した。やはりアッズーロの理解力や学習能力は並ではない――。
「全く、そなた、われには早う寝ろだの何だの言う癖に、自身のことには、いつまでも無頓着に過ぎよう。その肉体は、われのものだと何度言い聞かせればよいのだ」
真剣に困っている様子のアッズーロに、ナーヴェは詫びた。
「ごめん。でも、きみが何と言おうと、ぼくは、この肉体よりも、きみと、きみの王国とを優先するよ。そこだけは、譲れない」
「たわけ」
アッズーロは匙を持っていない左手を伸ばし、ナーヴェの頬を摘まむ。
「王妃たるそなたも、その王国の大切な一部なのだぞ」
「でも、その『王妃』が、今回の反乱を招いた要因の一つなんだろう?」
指摘すると、アッズーロはナーヴェの頬を摘まんだまま、険しい眼差しで見返してきた。
「何ゆえ、そう思う」
「分析と推測から。違っているかい?」
いつもより頬が痛いと感じながら、ナーヴェはアッズーロを見据えた。
「――違わん」
アッズーロはそっぽを向くようにして認め、左手を下ろした。その横顔は、傷ついた少年のようだ。
「やっぱりね……」
ナーヴェは溜め息をついた。アッズーロが、「最愛」と口にして憚らない自分こそが、利用されたのだ。
「この反乱には、誰か、糸を引いている人がいるよ」
「――何ゆえ、そう思う……?」
アッズーロは先ほどと同じ問いを、より怪訝そうな面持ちで発してきた。
「分析と人類の経験から。こんなことは、歴史上よくあったことだからね」
ナーヴェは教えて、美味しい粥の最後の一掬いを口に運んだ。
(やはり、こやつは侮れん……)
アッズーロは、木杯の林檎果汁を淑やかに飲み干すナーヴェを見つめながら、改めて思った。政治的分析力や洞察力が並ではない――。
「ならば、糸を引いておるは誰だ?」
問うたアッズーロに、ナーヴェは空にした木杯を見下ろして答えた。
「一番高い可能性としては、ティンブロの配下の誰かと、ロッソの配下の誰かが結託して――だと、ぼくは推測している。断定はできないけれどね。ぼくの知らない情報も多いだろうから」
「――ティンブロ自身とロッソ自身、ではないのだな?」
確認したアッズーロに、ナーヴェは苦笑した。
「彼らを疑うのかい? ぼくは、直接彼らと話したことがあるからこそ、彼らではないと判断しているんだけれど」
「そなたの、その判断の根拠は何なのだ?」
「視線の動き、呼吸、口調、仕草なんかだね。人の態度には、その人が自分に対してどういう考えを持っているか表すものが多くある。ティンブロもロッソも、少なくともぼくに対して、オリッゾンテ・ブル王国民に反乱を起こさせようとするほどの不快感は持っていなかったよ。――それで、会議の結論は、どうなったんだい……?」
最初の質問を繰り返したナーヴェに、アッズーロは掻い摘まんで語った。
「奴らは、われがヴァッレへ譲位することを求めておる。ゆえに、ヴァッレ自身及び奴らの支持のあるペルソーネに、説得工作に当たらせることとした」
「まあ、今打てる最良の策だね」
ナーヴェは評価してから、付け加える。
「ただ、その手は糸を引いている相手に読まれている。更に踏み込んだ次の策が必要だよ」
「そなた、まるで軍師だな」
「ぼくはただ、人類の経験から推測しているだけだよ」
謙遜という訳ではなく、単に事実を述べたらしいナーヴェは、深い青色の双眸をアッズーロに向ける。
「次の策として、何か案はあるのかい……?」
「反乱民には、既にバーゼを潜り込ませてある。内部からの切り崩しを図る」
「いいね……。でも、多分、テッラ・ロッサ側の間諜や工作員もいる。バーゼの正体が看破される危険性もある……」
冷徹に考え深くナーヴェは指摘した。その青く癖のない髪が、窓から吹き込んだ夜風に靡き、そして――。
アッズーロは椅子を蹴って立ち、ぐらりと傾いだ華奢な上体を支えた。両腕で抱えた体が、長衣越しでも熱い。
「そなた、熱が上がっておるのではないか……?」
火照った顔を覗き込んだアッズーロに、ナーヴェは自嘲気味に肯定した。
「食事をしたら、当然、体温は上がるよ……。その所為で、少し眩暈がしただけ……」
そのまま、ナーヴェはアッズーロの腕に頭も預けて目を閉じてしまった。
「――馬鹿者め……」
アッズーロは苦々しく呟いて、そっとナーヴェの上体を寝台の上に横たえ、枕の上に頭を乗せ、掛布を引き上げてやる。ナーヴェの見地が知りたくて、無理をさせたのは自分だ。いつもいつも、馬鹿なのは、自分だ……。
「ナーヴェを頼む」
アッズーロは女官二人に声を掛け、妃の前髪を優しく掻き上げて熱い額に口付けると、踵を返して執務室へ戻った。
熱がある肉体は、動かしにくいが、眠らせることも難しい。頭痛や眩暈が睡眠を妨げる。ナーヴェは、肉体の体調管理のため接続を維持したまま、思考回路で分析を続けた。
(実際に会ったことがあるからこそ、分かる……。糸を引いている黒幕の一人――「ロッソの配下」は、エゼルチトだ……)
だが、その意図が今一つ理解できない。だからこそ、不用意にアッズーロに告げることもできなかった。
(アッズーロは、すぐ態度に出るからね……)
面と向かっての化かし合いには向かない性格だ。
(さて、どうやってエゼルチトの考えを探ろう……?)
ボルド、ソニャーレ、ジェネラーレ、デコラチオーネ、リラッサーレ、ブリラーレ、シンティラーレ、ロッソ三世……。何人かの人々を思い浮かべて、ナーヴェは溜め息をついた。
(すぐに話ができるのは、ボルドだけだね……)
誰とでも話ができる肉体は便利だが、距離的な制約が掛かるのは面倒だ。
(今の本体の飛行形態を変更すれば、すぐ飛んでいけるけれど……)
肉体を蔑ろにすると、アッズーロが悲しむ。今の本体ならば、肉体と両方同時に操ることが可能ではあるが――。
(どうしても緻密な管理はできなくなるし……、少なくとも今夜は、肉体の管理に専念しよう)
ナーヴェは寝返りを打って、肉体が少しでも心地よく休めるよう工夫し始めた。夕食の片付けを終えた女官二人が油皿の灯火を消したらしく、寝室が暗くなる。密やかな足音からすれば、ミエーレが皿や木杯や瓶などを盆で運び出し、フィオーレが寝室に残ったようだ。ナーヴェの寝台脇に置いたままの椅子に腰掛け、こちらを見守っている気配がある。
(みんな優しい……)
女官達は、きっとアッズーロの命令がなくとも、熱があるナーヴェの肉体を決して一人にはしないだろう。
(夜風が気持ちいい……)
開けたままの窓から入ってくる初夏の夜風は、火照った肌の上を爽やかに吹き抜けていく。
(ここは、とても居心地がいい……)
隣の執務室で報告書を読んでいるアッズーロとレーニョの、低い声の会話が、ぼそぼそと響いてくる。
(ぼくの子ども達みんなが、平和に暮らせるように……)
ナーヴェが世代交代の様子を見てきた人々の末裔達、その全員が、幸せに生きられるように。
(ウッチェーロ、ぼくは、ぼくの全てを使い尽くすから)
――「おまえなら、できる」
記録の中のウッチェーロが、朗らかに笑った。
「お母様、よく御無事で……」
部屋に入ってくるなり抱きついてきた娘を、ジラソーレは優しく抱き締めた。
「陛下と妃殿下に助けて頂きました」
「妃殿下の操る船は、それは凄いものだったぞ」
最後に部屋に入ってきた夫が、娘に自慢するように言った。
「あれは、ナーヴェ様の新しい本体と伺いました」
ペルソーネは父親を振り向いて告げる。
「ですから、逆ですわ、お父様。あの船が、ナーヴェ様の肉体を操っているのです」
「……そうか。話には聞いていたが、随分とややこしいのだな」
夫は困惑したように頭を掻く。普段は、しっかりとした頼り甲斐のある夫だが、何故か娘のペルソーネの前でだけは、形無しだ。とにかく、こんな時とはいえ、久し振りの家族水入らずである。
「さあ、夕食に致しましょう。今宵の料理は、陛下御自ら御考案なさったという、特製麺麭粥だそうですよ」
声を掛けて、ジラソーレは娘と夫を、夕食が調えられた卓へと誘った。
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