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第十三章 たった一人の人 一

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     一

  愛する人にあげるよ、絶対に芯のない林檎を。
  愛する人にあげるよ、絶対に扉のない家を。
  愛する人にあげるよ、彼が入る館を。
  彼が開けるのに何の鍵も要らない。

 夕風に乗って、王の宝が歌う声が聞こえてくる。晩餐までの僅かの間、王とともに庭園を散策しているということだったが、興が乗ったのだろうか。
(あの方は、作戦云々とは関係なく、本当に歌うことが好きなのね……)
 バーゼは、与えられている部屋を掃除しながら、微笑んだ。ナーヴェの、透明で伸びやかな声は、気持ちよさそうに響き続ける。

  ぼくの頭は、絶対に芯のない林檎。
  ぼくの精神は、絶対に扉のない家。
  ぼくの心は、彼が入る館。
  彼が開けるのに何の鍵も要らない。

 聴いたことのない不思議な旋律の歌だが、何と甘い歌詞だろう。宝の傍らにいる青年王の、幸せそうな顔が想像できてしまう。
(陛下の笑顔が増えたのは、偏に、ナーヴェ様のお陰ね……)
 会談は、王の宝が巧みに誘導したお陰で、午前中には、今後の行動方針が固まっていた。昼食を取った後の会談では、詳細を詰めるだけでよかった。
(ボルドも、ソニャーレも、フェッロ様も……、皆、お咎めなしでよかった……)
 同じ諜報活動に関わる者として、どうしても彼らの処遇については気になってしまう。王の宝は、厳しい処分の方向へ会談が進まないよう、事前にアッズーロを牽制していたらしい。お陰で、バーゼ達も処分を免れた形だ。
(フェッロ様が、こちらでも伯爵だったというのは、驚きだけれど)
 あの青年の母親は、ロッソ三世の母の妹らしい。父親は、オリッゾンテ・ブル王国の鍛冶師で、爵位のない平民だったが、テッラ・ロッサ王国の王母の妹と結婚して王家の親戚となった暁に、伯爵位を賜ったと、会談の中で明かされていた。その伯爵位を、現在はフェッロが継いでいるのだそうだ。
(わたしが、もっと早くにフェッロ様の事情を掴めていれば、レーニョ殿に大怪我をさせることも、ナーヴェ様が攫われることもなかったのに……)
 フェッロの母親は、フェッロが任務を果たす間、王家に連なる者の義務として、人質となり、幽閉塔に囚われていたのだという。フェッロは、王族に連なる者として、無理矢理に工作員として働かされていたのだ。その辺りの事情を、ロッソ三世は悪びれることなく語った。
(ああされてしまうと、こちらとしても詰るくらいしかできない……)
 アッズーロが幾らか皮肉を言ったが、固まった行動方針を変えるようなものではなかった。今はテッラ・ロッサの協力が必要なのだと、誰よりアッズーロがよく分かっているのだ。
 一日を費やした会談の結論として、四つのことが決まった。即ち、互いに送り合うのは間諜や工作員ではなく、公の連絡員とすること。これまでの互いの諜報活動については、双方不問とすること。両国間の争点は会談を以て解決することとし、水路工事については協力して進めること。そして、明日、シーワン・チー・チュアンの要求に従い、アッズーロとナーヴェとムーロ、更にはロッソとジェネラーレとエゼルチトとで、赤い沙漠へ赴くこと、である。
(まさか、両国王がともに行くことになるなんて……)
 アッズーロでさえ、シーワン・チー・チュアンの許へは、自分とナーヴェと訪問団の誰かで行こうと考えていたようだ。しかし、ロッソ三世が、あの場の全員の予想を裏切って、シーワン・チー・チュアンをその目で見たいと意欲を示したのである。
(ムーロ様の胃痛が酷くなってしまわないか、心配だわ……)
 バーゼの感覚としては、ムーロより、ジョールノのほうが適任という気がするのだが、向こうがエゼルチトを同行者として選んだので、こちらからは立場の釣り合うムーロが選ばれたのだ。
「すみません、寝台の設えは、昨夜と同じで宜しいでしょうか」
 声を掛けられて、バーゼは振り向いた。ボルドが畳んだ敷布と掛布を両手に抱えて、生真面目な顔でこちらを見ている。結局、この少年は出身を明らかにした上で、オリッゾンテ・ブル王城で侍従を続けることになった。
「はい、陛下がそう仰っていましたから」
 バーゼは笑顔で頷いた。この大部屋に文句を言っていたアッズーロだが、急遽、明日、シーワン・チー・チュアンの許へ行くことになり、連泊となったことには文句を言わなかった。昨夜のようなことがあれば、やはり大部屋のほうがいいと踏んだのだろう。
(あのお二人が、いつまでも仲睦まじくいらっしゃいますように……。できれば、お姉様のことは、ナーヴェ様に知られないままで……)
 窓の外が徐々に暗くなっていく。あちこちに散っている訪問団の面々も、そろそろ部屋へ戻ってくるだろうが、ボルドが手伝ってくれたので、部屋の掃除と設えは完璧だ。
「ボルド、ありがとう」
 バーゼは、衝立の角度を細かく調整している少年侍従に、感謝の意を伝えた。


 長く深い口付けを終えて、アッズーロが口を離すと、ナーヴェは残照の中、とろんとした眼差しで、こちらを見上げた。いつもは理知的な妃の、陶酔し切った顔は、また堪らない。隣り合って座った妃の華奢な肩を抱く腕に再び力を込め、アッズーロがもう一度口付けようとした時、警護に付いているルーチェが、おずおずと言った。
「陛下、そろそろ晩餐の仕度ができた頃かと……」
 無視しようかとも思ったが、ナーヴェのほうが目を瞬いて、理知的な顔に戻ってしまったので、続けることができなくなった。
「では、行くか……」
 アッズーロは渋々、ナーヴェを支えて立ち上がった。有無を言わさず細い体を抱き上げ、庭園を、王宮の玄関へと歩く。暮れなずむ大気に、ナーヴェの長く青い髪が舞って、とても美しい。アッズーロは、ゆっくりと歩きながら、腕の中の妃に問うた。
「姉の許へ赴いた後、そなたは、無事帰ってこられるのか?」
 小惑星迎撃の際には、ジョールノに指摘されて初めて気づいた、宝の隠し事。ナーヴェ自身の安全の如何。
「――無事……は、難しいかもしれない」
 ナーヴェは、俯いて答えた。嘘をつく気はないらしい。
「何をされると、想定しているのだ」
 アッズーロが詳しい説明を求めると、ナーヴェは顔を上げて、訊き返してきた。
「それを知って、きみはどうする気だい? 姉さんの許へぼくを行かせるのを、やめるのかい?」
「そなたを失うということなら、そうする」
 アッズーロはきっぱりと宣言した。
「――死にはしないと思うよ」
 ナーヴェは、淡々と告げる。
「ただ、いろいろと、この体を調べられるとは思う。姉さんは、そのために、ぼくを呼んだんだろうから」
「『調べられる』とは、どのようなことをされるのだ」
 アッズーロが顔をしかめて追及すると、ナーヴェは微苦笑した。
「いろいろな機械を使って調べられるんだよ。口で説明するのは、ちょっと難しい」
「危険はないのか」
「うん。その辺りは、心配ないよ」
「嘘はついておらぬな?」
「……どう言ったら、信じて貰えるんだい?」
 腕の中で肩を竦めた宝に、アッズーロは鼻を鳴らした。
「それは、われにも分からん。そなたの今までの行ないが悪過ぎる」
「――そうだね。ごめん……」
 宝は、少し傷ついた顔でアッズーロの胸に頭を寄せてきた。その華奢な体を擁く腕に力を込め、足を止めて、アッズーロもまた、形のいい頭に頬を寄せる。
(できることなら、永久にこうしていたいものだが……)
 アッズーロは妃の柔らかな髪を頬に感じながら、叶わぬ願いに目を閉じ、ひと時を過ごすと、再び顔を上げて歩き始めた。


(まるで、人形だな)
 エゼルチトは、若い王に抱えられて宴の間に現れた宝の姿に、微かに目を眇めた。作り物めいた容姿だと思っていたが、事実、自然に生まれた者ではないという話だ。
(しかし、賢い人形だ)
 ロッソが「主催者」と認めただけあって、会談は終始ナーヴェの誘導で進んだ。長年に渡って人と交渉し続けてきたような、人を説得し続けてきたような巧みさだった。
(「王の宝」とは、単なる概念だと思ってきたが……、アッズーロは如何にして、今まで表に出てこなかったあれを神殿から引っ張り出したのか……)
 小惑星の迎撃に使ってしまって、今は、その神殿もないという。先ほどまでいた続きの間で、オリッゾンテ・ブルの軍務担当大臣カヴァッロ伯ムーロと雑談しながら、その辺りの事情も探ったのだが、あまりはっきりした情報は得られなかった。「王の宝」に関しては、かなりアッズーロが独断専行をしてきたらしい。
(或いは、あの宝自身の独断専行か……)
 薄く笑って、王族達に続き、エゼルチトは椅子に腰掛けた。
 席の並びは、昨晩と同じだ。アッズーロとナーヴェは隣り合って座り、ロッソや王妹の長女デコラチオーネ、次女リラッサーレと歓談している。また、どの酒を飲むかで軽く揉めているようだ。
(平和なことだ……)
 エゼルチトは、自らの木杯に侍従が注いだ葡萄酒をゆっくりと味わった。


 夜になって、ナーヴェは奇妙なことをアッズーロに要求した。
「また姉さんが来て、何かするかもしれないから、ぼくの両手両足を、寝台に括り付けておいてほしいんだ。きみは、随分と心配しているけれど、実のところ、ぼくはもうかなり元気だからね。姉さんが、いいようにこの体を使ったら、きみに危険があるかもしれない。格闘技は、まだ全然教えられていないし」
「しかし、それは……」
 躊躇したアッズーロに、ナーヴェは有無を言わさず四本の紐を差し出した。
「丈夫な紐を、ノッテに買ってきて貰ったから大丈夫」
 「大丈夫」なのはアッズーロであって、ナーヴェではない。
「そなた、それで寝られるのか……?」
 顔をしかめたアッズーロにナーヴェは明るく頷いた。
「うん。両手首を一緒にして縛ってから、頭の真上で寝台に括り付けてくれたら、ある程度の寝返りは打てるから。足は左右別々で、少し紐の長さに余裕を持たせて括って貰えると楽かな」
「どうしてもするのか?」
 念押ししたアッズーロに、ナーヴェは怪訝な顔をした。
「きみにしては歯切れが悪いね。他にも何か問題があるかな?」
「いや……」
 一瞬目を逸らしてから、アッズーロはナーヴェが渡した紐を使って、ナーヴェの指示通りに、その華奢な手足を寝台に括り付けた。
(これは――、やはり――)
 油皿の灯りの中、両手を頭上で、左右の足はそれぞれに寝台へ括り付けたナーヴェの姿は、妙な衝動を起こさせる。
(目の毒だ――)
 片手で顔を覆って溜め息をついたアッズーロに、ナーヴェが心配そうに問うてきた。
「どうしたんだい? もしかして、気分が悪いのかい? きみに接続して、極小機械で調べようか?」
 ナーヴェも鈍感な訳ではないが、こういうことに関する知識や情報は不足しているらしい。アッズーロは少し腹が立って、ナーヴェの上に屈み込んだ。口付けると、ナーヴェは軽く目を瞠ってから、それでも素直に応じてくる。まだ分からないらしい。或いは、ナーヴェにとっては何の問題もないことなのだろうか。アッズーロは、そこを確かめたくなって、口付けを終えると、次はナーヴェの耳朶を舐めた。ナーヴェが感じる、悦ぶところの一つだ。
「……っ……」
 目を閉じ、身を捩ったナーヴェは、ぎりっと、余裕のない紐の長さ一杯に両手を曳いて、漸く気づいたようだった。
「まさか、アッズーロ、このまま、しないよね……?」
 見上げてきたナーヴェの、困惑した表情が、またそそる。だがアッズーロは自制した。体を起こして寝台の上に座り直し、不機嫌に告げた。
「昼はそなたの体を気遣いながら、夜致したのでは、本末転倒ではないか。ただ……」
 アッズーロは、ナーヴェの頬にそっと触れ、撫でる。
「こういうことは、絶対に、われ以外の男には頼むなよ」
「うん。よく分かった。ありがとう」
 素直に礼を述べて微笑んだナーヴェが、可愛らし過ぎる。アッズーロは再度溜め息をついてから、ナーヴェに掛布を掛け、自らも掛布を被って、横になった。目を閉じると、つい先ほどの口付けの味が思い出される。晩餐でナーヴェに呑ませた林檎酒の味がした。
(わが王城に戻った暁には、必ずナーヴェに秘蔵の葡萄酒を飲ませよう)
 密かに決意した頃には、隣から、穏やかな寝息が聞こえている。相変わらず、ナーヴェは寝つきがいい。
(明朝の出立は早いしな……)
 アッズーロは、少し目を開けて、林檎酒の香りがするナーヴェに寄り添うと、改めて目を閉じた――。
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