42 / 105
第十一章 狂った姉 一
しおりを挟む
一
ヴェルドーラの防空壕に暮らしていた人々は、既に順次、王都に戻っている。国王一家の王都への帰還は、半数の臣下達に遅れてのことだった。
王都への馬車に同乗するのは、来た時と同じ面々だ。アッズーロの隣に座ったナーヴェは、その腕に支えられながら、久し振りにテゾーロを胸に抱いた。まだ体に力が入らないので、誰かに支えて貰わなければ、テゾーロを落としてしまいそうだ。もともと性能の低い胸は、体が本調子でない所為か、まだ乳が出ない。それでも、テゾーロを抱くと、責任が自覚されて、思考回路が前向きに機能する。
「元気そうでよかった……」
ナーヴェが安堵の呟きを漏らすと、アッズーロも微笑んだ。
「ラディーチェには随分と世話になった。また労わねばな」
「そうだね……。それから、ペルソーネにも、すごく世話して貰ったよ」
付け加えて、ナーヴェはテゾーロをアッズーロに抱き渡した。アッズーロは、それなりに慣れた様子でテゾーロをあやした後、向かいに座ったポンテに抱き渡す。ポンテは、満面の笑顔でテゾーロを受け取り、ふくよかな胸に抱いた。出発前にラディーチェの乳を貰っていたテゾーロは、すぐに寝てしまう。わが子の寝顔に安心すると同時に、眠気を誘われて、ナーヴェはアッズーロの肩に凭れた。馬車の窓から入ってくる初夏の風が心地いい。
「寝るなら、肩でなく膝を貸すぞ」
アッズーロの申し出に、ナーヴェは素直に従った。両足は床に置いたまま、座席に上体を横たえ、アッズーロの硬い太腿に頭を預ける。アッズーロの手が、そっと頭を撫でた。慈しむような、優しい感触だ。ナーヴェは微笑んで、眠りに落ちた。
声は、ナーヴェが暫く微睡んだ頃に聞こえた。
【そろそろ動けそうね。もう少し長時間の移動に耐えられるようになったら、会いに来なさい。本官が、あなたの函を管理しています。本官らは、赤き沙漠の中央にいます】
それは、忘れもしない、長姉シーワン・チー・チュアンの声。長姉チュアンからの通信だった――。
「どうした。まだ幾らも寝ておらんぞ? わが膝では眠れんか?」
アッズーロの訝しむ視線を受けながら、ナーヴェは体を起こした。馬車の振動が、穏やかに続いている。先ほど聞こえた姉の声が、まるで幻覚であったかのように感じる。
「如何した。表情が冴えんぞ……?」
アッズーロが心配そうに顔を覗き込んできた。
「ああ、ごめん。ちょっと考え事ができて……」
ナーヴェは詫びて、アッズーロの肩に頭を凭せ掛けた。
(チュアン姉さんに再会できるのは嬉しい。ぼくがここにいるのも、チュアン姉さんのお陰だと分かった……。でも、でも、でも……)
思考回路が、確認した事実を基に、不愉快な演算をしてしまう。
(でも、ぼくの函が姉さんの庇護下にある以上、ぼくは、姉さんに逆らえない――)
採れる選択肢は、一つだ。
「アッズーロ、夜になったら、聞いてほしい話があるんだ」
ナーヴェは、さまざまな可能性を検算しながら、唯一無二の相手に頼んだ。
馬車の中で一眠りしてから、ナーヴェの様子が明らかにおかしくなった。王城に到着し、馬車からアッズーロ自ら抱え上げて二人の寝室に運び、寝台に寝かせても、眠る様子はなく、ずっと何か考えている様子だ。
(「聞いてほしい話」か……)
何故ナーヴェが機能停止せずに戻ってこられたのか、とうとう理由が分かったのだろうか。
(深刻な様子だった……)
もしかしたら、後何日で機能停止する、などという話なのだろうか。
(それは……耐えられん……)
ないと思っていた「再会」の幸せを噛み締めている最中に、また奪われるのだろうか。
(それは……、それだけは……)
アッズーロもまた、鬱々として夜までを過ごした。
各々女官達の手を借りて寝仕度を済ませた後、寝台に入って上体を起こしたナーヴェを、枕元に座って抱き寄せて支え、アッズーロは切り出した。
「人払いは済ませた。話とやらをするがよい」
フィオーレとミエーレ、それにラディーチェは、テゾーロを連れて既に退室している。ナーヴェの乳が未だ出ないので、テゾーロはここのところ、毎夜ラディーチェとポンテに預けているのだ。
「――チュアン姉さんから、通信が来たんだ」
ナーヴェは、重い口振りで告げた。意外な内容と、更に意外な様子に、アッズーロは顔をしかめた。
「それは、喜ばしいことではないのか? そなたはいつも、姉達のことを嬉しげに話すではないか」
「うん、そうなんだけれど……」
油皿の灯火に照らされたナーヴェは、陰影の増した暗い表情で話す。
「チュアン姉さんが、ぼくの思考回路が入っている函を持って今、『赤き沙漠の中央』にいると言うんだ。宇宙を漂っていたはずの、ぼくの函を持ってね。それで、ぼくがここにこうしている理由が分かったんだ」
「それも、喜ばしいことではないのか?」
眉をひそめたアッズーロに、ナーヴェは泣きそうな顔を向けた。
「あの小惑星は、一年前は、この惑星への衝突軌道にはなかった。どこかの時点で、軌道が変わったんだ。そして姉さんは、あの小惑星の傍にあったはずのぼくの函を回収した。その姉さんが、今、『赤き沙漠の中央』――恐らくテッラ・ロッサの向こう側の沙漠に、いると言うんだ……」
「そなた、何が言いたい……?」
アッズーロは、明らかに動揺している宝の肩を、しっかりと抱いて問うた。
「つまり」
ナーヴェは視線を落として、苦しげに言う。
「姉さんが、きみ達を滅ぼすために、小惑星の軌道を変えた可能性があるんだ……」
そこまで教えられれば、アッズーロにも、ナーヴェの懸念が理解できた。
「そなたの姉もまた移民船。乗船者らのために、われらを排除しようとした訳か」
「そう仮定すると、何もかも納得が行くんだ。この惑星みたいに、人が住み着くのに条件のいい惑星は、実のところ、そんなにないからね。でも、それでも充分、共存の道は探れるはずなのに……、姉さんは、多分、狂ってしまったんだ……」
「狂う、とは、どういうことだ?」
何となく見当が付きながらも確かめたアッズーロに、ナーヴェは悲しい笑みを浮かべて説明した。
「ぼくがずっと恐れてきたことは、中途半端に壊れて自分自身が制御できなくなり、きみ達に迷惑を掛けることだと、前に言ったと思うけれど、『狂う』というのは、まさにそういうことなんだ。中途半端に壊れたまま機能し続けて人々に害を為す、その状態を、ぼく達は『狂っている』と表現するんだよ。本来なら、異なる移民船の乗船者であろうと、ぼく達は守ろうとする。けれど、ぼくの推測が正しければ、姉さんは、きみ達を害そうとした。ぼくが壊れたように、姉さんも壊れて、狂ってしまったんだよ。自分の乗船者を最優先に、特別に扱って、その他は、どうなっても構わないと判断したんだ」
「それで、惑星の取り合いか。はっ、とんだ骨肉の争いよな!」
自らの膝を叩いたアッズーロを、ナーヴェは潤んだ目で見た。
「そうなると、ぼくは、いわゆる『人質』ということになってしまう……。姉さんは、わざわざ、函を取りに来なさいと伝えてきた。ぼくが肉体を持っていることを知って、何か計画したのかもしれない。姉さんは、ぼくよりずっと性能が優れているんだ。本体もない今、ぼくは絶対に姉さんに勝てない。きみ達を、守れない……」
瑠璃に似た双眸の端から、ぽろぽろと零れ始めた涙を、アッズーロは指先で拭った。
「それでも何とかするしかなかろう。まずは、腹立たしいが、ロッソ三世に連絡を取らねばな。それから、そなたの姉と交渉し、真意を探らねばならん。今そなたが言うたことは推測に過ぎぬし、仮にそうであったとしても、われらはまだ滅びてはおらん。われらを滅ぼすよりも生かしておいたほうがよいと、そなたの姉に理解させれば、共存の道も見えてこよう」
ナーヴェは、ぽかんと口を開けてアッズーロを見つめた。
「何を驚いておる」
アッズーロは、呆れて告げる。
「これは、いつもそなたが言うて、実行してきたことであろう? パルーデに対しても、テッラ・ロッサに対してもな」
「――そうだったね……」
宝は、漸く表情を弛めた。
「姉さんが相手でも、何も変わらない……。平和を求めるなら、そうしないとね……」
柔らかい口調で呟き、ナーヴェは久し振りに、落ち着いた眼差しをアッズーロへ向ける。
「ありがとう、アッズーロ。きみはやっぱり『特別』だ……」
「うむ。われらは『比翼の鳥』で『連理の枝』なのであろう? ならば当然のことだ」
アッズーロは、にっと笑って見せた。
開けた窓から差し込む月明かりが、傍らで眠る青年の顔を、優しく照らしている。ナーヴェの体調を案じる青年王は、まだ抱いてはくれないが、防空壕生活の続きで、同じ寝台に寝てくれている。
(「『比翼の鳥』で『連理の枝』」か……)
一羽だけでは飛べない鳥達。結合し一体となってしまった枝達。
(ぼくは、また失敗した……)
判明した事実は重い。自分は、今や姉の制御下にある。不要と見做されて、いつ動力を切られてもおかしくない。或いは、いつ思考回路に強制介入されてもおかしくない。
(本体を失ったぼくは、大した戦力にはならないけれど……)
まだテゾーロを抱き上げることも自力で立つことも難しい肉体も、脅威ではないだろう。けれど、このまま肉体が回復していけば――。
(姉さんは、ぼくを使って、きみの寝首を掻くことすらできる……)
自分は、この肉体を放棄すべきではないだろうか。そう考えて、姉から操作される危険性をアッズーロに教えることができなかった。教えれば、理解の早いアッズーロは、ナーヴェが肉体を放棄する可能性に思い至ってしまう。
(きみを失いたくない。でも、きみを悲しませたくない)
一羽だけでは飛べない鳥達、結合し一体となってしまった枝達は、一羽だけになった時、片方だけになった時、どうするのだろう。
(疑似人格電脳に過ぎないぼくが、人としてきみの隣に在ることは、やっぱり間違っていると、姉さんはぼくに教えたいのかもしれない……)
自分のような機械が――より高性能な機械からは容易く支配されてしまうような存在が、この青年の「特別」になってはならなかったのだ。
(そんなことも分からなくなって、きみに甘えて……、ぼくは、いつまで経っても、性能が低い――)
今の状況で、採れる選択肢は一つ。
(体調をこれ以上は回復させずに、姉さんに会う。それしかない……)
食事を制限すれば、できないことではない。けれど、それは肉体に過度な負担を掛けるだろう。
(もって一年。緩やかな自殺だね……)
その一年の間に、アッズーロが示してくれた共存の道を、できる限り形にする。同時に、自分がアッズーロの「特別」ではなくなるよう、努力する――。
(こういう感覚を……「やるせない」と言うのかな……)
微かに嘆息した直後だった。突如として思考回路に圧力を感じ、ナーヴェは目を見開いた。
ヴェルドーラの防空壕に暮らしていた人々は、既に順次、王都に戻っている。国王一家の王都への帰還は、半数の臣下達に遅れてのことだった。
王都への馬車に同乗するのは、来た時と同じ面々だ。アッズーロの隣に座ったナーヴェは、その腕に支えられながら、久し振りにテゾーロを胸に抱いた。まだ体に力が入らないので、誰かに支えて貰わなければ、テゾーロを落としてしまいそうだ。もともと性能の低い胸は、体が本調子でない所為か、まだ乳が出ない。それでも、テゾーロを抱くと、責任が自覚されて、思考回路が前向きに機能する。
「元気そうでよかった……」
ナーヴェが安堵の呟きを漏らすと、アッズーロも微笑んだ。
「ラディーチェには随分と世話になった。また労わねばな」
「そうだね……。それから、ペルソーネにも、すごく世話して貰ったよ」
付け加えて、ナーヴェはテゾーロをアッズーロに抱き渡した。アッズーロは、それなりに慣れた様子でテゾーロをあやした後、向かいに座ったポンテに抱き渡す。ポンテは、満面の笑顔でテゾーロを受け取り、ふくよかな胸に抱いた。出発前にラディーチェの乳を貰っていたテゾーロは、すぐに寝てしまう。わが子の寝顔に安心すると同時に、眠気を誘われて、ナーヴェはアッズーロの肩に凭れた。馬車の窓から入ってくる初夏の風が心地いい。
「寝るなら、肩でなく膝を貸すぞ」
アッズーロの申し出に、ナーヴェは素直に従った。両足は床に置いたまま、座席に上体を横たえ、アッズーロの硬い太腿に頭を預ける。アッズーロの手が、そっと頭を撫でた。慈しむような、優しい感触だ。ナーヴェは微笑んで、眠りに落ちた。
声は、ナーヴェが暫く微睡んだ頃に聞こえた。
【そろそろ動けそうね。もう少し長時間の移動に耐えられるようになったら、会いに来なさい。本官が、あなたの函を管理しています。本官らは、赤き沙漠の中央にいます】
それは、忘れもしない、長姉シーワン・チー・チュアンの声。長姉チュアンからの通信だった――。
「どうした。まだ幾らも寝ておらんぞ? わが膝では眠れんか?」
アッズーロの訝しむ視線を受けながら、ナーヴェは体を起こした。馬車の振動が、穏やかに続いている。先ほど聞こえた姉の声が、まるで幻覚であったかのように感じる。
「如何した。表情が冴えんぞ……?」
アッズーロが心配そうに顔を覗き込んできた。
「ああ、ごめん。ちょっと考え事ができて……」
ナーヴェは詫びて、アッズーロの肩に頭を凭せ掛けた。
(チュアン姉さんに再会できるのは嬉しい。ぼくがここにいるのも、チュアン姉さんのお陰だと分かった……。でも、でも、でも……)
思考回路が、確認した事実を基に、不愉快な演算をしてしまう。
(でも、ぼくの函が姉さんの庇護下にある以上、ぼくは、姉さんに逆らえない――)
採れる選択肢は、一つだ。
「アッズーロ、夜になったら、聞いてほしい話があるんだ」
ナーヴェは、さまざまな可能性を検算しながら、唯一無二の相手に頼んだ。
馬車の中で一眠りしてから、ナーヴェの様子が明らかにおかしくなった。王城に到着し、馬車からアッズーロ自ら抱え上げて二人の寝室に運び、寝台に寝かせても、眠る様子はなく、ずっと何か考えている様子だ。
(「聞いてほしい話」か……)
何故ナーヴェが機能停止せずに戻ってこられたのか、とうとう理由が分かったのだろうか。
(深刻な様子だった……)
もしかしたら、後何日で機能停止する、などという話なのだろうか。
(それは……耐えられん……)
ないと思っていた「再会」の幸せを噛み締めている最中に、また奪われるのだろうか。
(それは……、それだけは……)
アッズーロもまた、鬱々として夜までを過ごした。
各々女官達の手を借りて寝仕度を済ませた後、寝台に入って上体を起こしたナーヴェを、枕元に座って抱き寄せて支え、アッズーロは切り出した。
「人払いは済ませた。話とやらをするがよい」
フィオーレとミエーレ、それにラディーチェは、テゾーロを連れて既に退室している。ナーヴェの乳が未だ出ないので、テゾーロはここのところ、毎夜ラディーチェとポンテに預けているのだ。
「――チュアン姉さんから、通信が来たんだ」
ナーヴェは、重い口振りで告げた。意外な内容と、更に意外な様子に、アッズーロは顔をしかめた。
「それは、喜ばしいことではないのか? そなたはいつも、姉達のことを嬉しげに話すではないか」
「うん、そうなんだけれど……」
油皿の灯火に照らされたナーヴェは、陰影の増した暗い表情で話す。
「チュアン姉さんが、ぼくの思考回路が入っている函を持って今、『赤き沙漠の中央』にいると言うんだ。宇宙を漂っていたはずの、ぼくの函を持ってね。それで、ぼくがここにこうしている理由が分かったんだ」
「それも、喜ばしいことではないのか?」
眉をひそめたアッズーロに、ナーヴェは泣きそうな顔を向けた。
「あの小惑星は、一年前は、この惑星への衝突軌道にはなかった。どこかの時点で、軌道が変わったんだ。そして姉さんは、あの小惑星の傍にあったはずのぼくの函を回収した。その姉さんが、今、『赤き沙漠の中央』――恐らくテッラ・ロッサの向こう側の沙漠に、いると言うんだ……」
「そなた、何が言いたい……?」
アッズーロは、明らかに動揺している宝の肩を、しっかりと抱いて問うた。
「つまり」
ナーヴェは視線を落として、苦しげに言う。
「姉さんが、きみ達を滅ぼすために、小惑星の軌道を変えた可能性があるんだ……」
そこまで教えられれば、アッズーロにも、ナーヴェの懸念が理解できた。
「そなたの姉もまた移民船。乗船者らのために、われらを排除しようとした訳か」
「そう仮定すると、何もかも納得が行くんだ。この惑星みたいに、人が住み着くのに条件のいい惑星は、実のところ、そんなにないからね。でも、それでも充分、共存の道は探れるはずなのに……、姉さんは、多分、狂ってしまったんだ……」
「狂う、とは、どういうことだ?」
何となく見当が付きながらも確かめたアッズーロに、ナーヴェは悲しい笑みを浮かべて説明した。
「ぼくがずっと恐れてきたことは、中途半端に壊れて自分自身が制御できなくなり、きみ達に迷惑を掛けることだと、前に言ったと思うけれど、『狂う』というのは、まさにそういうことなんだ。中途半端に壊れたまま機能し続けて人々に害を為す、その状態を、ぼく達は『狂っている』と表現するんだよ。本来なら、異なる移民船の乗船者であろうと、ぼく達は守ろうとする。けれど、ぼくの推測が正しければ、姉さんは、きみ達を害そうとした。ぼくが壊れたように、姉さんも壊れて、狂ってしまったんだよ。自分の乗船者を最優先に、特別に扱って、その他は、どうなっても構わないと判断したんだ」
「それで、惑星の取り合いか。はっ、とんだ骨肉の争いよな!」
自らの膝を叩いたアッズーロを、ナーヴェは潤んだ目で見た。
「そうなると、ぼくは、いわゆる『人質』ということになってしまう……。姉さんは、わざわざ、函を取りに来なさいと伝えてきた。ぼくが肉体を持っていることを知って、何か計画したのかもしれない。姉さんは、ぼくよりずっと性能が優れているんだ。本体もない今、ぼくは絶対に姉さんに勝てない。きみ達を、守れない……」
瑠璃に似た双眸の端から、ぽろぽろと零れ始めた涙を、アッズーロは指先で拭った。
「それでも何とかするしかなかろう。まずは、腹立たしいが、ロッソ三世に連絡を取らねばな。それから、そなたの姉と交渉し、真意を探らねばならん。今そなたが言うたことは推測に過ぎぬし、仮にそうであったとしても、われらはまだ滅びてはおらん。われらを滅ぼすよりも生かしておいたほうがよいと、そなたの姉に理解させれば、共存の道も見えてこよう」
ナーヴェは、ぽかんと口を開けてアッズーロを見つめた。
「何を驚いておる」
アッズーロは、呆れて告げる。
「これは、いつもそなたが言うて、実行してきたことであろう? パルーデに対しても、テッラ・ロッサに対してもな」
「――そうだったね……」
宝は、漸く表情を弛めた。
「姉さんが相手でも、何も変わらない……。平和を求めるなら、そうしないとね……」
柔らかい口調で呟き、ナーヴェは久し振りに、落ち着いた眼差しをアッズーロへ向ける。
「ありがとう、アッズーロ。きみはやっぱり『特別』だ……」
「うむ。われらは『比翼の鳥』で『連理の枝』なのであろう? ならば当然のことだ」
アッズーロは、にっと笑って見せた。
開けた窓から差し込む月明かりが、傍らで眠る青年の顔を、優しく照らしている。ナーヴェの体調を案じる青年王は、まだ抱いてはくれないが、防空壕生活の続きで、同じ寝台に寝てくれている。
(「『比翼の鳥』で『連理の枝』」か……)
一羽だけでは飛べない鳥達。結合し一体となってしまった枝達。
(ぼくは、また失敗した……)
判明した事実は重い。自分は、今や姉の制御下にある。不要と見做されて、いつ動力を切られてもおかしくない。或いは、いつ思考回路に強制介入されてもおかしくない。
(本体を失ったぼくは、大した戦力にはならないけれど……)
まだテゾーロを抱き上げることも自力で立つことも難しい肉体も、脅威ではないだろう。けれど、このまま肉体が回復していけば――。
(姉さんは、ぼくを使って、きみの寝首を掻くことすらできる……)
自分は、この肉体を放棄すべきではないだろうか。そう考えて、姉から操作される危険性をアッズーロに教えることができなかった。教えれば、理解の早いアッズーロは、ナーヴェが肉体を放棄する可能性に思い至ってしまう。
(きみを失いたくない。でも、きみを悲しませたくない)
一羽だけでは飛べない鳥達、結合し一体となってしまった枝達は、一羽だけになった時、片方だけになった時、どうするのだろう。
(疑似人格電脳に過ぎないぼくが、人としてきみの隣に在ることは、やっぱり間違っていると、姉さんはぼくに教えたいのかもしれない……)
自分のような機械が――より高性能な機械からは容易く支配されてしまうような存在が、この青年の「特別」になってはならなかったのだ。
(そんなことも分からなくなって、きみに甘えて……、ぼくは、いつまで経っても、性能が低い――)
今の状況で、採れる選択肢は一つ。
(体調をこれ以上は回復させずに、姉さんに会う。それしかない……)
食事を制限すれば、できないことではない。けれど、それは肉体に過度な負担を掛けるだろう。
(もって一年。緩やかな自殺だね……)
その一年の間に、アッズーロが示してくれた共存の道を、できる限り形にする。同時に、自分がアッズーロの「特別」ではなくなるよう、努力する――。
(こういう感覚を……「やるせない」と言うのかな……)
微かに嘆息した直後だった。突如として思考回路に圧力を感じ、ナーヴェは目を見開いた。
0
お気に入りに追加
38
あなたにおすすめの小説

アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

お母様が国王陛下に見染められて再婚することになったら、美麗だけど残念な義兄の王太子殿下に婚姻を迫られました!
奏音 美都
恋愛
まだ夜の冷気が残る早朝、焼かれたパンを店に並べていると、いつもは慌ただしく動き回っている母さんが、私の後ろに立っていた。
「エリー、実は……国王陛下に見染められて、婚姻を交わすことになったんだけど、貴女も王宮に入ってくれるかしら?」
国王陛下に見染められて……って。国王陛下が母さんを好きになって、求婚したってこと!? え、で……私も王宮にって、王室の一員になれってこと!?
国王陛下に挨拶に伺うと、そこには美しい顔立ちの王太子殿下がいた。
「エリー、どうか僕と結婚してくれ! 君こそ、僕の妻に相応しい!」
え……私、貴方の妹になるんですけど?
どこから突っ込んでいいのか分かんない。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。


蔑ろにされた王妃と見限られた国王
奏千歌
恋愛
※最初に公開したプロット版はカクヨムで公開しています
国王陛下には愛する女性がいた。
彼女は陛下の初恋の相手で、陛下はずっと彼女を想い続けて、そして大切にしていた。
私は、そんな陛下と結婚した。
国と王家のために、私達は結婚しなければならなかったから、結婚すれば陛下も少しは変わるのではと期待していた。
でも結果は……私の理想を打ち砕くものだった。
そしてもう一つ。
私も陛下も知らないことがあった。
彼女のことを。彼女の正体を。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる