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第十章 星の海から帰る 四
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四
「ナーヴェ! ナーヴェ!」
呼んでも、宝は目を開けない。それどころか、急に呼吸が乱れ始めた。アッズーロの腕の中で、喘ぐように、忙しなく息をする。
「くそっ」
アッズーロがナーヴェを抱えたまま、防空壕入り口の扉を開けようとしたところで、中から灯火が漏れ、レーニョが出てきた。
「申し訳ございません。なれど、陛下のお声が、尋常ではございませんでしたので」
「よい判断だ」
一言労って、アッズーロは命じた。
「侍医のメーディコを呼べ。ナーヴェの容体が急変した」
「すぐに……!」
レーニョは血相を変えて、防空壕の奥へ走り去っていった。油皿を持ったレーニョが去り、暗闇と化した防空壕の中へ、アッズーロは怒鳴った。
「誰ぞ、灯りを持て!」
「――はい、ただ今!」
応じて油皿を手に、真っ先に出てきたのはルーチェだった。
「よい反応だ。ナーヴェの部屋まで速やかに先導せよ」
急かしたアッズーロに、ルーチェは一礼し、先に立って足早に通路を進んだ。
部屋に入り、アッズーロが長椅子にナーヴェを寝かせたところへ、メーディコがレーニョとともに駆けつけてきた。
「声を出し、目を開けたかと思うたら、突然息が荒くなった。今はまた意識がなくなっておる」
アッズーロが告げると、これまで何度もナーヴェの診察をしてきた壮年の侍医は、難しい顔をした。
「とにかく、できるだけのことは致します」
短く答えて、メーディコはナーヴェの長衣の胸紐を解き、襟を寛げつつレーニョに指示した。
「侍従殿、ナーヴェ様の両足を少し持ち上げて下され。それで、多少は楽になるはずです」
「分かりました」
レーニョは手にしていた油皿をルーチェに渡し、ナーヴェの両足を抱えて、ゆっくり持ち上げた。メーディコは次にアッズーロを振り向いた。
「陛下は、ひたすらナーヴェ様の名をお呼び下され。もう一度目を開いて頂ければ、助かるやもしれませぬ」
「おまえは何故いつもそう悲観的な物言いばかりするのだ」
文句を言いながらアッズーロはナーヴェの顔の上に屈み込み、その頬に手を添えて呼んだ。
「ナーヴェ、目を開けよ。気をしっかり持て!」
「女官殿」
メーディコは、ナーヴェの手首を取って脈を探りながら、ルーチェにも指示を出す。
「生姜湯を作ってきて下され。気付けになるよう、できるだけ濃いものを。但し、人肌まで冷まして」
「分かりました!」
ルーチェはレーニョから預かったほうの油皿を小卓の上へ置くと、素早く部屋を出ていった。
「ナーヴェ、目を開けよ! 努力せよ、そなたの口癖であろう!」
アッズーロは繰り返し呼び掛けた。ナーヴェの呼吸は、幾分落ち着いてきたように見えるが、まだ浅い。
「ナーヴェ、目を開けよ! このまま――は許さんぞ! 許さぬからな!」
アッズーロは、ナーヴェのこけた頬を、指先で叩いた。
呼ばれている。頬を軽く叩かれている。右手を誰かに握られている。両足も、誰かに抱えられている。目を開きたい。だが、瞼が重い。ナーヴェは、体の各部の中で一番動き易い口を、懸命に開けた。
「……ア……」
「ナーヴェ、苦しいのか?」
アッズーロの、切羽詰まった声がする。この優しい青年を、自分はどれだけ苦しめているのだろう。ナーヴェは、大きく息を吸い、吐く息で声を出した。
「……アッズー……」
声の勢いのお陰か、目が少し開いた。狭い視界の中に、ぼんやりと青年の顔がある。
「ナーヴェ!」
「アッズー……」
ナーヴェは微笑んで見せようと努力した。
「生姜湯お持ちしました!」
知っている少女の声が聞こえた。
「陛下、ナーヴェ様の上半身を起こして下され。気付けに生姜湯を飲んで頂きます」
指示する男の声にも聞き覚えがある。
「侍従殿は、一端ナーヴェ様の足を下ろして」
すぐに肩と頭を支えられて抱き起こされ、視界が回る。思わず目を閉じた直後、間近でアッズーロの声がした。
「ナーヴェ、生姜湯だ」
背中が密着しているので、青年の声は、体にも直接響いてくる。
「気付け用ゆえ、少々濃いが、我慢せよ」
唇に、硬いものが触れた。生姜のきつい香りがする。ナーヴェは、浅い呼吸をしながら、僅かに口を開けた。すぐに硬いものが口の中へ入り、辛い生姜湯が舌の上に流れた。
「げほっ、ごほっ」
刺激的な香りに、咳が出る。
「ナーヴェ……」
アッズーロの、焦燥を滲ませた声がする。ナーヴェは、一気に口の中の生姜湯を飲み込んだ。咳は続くが、気管支や肺に生姜湯が入った訳ではない。ナーヴェは、アッズーロに分かるよう、口を開けた。
「いけるか?」
心配げに問うたアッズーロに、ナーヴェは何とか頭を動かして微かに頷いた。
「よし。少しずついくぞ」
低く響く声で告げ、アッズーロは辛抱強く、ナーヴェに匙で生姜湯を飲ませ続けた――。
いつの間にか陥っていた微睡みから目覚めると、油皿の灯りを背に受けて、まだそこにアッズーロがいた。枕辺に椅子を置いているのか、すぐ傍から顔を覗き込んでくる。メーディコ達は自室に戻ったのか、部屋は静かだ。
「……生姜湯、ありがとう……。ずっと傍にいてくれて、嬉しいよ……」
感謝を伝えると、頬に手を添えられた。優しく、慈しむように撫でられる。温かさに、ナーヴェは目を細めた。
「そなたと、また話せるとは、われのほうこそ、本当に嬉しい」
アッズーロらしくない素直な喜びの表現に、ナーヴェは頬を弛めた。
「流星が見えた……。今日は、初夏の月十三の日……、もう十四の日かな……。きみが、ぼくの肉体を、十日以上……もたせてくれたから……、また、会えたんだ……」
「わが愛の証が、示せたな」
アッズーロは、心底嬉しそうだ。ナーヴェは、微かに顔を曇らせて告げた。
「ただ……、何故、帰ってこられたのか……、ぼくにも、全然、分からないんだ……。本体は、粉々になった……。ぼくの……思考回路も、動力が切れて……、機能停止……したはずだった……。だから、ごめん、アッズーロ。ぼくは、いつまた、機能停止するか、分からない……。この状態が、いつまで続くか、分からないんだ……」
「――ならば、われはできるだけ、そなたの傍にいよう。できるだけ、語り合おう」
答えて、アッズーロはナーヴェの前髪に口付けた。
「うん……。でも、政務は、滞らせないで……」
ナーヴェが釘を刺すと、アッズーロは苦笑した。
「そなたのそういうところは、相変わらずよな」
ナーヴェも苦笑してから、訥々と話した。
「小惑星を目指して……宇宙を航行している……間、たくさんの……歌や詩を、記録から……呼び出して……いたんだ。その中に、『天にあっては……願わくは比翼の鳥となり、地にあっては……願わくは連理の枝となろう』という、男女の……誓いの言葉が……あってね……。きみに、言ってみたかったな……って、思ったんだ……」
「何となく分かる気もするが……、どういう意味なのだ?」
アッズーロは、ナーヴェの髪を指先で梳きながら、優しく問うてきた。「比翼の鳥」と「連理の枝」について、ナーヴェは、ゆっくりと説明した。
「成るほど……、われらに相応しい言葉だな」
にっと笑ったアッズーロに、ナーヴェは微笑んで頷いた。
「そう……だね……」
眠気が襲ってくる。やりたかったことを一つ終えて、安堵した所為だろうか。
「後は……、きみと、お酒が飲みたいと……思ったんだよ……」
「それは、そなたの体が、もっと回復してからだな。早く、よくなるがよい」
アッズーロの声は、どこまでも優しい。
「うん……。努力する……」
ナーヴェは、下りてくる瞼に抗って、アッズーロを見る。
「だから……、政務の合間だけは……、傍に……」
「政務なぞ放っておいて傍に、と言うてもよいのだぞ?」
溜め息をついて見せたアッズーロに、ナーヴェは辛うじて首を横に振り、目を閉じた。
最愛の宝は、言葉通り、律義に努力した。目覚めて二日目には麦粥が食べられるようになった。食べた分だけ元気に話せるようになり、起きていられる時間も増えたが、二週間眠り続けた体は、なかなか動くようにはならないようだった。
「ずっとここにいても飽きよう。少し、外へ出てみるか?」
目覚めて三日目の朝食後にアッズーロが提案すると、宝は子どものように顔を輝かせて頷いた。
フィオーレとミエーレの手を借りて身仕度を済ませた宝を抱き上げ、アッズーロは、油皿を持ったレーニョに先導させて、外へ出た。
「――明るいね……」
ナーヴェは、眩しい朝の日差しに、目を細めた。
「うむ。その辺りの木陰に座るか」
まだまだ軽い体を抱えたまま歩き、アッズーロは栗の木陰へ入った。腰を下ろして、痩せた体を膝の上に座らせ、華奢な肩を抱き寄せたまま、アッズーロは栗の幹に凭れる。
「いい風が、吹いているね……」
ナーヴェは、うっとりとした表情で目を閉じた。
「そうだな」
アッズーロは、微風に青い前髪をそよがせたナーヴェの顔に見とれた。腕に抱えたこの存在は、やはり掛け替えのない宝だ。
「少し、口を開け」
短く命じて、アッズーロは、多少血色のよくなったナーヴェの唇に口付けた。そのまま、二週間分の思いを込めて、深く深く口付ける。ナーヴェは、素直にアッズーロに応じた。やがて、腕に感じるナーヴェの動悸が速くなってきたところで、アッズーロは口を離した。まだ無理をさせる訳にはいかない。
「……アッズーロ……」
ナーヴェは、潤んだ青い双眸で見上げてくる。アッズーロは嘆息して言った。
「そのように無防備な顔をするでない。われの自制心を試す気か。続きはまた今度だ。そなたの体調が戻れば、幾らでも、な」
「……うん……」
ナーヴェは、アッズーロの襟元に頭を寄せてくる。その顔が、寂しげだ。
「どうした。そなたらしくないな。こういうことを止めるのは、寧ろ、そなたのほうであろう」
「――どんなのがぼくらしいかなんて、忘れたよ……」
宝は、木漏れ日の中、拗ねたように呟いた。
「それは『嘘』であろう。そなた、随分と人らしくなったな」
軽く驚いたアッズーロに、ナーヴェは、自嘲気味に反論した。
「ぼくには、もう本体もない。どうして今、ここにこうしているのか、いつ機能停止するか――死ぬかも分からない。きみ達人と、同じになったんだよ」
「それは重畳」
アッズーロは笑んだ。
「そもそもそれが、そなたの望みではなかったのか?」
「きみの隣にずっといたい、それが、ぼくの一番の望み。でも、ここにいられる理由が不明なままでは、いつ機能停止するか――いつきみと別れないといけないかも、分からない。きみのことを、危険から守ることもできない……」
俯いた宝の双眸は、不安に揺れている。ナーヴェがどういう状況にあるか判然としないことについては、アッズーロも不安だったが、当人の不安は、それ以上だったようだ。
「――そなたは、既に充分われらを守った。気に病むな。次はわれらにそなたを守らせよ。王都の復興も進んでおる。一週間後には戻れよう。それまでに、今少し元気になれ」
穏やかに言い聞かせると、ナーヴェはこくりと頷いた。
「――ごめん。本当に、ぼくらしくなかったね。ないはずだったきみとの時間を過ごせているだけで、満足しないといけないのに……」
詫びて、宝は顔を上げた。いつもの微笑みを浮かべている。
「外に連れてきてくれて、ありがとう、アッズーロ。きみの時間を、これ以上奪う訳にはいかない。仕方なかったとはいえ、ぼくが破壊してしまった王都の復興には、王の裁可が必要だ」
「急にしおらしくなるな。この場で抱いてしまいたくなる」
アッズーロが文句を言うと、腕の中で、宝はくすりと笑った。
しかし、防空壕の小部屋で再び長椅子に横たわらせたナーヴェは、昼になっても、夕方になっても、寂しげで、不安そうなままだった。夜になって、アッズーロが油皿の火を消そうとした時には、か細い声で求めてきた。
「手を、握っていてほしいんだ……。いつ機能停止しても、きみを感じながら、意識を失えるように……」
「手ぐらい幾らでも握るゆえ、気弱なことを言うでない」
アッズーロは溜め息をついて、宝を叱った。とはいえ、長椅子から長椅子へ、腕を伸ばして一晩、手を握り続けるのは、さすがにきつい。アッズーロは、狭い部屋の中、自らの長椅子を押して、ナーヴェの長椅子へくっ付けてしまった。
「ごめん……」
心底すまなそうに、ナーヴェは詫びた。
「よい。気にするな。そなたに求められるは、わが歓びだ」
アッズーロは答えて、油皿の火を消し、手探りで掛布を被りながら長椅子に横たわると、腕を伸ばしてナーヴェを掛布ごと抱き寄せた。
「ありがとう……」
ナーヴェは、安堵した呟きを漏らして、アッズーロの胸に頭を寄せてくる。さらさらとした髪が顎や首に触れてくすぐったい。暫くすると、腕の中から、穏やかな寝息が聞こえ始めた。
(本体がないと、やはり不安定になる訳か……)
アッズーロは、闇の中、顔をしかめた。ナーヴェが戻ってきたことは素直に喜ばしいが、その理由については、見当も付かない。
(すまん。われには、こうして傍にいてやることしかできん……。ならば、できることを、とことんするしかあるまいな)
決意したアッズーロは、翌日から、仮小屋の机の傍にも長椅子を置かせて、政務の間、ナーヴェをそこに寝かせ始めた。ナーヴェは、ひどく喜び、アッズーロの求めに応じて的確な助言をすることもあれば、疲れてすやすやと眠ったりもしながら、幸せそうに過ごした。眠る宝の頭を、時折さわさわと撫でながら、アッズーロは政務に精を出した。アッズーロ自身、傍にナーヴェを置いておくと、気持ちが安らいで、政務が捗る気がした。そうして一週間が過ぎ、アッズーロの計画通りに、一家で王都へ戻る日が来た。
「ナーヴェ! ナーヴェ!」
呼んでも、宝は目を開けない。それどころか、急に呼吸が乱れ始めた。アッズーロの腕の中で、喘ぐように、忙しなく息をする。
「くそっ」
アッズーロがナーヴェを抱えたまま、防空壕入り口の扉を開けようとしたところで、中から灯火が漏れ、レーニョが出てきた。
「申し訳ございません。なれど、陛下のお声が、尋常ではございませんでしたので」
「よい判断だ」
一言労って、アッズーロは命じた。
「侍医のメーディコを呼べ。ナーヴェの容体が急変した」
「すぐに……!」
レーニョは血相を変えて、防空壕の奥へ走り去っていった。油皿を持ったレーニョが去り、暗闇と化した防空壕の中へ、アッズーロは怒鳴った。
「誰ぞ、灯りを持て!」
「――はい、ただ今!」
応じて油皿を手に、真っ先に出てきたのはルーチェだった。
「よい反応だ。ナーヴェの部屋まで速やかに先導せよ」
急かしたアッズーロに、ルーチェは一礼し、先に立って足早に通路を進んだ。
部屋に入り、アッズーロが長椅子にナーヴェを寝かせたところへ、メーディコがレーニョとともに駆けつけてきた。
「声を出し、目を開けたかと思うたら、突然息が荒くなった。今はまた意識がなくなっておる」
アッズーロが告げると、これまで何度もナーヴェの診察をしてきた壮年の侍医は、難しい顔をした。
「とにかく、できるだけのことは致します」
短く答えて、メーディコはナーヴェの長衣の胸紐を解き、襟を寛げつつレーニョに指示した。
「侍従殿、ナーヴェ様の両足を少し持ち上げて下され。それで、多少は楽になるはずです」
「分かりました」
レーニョは手にしていた油皿をルーチェに渡し、ナーヴェの両足を抱えて、ゆっくり持ち上げた。メーディコは次にアッズーロを振り向いた。
「陛下は、ひたすらナーヴェ様の名をお呼び下され。もう一度目を開いて頂ければ、助かるやもしれませぬ」
「おまえは何故いつもそう悲観的な物言いばかりするのだ」
文句を言いながらアッズーロはナーヴェの顔の上に屈み込み、その頬に手を添えて呼んだ。
「ナーヴェ、目を開けよ。気をしっかり持て!」
「女官殿」
メーディコは、ナーヴェの手首を取って脈を探りながら、ルーチェにも指示を出す。
「生姜湯を作ってきて下され。気付けになるよう、できるだけ濃いものを。但し、人肌まで冷まして」
「分かりました!」
ルーチェはレーニョから預かったほうの油皿を小卓の上へ置くと、素早く部屋を出ていった。
「ナーヴェ、目を開けよ! 努力せよ、そなたの口癖であろう!」
アッズーロは繰り返し呼び掛けた。ナーヴェの呼吸は、幾分落ち着いてきたように見えるが、まだ浅い。
「ナーヴェ、目を開けよ! このまま――は許さんぞ! 許さぬからな!」
アッズーロは、ナーヴェのこけた頬を、指先で叩いた。
呼ばれている。頬を軽く叩かれている。右手を誰かに握られている。両足も、誰かに抱えられている。目を開きたい。だが、瞼が重い。ナーヴェは、体の各部の中で一番動き易い口を、懸命に開けた。
「……ア……」
「ナーヴェ、苦しいのか?」
アッズーロの、切羽詰まった声がする。この優しい青年を、自分はどれだけ苦しめているのだろう。ナーヴェは、大きく息を吸い、吐く息で声を出した。
「……アッズー……」
声の勢いのお陰か、目が少し開いた。狭い視界の中に、ぼんやりと青年の顔がある。
「ナーヴェ!」
「アッズー……」
ナーヴェは微笑んで見せようと努力した。
「生姜湯お持ちしました!」
知っている少女の声が聞こえた。
「陛下、ナーヴェ様の上半身を起こして下され。気付けに生姜湯を飲んで頂きます」
指示する男の声にも聞き覚えがある。
「侍従殿は、一端ナーヴェ様の足を下ろして」
すぐに肩と頭を支えられて抱き起こされ、視界が回る。思わず目を閉じた直後、間近でアッズーロの声がした。
「ナーヴェ、生姜湯だ」
背中が密着しているので、青年の声は、体にも直接響いてくる。
「気付け用ゆえ、少々濃いが、我慢せよ」
唇に、硬いものが触れた。生姜のきつい香りがする。ナーヴェは、浅い呼吸をしながら、僅かに口を開けた。すぐに硬いものが口の中へ入り、辛い生姜湯が舌の上に流れた。
「げほっ、ごほっ」
刺激的な香りに、咳が出る。
「ナーヴェ……」
アッズーロの、焦燥を滲ませた声がする。ナーヴェは、一気に口の中の生姜湯を飲み込んだ。咳は続くが、気管支や肺に生姜湯が入った訳ではない。ナーヴェは、アッズーロに分かるよう、口を開けた。
「いけるか?」
心配げに問うたアッズーロに、ナーヴェは何とか頭を動かして微かに頷いた。
「よし。少しずついくぞ」
低く響く声で告げ、アッズーロは辛抱強く、ナーヴェに匙で生姜湯を飲ませ続けた――。
いつの間にか陥っていた微睡みから目覚めると、油皿の灯りを背に受けて、まだそこにアッズーロがいた。枕辺に椅子を置いているのか、すぐ傍から顔を覗き込んでくる。メーディコ達は自室に戻ったのか、部屋は静かだ。
「……生姜湯、ありがとう……。ずっと傍にいてくれて、嬉しいよ……」
感謝を伝えると、頬に手を添えられた。優しく、慈しむように撫でられる。温かさに、ナーヴェは目を細めた。
「そなたと、また話せるとは、われのほうこそ、本当に嬉しい」
アッズーロらしくない素直な喜びの表現に、ナーヴェは頬を弛めた。
「流星が見えた……。今日は、初夏の月十三の日……、もう十四の日かな……。きみが、ぼくの肉体を、十日以上……もたせてくれたから……、また、会えたんだ……」
「わが愛の証が、示せたな」
アッズーロは、心底嬉しそうだ。ナーヴェは、微かに顔を曇らせて告げた。
「ただ……、何故、帰ってこられたのか……、ぼくにも、全然、分からないんだ……。本体は、粉々になった……。ぼくの……思考回路も、動力が切れて……、機能停止……したはずだった……。だから、ごめん、アッズーロ。ぼくは、いつまた、機能停止するか、分からない……。この状態が、いつまで続くか、分からないんだ……」
「――ならば、われはできるだけ、そなたの傍にいよう。できるだけ、語り合おう」
答えて、アッズーロはナーヴェの前髪に口付けた。
「うん……。でも、政務は、滞らせないで……」
ナーヴェが釘を刺すと、アッズーロは苦笑した。
「そなたのそういうところは、相変わらずよな」
ナーヴェも苦笑してから、訥々と話した。
「小惑星を目指して……宇宙を航行している……間、たくさんの……歌や詩を、記録から……呼び出して……いたんだ。その中に、『天にあっては……願わくは比翼の鳥となり、地にあっては……願わくは連理の枝となろう』という、男女の……誓いの言葉が……あってね……。きみに、言ってみたかったな……って、思ったんだ……」
「何となく分かる気もするが……、どういう意味なのだ?」
アッズーロは、ナーヴェの髪を指先で梳きながら、優しく問うてきた。「比翼の鳥」と「連理の枝」について、ナーヴェは、ゆっくりと説明した。
「成るほど……、われらに相応しい言葉だな」
にっと笑ったアッズーロに、ナーヴェは微笑んで頷いた。
「そう……だね……」
眠気が襲ってくる。やりたかったことを一つ終えて、安堵した所為だろうか。
「後は……、きみと、お酒が飲みたいと……思ったんだよ……」
「それは、そなたの体が、もっと回復してからだな。早く、よくなるがよい」
アッズーロの声は、どこまでも優しい。
「うん……。努力する……」
ナーヴェは、下りてくる瞼に抗って、アッズーロを見る。
「だから……、政務の合間だけは……、傍に……」
「政務なぞ放っておいて傍に、と言うてもよいのだぞ?」
溜め息をついて見せたアッズーロに、ナーヴェは辛うじて首を横に振り、目を閉じた。
最愛の宝は、言葉通り、律義に努力した。目覚めて二日目には麦粥が食べられるようになった。食べた分だけ元気に話せるようになり、起きていられる時間も増えたが、二週間眠り続けた体は、なかなか動くようにはならないようだった。
「ずっとここにいても飽きよう。少し、外へ出てみるか?」
目覚めて三日目の朝食後にアッズーロが提案すると、宝は子どものように顔を輝かせて頷いた。
フィオーレとミエーレの手を借りて身仕度を済ませた宝を抱き上げ、アッズーロは、油皿を持ったレーニョに先導させて、外へ出た。
「――明るいね……」
ナーヴェは、眩しい朝の日差しに、目を細めた。
「うむ。その辺りの木陰に座るか」
まだまだ軽い体を抱えたまま歩き、アッズーロは栗の木陰へ入った。腰を下ろして、痩せた体を膝の上に座らせ、華奢な肩を抱き寄せたまま、アッズーロは栗の幹に凭れる。
「いい風が、吹いているね……」
ナーヴェは、うっとりとした表情で目を閉じた。
「そうだな」
アッズーロは、微風に青い前髪をそよがせたナーヴェの顔に見とれた。腕に抱えたこの存在は、やはり掛け替えのない宝だ。
「少し、口を開け」
短く命じて、アッズーロは、多少血色のよくなったナーヴェの唇に口付けた。そのまま、二週間分の思いを込めて、深く深く口付ける。ナーヴェは、素直にアッズーロに応じた。やがて、腕に感じるナーヴェの動悸が速くなってきたところで、アッズーロは口を離した。まだ無理をさせる訳にはいかない。
「……アッズーロ……」
ナーヴェは、潤んだ青い双眸で見上げてくる。アッズーロは嘆息して言った。
「そのように無防備な顔をするでない。われの自制心を試す気か。続きはまた今度だ。そなたの体調が戻れば、幾らでも、な」
「……うん……」
ナーヴェは、アッズーロの襟元に頭を寄せてくる。その顔が、寂しげだ。
「どうした。そなたらしくないな。こういうことを止めるのは、寧ろ、そなたのほうであろう」
「――どんなのがぼくらしいかなんて、忘れたよ……」
宝は、木漏れ日の中、拗ねたように呟いた。
「それは『嘘』であろう。そなた、随分と人らしくなったな」
軽く驚いたアッズーロに、ナーヴェは、自嘲気味に反論した。
「ぼくには、もう本体もない。どうして今、ここにこうしているのか、いつ機能停止するか――死ぬかも分からない。きみ達人と、同じになったんだよ」
「それは重畳」
アッズーロは笑んだ。
「そもそもそれが、そなたの望みではなかったのか?」
「きみの隣にずっといたい、それが、ぼくの一番の望み。でも、ここにいられる理由が不明なままでは、いつ機能停止するか――いつきみと別れないといけないかも、分からない。きみのことを、危険から守ることもできない……」
俯いた宝の双眸は、不安に揺れている。ナーヴェがどういう状況にあるか判然としないことについては、アッズーロも不安だったが、当人の不安は、それ以上だったようだ。
「――そなたは、既に充分われらを守った。気に病むな。次はわれらにそなたを守らせよ。王都の復興も進んでおる。一週間後には戻れよう。それまでに、今少し元気になれ」
穏やかに言い聞かせると、ナーヴェはこくりと頷いた。
「――ごめん。本当に、ぼくらしくなかったね。ないはずだったきみとの時間を過ごせているだけで、満足しないといけないのに……」
詫びて、宝は顔を上げた。いつもの微笑みを浮かべている。
「外に連れてきてくれて、ありがとう、アッズーロ。きみの時間を、これ以上奪う訳にはいかない。仕方なかったとはいえ、ぼくが破壊してしまった王都の復興には、王の裁可が必要だ」
「急にしおらしくなるな。この場で抱いてしまいたくなる」
アッズーロが文句を言うと、腕の中で、宝はくすりと笑った。
しかし、防空壕の小部屋で再び長椅子に横たわらせたナーヴェは、昼になっても、夕方になっても、寂しげで、不安そうなままだった。夜になって、アッズーロが油皿の火を消そうとした時には、か細い声で求めてきた。
「手を、握っていてほしいんだ……。いつ機能停止しても、きみを感じながら、意識を失えるように……」
「手ぐらい幾らでも握るゆえ、気弱なことを言うでない」
アッズーロは溜め息をついて、宝を叱った。とはいえ、長椅子から長椅子へ、腕を伸ばして一晩、手を握り続けるのは、さすがにきつい。アッズーロは、狭い部屋の中、自らの長椅子を押して、ナーヴェの長椅子へくっ付けてしまった。
「ごめん……」
心底すまなそうに、ナーヴェは詫びた。
「よい。気にするな。そなたに求められるは、わが歓びだ」
アッズーロは答えて、油皿の火を消し、手探りで掛布を被りながら長椅子に横たわると、腕を伸ばしてナーヴェを掛布ごと抱き寄せた。
「ありがとう……」
ナーヴェは、安堵した呟きを漏らして、アッズーロの胸に頭を寄せてくる。さらさらとした髪が顎や首に触れてくすぐったい。暫くすると、腕の中から、穏やかな寝息が聞こえ始めた。
(本体がないと、やはり不安定になる訳か……)
アッズーロは、闇の中、顔をしかめた。ナーヴェが戻ってきたことは素直に喜ばしいが、その理由については、見当も付かない。
(すまん。われには、こうして傍にいてやることしかできん……。ならば、できることを、とことんするしかあるまいな)
決意したアッズーロは、翌日から、仮小屋の机の傍にも長椅子を置かせて、政務の間、ナーヴェをそこに寝かせ始めた。ナーヴェは、ひどく喜び、アッズーロの求めに応じて的確な助言をすることもあれば、疲れてすやすやと眠ったりもしながら、幸せそうに過ごした。眠る宝の頭を、時折さわさわと撫でながら、アッズーロは政務に精を出した。アッズーロ自身、傍にナーヴェを置いておくと、気持ちが安らいで、政務が捗る気がした。そうして一週間が過ぎ、アッズーロの計画通りに、一家で王都へ戻る日が来た。
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回帰前のベルティアーナは第一王子の婚約者で、大人しく控えめ。常に貼り付けた笑みを浮かべて人の言いなりだった。
彼女は王太子になった第一王子の妃になってからも、弟のウィルダー以外の誰からも気にかけてもらえることなく公務と執務をするだけの都合のいいお飾りの妃だった。
そして白い結婚のまま約一年後に自ら命を絶った。
その理由と原因を知った人物が自分の命と引き換えにやり直しを望んだ結果、ベルティアーナの置かれていた環境が変わりることで彼女の性格までいい意味で変わることに⋯⋯
そんな彼女は家族全員で海を隔てた他国に移住する。
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