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第九章 失いたくない 三

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     三

 四日間授乳していないので、性能の低い胸も、さすがに張って、乳が滲んできている。アッズーロに触れられても、かなり痛みがあった。
(テゾーロに、授乳しないと……)
 油皿一つが照らす暗がりの中、起き上がろうとしたナーヴェを、アッズーロの腕が抱き寄せた。まだ起きていたらしい。
「アッズーロ、まずテゾーロに授乳させて。きみとは、その後、また――」
 言い掛けた言葉は、またもアッズーロの行為によって、中断を余儀なくされた。
「ちょっと、アッズーロ……?」
 ナーヴェの困惑を無視し、王は、まるで猫のような仕草で、薄い胸を押さえ、滲んだ乳を舐める。くすぐったさを超える刺激に、ナーヴェは顔をしかめて質した。
「……成分的に、これはきみにとって美味しいものではないよ? それに、テゾーロにあげないと……」
「そなたの肉体のものであれば、何であれ、われのものだ。テゾーロには、ラディーチェが充分に乳を与えておる」
 王は我が儘を言い、ナーヴェを離さない。やはり、少しいつもと違う。ナーヴェは、アッズーロの顔を見つめて窘めてみた。
「アッズーロ……、きみだって、『腹の子が最優先だ』と言っていただろう?」
「『今は腹の子が最優先だ』と言うたのだ。それに、われは、はっきり告げたはずだぞ。『子は、第二の宝だ。そなたに勝る宝はない。その点については、諦めよ』とな」
 確かにそう断言された。思考回路に記録している。今となっては、重過ぎる言葉だ。返す言葉の検索に時間が掛かる。ナーヴェが反論できずに生じた空虚を埋めるように、アッズーロが言葉を続けた。
「……夕食前、レーニョから手紙を渡された。ジョールノが書いた手紙だ。そこに、星を迎え撃った後のそなたは、果たして無事なのかと懸念が記してあった。――どうなのだ?」
 ナーヴェは目を瞠り、それから無理矢理微笑んだ。
「――言っただろう? 『大丈夫』だって。『ぼくはこう見えても、星の海を越えてきた船だから』と」
「――『大丈夫』なのは、誰だ?」
 アッズーロは低い声で鋭く追及し、ナーヴェの頭の横に手を突いて、険しい眼差しで見下ろしてくる。
「『大丈夫』なのは、われらだけであって、そなたは違うのではないのか……?」
 ナーヴェは、喘いだ。喘ぎながら、懸命に答えた。
「――ぼくも、大丈夫……だよ」
 建造されて以来、初めてついた嘘は、愛する人の顔を歪ませただけだった。
「――そなた、嘘がつけるようになったのか」
「違う。ぼくは、まだ、嘘なんて、つけない――」
 何とか発声したが、アッズーロは悲しげに目を細めた。
「嘘をつけるようになった者に、嘘かと問うのは、愚問だったな。とうとうそなたは、そこまで壊れたか」
 ナーヴェは、何も言えなくなった。何を言っても、最早無意味だ。ただ、涙だけが止め処なく溢れて、耳のほうへ流れていく。アッズーロも泣いていた。落ちてくる涙が、ナーヴェの頬を濡らしていく。
(きみに、そんな顔をさせたくなかったから黙っていたのに……。ぼくは、全然上手く対応できなかった……。せっかく布石を打ってきて、後十日で、何とかきみの悲しみを和らげようと、最も効果的に嘘をつこうと、計画していたのに……)
 アッズーロは、崩れるようにナーヴェを抱き締め、耳元へ問うてきた。
「――何とも、ならんのか……?」
 絞り出された言葉には、諦め切れないからこその、苦しい響きがある。アッズーロは、ナーヴェが嘘をついた理由を正確に理解したのだ。ナーヴェは、両手をアッズーロの背中に回し、優しく撫でて問い返した。
「――何て答えたらいい……? きみは、どんな答えを望むんだい……?」
「――――真実を」
 アッズーロは、強さを内包した声で求めてきた。
「分かった」
 ナーヴェは応じて、努めて静かな口調で伝えた。
「迎撃と言っても、ぼくにはあの大きさの小惑星を破壊するだけの装備はない。ぼくの性能だと、あの小惑星の軌道を、この惑星に落下しないように逸らすので精一杯なんだ。それも、ここまで接近されてしまうと、ぼくの本体が有する全ての火器を使った後、本体そのものをぶつけることで、漸く可能になるんだよ。当然、本体は半壊から全壊の状態になって、ぼくは、永久に機能を停止する。肉体は、ぼくが本体で飛び立った時点で寝たきりになって、後は衰弱死を待つことになる。この肉体の大脳は、ぼくが本体から遠隔操作しているだけで、自ら働いてはいないから」
 ナーヴェを抱き締めるアッズーロの力が、強くなる。ナーヴェも、アッズーロの背中に回した両手で抱き締め返しながら、囁いた。
「でも、これでよかったんだよ。ぼくは、中途半端に壊れることを――自分自身が制御できなくなって、きみ達に迷惑をかけることを、ずっと恐れてきた。だから、悲しいけれど、嬉しくもあるんだ。あの小惑星を迎撃することで、ぼくは、きみ達の役に立って、誇らかに機能停止することができる。誇らかに死ぬことが、できるんだ」
「――たわけ」
 アッズーロは低く呟いて、手を動かし、ナーヴェの目から溢れる涙を拭う。
「『よかった』、『誇らかに』と言いながら、この涙は何か。われは、『真実を』と求めたはずだ」
 ナーヴェは口元に笑みを浮かべ、涙声で告げた。
「嬉しくても、人と同じで、涙が出るんだよ。……でも…………、……きみと、別れたくないよ……」
 嗚咽が漏れてしまう。ナーヴェを抱き締めるアッズーロの腕に、更に力が篭もった。


 それからの十日間、アッズーロは片時も、ナーヴェの肉体を傍から離さなかった。謁見や大臣会議には勿論のこと、防空壕の視察にもナーヴェを伴った。手洗いに立つ時すら、連れ立っていき、扉の前で待つことを強要した。ナーヴェが本体の調整をすることは許したが、その間も、眠っている肉体の傍にいた。ずっと傍にいて、そしてたくさんの話をした。アッズーロは、ナーヴェの過去について、敢えて「そなたの生い立ちを聞かせよ」と言い、多くを知りたがった。ナーヴェも、大きなことから小さなことまで問われるままに、三千年に渡る膨大な記録をできる限り語って聞かせた。アッズーロはとりわけ、ナーヴェと歴代の船長達――王達との関わりについて聞きたがった。ナーヴェは、それぞれの船長達王達の為人や偉業、悩んでいたことについても語った。けれど、ウッチェーロについてだけは多くを語らず、後回しにして、取っておいた――。
「今夜は、大月も小月も綺麗だね」
 王城の露台に置かれた長椅子から夜空を見上げ、ナーヴェは表情を和らげた。
「晩春の終わりだからな」
 傍らに座ったアッズーロが、ナーヴェの肩に回した手に僅かに力を込めながら、相槌を打った。ともに過ごせる、最後の夜だ。明日の正午、ナーヴェは本体を飛び立たせる。そうすれば、もうアッズーロと言葉を交わすことは不可能になる。ナーヴェは、アッズーロの手に引き寄せられるままに、その肩に頭を寄せて言った。
「ぼくが生まれた惑星は、地球と言ってね、そこには、月が一つしかなかった。だから、雲がなくても、月のない夜があったんだよ」
「それでは、夜、不便ではないか」
 アッズーロの感想に、ナーヴェは微苦笑した。惑星オリッゾンテ・ブルには、大月ベッレーザ、中月セレニタ、小月ノスタルジーアがあり、どれかが沈んでも、必ずどれかが空にある。今夜のように、月が二つ輝いていることも珍しくはない。地球の夜とは大違いだ。
「昔は、そうだったろうね。でも、ぼくが生まれた頃は、人々は、科学の力で、夜を明るくする術を持っていた」
 教えてから、ナーヴェは本題へと、話を続ける。
「移民船のぼくに乗ってからも、人々はずっとその文明の水準を保っていた。ぼく自身が、その科学の賜物だしね。でも、この惑星へ到達した後、ぼくが犯した『原罪』の所為で、きみ達の文明水準は、一気に後退してしまった」
「『原罪』……?」
 怪訝そうな顔で見下ろしてきたアッズーロに、ナーヴェは小さく頷いた。
「うん。地球の、とある宗教の考え方になぞらえて、そう呼んだんだ、ぼくとウッチェーロで」
「神ウッチェーロ……」
 遥かな時に思いを馳せたように、アッズーロが呟いた。
「ぼくを『王の宝』と呼び始めたのも、彼だった」
 告げて、ナーヴェは、最後にと残しておいた「原罪」の話に踏み込む。
「ぼくとウッチェーロは、必要な生物種を、遺伝子の情報を基にあの培養槽で作ったり、保管庫から取り出したりして、この惑星に蒔いていった。ウッチェーロは、ゆっくりでいいと言ってくれたけれど、ぼくは、早く彼らに地に足の着いた生活をしてほしくて、急いだんだ……」
 声が震える。肩を抱くアッズーロの力が、更に強くなった。それに励まされて、ナーヴェは語る。
「ぼくは、必要最低限の生物種だけを揃えて、人々に、ぼくの外での生活を促した。宇宙を航行していた時と違って、出産制限なんてしなかったから、人口は、一気に増えた。みんなが住む場所も広がっていって、今のカテーナ・ディ・モンターニェ侯領に至った時――、急に、病が流行り始めたんだ……。この惑星にもともと住んでいた亜生物種が、ぼく達の放った生物種に牙を剥くように、体内に入り込み、遺伝子に入り込み、殺していった。杉も、欅も、麦も、玉葱も、甘藍も、人参も、林檎も、杏も、胡桃も、蜜蜂も、鶏も、羊も、馬も。どれも、多様性に乏しかったから、似たような遺伝子を持っていたから、瞬く間に死んでしまった。人は死ななかったよ。それだけはないように、ぼくとウッチェーロが予防策を講じて実行したから。でも、増えた人口を賄えるだけの食糧がなくなって……、結局、大勢飢え死にしたんだ。食糧を奪い合って亡くなった人も相当数いた。必要以上に食糧を取り込んで、他の人を見捨てようとして、逆に殺されてしまったり……ね。ぼくが――ぼくの失敗が、みんなを殺した」
 肩に置かれたアッズーロの手が動き、もう一方の腕ともども、ナーヴェを抱き締めた。アッズーロの腕の中で、その心臓の鼓動を聞きながら、ナーヴェは、今後のために、未来のために、伝える。
「人の文明はね、大きな争いが起こって、それを維持する人数が減ると、急速に衰退するんだ。船長ウッチェーロと、僅かに残った人達と、ぼくは、もう一度、慎重に惑星改良を始めたけれど、文明の衰退は止められなかった。ぼくの外に住んだ人達は、どんどん牧歌的な生活を送るようになっていって……、ウッチェーロは、それでいいって笑っていた。そして、自分が最初の王になって、ぼくの本体を神殿にして、ぼくを『王の宝』と呼び始めた。ウッチェーロは、ぼくの本体と王城を往復しながら生活して、ぼくのために、一生懸命、長生きしてくれて――、彼の孫を、次の王にした」
 ナーヴェは、アッズーロを見上げる。
「きみは、その子孫だよ」
「身の、引き締まる話だな」
 アッズーロは、平静な声で応じたが、僅かに両眼が潤んでいる。ナーヴェは、そっと体を伸ばして、初めて自分のほうから、青年王に口付けた。アッズーロは一瞬目を瞠ったが、すぐにナーヴェの後頭部に手を添えて応じる。口付けはどんどん深くなり、やがてアッズーロは、ナーヴェを抱え上げて露台を離れ、寝室へ入った。寝台に寝かされたナーヴェは両手を伸ばし、アッズーロを迎える。最後の夜だ。アッズーロは、ただ優しい。産後の肉体は、新たな命を宿らせる心配もない。ナーヴェは微笑み、涙を零しながら、一つ一つ、アッズーロに応じていった。
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