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第六章 捕らわれてのち 四
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四
「爺様、ただいま! 薬を貰ってきた」
ソニャーレは、久し振りに帰った我が家の、暗い屋内へ声を掛けた。まだ明るい外から入ると、土煉瓦で作られた家の中は、目が慣れるまで何も見えない。
「爺様」
再度呼び掛けると、漸く返事があった。
「お帰り、ソニャーレ」
しわがれた弱々しい声。状態は思わしくないようだ。隣人達が世話をしてくれていたはずだが、病に対しては、どうしようもなかったのだろう。
「すぐ薬を用意するから、待っていて」
ソニャーレは、任務の報酬として受け取ってきた秘薬――狐手袋の葉を、調理道具の石で磨り潰し始めた――。
シンティラーレがロッソに許可を求めてきたのは、その夜だった。
女官に起こされ、近衛兵が守る扉から廊下へ出ると、シンティラーレが可愛らしい顔に焦燥を浮かべて立っていた。
「如何した」
ロッソが問うと、末の妹は形のいい眉を寄せて告げた。
「ソニャーレの祖父の容体が急変したんです。やはり、薬の量が難しかったようで……。わたくしも手伝ったのですが、与え過ぎたものは、如何ともし難く……」
「それは、寿命であろう」
冷ややかに応じたロッソに、シンティラーレは、少し目を泳がせるようにして言った。
「それで、ソニャーレが頼むのです。王の宝を遣わしては頂けないか、と。宝は、巫女のように奇跡の業を使うから、と。御許可頂けますでしょうか……?」
顔をしかめたロッソに、末の妹は重ねて請うた。
「ソニャーレは忠義の者。今回も、難しい任務をやり遂げました。その忠義に、できるだけ報いてやらねば、われわれは忠義を失うことになります。どうか、お慈悲を……!」
「分かった」
ロッソは溜め息とともに頷き、近衛兵の一人に顔を向けた。
「おまえがシンティラーレとともに塔へ行き、宝を出して、ソニャーレの家へ連れていけ。塔の近衛兵も三人ばかり連れていけ。くれぐれも、宝を逃がすでないぞ」
「御意!」
近衛兵は敬礼し、シンティラーレを伴って、足早に立ち去った。
(「巫女のように奇跡の業を使う」か……)
ロッソは顎に手を当て、考えを巡らせる。今までに間諜達が収集してきた情報では、王の宝は、人が知らぬ知識を有し、人を動かす技量を持っているということだった。それだけでも脅威で、フェッロを工作員に仕立て上げ、既に送り込んでいた工作員のソニャーレと協力させて、排除しようとしたのだが――。
(宝とは、それ以上のものであったか)
妃にもなれ、巫女でもあるという。
(忍びで、様子を見に行くか)
ロッソは、残っている近衛兵に指示を出し、着替えるため、一度寝室に戻った。
幽閉塔の最上階の部屋で、王の宝は寝台に座り、格子の嵌まった窓からの月明かりを浴びて、小さな声で歌っていた。
「宝よ」
シンティラーレは、近衛兵が扉の錠を外す間、待つのももどかしく、声を掛ける。
「助けてほしい」
長く青い髪を揺らして、宝は振り向いた。
「ぼくにできることなら。何だい?」
寝台から下りて歩み寄ってきた宝に、シンティラーレは告げた。
「ソニャーレの祖父に狐手袋を与えたんだが、量が多過ぎたんだ。容体が急変して、危険な状態になっている。救えるか?」
「心不全の薬だね。間に合えば救える。すぐに連れていってほしい」
硬い面持ちで、宝は答えた。
シンティラーレは宝と近衛兵四人を連れ、幽閉塔を出て、自分が乗ってきて王宮玄関前に待たせていた馬車で、ソニャーレの家へ向かった。
ソニャーレの家は、王都アルバの外れ近く、貧民街にある。土煉瓦造りで藁葺き屋根の家々の間の狭い路地を、馬車は壺などを蹴散らしながら何とか進み、崩れかけた家の前で停まった。
「ここだ」
低く叫んで真っ先にシンティラーレは馬車から降り、簾が立てかけてあるだけの入り口を入った。
「ソニャーレ、宝を連れてきたぞ!」
「ありがとうございます……!」
ソニャーレは、油皿の灯りの中、やつれた顔を上げた。その向こうの寝台では、彼女の祖父スコーポが、喘鳴を繰り返していた。
「小刀を、火で炙って、貸して」
暗い室内に、凛とした宝の声が響いた。近衛兵達に取り囲まれた宝が、シンティラーレの後ろから来る。
「はい」
ソニャーレがすぐに応じて、手近にあった小刀を、油皿の火に翳した。そうして消毒された小刀を受け取ると、宝はスコーポの手を取り、その指先を僅かに傷つけた。続いて宝は、自らの手の親指も傷つける。そこには、治りかけの傷も見て取れた。以前にも、同じことをしたのだろう。
宝は小刀をソニャーレに返すと、血が溢れる自らの傷口を、スコーポの傷口に押し当てた。そのまま目を閉じ、何か念じるように眉間に皺を寄せる。厳かで緊迫した雰囲気に、近衛兵達も圧倒されて、見守るばかりだ。
やがて目を開けた宝は、幾分表情を弛めて言った。
「代謝を速めて急いで毒素を排出できるようにしたから、手洗いへ連れていってあげて」
「はい……!」
ソニャーレは頷いて、祖父の片腕を自らの肩に回して起こし、外の厠へと連れていった。
「さてと」
宝は、息をついて、シンティラーレを振り向く。
「彼に狐手袋を与えたのは、きみ?」
「直接投薬したのは、ソニャーレよ。わたしは、ソニャーレに渡したの。でも、その時に、少しずつ様子を見て飲ませるよう、注意はしたのよ?」
宝は苦笑した。
「薬の素人に、『少しずつ』は難しい注文だよ。どのくらいが『少し』なのか加減が分からない」
シンティラーレは頬を膨らませ、両の拳を握った。
「だから、急いで様子を見に来たのよ。でも、もう与え過ぎた後だったから、対処の仕様がなくて……」
「狐手袋は、効き目は絶大だけれど、代謝の悪いところが欠点だからね。代わりに、代謝のいい毛狐手袋があればよかったんだけれど、それはないの?」
油皿の灯りの中、青い双眸に見つめられて、シンティラーレは首を傾げた。
「『毛狐手袋』?」
「うん。狐手袋に似ているけれど、もっと小さくて、花は白い。葉や花に、たくさんの産毛が生えているから、毛狐手袋というんだ」
「ああ、それなら、薬草園の狐手袋の近くにあるわ。狐手袋の変種かと思っていたんだけれど」
「変種というか、近縁種でね。狐手袋と同じ薬効があるんだけれど、体内残留性が低く、排泄が早いから、薬としては狐手袋より使い易いんだよ」
「――それは知らなかったわ……」
シンティラーレは項垂れた。王族の薬師として薬草園を継いだ時、生えている薬草については先輩薬師達から詳細に学んだつもりだったが、まだ足りないところがあったのだ。
「あなたは、薬に詳しいのね。お陰で忠義の者を失わずに済んだわ」
シンティラーレが素直に称賛し、感謝すると、宝は微笑んだ。
「ぼくは、王の宝。正確には、きみ達の遥かな先祖達が蓄積してきた知識という宝を守るものだからね。きみ達より知っていることが多いのは、当たり前なんだ」
「あなたは――」
シンティラーレは息を呑む。
「本当に、人ではないかのようね……」
まさしく神殿育ちの、神の御業を許された巫女なのかもしれない。
「そうだよ。ぼくは人ではない。それなのに……」
宝は俯いて下腹に手を当て、そして僅かに顔をしかめると、そのまま床に座り込んでしまった。
「どうした? 具合が悪いのか?」
慌ててシンティラーレが青い髪に隠れた顔を覗き込むと、宝はつらそうな表情で告げた。
「少し、冷えたみたいだ……」
そこへ、ソニャーレが祖父を連れて戻ってきた。油皿の灯火に照らされたスコーポの呼吸は落ち着き、顔色もましになっている。祖父をゆっくりと寝台に寝かせたソニャーレに、宝が教えた。
「後は、水を飲ませて厠へ連れていくことを何度か繰り返せば治まるよ。多分、今度は、もっと使い易い薬を、この薬師さんが渡してくれるだろうし」
「そんな約束は……!」
シンティラーレは反論しかけてやめた。自分の知識が足りなかった埋め合わせに、そのくらいはしてもいいと思えたのだ。
「まあ、いいわ。もっと使い易い薬を明日にでも届けに来るから、それまでしっかりスコーポの看病をしていなさい」
「本当に、ありがとうございます、お二人とも……!」
ソニャーレは深々と頭を下げた。シンティラーレは笑顔で頷いて、踵を返した。
「では、われわれは帰るぞ。近衛兵、宝を運べ。丁重にな」
「「仰せのままに」」
近衛兵達は敬礼し、その内の一人がそっと王の宝を抱き上げた。宝は、半ば目を閉じ、脂汗を浮かべている。早く幽閉塔へ戻して休ませたほうがよさそうだった。
(あれが、「王の宝」か……)
一足先に騎馬で王宮へ戻りながら、ロッソは眉間に皺を寄せた。集めてきた情報の通りだ。否、それを上回る。
(あれは、危険だ――)
人が知らぬ知識を有し、人を動かす技量を持ち、巫女の如き奇跡の業を使って人を助け、人を垂らし込む。
(あれと身近に接した者は皆、あれに垂らし込まれてしまう。あれは、オリッゾンテ・ブルにとっては宝であろうが、わが国にとっては、毒だ……)
宝に、テッラ・ロッサ王国へ帰属する意識があれば、真に宝となるだろうが、アッズーロの子を身篭っている以上、それは望めないだろう。
(無理に子を流させても、おれを恨むだけ。どうあっても、あれはわが国のものにはならん。であれば、あれは置いておくだけで危険だ。どんどんと周囲の者達を垂らし込み、オリッゾンテ・ブルの権威を高め、わが国の独立を脅かす――)
夜の街路を、近衛兵二人だけを供に騎馬で進む中、ロッソは決断する。
(あれは、殺さねばならん――)
もともと、殺す予定だったのだ。運よくフェッロとソニャーレが攫ってきたが、長く生かしておくつもりなど最初からない。
(オリッゾンテ・ブルの権威を貶められるよう、趣向を凝らして、殺す)
宝の泣き顔が、ちらと脳裏を掠めたが、ロッソは険しく目を眇めて、王宮まで馬を急がせた。
日差しが、きつい。テッラ・ロッサ王国が、オリッゾンテ・ブル王国よりも、全体的にやや南に位置している所為だろう。この王都アルバも、オリッゾンテ・ブル王国の最南端とほぼ並ぶ位置にある。
「ペルソーネ様、あちらに飲み物を売っています。少し休まれては?」
傍らから声を掛けてきたのは、癖のある黒髪を襟足で切り揃えた、浅黒い肌、黒い瞳の少女。レ・ゾーネ・ウーミデ侯から貸し出された工作員の、ノッテという者だ。
「そう致しましょう。無理をしては、長期の活動はできません」
もう一人の、癖のない黒髪、小麦色の肌、青い瞳の少女が賛成した。ヴァッレ配下の工作員、バーゼという者だ。
「『様』は付けるな。わたくしはただの竪琴弾きのペルソーネです」
注意したペルソーネに、同行者の残り一人が、苦笑して言った。
「でしたら、もう少し言葉遣いを崩して下さいね」
こちらもヴァッレ配下の工作員だが、この一行の中では唯一の男だ。歳の頃は二十歳過ぎの、金褐色の柔らかい髪を短めに整え、白い肌、茶色の瞳をしたジョールノという青年である。自分を含めたこの四人で小さな楽団を結成して隠れ蓑とし、王都へ、あわよくば王宮へ入り込むというのが、ペルソーネがアッズーロに提案した策だった。そうして許可を得て、現状、王都アルバへ入るところまでは上手くいっている。
「ああ、気を付ける」
頷いて、ペルソーネは少女達とともに街路に軒を連ねる屋台の一つへ向かった。売られているのは、無花果の果汁だ。なかなかに美味しそうである――。
野太い声が聞こえてきたのは、その時だった。
「告げる!」
宣言したのは、街路の先にある泉の前に立った近衛兵だ。この辺りには、幾つか泉が湧いており、それらの水が、沙漠の中のこの王都を支えている。
「来たる初夏の月、四の日に、憎むべきオリッゾンテ・ブル王国の宝の処刑を行なう!」
(なっ……!)
跳ねた心臓を押さえ、ペルソーネはその近衛兵を凝視した。近衛兵は、王家の紋章入りの羊皮紙を両手で掲げ、言葉を続ける。
「場所は、クリニエラ山脈の端、国境沿いの丘だ! オリッゾンテ・ブル王国を憎む者、恨みを懐く者は必ず来て、宝を名乗って民を惑わす娼婦の最期を見届けよ!」
「――すぐ、すぐ、陛下に知らせよ。それから――、助けに行かないと――」
小声で呟いたペルソーネの背を、ジョールノがぽんと叩いた。
「そんな顔をしたら駄目だ」
低い声で工作員の青年は囁く。
「さあ、周りの人に合わせて拍手喝采して。行動するのは、それからだ」
ペルソーネは青年の横顔を見上げ、次いで周りの熱狂する人々を見て、弱々しく拍手をした。
「ナーヴェ様、ナーヴェ様」
小声で呼ばれて、ナーヴェは寝台の上で目を開けた。ソニャーレの声だ。随分眠ったらしい。部屋は真っ暗で、また夜になっていることが分かる。
(ロッソが来てくれないと、話が進まないな……)
溜め息をつきながら体を起こし、ナーヴェは声がする扉のほうを見た。扉の覗き窓に嵌まった格子の向こうに、篝火の灯りに照らされたソニャーレの顔がある。
「どうしたの?」
応じたナーヴェに、ソニャーレは険しい表情で告げた。
「陛下が、あなた様の処刑を決定なさいました。今日、新しい薬を届けて下さったシンティラーレ様が、そう仰いました。三日後の四の日に、国境沿いの丘で、あなた様を処刑する、と既に民に布告も出されています」
「そう……」
ナーヴェは俯いて苦笑した。ロッソが来ないはずだ。もう対話する意思がないのだ――。
「わたくしがお救い致します」
ソニャーレのきっぱりした言葉に、ナーヴェは顔を上げた。
「それは駄目だよ。きみが罪に問われる」
「あなた様は、わが祖父の命の恩人。恩人のためならば、わたくしは命を懸けられます」
ナーヴェは首を横に振った。
「駄目だよ、ぼくの作り物の肉体のためなんかに命を懸けたら。きみの命は、掛け替えのないものなんだから」
「しかし、では、お腹の子は……?」
ソニャーレの問いに、ナーヴェは寂しく微笑んだ。
「わざわざ国境沿いまで連れていってくれるなら、何とかできるかもしれない……。処刑方法は、何?」
「陛下の性格ならば、見せしめとして最も効果のある、磔刑を選ばれるでしょう」
ソニャーレは苦しげに言った。ナーヴェは更に問うた。
「止めを刺すのに、槍とかを使うのかな?」
「いえ、わが国の磔刑は、長い苦しみを伴う、最も残酷な十字架刑です」
ソニャーレは俯いて答えた。
「ああ、あれか……」
ナーヴェは、自分が守る知識の中にある、有名な磔刑の情報を精査し、微笑む。
「それなら、いい」
口の中で呟いて、ナーヴェは格子越しにソニャーレを見つめ、請うた。
「もし、きみがぼくのために動いてくれるなら、命を懸ける必要はない。ただ、ぼくの遺体を、その場でオリッゾンテ・ブル王国に引き渡してくれるようロッソに頼んでくれたら、嬉しい」
「爺様、ただいま! 薬を貰ってきた」
ソニャーレは、久し振りに帰った我が家の、暗い屋内へ声を掛けた。まだ明るい外から入ると、土煉瓦で作られた家の中は、目が慣れるまで何も見えない。
「爺様」
再度呼び掛けると、漸く返事があった。
「お帰り、ソニャーレ」
しわがれた弱々しい声。状態は思わしくないようだ。隣人達が世話をしてくれていたはずだが、病に対しては、どうしようもなかったのだろう。
「すぐ薬を用意するから、待っていて」
ソニャーレは、任務の報酬として受け取ってきた秘薬――狐手袋の葉を、調理道具の石で磨り潰し始めた――。
シンティラーレがロッソに許可を求めてきたのは、その夜だった。
女官に起こされ、近衛兵が守る扉から廊下へ出ると、シンティラーレが可愛らしい顔に焦燥を浮かべて立っていた。
「如何した」
ロッソが問うと、末の妹は形のいい眉を寄せて告げた。
「ソニャーレの祖父の容体が急変したんです。やはり、薬の量が難しかったようで……。わたくしも手伝ったのですが、与え過ぎたものは、如何ともし難く……」
「それは、寿命であろう」
冷ややかに応じたロッソに、シンティラーレは、少し目を泳がせるようにして言った。
「それで、ソニャーレが頼むのです。王の宝を遣わしては頂けないか、と。宝は、巫女のように奇跡の業を使うから、と。御許可頂けますでしょうか……?」
顔をしかめたロッソに、末の妹は重ねて請うた。
「ソニャーレは忠義の者。今回も、難しい任務をやり遂げました。その忠義に、できるだけ報いてやらねば、われわれは忠義を失うことになります。どうか、お慈悲を……!」
「分かった」
ロッソは溜め息とともに頷き、近衛兵の一人に顔を向けた。
「おまえがシンティラーレとともに塔へ行き、宝を出して、ソニャーレの家へ連れていけ。塔の近衛兵も三人ばかり連れていけ。くれぐれも、宝を逃がすでないぞ」
「御意!」
近衛兵は敬礼し、シンティラーレを伴って、足早に立ち去った。
(「巫女のように奇跡の業を使う」か……)
ロッソは顎に手を当て、考えを巡らせる。今までに間諜達が収集してきた情報では、王の宝は、人が知らぬ知識を有し、人を動かす技量を持っているということだった。それだけでも脅威で、フェッロを工作員に仕立て上げ、既に送り込んでいた工作員のソニャーレと協力させて、排除しようとしたのだが――。
(宝とは、それ以上のものであったか)
妃にもなれ、巫女でもあるという。
(忍びで、様子を見に行くか)
ロッソは、残っている近衛兵に指示を出し、着替えるため、一度寝室に戻った。
幽閉塔の最上階の部屋で、王の宝は寝台に座り、格子の嵌まった窓からの月明かりを浴びて、小さな声で歌っていた。
「宝よ」
シンティラーレは、近衛兵が扉の錠を外す間、待つのももどかしく、声を掛ける。
「助けてほしい」
長く青い髪を揺らして、宝は振り向いた。
「ぼくにできることなら。何だい?」
寝台から下りて歩み寄ってきた宝に、シンティラーレは告げた。
「ソニャーレの祖父に狐手袋を与えたんだが、量が多過ぎたんだ。容体が急変して、危険な状態になっている。救えるか?」
「心不全の薬だね。間に合えば救える。すぐに連れていってほしい」
硬い面持ちで、宝は答えた。
シンティラーレは宝と近衛兵四人を連れ、幽閉塔を出て、自分が乗ってきて王宮玄関前に待たせていた馬車で、ソニャーレの家へ向かった。
ソニャーレの家は、王都アルバの外れ近く、貧民街にある。土煉瓦造りで藁葺き屋根の家々の間の狭い路地を、馬車は壺などを蹴散らしながら何とか進み、崩れかけた家の前で停まった。
「ここだ」
低く叫んで真っ先にシンティラーレは馬車から降り、簾が立てかけてあるだけの入り口を入った。
「ソニャーレ、宝を連れてきたぞ!」
「ありがとうございます……!」
ソニャーレは、油皿の灯りの中、やつれた顔を上げた。その向こうの寝台では、彼女の祖父スコーポが、喘鳴を繰り返していた。
「小刀を、火で炙って、貸して」
暗い室内に、凛とした宝の声が響いた。近衛兵達に取り囲まれた宝が、シンティラーレの後ろから来る。
「はい」
ソニャーレがすぐに応じて、手近にあった小刀を、油皿の火に翳した。そうして消毒された小刀を受け取ると、宝はスコーポの手を取り、その指先を僅かに傷つけた。続いて宝は、自らの手の親指も傷つける。そこには、治りかけの傷も見て取れた。以前にも、同じことをしたのだろう。
宝は小刀をソニャーレに返すと、血が溢れる自らの傷口を、スコーポの傷口に押し当てた。そのまま目を閉じ、何か念じるように眉間に皺を寄せる。厳かで緊迫した雰囲気に、近衛兵達も圧倒されて、見守るばかりだ。
やがて目を開けた宝は、幾分表情を弛めて言った。
「代謝を速めて急いで毒素を排出できるようにしたから、手洗いへ連れていってあげて」
「はい……!」
ソニャーレは頷いて、祖父の片腕を自らの肩に回して起こし、外の厠へと連れていった。
「さてと」
宝は、息をついて、シンティラーレを振り向く。
「彼に狐手袋を与えたのは、きみ?」
「直接投薬したのは、ソニャーレよ。わたしは、ソニャーレに渡したの。でも、その時に、少しずつ様子を見て飲ませるよう、注意はしたのよ?」
宝は苦笑した。
「薬の素人に、『少しずつ』は難しい注文だよ。どのくらいが『少し』なのか加減が分からない」
シンティラーレは頬を膨らませ、両の拳を握った。
「だから、急いで様子を見に来たのよ。でも、もう与え過ぎた後だったから、対処の仕様がなくて……」
「狐手袋は、効き目は絶大だけれど、代謝の悪いところが欠点だからね。代わりに、代謝のいい毛狐手袋があればよかったんだけれど、それはないの?」
油皿の灯りの中、青い双眸に見つめられて、シンティラーレは首を傾げた。
「『毛狐手袋』?」
「うん。狐手袋に似ているけれど、もっと小さくて、花は白い。葉や花に、たくさんの産毛が生えているから、毛狐手袋というんだ」
「ああ、それなら、薬草園の狐手袋の近くにあるわ。狐手袋の変種かと思っていたんだけれど」
「変種というか、近縁種でね。狐手袋と同じ薬効があるんだけれど、体内残留性が低く、排泄が早いから、薬としては狐手袋より使い易いんだよ」
「――それは知らなかったわ……」
シンティラーレは項垂れた。王族の薬師として薬草園を継いだ時、生えている薬草については先輩薬師達から詳細に学んだつもりだったが、まだ足りないところがあったのだ。
「あなたは、薬に詳しいのね。お陰で忠義の者を失わずに済んだわ」
シンティラーレが素直に称賛し、感謝すると、宝は微笑んだ。
「ぼくは、王の宝。正確には、きみ達の遥かな先祖達が蓄積してきた知識という宝を守るものだからね。きみ達より知っていることが多いのは、当たり前なんだ」
「あなたは――」
シンティラーレは息を呑む。
「本当に、人ではないかのようね……」
まさしく神殿育ちの、神の御業を許された巫女なのかもしれない。
「そうだよ。ぼくは人ではない。それなのに……」
宝は俯いて下腹に手を当て、そして僅かに顔をしかめると、そのまま床に座り込んでしまった。
「どうした? 具合が悪いのか?」
慌ててシンティラーレが青い髪に隠れた顔を覗き込むと、宝はつらそうな表情で告げた。
「少し、冷えたみたいだ……」
そこへ、ソニャーレが祖父を連れて戻ってきた。油皿の灯火に照らされたスコーポの呼吸は落ち着き、顔色もましになっている。祖父をゆっくりと寝台に寝かせたソニャーレに、宝が教えた。
「後は、水を飲ませて厠へ連れていくことを何度か繰り返せば治まるよ。多分、今度は、もっと使い易い薬を、この薬師さんが渡してくれるだろうし」
「そんな約束は……!」
シンティラーレは反論しかけてやめた。自分の知識が足りなかった埋め合わせに、そのくらいはしてもいいと思えたのだ。
「まあ、いいわ。もっと使い易い薬を明日にでも届けに来るから、それまでしっかりスコーポの看病をしていなさい」
「本当に、ありがとうございます、お二人とも……!」
ソニャーレは深々と頭を下げた。シンティラーレは笑顔で頷いて、踵を返した。
「では、われわれは帰るぞ。近衛兵、宝を運べ。丁重にな」
「「仰せのままに」」
近衛兵達は敬礼し、その内の一人がそっと王の宝を抱き上げた。宝は、半ば目を閉じ、脂汗を浮かべている。早く幽閉塔へ戻して休ませたほうがよさそうだった。
(あれが、「王の宝」か……)
一足先に騎馬で王宮へ戻りながら、ロッソは眉間に皺を寄せた。集めてきた情報の通りだ。否、それを上回る。
(あれは、危険だ――)
人が知らぬ知識を有し、人を動かす技量を持ち、巫女の如き奇跡の業を使って人を助け、人を垂らし込む。
(あれと身近に接した者は皆、あれに垂らし込まれてしまう。あれは、オリッゾンテ・ブルにとっては宝であろうが、わが国にとっては、毒だ……)
宝に、テッラ・ロッサ王国へ帰属する意識があれば、真に宝となるだろうが、アッズーロの子を身篭っている以上、それは望めないだろう。
(無理に子を流させても、おれを恨むだけ。どうあっても、あれはわが国のものにはならん。であれば、あれは置いておくだけで危険だ。どんどんと周囲の者達を垂らし込み、オリッゾンテ・ブルの権威を高め、わが国の独立を脅かす――)
夜の街路を、近衛兵二人だけを供に騎馬で進む中、ロッソは決断する。
(あれは、殺さねばならん――)
もともと、殺す予定だったのだ。運よくフェッロとソニャーレが攫ってきたが、長く生かしておくつもりなど最初からない。
(オリッゾンテ・ブルの権威を貶められるよう、趣向を凝らして、殺す)
宝の泣き顔が、ちらと脳裏を掠めたが、ロッソは険しく目を眇めて、王宮まで馬を急がせた。
日差しが、きつい。テッラ・ロッサ王国が、オリッゾンテ・ブル王国よりも、全体的にやや南に位置している所為だろう。この王都アルバも、オリッゾンテ・ブル王国の最南端とほぼ並ぶ位置にある。
「ペルソーネ様、あちらに飲み物を売っています。少し休まれては?」
傍らから声を掛けてきたのは、癖のある黒髪を襟足で切り揃えた、浅黒い肌、黒い瞳の少女。レ・ゾーネ・ウーミデ侯から貸し出された工作員の、ノッテという者だ。
「そう致しましょう。無理をしては、長期の活動はできません」
もう一人の、癖のない黒髪、小麦色の肌、青い瞳の少女が賛成した。ヴァッレ配下の工作員、バーゼという者だ。
「『様』は付けるな。わたくしはただの竪琴弾きのペルソーネです」
注意したペルソーネに、同行者の残り一人が、苦笑して言った。
「でしたら、もう少し言葉遣いを崩して下さいね」
こちらもヴァッレ配下の工作員だが、この一行の中では唯一の男だ。歳の頃は二十歳過ぎの、金褐色の柔らかい髪を短めに整え、白い肌、茶色の瞳をしたジョールノという青年である。自分を含めたこの四人で小さな楽団を結成して隠れ蓑とし、王都へ、あわよくば王宮へ入り込むというのが、ペルソーネがアッズーロに提案した策だった。そうして許可を得て、現状、王都アルバへ入るところまでは上手くいっている。
「ああ、気を付ける」
頷いて、ペルソーネは少女達とともに街路に軒を連ねる屋台の一つへ向かった。売られているのは、無花果の果汁だ。なかなかに美味しそうである――。
野太い声が聞こえてきたのは、その時だった。
「告げる!」
宣言したのは、街路の先にある泉の前に立った近衛兵だ。この辺りには、幾つか泉が湧いており、それらの水が、沙漠の中のこの王都を支えている。
「来たる初夏の月、四の日に、憎むべきオリッゾンテ・ブル王国の宝の処刑を行なう!」
(なっ……!)
跳ねた心臓を押さえ、ペルソーネはその近衛兵を凝視した。近衛兵は、王家の紋章入りの羊皮紙を両手で掲げ、言葉を続ける。
「場所は、クリニエラ山脈の端、国境沿いの丘だ! オリッゾンテ・ブル王国を憎む者、恨みを懐く者は必ず来て、宝を名乗って民を惑わす娼婦の最期を見届けよ!」
「――すぐ、すぐ、陛下に知らせよ。それから――、助けに行かないと――」
小声で呟いたペルソーネの背を、ジョールノがぽんと叩いた。
「そんな顔をしたら駄目だ」
低い声で工作員の青年は囁く。
「さあ、周りの人に合わせて拍手喝采して。行動するのは、それからだ」
ペルソーネは青年の横顔を見上げ、次いで周りの熱狂する人々を見て、弱々しく拍手をした。
「ナーヴェ様、ナーヴェ様」
小声で呼ばれて、ナーヴェは寝台の上で目を開けた。ソニャーレの声だ。随分眠ったらしい。部屋は真っ暗で、また夜になっていることが分かる。
(ロッソが来てくれないと、話が進まないな……)
溜め息をつきながら体を起こし、ナーヴェは声がする扉のほうを見た。扉の覗き窓に嵌まった格子の向こうに、篝火の灯りに照らされたソニャーレの顔がある。
「どうしたの?」
応じたナーヴェに、ソニャーレは険しい表情で告げた。
「陛下が、あなた様の処刑を決定なさいました。今日、新しい薬を届けて下さったシンティラーレ様が、そう仰いました。三日後の四の日に、国境沿いの丘で、あなた様を処刑する、と既に民に布告も出されています」
「そう……」
ナーヴェは俯いて苦笑した。ロッソが来ないはずだ。もう対話する意思がないのだ――。
「わたくしがお救い致します」
ソニャーレのきっぱりした言葉に、ナーヴェは顔を上げた。
「それは駄目だよ。きみが罪に問われる」
「あなた様は、わが祖父の命の恩人。恩人のためならば、わたくしは命を懸けられます」
ナーヴェは首を横に振った。
「駄目だよ、ぼくの作り物の肉体のためなんかに命を懸けたら。きみの命は、掛け替えのないものなんだから」
「しかし、では、お腹の子は……?」
ソニャーレの問いに、ナーヴェは寂しく微笑んだ。
「わざわざ国境沿いまで連れていってくれるなら、何とかできるかもしれない……。処刑方法は、何?」
「陛下の性格ならば、見せしめとして最も効果のある、磔刑を選ばれるでしょう」
ソニャーレは苦しげに言った。ナーヴェは更に問うた。
「止めを刺すのに、槍とかを使うのかな?」
「いえ、わが国の磔刑は、長い苦しみを伴う、最も残酷な十字架刑です」
ソニャーレは俯いて答えた。
「ああ、あれか……」
ナーヴェは、自分が守る知識の中にある、有名な磔刑の情報を精査し、微笑む。
「それなら、いい」
口の中で呟いて、ナーヴェは格子越しにソニャーレを見つめ、請うた。
「もし、きみがぼくのために動いてくれるなら、命を懸ける必要はない。ただ、ぼくの遺体を、その場でオリッゾンテ・ブル王国に引き渡してくれるようロッソに頼んでくれたら、嬉しい」
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