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第六章 捕らわれてのち 二

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     二

 寝室へと、夕暮れの回廊を歩くアッズーロに、フィオーレが駆け寄ってきた。
「陛下、レーニョが目を覚ましました! 侍医殿が、もう大丈夫だと、一命を取り留めた、と……!」
「そうか」
 アッズーロは心の底から安堵した。レーニョもまた、失う訳にはいかない大切な存在だ。それは、涙に濡れた笑顔をしているフィオーレにとっても同じだろう。
「われのことはよい。おまえは、レーニョについていてやれ。何かあれば、すぐ呼ぶゆえ」
「――ありがとう存じます……」
 深々と頭を下げ、フィオーレはレーニョの部屋のほうへ下がっていった。
 アッズーロはついて来るガットも一度部屋へ戻らせ、一人で寝室へ入った。真っ直ぐにナーヴェの寝台へ行き、腰掛ける。そうしてアッズーロは、上着の内隠しに入れていたナーヴェの髪を取り出した。長く青い、さらさらとした髪の一房。
「馬鹿者め……!」
 呟いて、アッズーロは青い髪束に額を押し当てた。
「他人ばかり助けおって、少しも、己を顧みん……! そなたは、いつもいつもいつもいつも……!」
 だからこそ、輪を掛けて愛おしい。健気で純真で賢く、頑固で博愛主義で寂しげで愛らしい。アッズーロは、青い髪にそっと口付けると、首に掛けて肌身離さず持っていた小巾着を、長衣の襟から出した。青い髪束を掛布の上に置き、小巾着を開く。中から、昨夜ここで拾った一筋の青い髪を取り出し、青い髪束と一緒にした。柔らかな光沢を放つ、深い青色の髪束。あの形のいい頭から背中へ流れていた、美しい髪の一房。自分で切り落としたのだろうか。それとも、誰かに切られたのだろうか。どちらにせよ、サーレのところに残されていた意味は、自分はこの先へ行くという伝言だろう。
(必ず、そなたを助けにいく――)
 改めて心に誓い、アッズーロは青い髪束を大切に小巾着に納め、再び胸元へ入れた。


 国境を越えて暫く進み、小さな町の灯りが見えたところで、ソニャーレはフェッロに荷馬車を停めさせた。王の宝のためにも、自分達のためにも、食料と衣服を買う必要があった。
(できれば、馬車も変えたいが、この町の規模では無理か……)
 ソニャーレは、フェッロに王の宝の見張りを任せ、一人で町に入った。まずは食料品店に行き、無花果と発酵乳、水と麺麭を購入した。次いで服屋へ行き、三人分のテッラ・ロッサ風の長衣を見繕う。テッラ・ロッサ風の薄手の白い頭巾付き外套も購入した。強い日差しから肌を守るためのものだ。
 荷馬車に戻ったソニャーレは、フェッロに問うた。
「次の町に入る前に、人目に付かない川か湖で、体を洗って、着替えられればいいのですが、心当たりはありますか?」
「そんなに水辺に恵まれていれば、この国はオリッゾンテ・ブルに手を出したりはしない」
 苦々しく、フェッロは答えた。
「ならば、この水を使うしかないですね」
 ソニャーレは先ほど購入した水の瓶を見る。
「少なくとも、わたしと王の宝に付いているサーレの血は拭っておかないといけませんから」
「――そうだな。どこか、町から離れたところで、馬車を停めよう」
 フェッロは硬い声で応じた。
 町と町を繋ぐ街道から少し離れた沙漠の、岩山の陰に、フェッロは荷馬車を停めた。揺れの止まった荷台で、ソニャーレは王の宝から長衣を脱がせた。王の宝は、起きているのか寝ているのか、ぐったりとしたままで、何の抵抗もしない。ソニャーレは、最早使いものにならない長衣を曲刀で切って、幾つかの布切れを作り、その一枚に買った水を垂らした。その急造の雑巾で、ソニャーレは王の宝の体を拭う。下袴だけにした細い体は、妊娠の兆候はあるものの、まだ幼気な少女のもので、痩せている。ソニャーレ達ともども丸一日食事をさせていないので、その所為もあるだろう。細く骨ばった手指に付いていたサーレの血を拭き取り、砂や埃も拭き取ってから、ソニャーレは王の宝にテッラ・ロッサ風の長衣を着せ、髪も覆う頭巾付き外套を纏わせた。
 フェッロは御者台で着替えている。ソニャーレは新しい布切れに水を垂らし、それで己の体に付いたサーレの血を丁寧に拭き取ってから、他の汚れも落とし、テッラ・ロッサ風の長衣に着替え、曲刀も鞘と帯ごと新しい長衣の腰に巻いた。その上から頭巾付き外套をすっぽりと纏う。王の宝と自分の着ていた衣は、全て近くの砂礫の中へ埋めた。フェッロもソニャーレのすることを見て、同じようにしている。
(これで、オリッゾンテ・ブルから来たと一般人に気づかれることはない。後は、荷馬車を、幌付きの目立たない馬車に替えられれば……)
 更に追ってくるであろう、オリッゾンテ・ブルの工作員や間諜達の目を欺くことができる。
(でも、それは次の町に着いてから……。今夜は、ここで休まないと、フェッロも、王の宝も、もう限界ね……)
 ソニャーレは発酵乳の瓶を手に、王の宝の傍らへ座った。華奢な体を助け起こして支え、その口元に蓋を開けた瓶の縁を宛がう。少しずつ瓶を傾け、白い液体を口に含ませると、こくりと喉を鳴らして、王の宝は飲み下した。まるで、赤子に乳を飲ませるような感覚だ。少しずつしか飲まない王の宝に、ソニャーレは辛抱強く付き合い、できる限り多くの発酵乳を痩せた体に流し込んだ。
(無花果は、まだ無理そうね……)
 意識がはっきりとしない状態で、固形物は無理だろう。ソニャーレは、王の宝の体をそっと床に寝かせると、次は無花果を手に取った。
「フェッロ殿」
 声を掛けて、振り向いた青年に、ソニャーレは無花果を一つ投げ渡す。青年は無言で果実の皮を剥き、一日振りの食事を始めた。ソニャーレもまた、無花果の皮を剥き、かぶりつく。甘く瑞々しい果実が、五臓六腑に沁み渡った。
「今夜はここで休み、明日の朝早く発ちましょう」
 ソニャーレはフェッロに言って、さっさと横になった。沙漠の夜は冷える。テッラ・ロッサ風の長衣と外套は、寒さからも身を守ってくれた。


 腹の子を守ることと同時に、減った極小機械を増殖させることに全力を注いで一日を過ごしたので、体調は安定しても、体力はぎりぎりだった。ソニャーレが酸っぱい乳を飲ませてくれなかったら、もたなかったかもしれない。
(まあ、ぼくの肉体を死なせないために、最低限のことはしてくれると思っていたけれど、ソニャーレには感謝しないとね……)
 思考回路で呟いて、ナーヴェは腹の子の様子に微笑む。一時期は危なかったが、極小機械で細やかな支援を行なったので、状態は回復している。細胞分裂も順調に進んでいる。
(これで、アッズーロを悲しませないで済む……)
 ほうと息をついて、ナーヴェは肉体を微睡みへ戻した。気温がどんどん下がっていくが、ソニャーレが着せてくれたテッラ・ロッサ風の長衣と外套が、体温を守ってくれている。それでも、寒さはつらい。本体でも当然外気温は検知していたが、肉体で感じる寒さは、また別ものだ。
(きみと一緒に寝ていた時は、とても温かかったな……。こういう感覚を、「人肌が恋しい」と言うのかな……)
 アッズーロと再会できるのは、いつになるだろうか。腹の子がいる限りは、アッズーロへの接続は難しいだろう。
(ロッソ三世と会えたら、いろいろと打開策も見つけられるはず……)
 テッラ・ロッサ王国を創始した初代ロッソのことはよく知っているが、ロッソ三世のことは噂に聞くばかりだ。
(ロッソと似ていて、赤褐色の髪、小麦色の肌の、大柄な人だということだけれど……)
 フェッロとソニャーレは、ほぼ確実にナーヴェをロッソ三世の許へ連れていくだろう。ロッソ三世は、自分をどう扱うだろう。オリッゾンテ・ブル王国に、どんな要求を突きつけるだろう。
(みんなが幸せになれるように、精一杯努力するよ、アッズーロ……)


 大臣達からは、有用な意見も、突飛な意見も、さまざま出た。
(ペルソーネめ、似合わん策を打ち出しおって。あやつ、あのような性格であったか……? ヴァッレも、同調しおってからに……)
 胸中で零しながら、アッズーロは寝室に戻った。さすがに、今日は報告書を読む気にならない。テッラ・ロッサに関わることであれば、即座に直接報告するよう命じてあるので、ナーヴェに関わるものはないだろう。
 心配そうな様子で迎えたラディーチェを、手を振って下がらせ、一人になったアッズーロは、着替えながら自嘲の笑みを浮かべた。
(モッルスコに「分かっておる」と答えたが、本当のところ、われはどの程度分かっておるのだろうな……)
 自らの王としての権威を強めるためと僅かな好奇心で、王の宝ナーヴェに肉体を持たせた。ところが、そのナーヴェの肉体のほうが、ともすれば自分の中で、王としての責務より大切になりつつある。
(肉体が死んでも、あやつは死なん。肉体はまた創らせればよい。子も、また生せばよい――)
 分かってはいる。だが、この手で抱いたあの体を、あれほど嬉しげに食べ物を口にしていた体を、そして初めてのわが子を、諦めたくはない――。
(王とは、不自由なものだ。なれど、王でなければ、そなたには会えなかった。そなたも、王でないわれには、用がなかろう……)
 自分は、王として、ナーヴェの肉体を取り戻さねばならない。
(ロッソ三世、わが宝に手を出したのが、きさまの運の尽きだ。覚悟しておけ)
 アッズーロは、歯を磨き、洗面を済ませると、自分の寝台に横たわった。掛布を被り、首に掛けて肌身離さず持つ小巾着に口付けて、明日のために目を閉じた。
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