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第四章 子どもが産める 三
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三
「ごめん」
王城に戻った翌朝のナーヴェの第一声は、謝罪だった。青白い顔で寝台に横たわったまま、アッズーロを見上げ、弱々しく告げる。
「貧血と腹痛が酷いんだ。今日の謁見は、接続だけにしたいんだけれど、いいかな?」
「『体調を崩さぬほうを選べ』と言うたろう。しっかり肉体を休ませよ。食事は取れるか?」
「食欲はないんだけれど、貧血だから食べたほうがいいだろうね……。動物の肝臓とかがいいんだけれど、全然食べたいと思わないから、肉体は矛盾していて不思議だよ……」
「分かった。朝食は林檎と杏にしておこう。昼食は肝臓をまぶした麦粥だ」
さっさと献立を決め、アッズーロは控えている三人の女官達を振り返り、一人に命じる。
「ミエーレ、厨房に指示して参れ」
「畏まりました」
ミエーレは蜂蜜色の癖のある髪を揺らして一礼し、寝室を辞した。
後は命じずとも、フィオーレとラディーチェがそれぞれナーヴェとアッズーロの身仕度を手伝う。ナーヴェは沐浴にも連れていかれ、少しさっぱりとした顔で戻ってきた。
ミエーレは、二人分の林檎と杏、瓶に入れた羊乳と二つの木杯を持って戻ってきた。
「あれ? きみも同じものを食べるの?」
億劫そうに卓に着いたナーヴェが、軽く目を瞠ってアッズーロを見た。
「別のものを用意させるのも手間であろう。厨房には、予てより同じものを用意せよと指示してある」
アッズーロが教えると、ナーヴェは端正な顔を花のように綻ばせた。
「嬉しいよ。きみは、優しいね」
やはり、人でない者は臆面がない。
「当たり前だ。王たる者、必要な配慮は常に欠かさん」
アッズーロは尊大に応じ、自分も卓に着いた。
朝食後、レーニョとポンテが来たので、アッズーロは執務室に移って報告を聞いた。
「草木紙生産は完全に軌道に乗りました。品質は、この通りです」
レーニョは、手にしている紙束の一枚を、アッズーロに手渡す。
「羊皮紙ほど丈夫ではありませんが、字を書くのに難はありません。ナーヴェ様に拠れば、紙漉きの技量の向上で、更に丈夫な紙にしていけるそうで、職人達は奮起しておりました。何より画期的なのは、羊皮紙よりも相当簡単に紙が作れることです。材料を用意するのに少々手間は掛かりますが、羊皮紙生産に比べれば、一枚一枚に費やす時間はかなり短いものです。長期保存しなければいけない文書はやはり羊皮紙のほうがよいでしょうが、そうでないものは、この草木紙で充分でございましょう」
「成るほどな」
アッズーロは葦紙の手触りを確かめた。繊維が見え、多少ざらざらとはするが、予想より滑らかだ。端を持ち、破ろうとすると、それなりの抵抗があってから、びりびりと破れた。確かに羊皮紙よりは脆いが、通常の使用には充分に耐えそうだ。
「うむ。なかなかの出来だ。パルーデには今後、税紙の三割を、この草木紙で納めるよう通達せよ」
「畏まりました」
レーニョは一礼してから、手にした紙束に一瞬目を落とし、報告を続ける。
「続いて、レ・ゾーネ・ウーミデ侯周辺の情勢についてですが」
どうやら、紙束の殆どは、レーニョが自分でまとめた報告用の文書らしい。羊皮紙より簡単に生産できるため、気軽に使えるという利点もありそうだ。
「陛下の間諜二人は滞りなく任務に邁進しております。ただ、二人ともが、あの侯城で働く従僕サーレとソニャーレを警戒するよう進言しております。時折、不審な動きをしている、と」
「サーレは、確か、パルーデの身辺で働いている従僕であったな。ソニャーレという者は、記憶にないが」
「ソニャーレは、あの侯城で、主に清掃を担当している従僕です。胡桃色の髪に青い瞳、白い肌の十代後半の少女です」
「また『青い瞳』か」
アッズーロは眉をひそめ、考察する。
「パルーデがこちらに放つ間諜ならば、まだよいが、パルーデの嗜好を利用したテッラ・ロッサ側からの間諜ならば、逆に足元を掬われかねん。二人には、充分警戒するよう伝えよ」
「御意のままに」
レーニョは再び頭を下げ、一歩下がった。レーニョからの報告は以上ということだ。代わって、ポンテが一歩進み出た。
「ナーヴェ様についてでございますが、陛下がお帰りになった後、パルーデ様は三日に一度ほどの頻度でお越しになられました。それも全てが夜伽という訳ではなく、ただお話しになって帰られることも多かったようにございます。お陰様で、ナーヴェ様もあれ以降、大きく体調を崩されることなく、健やかにお過ごしでございました」
「あやつの報告通りだな」
アッズーロは明後日の方向を睨んで顔をしかめた。喜ばしい報告なのかもしれないが、それでも、確実に夜伽があったという内容は、不快でしかない。すると、ポンテが更に半歩前へ出て、声を潜めて言った。
「ナーヴェ様を充分に労わって差し上げて下さいませ。三日に一度であろうが、五日に一度であろうが、つらいお役目に変わりはありません」
「あやつはそう思うておらんようだぞ?」
アッズーロも、やや声を低めて反論した。隣の寝室では、当のナーヴェが歯磨きなどしているはずだ。
「それは、あの方がまだ、陛下を御存知ないからにございましょう」
ポンテは平然と言ってのけた。その斜め後ろで、レーニョが固まっている。アッズーロは溜め息をついて指摘した。
「あやつは王の宝だ。人ではない」
「けれど、女人でいらっしゃいます。しかも、神にお仕えする巫女ではないとのこと。あの方は、あくまで陛下にお仕えする従僕だと明言なさいました。であれば、後は陛下次第にございます」
「おまえは、われをけしかけておるのか?」
アッズーロは呆れて問うた。
「はい。有り体に申せば、そうでございます」
ポンテは、強い眼差しでアッズーロを見つめ、頷く。
「ナーヴェ様は、浮世離れしたお方。その所為か、御自身のことを蔑ろになさりがちです。どうか、陛下がしっかりと繋ぎ止めて下さいませ」
週の初めなので、午前は謁見ではなく大臣会議である。議題は多岐に渡ったが、最も重要なものは、テッラ・ロッサ王国への対応だった。カンナ河からテッラ・ロッサへ水路を引く件については、未だ検討中である。
「重要であるのは、本当にそのような大工事が可能かどうか、という点でございます」
治水担当大臣バンカ伯コッコドリーロが眉間に皺を寄せて述べる。
「わが国とテッラ・ロッサの国境にあるクリニエラ山脈に、どう水路を通すのか。その問題が解決されぬ限り、この案件は先へは進みませんぞ」
【どこへ水路を通すべきかは、ぼくが教えられるよ】
実体ではないナーヴェが、王座の傍らで微笑む。
【工事は難しいけれど、人死にが出ないよう、助言もできる】
「その問題は、解決できると王の宝が言うておる」
アッズーロは一段高い王座から、コッコドリーロを始めとする大臣達を見下ろして告げる。
「話を先へ進めよ」
「王の宝――ナーヴェ様が?」
道路担当大臣ストラーダ伯カッメーロが顔をしかめる。
「しかし、それは信用できるのですかな? こう申し上げては御不快でしょうが、何ゆえ王の宝は、水路工事についてなど御存知なのですか?」
「王の宝に疑いを差し挟むな。それは王権への疑いと同義」
冷ややかに反論したのは、外務担当大臣フォレスタ・ブル大公女ヴァッレ。
「実際、ナーヴェ様は、葦と楡から紙を作る方法をレ・ゾーネ・ウーミデ侯領に伝授なさった。王の宝とは、そのような存在だと、われわれは認識すべきだ」
場が一度静まった後、財務担当大臣オーロ伯モッルスコが口を開いた。
「まあ、ナーヴェ様がわれわれには想像もつかぬ知識の持ち主であることは確かでございましょう。陛下も、それゆえ、ナーヴェ様を重んじておられる。であれば、話を先へ進めましょう」
「次の問題は、そもそもテッラ・ロッサがそれで納得するかということです」
ヴァッレが鋭く指摘する。
「わたくしも配下の者を使い、いろいろ探ってはおりますが、あちらは領土を増やすことに血道を上げている様子。ただ、沙漠側へは容易に領土を開拓できず、わが国側へ、となっているようです」
「何故そのような情勢になっておるのだ?」
アッズーロは王座から問うた。ヴァッレは席から立ち上がり、王家の青い双眸でアッズーロを見上げて答えた。
「内政が上手くいっておらぬようでございます。国王ロッソ三世は、治世四年になりますが、旱魃が続き、テッラ・ロッサ国内は食糧が不足して、酷い地域は飢饉となっているようです。国民の不満は膨れ上がっており、王権も危ういとか。それで、国民の目を内政から外交へ向けさせたいのでしょう」
「ロッソ三世は、わが国が不当に国境線を引いたと、国民に吹き込んでおるようですな」
モッルスコが付け加える。
「百年も前のことを持ち出して、いやはや、御苦労なことです」
「ではヴァッレ、工作員を送り込み、テッラ・ロッサ国民に、水路の計画を噂として伝えよ」
アッズーロは命じる。
「世論を操作し、突破口を作る」
「仰せのままに」
ヴァッレは結った金褐色の髪を揺らして一礼し、再び席に着いた。
案件はこれで全て検討したはずだ、とアッズーロが閉会を指示しようとした時、沈黙を保っていた学芸担当大臣が急に発言した。
「陛下、検討すべき案件が、もう一つございます」
「何だ、ペルソーネ」
アッズーロは不機嫌に応じた。二十歳の学芸担当大臣ペルソーネは、カテーナ・ディ・モンターニェ侯女であり、軽々には扱えない相手だ。しかし、どうにも反りが合わないので、アッズーロには珍しく苦手とする相手でもあった。
白い顔に厳しい表情を浮かべたペルソーネは席を立ち、水色の双眸でアッズーロを見上げて答えた。
「王の宝ナーヴェ様の、今後の処遇についてでございます」
アッズーロは鼻を鳴らした。
「ナーヴェは、王の宝。王権の象徴。それ以上でも、それ以下でもない」
「先王陛下の御世までは、それでようございました。なれど」
ペルソーネは強硬に主張する。
「今、ナーヴェ様は、われわれの目の前におられる。陛下と寝食をともにされ、謁見に同席し、政務に助言し、あまつさえ、一領主の許へ赴いて、新しき知識を伝授なさる。そういう方を、ただ王の宝、王権の象徴とのみ定義し続けるのは、難しゅうございます。どうか、ナーヴェ様に、その処遇を明らかとする新たな肩書きを。このままでは、神殿の聖なる御業を使う巫女が、陛下に代わり、国を動かしているようにすら見えます。それは、逆に王権を揺らがせるのではないでしょうか」
「ペルソーネ、さすがに口が過ぎるぞ」
ヴァッレが窘めた。だが、ペルソーネは怯まない。緩く編んだ銀灰色の髪を揺らし、ヴァッレを含む他の大臣達を振り向いた。
「確かに言葉が過ぎました。けれど皆様も、この件に関しては、多かれ少なかれ、わたくしと同じ懸念を懐いておられるはずです」
大臣達は、或いは腕を組み、或いは溜め息をついて、一様に黙した。
(皆、同意見ということか)
アッズーロは顔をしかめた。予想されたことではあったが、早々に解決すべき難しい案件が浮上したのだった。
「ごめん。ぼくのことで、随分と時間を取らせたね」
昼食の席で、ナーヴェはすまなそうに詫びた。結局、あれから一時間ほどもナーヴェの処遇について議論することになってしまった。しかも結論はまだ保留中だ。
「そなたの所為ではない」
アッズーロは憮然として応じ、匙で麦粥を口に運んだ。塩味の利いた羊の肝臓が、麦粥にいい味を付けている。
「そなたをただ王の宝とのみ呼称し、特に説明もせず傍に置き、政務に関わらせているわれの責任だ」
「――それで、きみは、ぼくをどうするつもりだい?」
「それが、われの中でも明確に決められんから、議論が長引くのだ」
アッズーロは赤裸々に告げて、眼前のナーヴェを見つめた。肉体のナーヴェは、麦粥をゆっくりと口に運んでいる。食欲はないらしいが、それでも微笑みを浮かべ、味わって食べている姿が――。
アッズーロは小さく息を吐き、麦粥の皿とナーヴェとを見比べながら言った。
「――モッルスコが、一つ、肩書きの案を提示しておったな。新たな肩書きを作るよりよい、と。一番明快で皆も困らん、と」
「ああ、あれ?」
ナーヴェは可笑しそうに肩を竦める。
「『妃』なんてね。みんなまだ、ぼくのことを誤解しているよ。普通の生身の巫女だと思っているんだね」
「なれど、今そなたは肉体を持っておる。月経もある。あながち、的外れの提案でもないと思うがな」
アッズーロが重ねて言うと、ナーヴェは目を瞬いて、匙を止めた。
「――まさか、きみ、それを本気で検討するつもりなのかい?」
「一考の価値はあると思うておる」
アッズーロは、真っ直ぐにナーヴェを見据えた。ナーヴェは、珍しく笑みの消えた顔で、まじまじとアッズーロを見つめ返す。アッズーロは、もう一度小さく息を吐き、匙を振った。
「まあ、暫くは議論を続けることになろう。われも、必要な情報は全て把握した上で結論を出したい。暫くは障りがあろうが、来週半ばになれば、問題ないな?」
「……何の話だい?」
真顔で問い返してきたナーヴェに、アッズーロも同じく真顔で答えた。
「そなたを抱く。形ばかりでなく、実際に臥所をともにし、われの子を孕めるかどうか確かめる」
控えていた女官のフィオーレが両手を口に当てたが、当のナーヴェ自身は、目を見開いたきりで、暫く身動き一つしなかった。
「ごめん」
王城に戻った翌朝のナーヴェの第一声は、謝罪だった。青白い顔で寝台に横たわったまま、アッズーロを見上げ、弱々しく告げる。
「貧血と腹痛が酷いんだ。今日の謁見は、接続だけにしたいんだけれど、いいかな?」
「『体調を崩さぬほうを選べ』と言うたろう。しっかり肉体を休ませよ。食事は取れるか?」
「食欲はないんだけれど、貧血だから食べたほうがいいだろうね……。動物の肝臓とかがいいんだけれど、全然食べたいと思わないから、肉体は矛盾していて不思議だよ……」
「分かった。朝食は林檎と杏にしておこう。昼食は肝臓をまぶした麦粥だ」
さっさと献立を決め、アッズーロは控えている三人の女官達を振り返り、一人に命じる。
「ミエーレ、厨房に指示して参れ」
「畏まりました」
ミエーレは蜂蜜色の癖のある髪を揺らして一礼し、寝室を辞した。
後は命じずとも、フィオーレとラディーチェがそれぞれナーヴェとアッズーロの身仕度を手伝う。ナーヴェは沐浴にも連れていかれ、少しさっぱりとした顔で戻ってきた。
ミエーレは、二人分の林檎と杏、瓶に入れた羊乳と二つの木杯を持って戻ってきた。
「あれ? きみも同じものを食べるの?」
億劫そうに卓に着いたナーヴェが、軽く目を瞠ってアッズーロを見た。
「別のものを用意させるのも手間であろう。厨房には、予てより同じものを用意せよと指示してある」
アッズーロが教えると、ナーヴェは端正な顔を花のように綻ばせた。
「嬉しいよ。きみは、優しいね」
やはり、人でない者は臆面がない。
「当たり前だ。王たる者、必要な配慮は常に欠かさん」
アッズーロは尊大に応じ、自分も卓に着いた。
朝食後、レーニョとポンテが来たので、アッズーロは執務室に移って報告を聞いた。
「草木紙生産は完全に軌道に乗りました。品質は、この通りです」
レーニョは、手にしている紙束の一枚を、アッズーロに手渡す。
「羊皮紙ほど丈夫ではありませんが、字を書くのに難はありません。ナーヴェ様に拠れば、紙漉きの技量の向上で、更に丈夫な紙にしていけるそうで、職人達は奮起しておりました。何より画期的なのは、羊皮紙よりも相当簡単に紙が作れることです。材料を用意するのに少々手間は掛かりますが、羊皮紙生産に比べれば、一枚一枚に費やす時間はかなり短いものです。長期保存しなければいけない文書はやはり羊皮紙のほうがよいでしょうが、そうでないものは、この草木紙で充分でございましょう」
「成るほどな」
アッズーロは葦紙の手触りを確かめた。繊維が見え、多少ざらざらとはするが、予想より滑らかだ。端を持ち、破ろうとすると、それなりの抵抗があってから、びりびりと破れた。確かに羊皮紙よりは脆いが、通常の使用には充分に耐えそうだ。
「うむ。なかなかの出来だ。パルーデには今後、税紙の三割を、この草木紙で納めるよう通達せよ」
「畏まりました」
レーニョは一礼してから、手にした紙束に一瞬目を落とし、報告を続ける。
「続いて、レ・ゾーネ・ウーミデ侯周辺の情勢についてですが」
どうやら、紙束の殆どは、レーニョが自分でまとめた報告用の文書らしい。羊皮紙より簡単に生産できるため、気軽に使えるという利点もありそうだ。
「陛下の間諜二人は滞りなく任務に邁進しております。ただ、二人ともが、あの侯城で働く従僕サーレとソニャーレを警戒するよう進言しております。時折、不審な動きをしている、と」
「サーレは、確か、パルーデの身辺で働いている従僕であったな。ソニャーレという者は、記憶にないが」
「ソニャーレは、あの侯城で、主に清掃を担当している従僕です。胡桃色の髪に青い瞳、白い肌の十代後半の少女です」
「また『青い瞳』か」
アッズーロは眉をひそめ、考察する。
「パルーデがこちらに放つ間諜ならば、まだよいが、パルーデの嗜好を利用したテッラ・ロッサ側からの間諜ならば、逆に足元を掬われかねん。二人には、充分警戒するよう伝えよ」
「御意のままに」
レーニョは再び頭を下げ、一歩下がった。レーニョからの報告は以上ということだ。代わって、ポンテが一歩進み出た。
「ナーヴェ様についてでございますが、陛下がお帰りになった後、パルーデ様は三日に一度ほどの頻度でお越しになられました。それも全てが夜伽という訳ではなく、ただお話しになって帰られることも多かったようにございます。お陰様で、ナーヴェ様もあれ以降、大きく体調を崩されることなく、健やかにお過ごしでございました」
「あやつの報告通りだな」
アッズーロは明後日の方向を睨んで顔をしかめた。喜ばしい報告なのかもしれないが、それでも、確実に夜伽があったという内容は、不快でしかない。すると、ポンテが更に半歩前へ出て、声を潜めて言った。
「ナーヴェ様を充分に労わって差し上げて下さいませ。三日に一度であろうが、五日に一度であろうが、つらいお役目に変わりはありません」
「あやつはそう思うておらんようだぞ?」
アッズーロも、やや声を低めて反論した。隣の寝室では、当のナーヴェが歯磨きなどしているはずだ。
「それは、あの方がまだ、陛下を御存知ないからにございましょう」
ポンテは平然と言ってのけた。その斜め後ろで、レーニョが固まっている。アッズーロは溜め息をついて指摘した。
「あやつは王の宝だ。人ではない」
「けれど、女人でいらっしゃいます。しかも、神にお仕えする巫女ではないとのこと。あの方は、あくまで陛下にお仕えする従僕だと明言なさいました。であれば、後は陛下次第にございます」
「おまえは、われをけしかけておるのか?」
アッズーロは呆れて問うた。
「はい。有り体に申せば、そうでございます」
ポンテは、強い眼差しでアッズーロを見つめ、頷く。
「ナーヴェ様は、浮世離れしたお方。その所為か、御自身のことを蔑ろになさりがちです。どうか、陛下がしっかりと繋ぎ止めて下さいませ」
週の初めなので、午前は謁見ではなく大臣会議である。議題は多岐に渡ったが、最も重要なものは、テッラ・ロッサ王国への対応だった。カンナ河からテッラ・ロッサへ水路を引く件については、未だ検討中である。
「重要であるのは、本当にそのような大工事が可能かどうか、という点でございます」
治水担当大臣バンカ伯コッコドリーロが眉間に皺を寄せて述べる。
「わが国とテッラ・ロッサの国境にあるクリニエラ山脈に、どう水路を通すのか。その問題が解決されぬ限り、この案件は先へは進みませんぞ」
【どこへ水路を通すべきかは、ぼくが教えられるよ】
実体ではないナーヴェが、王座の傍らで微笑む。
【工事は難しいけれど、人死にが出ないよう、助言もできる】
「その問題は、解決できると王の宝が言うておる」
アッズーロは一段高い王座から、コッコドリーロを始めとする大臣達を見下ろして告げる。
「話を先へ進めよ」
「王の宝――ナーヴェ様が?」
道路担当大臣ストラーダ伯カッメーロが顔をしかめる。
「しかし、それは信用できるのですかな? こう申し上げては御不快でしょうが、何ゆえ王の宝は、水路工事についてなど御存知なのですか?」
「王の宝に疑いを差し挟むな。それは王権への疑いと同義」
冷ややかに反論したのは、外務担当大臣フォレスタ・ブル大公女ヴァッレ。
「実際、ナーヴェ様は、葦と楡から紙を作る方法をレ・ゾーネ・ウーミデ侯領に伝授なさった。王の宝とは、そのような存在だと、われわれは認識すべきだ」
場が一度静まった後、財務担当大臣オーロ伯モッルスコが口を開いた。
「まあ、ナーヴェ様がわれわれには想像もつかぬ知識の持ち主であることは確かでございましょう。陛下も、それゆえ、ナーヴェ様を重んじておられる。であれば、話を先へ進めましょう」
「次の問題は、そもそもテッラ・ロッサがそれで納得するかということです」
ヴァッレが鋭く指摘する。
「わたくしも配下の者を使い、いろいろ探ってはおりますが、あちらは領土を増やすことに血道を上げている様子。ただ、沙漠側へは容易に領土を開拓できず、わが国側へ、となっているようです」
「何故そのような情勢になっておるのだ?」
アッズーロは王座から問うた。ヴァッレは席から立ち上がり、王家の青い双眸でアッズーロを見上げて答えた。
「内政が上手くいっておらぬようでございます。国王ロッソ三世は、治世四年になりますが、旱魃が続き、テッラ・ロッサ国内は食糧が不足して、酷い地域は飢饉となっているようです。国民の不満は膨れ上がっており、王権も危ういとか。それで、国民の目を内政から外交へ向けさせたいのでしょう」
「ロッソ三世は、わが国が不当に国境線を引いたと、国民に吹き込んでおるようですな」
モッルスコが付け加える。
「百年も前のことを持ち出して、いやはや、御苦労なことです」
「ではヴァッレ、工作員を送り込み、テッラ・ロッサ国民に、水路の計画を噂として伝えよ」
アッズーロは命じる。
「世論を操作し、突破口を作る」
「仰せのままに」
ヴァッレは結った金褐色の髪を揺らして一礼し、再び席に着いた。
案件はこれで全て検討したはずだ、とアッズーロが閉会を指示しようとした時、沈黙を保っていた学芸担当大臣が急に発言した。
「陛下、検討すべき案件が、もう一つございます」
「何だ、ペルソーネ」
アッズーロは不機嫌に応じた。二十歳の学芸担当大臣ペルソーネは、カテーナ・ディ・モンターニェ侯女であり、軽々には扱えない相手だ。しかし、どうにも反りが合わないので、アッズーロには珍しく苦手とする相手でもあった。
白い顔に厳しい表情を浮かべたペルソーネは席を立ち、水色の双眸でアッズーロを見上げて答えた。
「王の宝ナーヴェ様の、今後の処遇についてでございます」
アッズーロは鼻を鳴らした。
「ナーヴェは、王の宝。王権の象徴。それ以上でも、それ以下でもない」
「先王陛下の御世までは、それでようございました。なれど」
ペルソーネは強硬に主張する。
「今、ナーヴェ様は、われわれの目の前におられる。陛下と寝食をともにされ、謁見に同席し、政務に助言し、あまつさえ、一領主の許へ赴いて、新しき知識を伝授なさる。そういう方を、ただ王の宝、王権の象徴とのみ定義し続けるのは、難しゅうございます。どうか、ナーヴェ様に、その処遇を明らかとする新たな肩書きを。このままでは、神殿の聖なる御業を使う巫女が、陛下に代わり、国を動かしているようにすら見えます。それは、逆に王権を揺らがせるのではないでしょうか」
「ペルソーネ、さすがに口が過ぎるぞ」
ヴァッレが窘めた。だが、ペルソーネは怯まない。緩く編んだ銀灰色の髪を揺らし、ヴァッレを含む他の大臣達を振り向いた。
「確かに言葉が過ぎました。けれど皆様も、この件に関しては、多かれ少なかれ、わたくしと同じ懸念を懐いておられるはずです」
大臣達は、或いは腕を組み、或いは溜め息をついて、一様に黙した。
(皆、同意見ということか)
アッズーロは顔をしかめた。予想されたことではあったが、早々に解決すべき難しい案件が浮上したのだった。
「ごめん。ぼくのことで、随分と時間を取らせたね」
昼食の席で、ナーヴェはすまなそうに詫びた。結局、あれから一時間ほどもナーヴェの処遇について議論することになってしまった。しかも結論はまだ保留中だ。
「そなたの所為ではない」
アッズーロは憮然として応じ、匙で麦粥を口に運んだ。塩味の利いた羊の肝臓が、麦粥にいい味を付けている。
「そなたをただ王の宝とのみ呼称し、特に説明もせず傍に置き、政務に関わらせているわれの責任だ」
「――それで、きみは、ぼくをどうするつもりだい?」
「それが、われの中でも明確に決められんから、議論が長引くのだ」
アッズーロは赤裸々に告げて、眼前のナーヴェを見つめた。肉体のナーヴェは、麦粥をゆっくりと口に運んでいる。食欲はないらしいが、それでも微笑みを浮かべ、味わって食べている姿が――。
アッズーロは小さく息を吐き、麦粥の皿とナーヴェとを見比べながら言った。
「――モッルスコが、一つ、肩書きの案を提示しておったな。新たな肩書きを作るよりよい、と。一番明快で皆も困らん、と」
「ああ、あれ?」
ナーヴェは可笑しそうに肩を竦める。
「『妃』なんてね。みんなまだ、ぼくのことを誤解しているよ。普通の生身の巫女だと思っているんだね」
「なれど、今そなたは肉体を持っておる。月経もある。あながち、的外れの提案でもないと思うがな」
アッズーロが重ねて言うと、ナーヴェは目を瞬いて、匙を止めた。
「――まさか、きみ、それを本気で検討するつもりなのかい?」
「一考の価値はあると思うておる」
アッズーロは、真っ直ぐにナーヴェを見据えた。ナーヴェは、珍しく笑みの消えた顔で、まじまじとアッズーロを見つめ返す。アッズーロは、もう一度小さく息を吐き、匙を振った。
「まあ、暫くは議論を続けることになろう。われも、必要な情報は全て把握した上で結論を出したい。暫くは障りがあろうが、来週半ばになれば、問題ないな?」
「……何の話だい?」
真顔で問い返してきたナーヴェに、アッズーロも同じく真顔で答えた。
「そなたを抱く。形ばかりでなく、実際に臥所をともにし、われの子を孕めるかどうか確かめる」
控えていた女官のフィオーレが両手を口に当てたが、当のナーヴェ自身は、目を見開いたきりで、暫く身動き一つしなかった。
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「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
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