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第3章 Hatred at the Moment

33. ある罪人の記憶

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 エレーヌにとって私は、「その他大勢」でしかなかったのだと思う。
 多くの人に愛され、憎まれもするのがエレーヌ・アルノー。私は目立ちたくもないし恨みを買うのもめんどくさかったけど、その華々しい生き方を羨んだことがないと言えば、嘘になる。

「マノン、週末は暇? 映画でも観に行かない?」
「忙しいけど、空けようと思ったら何とかなるよ」
「じゃあいいわ。別の子を誘うもの」

 ……とまあ、こんな感じ。
 広く浅い交友関係っていうのかな。めんどくさそう……って思う私は、人付き合いに向いてない性格なんだろうね。
 でも、私はそれで良かった。人間なんて、みんな、腹の底で何を考えてるのか分かったもんじゃない。……あのクソ野郎どもみたいにね。
 だけど、エレーヌを見てたら、「それで良い」って気持ちは簡単に揺らいでしまった。情けない話、私は自分とエレーヌを比べてしまっていたのだと思う。

 エレーヌとファッションショーのモデルをした当時、ノエルとの交流は既にあった。
 お洒落で華やかなエレーヌと、地味な私が並ぶことに、抵抗がなかったと言えば嘘になる。エレーヌはどう見てもパリジェンヌだし、私が隣に並べば「南フランス生まれの田舎者」とか言われたっておかしくない。……被害妄想かもしれないけど。
 だから、つい不満をこぼしてしまって……そこから、ノエルと話すようになってしまった。

「あんたもエレーヌもそんなに変わらないわ。安心なさい」

 今思えば、あれは本心だったのだろう。
 どっちも切り刻んだら内臓やら血が出るとか、そういう意味で。

 私が詐欺師のことで頭を悩ませてる間、エレーヌはお洒落や恋に花を咲かせていた。
 もっと仲良くしたいとか近づいてみたいとか、思わないでもなかったけど、でもあいつは気まぐれだし……いや誘ったら普通に距離は詰められたかもしれないけど、性格が違いすぎて仲良くできる自信もないし、いや多少の性格の違いはエレーヌだし気にしない気もするけど、あいつ合わなかったらすっぱりさよならする方だし、そういうのはなんか嫌っていうか……仲良くしようとしたからには、ちゃんと仲良くなりたいっていうか……

「やあ、マノン。どうしたんだい?」

 ああ、そうだ。この時はポールがエレーヌと別れた直後だったんだ。
 お互い名前を知ってたのは、ポールがエレーヌと付き合ってた時に一言二言話したことがあるからで、それなりに色男だってことも聞いていた。
 人がベンチで考え事してる時に、能天気に話しかけて来るもんだから、思わず睨みつけてしまったのを覚えている。

「不機嫌そうだね。ぼくで良ければ話を聞くよ。一緒にお茶でもどうだい?」

 ぶっ飛ばしてやろうか、こいつ。そう思った。……まあ、きっぱり断ったら素直に引き下がるやつなんだけどさ、こっちも虫の居所が悪かったというかね。

「あ?」

 胸倉を掴んだのは、さすがにやりすぎだったと思う。頭に血が上りやすいのは、私の悪い癖だ。

「おっと。ごめんね、気を悪くさせたかな」

 それでも穏やかに笑うポールを見て、「ああ、こういうとこがモテるんだな」と思ったりもした。
 ただ……なんだろう。ちょっと、気持ち悪いとも思った。
 だって、話しかけただけで突然胸倉を掴まれたのに、怒るどころか平然としているなんて……なんか、変じゃない?
 眉一つひそめていなかったし、私より年下にしては人間ができすぎている。成人済みとはいえ、当時はまだ10代かそこらじゃなかったっけ……?

 赤いシャツの襟元から赤い痕が見えて、ぱっと手を放す。……一瞬キスマークかと思ったけど、違った。
 あれは、時間が経ったら消えるような痕じゃない。

「大丈夫かい? もしかして、気分でも悪いのかな」

 ノエルに感じた違和感とは、また違う。
 同じ作り物でも、なんだろう。裏に流れているのはノエルのような冷血でなく、もっと、痛々しい、何か……?

「……ッ、ごめん……」

 思わず謝るしかなかった。
 だって、笑っていたのに、彼は泣いていた。震える指先を隠して、平気なふりをして立っていた。

「私に構わないで。……一人にしてよ……」

 八つ当たりがしたかったわけじゃない。誰かを傷つけたり、悲しませたかったわけじゃない。……だから、放っておいて欲しかった。

「……うん」

 彼は静かに頷いて、そのまま何も聞かずに立ち去って行った。
 そのまま特に関わることもなかったし、気にしている暇も失われていった。

 その後、エレーヌは美男子で才能もあると評判の画家と付き合い始めた。
 名前はカミーユだったっけ。性格に難があるとかなんとかで、それまであんまり浮いた話はなかったらしい。
 彼の絵は私もよく知っていた。学科は違ったけど、天才だって噂だし、学内の展覧会だとかで作品を見た記憶もある。
 ……でも、その頃、私はエレーヌの色恋沙汰に構うどころじゃなかった。

「マノン、どうしたのよ。顔色が真っ青よ?」

 ノエルが誰かを心配する時は、決まって演技だ。
 あいつはそうやって、「殺していい誰か」を見つける口実を探している。

 だけど、私はまだ知らなかったし、何より余裕がなかった。
 わらにも縋る思いだった。クズに騙され、壊れていく母を、これ以上見たくなかった。

「あの男が憎い……殺してやりたい……!」 
「例えばどんな風に?」 
「そりゃあもう、めちゃくちゃに顔面を切り刻んで、首から詐欺師って札を下げて川に流してやりたい……っ」
  「……そこまで恨んでるのね。つらかったでしょう」

 どうして、目をつけられたのが母だったのだろう。
 どうして、母はあんな人間のクズを愛してしまったのだろう。
 どうして……天国の父も、天の主も、母を助けてくれないのだろう。

 どうして、それを救ったのが、悪魔だったのだろう。

 川に浮かんだ死体は、私が望んだとおりの惨状だった。
 あの「願い」を知っているのはノエルだけ。……それなら、犯人が誰かなんてわかりきっている。
 だけど、当時の私は気が動転していた。「このままでは私が疑われる」……なんて、焦ってしまうくらいには。

 見つかりにくい場所に義父の死体を移し、必死で手を洗った。

「マノン・クラメールさんでしょうか。……お義父とう様の事件について、お話を伺いたいのですが……」

 ……そりゃあ、そんなんじゃ、バレるのも仕方ないよね。

「……!! 私じゃないッ!!! 事件当日にはちゃんとアリバイがあるって、それぐらい調べたらわかるでしょ!?」
「落ち着いてください。我々は何も、貴女が犯人だと決めつけてはいません……ただ……最近、多いんですよねぇ。怨恨えんこんによる殺人」
「やっぱり犯人扱いしてんじゃねぇかよ!! 冗談じゃねぇっつの、あんな詐欺師のことなんか、何も知らないっつってんだろ!?」

 でも、私は犯人じゃない。殺したのは私じゃない。
 私は罪を犯すつもりなんてなかった。手を汚すつもりなんてなかった。
 私はただ……真っ当に、生きたかっただけ。

「詳しくは署で話しましょうか。……一応、言っておきますとね、『遺体に手を加える』のも犯罪ですし、『誰かに殺害を依頼する』に至っては、殺人と同罪ですよ」
「……あ……」

 警官に詰問され、血の気が引いていく。
 私は確かに、「殺してやりたい」と口にした。でも、そんなの、本気じゃな……いや、本気だった。誰かにあのクズを葬ってほしかった。だけど、それは、違う。違うんだって。
 そんなことが本当に起こるなんて、思ってなかったんだって……!

「ノエル……ッ」

 部屋の中から当人を探し出し、睨みつける。
 人の皮を被った悪魔は、うろたえることすらなく、平然と「善人」の仮面を被った。

「……なんだか分からないけど……そう、助けて欲しいのね!」

 ああ、思い出しただけで鳥肌が立つ。
 なんでどいつもこいつも、あんなに嘘をつくのがうまいんだ。
 我らが全知全能の主は何をしているんだろう。……どうして世の中には、こんなにも、悪魔がのさばっているんだろう。



 ***



 ノエルが警官からの言いがかりに、勇敢に立ち向かった……ことになった直後、私は彼の後をつけ、真意を問いただすことにした。

「どういうつもり……!」

 ノエルはいつもよりも冷たく、刺々しい口調で……それでも、あっけらかんと語った。
 罪悪感なんて、微塵も感じていなかったに違いない。

「助けてあげたんじゃない。何が不満なの?」

 助けた?
 私を?
 そんな助け、私は求めていない。私は罪を犯したかったわけじゃない。

「あんた、勝手に『あれ』をいじったんでしょ。それで『ああなった』なら自業自得よ」

 自業自得?
 どうして?
 私は殺すつもりなんてなかった。正当な手段で、ちゃんと、真っ当な手段で、どうすればいいのかなんてわかっていなかったけど、でも、そんな恐ろしいことに加担なんてするつもりはなくて……

「……ッ、だ、だって……ほ、ほんとに『やる』なんて、思ってな……」
「あの様子じゃ私が『やった』なんて根拠はないわよ。不利なのはあんた一人だったわ」

 ああ、神様。
 どうして、私を救ってくださらなかったのですか。
 どうして、悪魔がこの世に堂々とのさばっているのですか。

「……話はそれだけ? この後、待ち合わせがあるんだけど」
「…………わ、私は、どうすれば……?」
「一応、方法は考えてるわ」
「ほ、本当に……?」
「ええ、教えてあげてもいいわよ。……今度こそ、私を信じるならね」

 私は弱かった。
 母のように何かに縋りつくことでしか、困難を乗り越えられなかった。
 留学し、家を出ていった妹の姿を思い出す。
 恨まれようが、自由に恋愛を謳歌するエレーヌの姿を思い出す。

 私は、そうなれなかった。

「いつものバーにする? 場所は変えてもいいわよ」
「……か、変える……。ま、また、連絡する、けど……本当に、助けてくれるの……?」

 ……もちろん後悔してるよ。
 結局、ノエルは罪を自供したからね。自分ひとり、首を吊って死んだ後、紙切れ一枚で。
 多くの人を殺しても罪悪感を抱かなかったノエルは、たった一人、親友の恋人を殺したことで罪悪感を「知った」らしい。

 ……逮捕された後、最後にノエルの餌食になったのはエレーヌだったらしいと、人伝ひとづてに聞いた。



 ***



「そっか。おまえも辛かったんだね」

 偶然見つけた地下室で、偶然、「彼」と出会った。

「許せない? 許せないよねぇ? ……じゃあ、ぼくの味方になってよ」

 花柄のワンピースを着ていたけど……体格からして、少年のようにも見えた。
 時折、赤く染まったワンピースと、ズタズタに切り裂かれた肌がえてはすぐに消える。

「ぼくはおまえの味方だよ。だから……ぼくを、助けてよ」

 足元には、異国の剣が転がっている。私はためらうことなく、それを手に取った。

「──も、辛かったね。もう……独りになんて、しないよ」

 彼は1543331135676322
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