上 下
19 / 49
第2章 Pray for Visit

18. 恋人

しおりを挟む
 血を吐く青年の顔が分からない。
 あたしを呼ぶ声も、ノイズに掻き消されて聞こえない。

 痛みだけを残して、「彼」の記憶が消え失せていく。

「死者は生者のことわりに干渉すべきではない」

 ……凛とした声が響き、意識がクリアになっていく。

「つまり……オリーヴ・サンダースを裁くべきは俺達ではない」

 赤髪の青年の姿が、視界に浮かび上がる。

「だから、今は安心しろ」

 語りかけているのは……私に、じゃ……ない……?
 ノイズが晴れていく。懐かしい「彼」の姿が、脳裏に蘇る……



 ***



 どういう流れだったかは分からない。
 偶然だったのかもしれない。
 涙を流す彼の姿を見てしまった日、私達は初めて深いキスをした。

 性的なことを望まなかった彼の裸を、その日、初めて見た。
 それなりに鍛えられて無駄な肉のない身体は、男性のようにたくましくも見えたけれど、女性のようにしなやかにも見えた。
 事前に聞いていた通り、男性器も女性器もない身体。……けれど、そんなことは特に気にならなかった。
 それよりも、傷痕と火傷と痣だらけの肌が月光に照らされていたことが痛々しかった。私は可能な限りすべての傷にキスを落として、震える身体を抱き締めた。

「オリーヴ」

 ぎこちない愛撫に時折身体を跳ねさせ、彼は小さく私の名を呼んだ。縋りつくようでいて、怯えているような……弱々しい響きだった。

「死にたくない」

 絞り出したような掠れ声を覚えている。

「まだ、死にたくないんだ」

 消え入りそうな慟哭を覚えている。
 それでも、次の朝、私を起こした彼の笑顔はいつも通り穏やかで、飄々ひょうひょうとしていた。
 ……なんとなく、もう二度と会えないような、嫌な予感がした。



 ***



 遠い過去から、意識が帰ってくる。
 ポールは床に転がったまま、ぼんやりと虚空を見つめていた。
 キースは難しそうな顔をして何事か考え込んでいて、レヴィは携帯電話を取り出し、画面を確認している。

「……そういうことか」

 深くため息をつき、レヴィはポールの方を見る。
 ポールは静かにまぶたを閉じ、観念したかのように黙り込んでいる。

「私……弟さんから聞いたの。あなたが死んだって……内臓の傷が、やっぱり良くなかったみたいだって」

 記憶は一部なら蘇ったけれど、まだ穴が空いた部分は多い。
 それでも……ポールを失った痛みだけは、今なお忘れられない。
 私は床に膝をつき、縋りつくようにして彼に近付いた。

「大したことないって……退院する時言ってたよね。それは、本当だったの? ポールは黙ってたけど、あれ……お母さんに殴られた後遺症なんでしょ?」

 ポールは目を閉じたまま、「うん」と小さく呟いた。

「養父母さんは何も教えてくれなかった。……仕方ないってわかってるよ。ポールは虐待被害者で、実親に情報が漏れるのは不味いもんね。いくら恋人だったとしても……うかつには、話せないよね」

 涙がぼろぼろと溢れる。
 こんなに大好きなのに、どうしてだろう。
 今、私の中からは、彼の記憶がごっそり抜け落ちている。

「……あなたなんだね。私の記憶を奪ったのは」

 目の前の相手に問いかける。
 この空間に来た瞬間、私から記憶を奪った……私にとって、すべての元凶。

 ポールはしばし黙り込んで、口を開いた。

「そうだよ」

 鈍い頭痛が私を蝕んでいる。
 塗り潰された記憶が悲鳴を上げている。
 忘れたくない、思い出してと叫んでいる。

 私はここに来たかった。
「敗者の街」でも、「迷い子の森」でも、なんだっていい。
 もう一度、彼に会いたかったんだ。

「忘れて欲しかった」

 ポールは目を開き、静かに語る。
 解き放たれたように、記憶の蓋が次々と開かれる。楽しい思い出も、悲しい思い出も、蘇っていく。

「どうして……?」

 声が震えて、上手く言葉にならない。
 ポール。私、言いたいことがたくさんあったんだよ。
 記者になる夢を叶えたとか、友達が増えたとか、あなたの作品を少しでも広められるように記事を書いたとか、それに……あなたのために……

「ごめんね」

 ポールは私に視線を合わせない。

「ぼくのせいだ」

 つぅ、と、ひび割れた頬に透明な雫が伝う。

「ぼくにさえ出会わなければ……ぼくなんかを愛さなければ、きみは、幸せだっただろうに」

 あなたのために、私は、復讐をした。
 確かにフランスでの職は失って、賠償金も払って、再出発にも苦労したけれど……でも今はイギリスで記者にも復帰できてるし、何より、私……あなたのために頑張ったんだよ。

 あなたに会って、間違ってないよねって聞きたかった。
 本当は不安だった。あなたを苦しめた人でも、あんなに酷い人でも、あなたにとってはお母さんなんだから。でも、私は許せなくて、でも、その選択をあなたがどう思うか、私にはわからなくて、だから、会って確かめたかった。

「昔のきみは、そんな苦しそうな顔をしなかった。……なんのかげりもない、明るい笑顔を見せる人だった」

 追想するように、薄いグリーンの瞳が遠くを見つめる。

 ポールの言う通り、彼と出会った頃の私は、なんの苦労も不幸も知らなかった。
 両親が死んだとか不仲だったとか、何か酷い事件に巻き込まれたとか、そんな経験は一度もない。
 復讐のことで裁判沙汰になった時も、母は私をねぎらい、父は私の再出発を手伝った。そうして、子供の頃からの夢だった記者を今でも続けられている。誰が見ても、恵まれた人生。……そのはずなのに。
 空虚な感情を抱いていた。世界が色彩を欠いたように見えていた。……ポールを失ってから、ずっと、そうだった。

「きみの苦しみは、ぼくのせいだろう?」

 ポールは涙を流したまま、力なく笑みを浮かべた。
 ああ、もう……どうしてこうなっちゃったんだろう?
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

秘密の仕事

桃香
ホラー
ホラー 生まれ変わりを信じますか? ※フィクションです

コ・ワ・レ・ル

本多 真弥子
ホラー
平穏な日常。 ある日の放課後、『時友晃』は幼馴染の『琴村香織』と談笑していた。 その時、屋上から人が落ちて来て…。 それは平和な日常が壊れる序章だった。 全7話 表紙イラスト irise様 PIXIV:https://www.pixiv.net/users/22685757  Twitter:https://twitter.com/irise310 挿絵イラスト チガサキ ユウ様 X(Twitter) https://twitter.com/cgsk_3 pixiv: https://www.pixiv.net/users/17981561

戦慄! ゾンビに襲われる寄宿学校!

炭酸水
ホラー
西洋風の男子校で、なぜかゾンビパニックが起きる話。 ホラー風味のトンチキ小説です。ゴア表現(ゾンビとのバトル)多め。 主人公男子二人のブロマンス要素が、うっすらですが含まれます。

ソウサクスルカイダン

山口五日
ホラー
創作怪談(時々、自分の実体験や夢で見たお話)になります。 基本的に一話完結で各話1,000~3,000字ほどで、まるで実体験のように書いたり、人から聞いたように書いたりと色々な書き方をしています。 こちらで投稿したお話の朗読もしています。 https://www.youtube.com/channel/UCUb6qrIHpruQ2LHdo3hwdKA/featured よろしくお願いいたします。 ※小説家になろうにも投稿しています。

風見星治
ホラー
心が、喉が、渇く

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ツギハギ・リポート

主道 学
ホラー
 拝啓。海道くんへ。そっちは何かとバタバタしているんだろうなあ。だから、たまには田舎で遊ぼうよ。なんて……でも、今年は絶対にきっと、楽しいよ。  死んだはずの中学時代の友達から、急に田舎へ来ないかと手紙が来た。手紙には俺の大学時代に別れた恋人もその村にいると書いてあった……。  ただ、疑問に思うんだ。    あそこは、今じゃ廃村になっているはずだった。  かつて村のあった廃病院は誰のものですか?

お兄さん。オレのあいさつ……無視したよね?

どっぐす
ホラー
知らない子供から、あいさつをされた。 それを無視してしまい、12年のあいだ後悔し続けた男の話。

処理中です...