上 下
7 / 34
第一章 物語は地中海の小島にて始まる

六、出航

しおりを挟む
 祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声
 諸行無常しょぎょうむじょうの響きあり
 沙羅双樹さらそうじゅの花の色
 盛者必衰じょうしゃひっすいことわりをあらわす

 祇園精舎はインドの寺院を指し、沙羅双樹は仏教の開祖である釈迦しゃかの最期に咲き乱れた花とされている。
 知盛亡き後、琵琶法師びわほうしが語り継いだ著名な物語ではあるが、それを知る者はこの異邦の地にいない。

 されど、諸公の権力争いに明け暮れる世を生きる者たちは、次の一節を聞けば少なからず共感を覚えただろう。

 おごれる人も久しからず
 ただ春の夜の夢のごとし
 たけき者もついには滅びぬ
 ひとえに風の前のちりに同じ



 ***



 殿下とアリーを連れて戻ると、船の上はにわかに盛り上がった。

「まさかアブスブルゴの王子殿下がこの船に乗られるとは……」
「こりゃ大仕事だ! 我らウーバー・デム・メーア商会一同、地獄の底にまでついて行きやすぜ!」

 アントーニョ殿下は誇らしげに胸を張り、「そうであろう、余のために大儀であるぞ」と威張いばりに威張っている。楽しそうで何よりだ。

「しっかし、綺麗な金の御髪おぐしで……」
「食ってるもんが違うんですかねぇ」
「こ、これ、断りもなく触るでない! 不敬であるぞ!」

 柔らかそうな髪をしているせいか、野郎どもはこぞって頭を撫でようとしている。

「ズィルバー! 僕の髪がぐちゃぐちゃにされてしまいます! 助けなさい!!」

 泣き言が聞こえてきたので、とりあえず引き剥がしておいた。 助けた途端また腰に引っ付いてきたのは、仕方ないのでそのままにしておく。

「さて……今回の仕事は、ここにいるアントーニョ殿下を守り抜き、オーストリアまで送り届けることだ」

 俺が話し始めると、船員はみな口をつぐみ、真剣な面持ちになる。

「母方の家がしくじったとはいえ、殿下はアブスブルゴ……つまり、スペイン・ハプスブルクの血を引いている。大臣一族の再興のカギにもなりゃ、阻止するために命を狙う輩もごろごろいる。重々承知だろうが、かなりの大仕事だ」

 誰かしらの息を飲んだ音が、船上に響く。アリーが俯いているのも、視界の端に見えた。
 殿下が生きていると知れれば、失脚した公爵一派の重要な切り札として命を狙われ……女子おなごだと気付かれれば殺される可能性は減るが、その場合の未来も明るくはないし、むしろ、より過酷かもしれない。

「……ハプスブルク家は魔術革命に乗り遅れはしたものの、未だ皇帝として世を統治する名門だ。オーストリアにまでたどり着けば、スペインの敵対諸侯は手出ししにくくなる」
「名門が相手となりゃ、報酬ほうしゅうもたんまり期待できるってことだ! 野郎ども、命懸けでやり抜くぜ!」

 ジャックが言葉を引き継ぎ、船内の士気は俄然がぜん高まった。
 船乗りは香辛料こうしんりょうだの新天地だのを求めた輩が大半とはいえ、長い海の旅ってだけで充分命に関わる。
 ここにいるのは、元より死を恐れぬ連中だけだ。

 もちろん、俺だってそうだ。死への恐れなど、遠い昔に捨て去った。

「そんじゃ、殿下を案内してくるぜ」
「ああ……くれぐれも、丁重に扱えよ」
「分かってるっつの」

 ジャックに連れられ、船室に向かう寸前……幼い貴人は、ちらとこちらを振り返った。
 琥珀の瞳は、不安げに揺れている。

「……疲れたでしょう。ゆっくり休んでください」

 その言葉はご機嫌取りでもあるが、本心でもあった。
 ああ、そうだ。……今度こそ、守り抜いてみせる。
しおりを挟む

処理中です...