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第1章 欲望と大罪
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宛てがわれた部屋で、リチャードはゴロンと横になった。シャワールームに行こうかとも思ったが、くたびれた身体はベッドを見るなり勝手に動いた。
あまりに多くのことが起こったためか、自然とまぶたが重くなる。気付いた時には、夢の中へと誘われていた。
***
その風景は、これ以上ないくらい「夢」にふさわしく、美しかった。
まるで一枚の絵のように、草原の中枝を広げる樹木、茜色に彩られた空……。
深紅のドレスを着た女が、リチャードの目の前に立っている。黒髪のショートボブが、草原を吹き抜けた風に揺れた。
「驚いたかい?」
艶めいた声が、ぞわりと鼓膜を撫でたように感じた。
「……アイリス……か……?」
女の顔立ちは、アイリスによく似ていた。
口元のほくろと、真っ赤な瞳さえなければ、リチャードは躊躇いなくアイリスと呼んでいただろう。
「残念。あたしの名はクリスだよ」
真っ赤なルージュを引いた唇が弧を描き、クリスと名乗った女はリチャードの方へと歩み寄る。
「『色欲』の悪魔、アスモデウス……なんて、呼ばれたこともあったかねぇ」
「し、しきよく……!?」
耳元で囁かれ、思わず後ずさる。ぺろりと舌舐めずりをし、クリスはリチャードの顎を掴んだ。
「……なかなかいい男じゃないか」
喰われる。
……いや、でもそれも悪くないかもしれない。
そんなリチャードの思考が表情に出ていたのか、それとも読み取ったのか……クリスはぱっと手を離し、からかうように笑った。
「可愛がってやりたいのも山々なんだけどねぇ……生憎と、今のあたしには肉体がないんだ」
「肉体が……?」
「そ。色々と訳ありってことさ」
赤いドレスを翻し、クリスは一向に動かない太陽の方へと歩き出す。
「ここはあんたの夢の中。そろそろ、晩飯か何かに呼ばれるだろうよ。あたしはちっとばかし挨拶したくなっちまっただけさ」
からからと明るく笑い、クリスは再びリチャードの方に向き直った。
「これだけは覚えておいとくれ。誰も、あんたが戦うことを望んじゃいない」
真っ赤に輝く瞳が、しっかりとリチャードの瞳を見つめている。
「あと……そうだね。アイリスにちょっかいかけるのはやめておきな。ああ見えて繊細な子なんだ」
その言葉を最後に、光がリチャードの意識を包み込んだ。
***
「疲れてるなら、もう少し休んでも構わないのよ」
目が覚めた時に、傍らにいたのはアイリスだった。
廊下の方から、スープの匂いが漂ってくる。どうやら、食事は既に出来上がっているらしい。
「その、さっきは……すみません」
寝床から起き上がり、リチャードは出会い頭の非礼を詫びる。
「……そうね、大抵の人造人間には感情がないもの。人間扱いしすぎて、かえって不幸になる事例だって少なくなかったし……難しい問題なのは、わかるわ」
アイリスは気まずそうに視線を伏せ、言葉を続ける。
「かつてはこの国でも、色々あったのよ。労働者の負担を減らすためのアンドロイドが非人道的だと批判され、一部廃止になった事件、人間がアンドロイドに恋愛感情を抱いて自死に至った事件……」
「……いや、でも、アイリスさんには少なくとも感情があるんで。失礼があったんなら謝らないとって思います」
「…………。そう」
アイリスは顔を上げ、
「堅苦しい口調はなしで良いわ。気楽に話して」
ほんの少しだけ、微笑んでみせた。
「了解。じゃあ、普通に喋らせてもらうか」
「ヒナノも、堅苦しいのは肩がこって嫌だって言ってたわね」
「マジか。教えてくれてありがとな」
「いいえ」と呟き、アイリスはドアの方を指さした。
「今回はよく寝てたから勝手に入ったけど……それが嫌なら、あそこのパネルでロックをかけられるわ」
「おお、親切にどうも」
お互いの緊張が解けてきたところで、リチャードは気になっていた「悪魔」についての問いを口にする。
「なぁ、悪魔と関わるってことは……俺に、悪さをしろってこと?」
その問いに、アイリスは明らかに困惑の表情を浮かべた。
「そう、ね……世界連合が『正しい』と仮定するのなら、私たちは悪になるわ」
蒼い隻眼が、リチャードの方を向く。
平和のために思想統制を行い、洗脳されないものを「処刑」する世界連合が「正しい」のかどうか。……リチャードは、黙り込むことしかできなかった。
「安心して欲しいのだけど……少なくともここのメンバーは、誰かを傷つけようとは考えてない」
確かな信頼が、アイリスの紡ぐ言葉から感じ取れる。
「わたし達は、無益な血を流すつもりなんてない。ただ、現体制のやり方は間違っている……そう、思っているわ」
真っ直ぐな視線が、リチャードを射抜く。
「誰も、あんたが戦うことを望んじゃいない」……先程、夢で聞いたセリフが脳裏に蘇る。
「あなたに戦ってもらう必要なんて、どこにもない。……ただ……そうね。『現代の人間』として……わたし達の仲間になって欲しいの」
リチャードは、人間として生まれ、27歳まで無事に育った。
それなりにのほほんと人生を過ごしてきたつもりではいるが……記憶を辿れば、何一つ「生きた」実感は残されていない。
今の時代、人間は、何も考えずにすべてを管理され生きていくのが「正しい」在り方なのだ。
「……で、俺は何をすればいいの?」
だが、少なくともリチャードは、その在り方を「正しい」と思えなかった。
……アイリス達の誘いを断る理由はない。
「それは、雛乃が説明するわ。……休憩はもう大丈夫?」
グリーンの瞳にかすかに宿った決意に気付き、アイリスは静かに微笑んだ。
***
「……とと、人が増えたってのは本当だったんスねぇ」
アイリスに連れられて食堂に向かうと、栗毛の青年が根菜のスープを容器によそっていた。テーブルの隅の方では、一匹の猫がにんじんの欠片を齧っている。
長髪を頭の後ろで結わえた青年は、リチャードにへらりと笑いかけつつ、食卓にスープとパンを並べていく。
クリスマスやイースターの時ぐらいにしか口にしないようなメニューに、リチャードは思わずため息を漏らした。
「へぇ、しっかりした飯だな。こういうの久々かも」
「ありゃあ、やっぱりフツーの人らはブロックとかゼリーで済ませるんスかぁ……」
茶色の瞳の青年はぱちくりと瞬きし、椅子に座ろう……として、慌ててリチャードに向き直った。
「挨拶が遅れたッスね。俺はセドリック・スターン。ここからちょっと離れたとこに住んでるフリーで、ここにはよくメシを作りに来てるんス」
突然語られた聞き覚えのない肩書きに、リチャードは首を捻った。
「……フリー?」
「ん? もしかして、ヒナノさんから聞いてねッスか?」
セドリックと名乗った青年は、ぽかんと口を開いて不思議そうにする。
「『フリー』とは、『要処置者』とほぼ同義語です。『処置』を回避し、集落を作って隠れ住んでいる人々は、ほとんどの方が『要処置者』と呼ばれることを好ましく感じておられません」
……と、後ろからロビンがぬっと現れ、解説を挟んだ。
「うおっびっくりしたぁ!!」
「申し訳ございません。少々、サプライズ精神に行き過ぎた箇所がありましたでしょうか?」
「お、おう……要するに驚かせたかったのか……」
そのまま、ロビンは食卓の何も置かれていない席へと座る。アイリスも少し離れた席に座っており、彼女の前にも何も置かれていない。
「セドリック、そいつ、最近洗脳が解けたばかりでさ。知らないことのが多いと思うよ」
自動ドアから雛乃がのそのそと現れ、スープとパンの置かれた席へと座る。
「……話は後にしていい? 私、お腹減っちゃってさ」
雛乃はそう言うなり、さっそくパンをちぎって口に運び始めた。
「……ロビンはまあいいとして……アイリスは機械じゃないんだよな。食わなくていいの?」
リチャードが声をかけると、アイリスは静かに頷く。
「就寝時に一括で摂取するようになってるわ。食事も出来なくはないけど、味覚がないのにわざわざ食べたいとは思わないわね」
なるほど、と頷き、リチャードも席につく。
セドリックが作った食事はまだ温かく、味付けのバランスもいい。気が付けば、目の前の皿はあっという間に空になっていた。
ふと、足元に温度を感じる。テーブルの下を見ると、欠伸をする犬と目が合った。
「よーし、そろそろ始めようか」
「おかわりが欲しかったら、後で温めなおすッス」
……犬のことがそれなりに気になるものの、雛乃とセドリックの声が聞こえたので、リチャードは顔を上げた。
「さて……私の過去の研究が功を奏し、万年人員不足のこの研究所に新たな仲間が加わった。ここまではいい?」
雛乃はリチャードに視線を向け、確認する。
仲間になった覚えはないと告げることもできたが、リチャードは首を縦に振り、肯定の意を示した。
「……よろしい。なら、さっそく本題に入るよ」
雛乃は満足げに頷き、ニヤリと笑った。
あまりに多くのことが起こったためか、自然とまぶたが重くなる。気付いた時には、夢の中へと誘われていた。
***
その風景は、これ以上ないくらい「夢」にふさわしく、美しかった。
まるで一枚の絵のように、草原の中枝を広げる樹木、茜色に彩られた空……。
深紅のドレスを着た女が、リチャードの目の前に立っている。黒髪のショートボブが、草原を吹き抜けた風に揺れた。
「驚いたかい?」
艶めいた声が、ぞわりと鼓膜を撫でたように感じた。
「……アイリス……か……?」
女の顔立ちは、アイリスによく似ていた。
口元のほくろと、真っ赤な瞳さえなければ、リチャードは躊躇いなくアイリスと呼んでいただろう。
「残念。あたしの名はクリスだよ」
真っ赤なルージュを引いた唇が弧を描き、クリスと名乗った女はリチャードの方へと歩み寄る。
「『色欲』の悪魔、アスモデウス……なんて、呼ばれたこともあったかねぇ」
「し、しきよく……!?」
耳元で囁かれ、思わず後ずさる。ぺろりと舌舐めずりをし、クリスはリチャードの顎を掴んだ。
「……なかなかいい男じゃないか」
喰われる。
……いや、でもそれも悪くないかもしれない。
そんなリチャードの思考が表情に出ていたのか、それとも読み取ったのか……クリスはぱっと手を離し、からかうように笑った。
「可愛がってやりたいのも山々なんだけどねぇ……生憎と、今のあたしには肉体がないんだ」
「肉体が……?」
「そ。色々と訳ありってことさ」
赤いドレスを翻し、クリスは一向に動かない太陽の方へと歩き出す。
「ここはあんたの夢の中。そろそろ、晩飯か何かに呼ばれるだろうよ。あたしはちっとばかし挨拶したくなっちまっただけさ」
からからと明るく笑い、クリスは再びリチャードの方に向き直った。
「これだけは覚えておいとくれ。誰も、あんたが戦うことを望んじゃいない」
真っ赤に輝く瞳が、しっかりとリチャードの瞳を見つめている。
「あと……そうだね。アイリスにちょっかいかけるのはやめておきな。ああ見えて繊細な子なんだ」
その言葉を最後に、光がリチャードの意識を包み込んだ。
***
「疲れてるなら、もう少し休んでも構わないのよ」
目が覚めた時に、傍らにいたのはアイリスだった。
廊下の方から、スープの匂いが漂ってくる。どうやら、食事は既に出来上がっているらしい。
「その、さっきは……すみません」
寝床から起き上がり、リチャードは出会い頭の非礼を詫びる。
「……そうね、大抵の人造人間には感情がないもの。人間扱いしすぎて、かえって不幸になる事例だって少なくなかったし……難しい問題なのは、わかるわ」
アイリスは気まずそうに視線を伏せ、言葉を続ける。
「かつてはこの国でも、色々あったのよ。労働者の負担を減らすためのアンドロイドが非人道的だと批判され、一部廃止になった事件、人間がアンドロイドに恋愛感情を抱いて自死に至った事件……」
「……いや、でも、アイリスさんには少なくとも感情があるんで。失礼があったんなら謝らないとって思います」
「…………。そう」
アイリスは顔を上げ、
「堅苦しい口調はなしで良いわ。気楽に話して」
ほんの少しだけ、微笑んでみせた。
「了解。じゃあ、普通に喋らせてもらうか」
「ヒナノも、堅苦しいのは肩がこって嫌だって言ってたわね」
「マジか。教えてくれてありがとな」
「いいえ」と呟き、アイリスはドアの方を指さした。
「今回はよく寝てたから勝手に入ったけど……それが嫌なら、あそこのパネルでロックをかけられるわ」
「おお、親切にどうも」
お互いの緊張が解けてきたところで、リチャードは気になっていた「悪魔」についての問いを口にする。
「なぁ、悪魔と関わるってことは……俺に、悪さをしろってこと?」
その問いに、アイリスは明らかに困惑の表情を浮かべた。
「そう、ね……世界連合が『正しい』と仮定するのなら、私たちは悪になるわ」
蒼い隻眼が、リチャードの方を向く。
平和のために思想統制を行い、洗脳されないものを「処刑」する世界連合が「正しい」のかどうか。……リチャードは、黙り込むことしかできなかった。
「安心して欲しいのだけど……少なくともここのメンバーは、誰かを傷つけようとは考えてない」
確かな信頼が、アイリスの紡ぐ言葉から感じ取れる。
「わたし達は、無益な血を流すつもりなんてない。ただ、現体制のやり方は間違っている……そう、思っているわ」
真っ直ぐな視線が、リチャードを射抜く。
「誰も、あんたが戦うことを望んじゃいない」……先程、夢で聞いたセリフが脳裏に蘇る。
「あなたに戦ってもらう必要なんて、どこにもない。……ただ……そうね。『現代の人間』として……わたし達の仲間になって欲しいの」
リチャードは、人間として生まれ、27歳まで無事に育った。
それなりにのほほんと人生を過ごしてきたつもりではいるが……記憶を辿れば、何一つ「生きた」実感は残されていない。
今の時代、人間は、何も考えずにすべてを管理され生きていくのが「正しい」在り方なのだ。
「……で、俺は何をすればいいの?」
だが、少なくともリチャードは、その在り方を「正しい」と思えなかった。
……アイリス達の誘いを断る理由はない。
「それは、雛乃が説明するわ。……休憩はもう大丈夫?」
グリーンの瞳にかすかに宿った決意に気付き、アイリスは静かに微笑んだ。
***
「……とと、人が増えたってのは本当だったんスねぇ」
アイリスに連れられて食堂に向かうと、栗毛の青年が根菜のスープを容器によそっていた。テーブルの隅の方では、一匹の猫がにんじんの欠片を齧っている。
長髪を頭の後ろで結わえた青年は、リチャードにへらりと笑いかけつつ、食卓にスープとパンを並べていく。
クリスマスやイースターの時ぐらいにしか口にしないようなメニューに、リチャードは思わずため息を漏らした。
「へぇ、しっかりした飯だな。こういうの久々かも」
「ありゃあ、やっぱりフツーの人らはブロックとかゼリーで済ませるんスかぁ……」
茶色の瞳の青年はぱちくりと瞬きし、椅子に座ろう……として、慌ててリチャードに向き直った。
「挨拶が遅れたッスね。俺はセドリック・スターン。ここからちょっと離れたとこに住んでるフリーで、ここにはよくメシを作りに来てるんス」
突然語られた聞き覚えのない肩書きに、リチャードは首を捻った。
「……フリー?」
「ん? もしかして、ヒナノさんから聞いてねッスか?」
セドリックと名乗った青年は、ぽかんと口を開いて不思議そうにする。
「『フリー』とは、『要処置者』とほぼ同義語です。『処置』を回避し、集落を作って隠れ住んでいる人々は、ほとんどの方が『要処置者』と呼ばれることを好ましく感じておられません」
……と、後ろからロビンがぬっと現れ、解説を挟んだ。
「うおっびっくりしたぁ!!」
「申し訳ございません。少々、サプライズ精神に行き過ぎた箇所がありましたでしょうか?」
「お、おう……要するに驚かせたかったのか……」
そのまま、ロビンは食卓の何も置かれていない席へと座る。アイリスも少し離れた席に座っており、彼女の前にも何も置かれていない。
「セドリック、そいつ、最近洗脳が解けたばかりでさ。知らないことのが多いと思うよ」
自動ドアから雛乃がのそのそと現れ、スープとパンの置かれた席へと座る。
「……話は後にしていい? 私、お腹減っちゃってさ」
雛乃はそう言うなり、さっそくパンをちぎって口に運び始めた。
「……ロビンはまあいいとして……アイリスは機械じゃないんだよな。食わなくていいの?」
リチャードが声をかけると、アイリスは静かに頷く。
「就寝時に一括で摂取するようになってるわ。食事も出来なくはないけど、味覚がないのにわざわざ食べたいとは思わないわね」
なるほど、と頷き、リチャードも席につく。
セドリックが作った食事はまだ温かく、味付けのバランスもいい。気が付けば、目の前の皿はあっという間に空になっていた。
ふと、足元に温度を感じる。テーブルの下を見ると、欠伸をする犬と目が合った。
「よーし、そろそろ始めようか」
「おかわりが欲しかったら、後で温めなおすッス」
……犬のことがそれなりに気になるものの、雛乃とセドリックの声が聞こえたので、リチャードは顔を上げた。
「さて……私の過去の研究が功を奏し、万年人員不足のこの研究所に新たな仲間が加わった。ここまではいい?」
雛乃はリチャードに視線を向け、確認する。
仲間になった覚えはないと告げることもできたが、リチャードは首を縦に振り、肯定の意を示した。
「……よろしい。なら、さっそく本題に入るよ」
雛乃は満足げに頷き、ニヤリと笑った。
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