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第七話 瀬をはやみ
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どちらのものともつかない、たゆたう意識の中。
遠い、遠い記憶の断片──
「銀狐さんっ!」
息を切らせて、土に汚れた水干を来た少年が、船を待つ銀狐の元へ走ってくる。
その姿を見るやいなや、銀狐はぎょっとした顔で相手の元に走り寄り、即座に青年の姿に変化。そのまま、青年姿の銀狐は少年姿の貫八の首根っこを捕まえて藪の中へと飛び込んだ。
「……まさか、尻尾出したまま来るとは思わへんかったわ」
「うう……急いどったんじゃけん~」
「ええか。ここにおるんは狸嫌いの狐ばっかや。見つからへんうちに早う帰り」
藪の中。
声を潜める銀狐に、貫八は涙目で言う。
「銀狐さんも、狸は嫌いぞなもし……?」
「……好かんね。愛嬌があるから許されたんやのうて、政治力があるから騙せはったんやろ」
眉をひそめ、銀狐はハッキリと言い放つ。
時に人を肥溜めに落とし、時に泥や獣の糞でできた団子を食わせるような「化かし方」が、狐よりも害がないとはどうしても思えなかったのだ。
「……しんから、何も言えんです……」
申し訳なさそうに肩を落とす貫八を見、銀狐は気まずそうに付け足した。
「まあ……あんたはちゃうかもしれへんね」
「……えっ」
「あんたは正直もんやさかい」
その言葉で、貫八の頬が引きつったことに、若い銀狐は気付けなかった。
「堪忍なぁ。色々してもろたんに、結局悪い癖は直らへんかったわ」
苦笑する銀狐。
「…………」
貫八は青ざめたまま、何も言えずにいた。
銀狐は正直者だと称えてくれたが、決してそんなことはない。貫八自身が、それをよく理解している。
銀狐が思うように変化できなくなったのも、他ならぬ貫八の仕業だった。
最初はただの出来心だった。……怖かったのだ。銀狐に置いていかれるのが。
銀狐が、自分を必要としなくなるのが。
「……どないしたん?」
「……え……と、……あんたと別れるのが辛いんじゃ……」
「貫八……」
せめて化かしきったまま、銀狐の綺麗な思い出に残りたい。
その選択を、貫八は大いに後悔することになる。
「鉄の橋が架かったら、帰ってきてつかぁさい!」
「……そんなん、いつまでもできひんで」
「わしゃ待っとります! ずーっと、待っとるけん……!!」
離れたくない。
ずっとそばに居たい。
その気持ちを誤魔化し、貫八は、銀狐を「化かす」ことに心血を注いだ。
綺麗な思い出として残るために。
銀狐に、いつまでも愛されるように……。
「……あかんたれ」
……が、銀狐の反応は、貫八の思い通りとはいかなかった。
「ほな、さいなら。これが今生の別れやさかい」
「……! そんな……!」
「うちのことはきっぱり忘れて、元気に暮らしてや」
貫八にくるりと背を向け、銀狐は、震える声で吐き捨てた。
「やっぱし、あんたもホラ吹きの狸やな」
遠くから、「銀狐兄やんー! 船出てまうでー!」と、貫八よりも幾分幼い声が響く。
その声に応えるよう、銀狐は狐の姿へと戻り、貫八の前から走り去っていった。
まだほんの数十年しか生きていない貫八には、追いすがる言葉など咄嗟には思い浮かばない。
その場で、ぽつんと立ち尽くすことしかできなかった。
***
薄暗い部屋に、行燈の光のみが揺らめく。
「ん……」
貫八の腕に抱かれ、銀狐は意識を取り戻した。
「あ、目が覚めましたか!」
ぱあっと明るい表情が目に入り、銀狐はぼんやりとしたまま、先程の行為が夢だったのかと疑う。
……が、腿を伝う生ぬるい感触に気付いたところで、現実に引き戻された。
「……なんで今更来はったん」
傍らに放られた袴を握り締め、銀狐は静かに問う。
「え?」
「鉄の橋云々は、あんたには関係あらへんやろ」
恨み節にもとれる銀狐の言葉に、貫八はぱちくりと目を瞬かせる。
「来ましたよ。何度も」
しれっと放たれた言葉に、今度は銀狐が目を丸くした。
「……なんや、来てたんか」
「はい! 一回目は逢坂関で追いかけられました。危うく狸汁になるところでしたね!」
「そ、そら……災難やったなあ……」
「二回目は泳いでる時に、渦潮に巻き込まれて淡路島に打ち上げられました。いやぁ、さすがに死ぬかと思いました!」
「逆によう生きとったな」
「三回目は別の海路を泳いでみたんですけど、気が付いたら砂丘で干からびかけてました!」
「因幡国やろそれ。えらい遠くに辿り着きはって……」
「四回目は」
「もうええわ。聞いたうちがいけずやった」
「ええ~そんなこと言わずに八回目くらいまで聞きましょうよ~」
「……堪忍してや」
ぐたりと項垂つつ、銀狐は別れの日を想う。
貫八がどれほど自分を想っていたのか。去り際の自分の言葉が、どれだけ貫八を傷付けたのか。
貫八と同じように、銀狐も後悔していた。
銀狐は諦めていた。
「鉄の橋など架かるわけがない」……と。
だから、引き留めずに「待つ」と言った貫八に失望した。
鉄の橋など架かるわけがなく、待ったところで再会の日は来ない。
できない約束など、辛さが増すだけ……
そう、決めつけていたのだ。
「……もう、とっくに死んだもんやと思うてたのに。わからんもんやな」
「だから、勝手に殺さないでくださいよ。……おれ、どうしてもどうしてもどうしても、銀狐さんに会いたかったんですから……」
銀色の長髪を優しい手つきで撫で上げ、貫八は愛おしげに語る。
後悔していたから、貫八は千年諦めず、銀狐を探し続けた。
後悔していたから、銀狐は痛みを受け入れ、貫八を忘れようとした。
「そんなん、うちかて……」
くたくたになるまで抱き潰されたからか、銀狐の虚勢がわずかに剥がれかける。
恋や愛と呼ぶには複雑な感情がそこにあったとしても、貫八の底知れなさに警戒心を抱いていたとしても。
銀狐とて、会えるものなら、会いたかったのだ。
「あれ? この部屋、誰かいる?」
……と、ガラッと襖を開けて現れた影が、二匹の雰囲気に見事に水を差す。
「た、高尾……」
「あ、銀狐さん。すみません、テキトーに休憩場所探してたら辿り着いちゃって……って、隣の人は? 誰だろう?」
鴉天狗の高尾は、不思議そうに首を傾げて貫八の方を見た。
遠い、遠い記憶の断片──
「銀狐さんっ!」
息を切らせて、土に汚れた水干を来た少年が、船を待つ銀狐の元へ走ってくる。
その姿を見るやいなや、銀狐はぎょっとした顔で相手の元に走り寄り、即座に青年の姿に変化。そのまま、青年姿の銀狐は少年姿の貫八の首根っこを捕まえて藪の中へと飛び込んだ。
「……まさか、尻尾出したまま来るとは思わへんかったわ」
「うう……急いどったんじゃけん~」
「ええか。ここにおるんは狸嫌いの狐ばっかや。見つからへんうちに早う帰り」
藪の中。
声を潜める銀狐に、貫八は涙目で言う。
「銀狐さんも、狸は嫌いぞなもし……?」
「……好かんね。愛嬌があるから許されたんやのうて、政治力があるから騙せはったんやろ」
眉をひそめ、銀狐はハッキリと言い放つ。
時に人を肥溜めに落とし、時に泥や獣の糞でできた団子を食わせるような「化かし方」が、狐よりも害がないとはどうしても思えなかったのだ。
「……しんから、何も言えんです……」
申し訳なさそうに肩を落とす貫八を見、銀狐は気まずそうに付け足した。
「まあ……あんたはちゃうかもしれへんね」
「……えっ」
「あんたは正直もんやさかい」
その言葉で、貫八の頬が引きつったことに、若い銀狐は気付けなかった。
「堪忍なぁ。色々してもろたんに、結局悪い癖は直らへんかったわ」
苦笑する銀狐。
「…………」
貫八は青ざめたまま、何も言えずにいた。
銀狐は正直者だと称えてくれたが、決してそんなことはない。貫八自身が、それをよく理解している。
銀狐が思うように変化できなくなったのも、他ならぬ貫八の仕業だった。
最初はただの出来心だった。……怖かったのだ。銀狐に置いていかれるのが。
銀狐が、自分を必要としなくなるのが。
「……どないしたん?」
「……え……と、……あんたと別れるのが辛いんじゃ……」
「貫八……」
せめて化かしきったまま、銀狐の綺麗な思い出に残りたい。
その選択を、貫八は大いに後悔することになる。
「鉄の橋が架かったら、帰ってきてつかぁさい!」
「……そんなん、いつまでもできひんで」
「わしゃ待っとります! ずーっと、待っとるけん……!!」
離れたくない。
ずっとそばに居たい。
その気持ちを誤魔化し、貫八は、銀狐を「化かす」ことに心血を注いだ。
綺麗な思い出として残るために。
銀狐に、いつまでも愛されるように……。
「……あかんたれ」
……が、銀狐の反応は、貫八の思い通りとはいかなかった。
「ほな、さいなら。これが今生の別れやさかい」
「……! そんな……!」
「うちのことはきっぱり忘れて、元気に暮らしてや」
貫八にくるりと背を向け、銀狐は、震える声で吐き捨てた。
「やっぱし、あんたもホラ吹きの狸やな」
遠くから、「銀狐兄やんー! 船出てまうでー!」と、貫八よりも幾分幼い声が響く。
その声に応えるよう、銀狐は狐の姿へと戻り、貫八の前から走り去っていった。
まだほんの数十年しか生きていない貫八には、追いすがる言葉など咄嗟には思い浮かばない。
その場で、ぽつんと立ち尽くすことしかできなかった。
***
薄暗い部屋に、行燈の光のみが揺らめく。
「ん……」
貫八の腕に抱かれ、銀狐は意識を取り戻した。
「あ、目が覚めましたか!」
ぱあっと明るい表情が目に入り、銀狐はぼんやりとしたまま、先程の行為が夢だったのかと疑う。
……が、腿を伝う生ぬるい感触に気付いたところで、現実に引き戻された。
「……なんで今更来はったん」
傍らに放られた袴を握り締め、銀狐は静かに問う。
「え?」
「鉄の橋云々は、あんたには関係あらへんやろ」
恨み節にもとれる銀狐の言葉に、貫八はぱちくりと目を瞬かせる。
「来ましたよ。何度も」
しれっと放たれた言葉に、今度は銀狐が目を丸くした。
「……なんや、来てたんか」
「はい! 一回目は逢坂関で追いかけられました。危うく狸汁になるところでしたね!」
「そ、そら……災難やったなあ……」
「二回目は泳いでる時に、渦潮に巻き込まれて淡路島に打ち上げられました。いやぁ、さすがに死ぬかと思いました!」
「逆によう生きとったな」
「三回目は別の海路を泳いでみたんですけど、気が付いたら砂丘で干からびかけてました!」
「因幡国やろそれ。えらい遠くに辿り着きはって……」
「四回目は」
「もうええわ。聞いたうちがいけずやった」
「ええ~そんなこと言わずに八回目くらいまで聞きましょうよ~」
「……堪忍してや」
ぐたりと項垂つつ、銀狐は別れの日を想う。
貫八がどれほど自分を想っていたのか。去り際の自分の言葉が、どれだけ貫八を傷付けたのか。
貫八と同じように、銀狐も後悔していた。
銀狐は諦めていた。
「鉄の橋など架かるわけがない」……と。
だから、引き留めずに「待つ」と言った貫八に失望した。
鉄の橋など架かるわけがなく、待ったところで再会の日は来ない。
できない約束など、辛さが増すだけ……
そう、決めつけていたのだ。
「……もう、とっくに死んだもんやと思うてたのに。わからんもんやな」
「だから、勝手に殺さないでくださいよ。……おれ、どうしてもどうしてもどうしても、銀狐さんに会いたかったんですから……」
銀色の長髪を優しい手つきで撫で上げ、貫八は愛おしげに語る。
後悔していたから、貫八は千年諦めず、銀狐を探し続けた。
後悔していたから、銀狐は痛みを受け入れ、貫八を忘れようとした。
「そんなん、うちかて……」
くたくたになるまで抱き潰されたからか、銀狐の虚勢がわずかに剥がれかける。
恋や愛と呼ぶには複雑な感情がそこにあったとしても、貫八の底知れなさに警戒心を抱いていたとしても。
銀狐とて、会えるものなら、会いたかったのだ。
「あれ? この部屋、誰かいる?」
……と、ガラッと襖を開けて現れた影が、二匹の雰囲気に見事に水を差す。
「た、高尾……」
「あ、銀狐さん。すみません、テキトーに休憩場所探してたら辿り着いちゃって……って、隣の人は? 誰だろう?」
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